概要
1938年、コンソリデーテッド社はアメリカ陸軍からB-17のライセンス生産を打診されたが断り、自社で新たな爆撃機を開発する事を提案。その航続距離の長さと搭載量により太平洋方面に大量配備され、実質的な主力爆撃機となった。生産数は陸軍向けだけでも18,431機におよび、第二次大戦中のアメリカ機では最多である。
B-17と比べて撃たれ弱いのが弱点であり、ヨーロッパ方面ではB-17にとってかわる事は無かったが、1943年8月1日のプロイェシュティ油田攻撃などで戦果を挙げている。
航続距離を活かし、アメリカ海軍の哨戒機PB4Y-1として採用され、これを元にPB4Y-2が開発された。
特徴
コンソリデーテッド社は飛行艇を得意とする会社で、B-24の上下に高い胴体や高翼配置に、その特徴が表れている。
断面が四角くて広い胴体には大量の爆弾を搭載でき、爆弾倉扉は空気抵抗を配慮して巻き上げシャッター式を採用している。
アスペクト比が高い主翼の翼平面形は燃費とスピードに有利で、厚い主翼内には大容量の燃料タンクを配することができた。このため航続距離と搭載量ではライバルのB-17を凌いでいる。
太平洋方面で対決した日本軍のパイロットからは『B-17より逃げ足が速い(=捕捉が難しい)』と評価された。防御火力も強力で死角が無く、防御力の低い日本軍戦闘機にとっては危険だった。
欠点としては、飛行高度がB-17より低いこと、細長い主翼は撃たれて折れることがあること、爆弾倉の巻き上げシャッターは不時着水時に破れやすく機体の急速な沈没につながることなどがある。
B-24は「可能な限り大量の爆弾を、可能な限り遠距離まで」というイギリス王立空軍(RAF)主力のアブロ・ランカスターに似た性質を持っており、援助物資としてB-17より好まれた。
しかし、ヨーロッパに展開したアメリカ陸軍の爆撃クルーは「未亡人製造機」などと呼んで、その脆弱性を嫌い、B-17に肩入れした。またドイツ空軍のエースであるヨハネス・シュタインホフの述懐で実際はB-17より新型にも拘らず、B-24は旧式の為に最前列に配置されているという記述もあり、ドイツ側からもB-17より格下という認識があったようである。
この米英の好みについては、英空軍が夜間爆撃をメインとし、米空軍が昼間爆撃に拘ったという理由もあった。
昼に比べて反撃が少なく防御力の低さは気にならない反面、爆撃精度が期待できない夜間では大量に爆弾が積めるB-24、逆に精密爆撃が出来る代わりに熾烈な防空戦闘に晒される昼間は頑強なB-17が求められたのである。
ドイツが降伏する1年前の1944年5月8日には更なる高性能機B-29が完成するが、ターボチャージャー過熱などの問題を残したままでの制式化であり、結局対独戦には間に合わなかった。
その後、B-29を対日戦に投入するためボーイングの生産体制はB-17からB-29にシフトしていくが、上記の問題もあって日本本土爆撃意外の任務には使いにくい事から補完的存在としてB-24は終戦まで製造・運用され続けた。
その他
機首への機銃増設
実戦を経て、B-24は前方に対する防御が弱い事が判明し、H型からは12.7mm機銃2門を装備する動力式回転機銃座が機首に設置された。
機銃座には電動式(反応は早いが重い)と油圧式(反応は遅いが軽い)の2種類があり、電動式の方が人気があった。
XB-41
B-17におけるXB-40と同様に、B-24でも編隊護衛用機が製作されていた。
だが先行したXB-40の実績が散々だったため、作っただけで終わった。
海軍のB-24
太平洋戦争が始まり、アメリカ海軍はPBY飛行艇に替わる長距離哨戒機を必要とし、1942年にB-24がPB4Y-1「シーリベレーター」として採用された。1943年には双垂直尾翼から単垂直尾翼に変え、高高度用装備を省いたPB4Y-2「プライバティア」が開発された。航続距離は4,200km強まで伸延された。
PB4Y-2は海軍で1954年、沿岸警備隊で1959年まで運用された。
B-24D『Lady Be Good』
1943年4月4日、リビアのスルーク飛行場から出撃したB-24D『Lady Be Good』は、作戦中に編隊からはぐれて未帰還となる。
機体は1958年3月に、トブルクから385マイル(約616km)、スルークからは440マイル(約700km)も離れた砂漠で良好な保存状態で発見された。
1960年、搭乗員5名の遺体を収めたキャンプ跡が発見される。残されていた手記を手がかりに、5月にはさらに2名、8月に1名の遺体が発見された。残る1名の行方は現在も分かっていない。→ wikipedia「レディ・ビー・グッド_(航空機)」参照。