ピクシブ百科事典

一式陸上攻撃機

いちしきりくじょうこうげきき

日本海軍の爆撃機。元々はロンドン条約で削減されてしまった主力艦艇の補助として開発された。防弾がされていない爆撃機であり、これは「高速で戦闘機を振り切れる爆撃機」を目指したため。なお「敵からは『一式ライター』と呼ばれた」という俗説があるが、アメリカはきちんと「ベティ(Betty)」と呼び名を付けていたので、これは「搭乗員の自虐」という説が有力である。
目次[非表示]

別称

一式陸攻
葉巻:独特の側面形状、および低い耐火性能による。

九六陸攻の後継

この一式陸攻には、前作の九六陸攻の弱点を解消する工夫がされている。
・胴体を大型化して、それまで機外に搭載していた爆弾を機内収容できるようにした。
・より進化した大型・新型のエンジンを装備する。
・運動性が軽快で、かつ舵も軽いために操縦しやすい機体。
・20㎜機銃を搭載し、防御銃座も強化。
これらに加え、主翼燃料タンクをインテグラル化して燃料搭載を大幅に向上させた。

インテグラル式燃料タンク

主翼や胴体に燃料タンクを設置する場合、通常は胴体内部のスキマを埋めるように設置される。
(燃料タンク以外にも各種機材や構造部材が入っているため)
インテグラル式燃料タンクとは胴体内部を構造部材ごと水密構造にし、
その水密構造の中に燃料を入れておく方法である。
一式陸攻では『主翼発火の原因になる』として不評を買っていたが、
これは燃料のほぼ全てを主翼のインテグラルタンクに収容していた為である。

他にもB-36は主翼燃料タンクの一部をインテグラル式とし、燃料搭載量の増加に成功している。
フランスのミラージュF1や旧ソ連Su-17もこれで航続距離を増している。

どの機体も『戦闘前に使い切るタンク』を採用しているが、
インテグラルタンクは軍用機に向いていない、という訳では無い。
この事例は「用法さえ間違えなければ有効な方法」である事を示している。

防弾<カタログスペック

もちろん、この決定には異議が続出した。
第1回の打ち合わせにて三菱の設計陣は異議を唱えたが、海軍が無下に断っている。
これは当時のエンジン出力の関係で、防弾を施すと速度が低下し要求性能が満たせなかったのと、
翌年には4発陸攻である「深山」の発注を控えていた為でもある。

ただし、三菱の提案通り4発機にした所で有力な爆撃機になったかどうかは疑問が残る。
(海軍式には攻撃機だが)
駆け込みで輸入されたDC-4Eは失敗作であり、
『重い割にパワー不足で整備も不便』という欠点を抱えていた。
(後のDC-4(C-54)とは全くの別物である)

後継の「深山」はこのDC-4Eを原型としており、もちろん開発は難航した。
そしてアメリカの技術でも使い物にならなかった機体が、日本の技術ごときで扱える訳がない。
何しろ当時は電線やソケットすらまともに製品化出来なかったのだ。
この事から『バカ鳥』のあだ名を頂戴し、精々輸送機として細々と使われるに留まった。
(「魚雷を2本運べる」と評価もされていたようだが)

『それでも双発機で実用化せよ』との海軍の指令は、ある意味では的を射ていたのだ。
未熟な技術での実用化に、疑問が付き纏ったのも無理は無い。
結局は素早く、確実な双発機の性能向上を優先したのだった。

本当の犯人とは

それでも実戦に耐えない機体で、激しい実戦を要求した海軍の罪が軽くなる訳ではない。
また、4発機の経験のある三菱・川西を差し置いて、
後継機の「深山」を中島飛行機に受注させたのも問題だった。
(海軍としては、中島に4発機を経験させる目算もあったのだろうが)

