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B-17

びーじゅうなな

アメリカ、ボーイング社が戦間期より開発していた大型の4発爆撃機。第二次世界大戦中、ヨーロッパや太平洋の戦線で活躍した。
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B-17とは編集

1934年、アメリカ陸軍マーチンB-10の後継として、『航続距離と搭載量を2倍に増やした多発爆撃機』のコンペを行い、ボーイングは以前から社内で研究していた4発の「モデル299」案を提出する。ターボ過給器によって空気の希薄な高高度でも性能を維持するという意欲作であった。

1935年8月20日の評価飛行では「モデル299」の高性能がアメリカ陸軍航空隊の興味を惹いた。

10月30日の評価飛行で「モデル299」は墜落し失われる。採用を勝ち取ったのは常識的な設計のダグラスB-18「ボロ」だった。


1936年1月17日、アメリカ陸軍航空隊に「YB-17」が採用された。

しかし、当時のアメリカは「孤立主義」を取っており、長距離侵攻用の高価な爆撃機は不要という意見が強く、研究目的に13機納品されたのみだった。

このため、B-17は「長距離侵攻用の兵器ではなく、アメリカ本土の長大な海岸線で敵の上陸を阻止する空の要塞である」という建前で開発を続ける事となった。


1939年6月27日、小改良を施してB-17Bとして制式採用されたが、39機しか発注されず、ボーイング社は倒産寸前となった。近々砲火を交える事になる日本陸軍日本海軍ルフトヴァッフェにもライセンシーを打診する有様で、第二次世界大戦勃発に救われる形となった。

既にB-18は旧式化し、真珠湾攻撃の際には地上で大量に破壊されたのに追加生産もされず、B-17に大量発注がもたらされた。


脆弱性に関して初期のB-17はB-18と大差なかったが、D型までのB-17はほとんどが地上で破壊されてしまった。

B-17Eは防弾と飛行性能を大幅にリファインされた。特長の一つでもある、垂直尾翼前方に伸びる"ヒレ"が追加されたのもE型からである。

以降も防御銃座の増設、エンジンの強化など改良が続けられた。


中型爆撃機編集

B-17は双発の中型爆撃機の拡大型である。双発機並みの運動性能を誇る反面、搭載力と航続距離は同じクラスの4発機(B-24スターリングハリファックスランカスター)に比べて劣る。


B-17はE型以降の防弾性能と防御火器、運動性能を買われ、ドイツ空襲の初期やニューギニアでの戦闘など、制空権が十分に確保されていない、危険度の高い作戦に投入されたが、やがて敵迎撃機が漸減し、P-51での護衛が可能になると、搭載力・航続力の大きいB-24が前面に出てくるようになった。B-17はその有名度に反して、ヨーロッパ太平洋のどちらでも終盤にはB-24にその役目を譲っている。

但し、B-24はB-17より機体が脆弱で、アメリカ人乗員からは「乗員一掃機」「空飛ぶ棺桶」「未亡人製造機」などと呼ばれて嫌われた(イギリスではB-24の方が好評)。

大戦末期、ボーイング社の生産体制はB-29にシフトしていく。


モデル編集

・試作機のモデル299、YB-17、

・増加試作機のY1B-17、

・小改良型の試作機Y1B-17A、

・エンジンを強化した(R-1690→R-1830)B型、(生産数39機)

・機体下部に銃座を追加したC型、(生産数38機)

・C型の完成度をさらに高めたD型、(生産数42機。ここから電装系が12Vから24Vに強化される)


・機体を再設計し、防弾性能を極端に高め、より実戦型となったE型、(生産数512機)

・E型の設計を熟成させ、生産数が1000の大台に乗ったF型、(生産数3405機)

・シリーズ最大の生産数を誇り、更に武装強化の集大成となったG型(生産数8680機)


空の要塞編集

このネーミングは「難攻不落の空の要塞」という意味では無く、敵がアメリカ本土に上陸を試みた場合に海岸要塞の大砲のように敵を空から迎え撃つ「空の(海岸)要塞」という意味であった。

