概要
1935年に日本陸軍が三菱重工業と中島飛行機に対し、「新時代の爆撃機を考え、作ってこい」と要求したのが事の起こり。
それまで使用していた九三式重爆撃機はかなり旧態然とした機体であり、しかもエンジンやブレーキなどに多くの不具合が発生していたのだ。
両社が製作・提示した試作機の中から三菱のものが採用され、1937年に制式化された。
その年の内に日中戦争が勃発したことで早速戦場に狩り出された本機だったが、十分な数を配備するまでには時間がかかるため、イタリアから輸入したフィアットBR.20爆撃機をイ式重爆撃機として配備して時間を稼いだ(本当はドイツからHe111を輸入する予定で、ヒトラーは乗り気だったものの空軍の反対で実現しなかった)。
本機もエンジンの信頼性が低く航続距離(飛ばせる距離)にも不満が出たことから、エンジン換装などの改良を施した二型が作られている。このため陸軍機には珍しく火星(陸軍仕様のハ101)が搭載されている。なお、一型との外見上の違いは車輪が完全に収納されるようになったこと。
こうしてかなり使える爆撃機になった本機は、後継機になるはずだった一〇〇式重爆撃機が思ったほどの性能ではなかったばっかりに生産・運用が続けられた。
1944年にようやく登場した真の後継機・四式重爆撃機の登場によって第一線を退くことにはなったものの、日中戦争およびその後始めてしまった太平洋戦争の敗戦まで使われ続けてはいる。
ただ、元々が中国大陸におけるソビエト連邦との対決を睨んで設計されたものだったため、太平洋戦争の頃には、速度は速いが爆弾搭載量や航続距離などで若干ながら不満が残る様になってしまった感は否定出来ない。
末期に使われたケースとして有名なのは1945年5月24日に行われた義号作戦だろう。
特殊部隊を九七式重爆12機に乗せ、米軍に占領された沖縄の嘉手納・読谷飛行場へ強行着陸し、生身で突撃して飛行場の米軍機を破壊するというものだった。
詳細は義烈空挺隊の項目を参照。
なお、日本以外ではタイ空軍にも供与され、日本が日中戦争および太平洋戦争に敗北してからもしばらくは運用されていたらしい。ちなみにタイ空軍は一式戦闘機も、これまた日本の日中戦争および太平洋戦争敗戦後もしばらくは運用していた。
この機種を元にして設計・製作された輸送機(および旅客機)が百式輸送機(MC-20)である。さらにはこの機種を民間に払い下げたものも存在し、大日本航空や読売報知新聞社などに採用されている。
参考資料
- Wikipediaの記事
- 世界の傑作機No.153「陸軍九七式重爆撃機」(文林堂)