だが原型がDC-4Eだった時点で結果は判りきっていた。
実用化は難航して結局使い物にならず、
さらなる後継機である「連山」は太平洋戦争に間に合わなかった。

また、最初の時点で4発機が選択されていた場合、
実用化が太平洋戦争開戦までに間に合わない恐れがあった。
(概要が似ている「深山」開発と統合される可能性も考えられる)
その場合は海軍の爆撃機部隊は九六陸攻を使い続ける事になり、
本機の場合よりも大きな損害を出していただろう。

結局は「どちらが大きく間違っていた」とは言えない。
どちらも正しく、どちらも間違っていたのだ。

改良の行方は

当時は言い争いをしている暇すらなかった。
兎にも角にも、改良は続けなくてはいけない。
最初の防御力強化策は「燃料タンクへの防弾ゴム追加」である。
これは最初の生産型である11型に施され、タンクの側面が防弾された。

もちろんこれだけでは不完全であり、1943年からタンクの上下(主翼表面)にも防弾処理が拡大された。
(飛行性能の低下は覚悟の上)
自動消火装置の装備も始まり、防火装備は充実していった。

だが、このあたりで誰かが気づいた。
「もういっその事、主翼を再設計してはどうだろうか」と。
こうして登場したのが三四型だったのだが、登場が1945年では間に合う訳もない。
飛行性能も低下しており、ろくに活躍しないまま終戦を迎えた。

なお、追加されていった防火装備だが、
アメリカ側の証言では『意外に火が付かない』とも評価されているようだ。
それでも損害を減らす助けにはならなかったようで、大損害には変わらなかったが。

戦歴

とはいえ、戦争初期は勝利の勢いそのままに活躍した。
最も輝かしい戦果はマレー沖海戦において、イギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」及び巡洋戦艦「レパルス」を撃沈した事である。

この戦いにおいて、航空機は戦艦に勝利できる事を証明した。
それまでの航空機は『戦艦を沈められる大きさの魚雷を搭載できない』とされていたのだ。
実際に戦間期の爆撃機などは搭載量が小さく、大型魚雷などは搭載できなかった事実はあったが、航空技術の発達は目覚ましく、わずか十数年で常識を覆した。こうした戦果もあって、航空機は第二次世界大戦以降の主役となったのである。

後継

だが当時の日本にとってこれ以上の高性能化は難しく、後継は思い切って小型・軽量に方向転換した空技廠P1Y「銀河」にとってかわられる事になる。これはイギリスのモスキートに近い発想と言えるだろう。
(=大型化してなお高性能化するために十分なエンジンが存在しなかった事でもある)

こちらは一式陸上攻撃機と比べて一回り小さい機体となっており、速度も(まったく同高度の記録ではないが)80km/hも改善されている。しかも搭載能力は劣るものではなく、これは新型エンジン「誉」の恩恵も大きい。

このエンジンは諸般の事情から稼働率が良いものではなく、機体も設計が凝っていたため生産性も良くなかった。だが「銀河」は日本海軍が一貫して追い求め続けた「高速爆撃機」の決定版といえる性能をもっており、ナチスドイツでいえばJu88に相当する高性能機であった。

他国との比較

結局、実戦に耐える四発爆撃機を開発できなかった日本だが、いちおう世界的には恥ではないと言える。ナチスドイツはいろいろと開発したが殆どは作っただけで終わり、イタリアに至っては墜落して試作機が失われている。

最後のご奉公

第二次世界大戦が終結した後、終戦連絡・事務処理のために残存していた一式陸上攻撃機も動員された。これは「緑十字飛行」とよばれており、このために旧型の11型がわざわざ引っ張り出されている。
(航続距離の上では最もよかったため)

保存

河口湖自動車博物館・飛行館にて復元保存されている他、米国カリフォルニア州の Planes of Fame Air Museum、および米国メリーランド州のポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設にも機体が保存されている。

関連タグ

モスキート:そもそもの発想としてはこちらに近い
爆撃機 第二次世界大戦 大日本帝国

pixivに投稿された作品 pixivで「一式陸上攻撃機」のイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 41372

コメント