「護衛戦闘機が随伴しない状況で空襲を行うこと」を前提とし、脆弱な機体では要求水準を満たせないと考えられた。その際、敵が十分な上空援護戦闘機を用意していることは想定されなかった。

戦間期は空母も試行錯誤の段階であり、「小型戦闘機は高速の多発爆撃機には追いつけない」という『戦闘機無用論』が唱えられていた時代でもあった。侵攻側たる空母から発進する艦上機の速力、搭載力、航続力のいずれもが劣っており、運用ノウハウの構築・本格的な戦力化はまだまだ先の事だと考えられていた。


航空科学技術の発展は早く、わずかな期間でこの想定は塗り替えられてしまった。

しかし、長い航続距離や重防御は戦後にミサイルが戦力化されて機関砲が重視されなくなるまで通用した。


ドイツの上空で編集

何よりも『撃たれ強い』事が評価され、特にドイツ本土への昼間空襲では主力を務めている。

損害も大きく、G型の生産数が多いのはそのせいでもある。


幻の4発陸攻編集

日本の一式陸上攻撃機とB-17の開発経緯は似ている。日本海軍においては陸上攻撃機とは漸減作戦において日本近海から飛び立ち来寇する敵艦隊に雷撃を敢行するという役割のもので、来襲する敵艦隊を本土からできるだけ遠くで叩こうという点同じで、防御的な性格の機種だった。


そして、どちらも双発の要求に対してメーカー側から4発案を逆提示している

日本では海軍側が受け入れず実現しなかった。4発陸攻はダグラスDC-4E試作旅客機をベースとした十三試大攻中島飛行機に発注する予定があったためである。しかし、DC-4E(量産型DC-4とは異なる)が失敗作であったため十三試大攻は水子に終わった。

もし、一二試陸上攻撃機が4発として完成していたら“和製B-17”が実現していたかもしれない。

(三菱は試作レベルを超えなかったとはいえ一応九二式重爆撃機という4発機を手がけている。もっとも生産体勢などを考えると三菱の4発案が実現したとしても傑作機になっていたかどうかはまた別の話である。)


映画編集

B-17は映画への「出演」も数多い。多くは1940年代の宣伝映画、または1970年代に製作された関係者の回想や当時の記録をもとにした戦争映画である。

比較的新しい出演作として『メンフィス・ベル』(1990年)がある。


1944年のイギリスを舞台にメンフィス・ベル号最後の出撃を描いた物語である。

撮影にはB-17やP-51の実機が使用された。B-17はF型ではなくG型、主役のメンフィス・ベル号だけはF型に見えるように機首の銃座を組み替えている。

物語のラストでは「健全なエンジンが1基だけ」という状態で帰還するが、このような帰還は珍しく無く、それだけドイツ側の反撃は厳しかった。

劇中のセリフに「目標はブレーメンだ」とあるが、史実での目標はキール軍港だったようだ。ブレーメンには大規模な航空機工場があって防備が堅く、ブレーメンへの出撃=戦死を意味するほど恐れられていた。


戦後のB-17編集

大戦末期、爆撃機部隊の主力はB-29となり、B-17は旧式化した。

余剰となったB-17はもはや「バラして捨てるだけの在庫品」で、広大な平原に整然と並べられて廃棄を待つ身となった(『世界の傑作機 スペシャルエディション』等に写真が掲載されている)。


一部はミサイル試験用の無人標的機(離陸は乗員が担当する)、胴体下に救命ボートを抱えた救難機B-17H(SB-17)に改造された。B-17Hは海軍でもPB-1Gとして採用されている。


バターン号編集

1943年、B-17を改造した要員輸送機に機種記号XC-108が与えられた。

爆撃機なので胴体は細く、38人乗りだが居住性は良くなかったという。本格採用とならず、「バターン1号」としてダグラス・マッカーサー専属機となった(1942年3月20日にフィリピンから脱出した時のB-17とは無関係)。

「バターン2号」はダグラスC-54B、「バターン3号」はロッキードVC-121Aコンステレーションであった。


関連タグ編集

爆撃機 第二次世界大戦 アメリカ合衆国 ボーイング アメリカ陸軍

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