概要
ヘンシェルHs129は、第二次世界大戦でドイツ空軍が配備した対地攻撃機である。主に東部戦線での戦闘で活躍し、当初は様々な目標に対して使われたが、ドイツ軍の予想を上回るソ連戦車の数の多さからなし崩し的に対戦車攻撃がメインになっていくと、武装が次々に強化され最終的に75mm砲をも搭載されることになった。総生産数865機。
発端~ヘンシェルの事始め~
WW1期にイギリス軍によって編み出されアメリカ軍によって完成した急降下爆撃は、1930年代当時最先端の戦術であった。ドイツ空軍上層部においても急降下爆撃は強い注目を集め、新型の急降下爆撃機の入札が行われることとなった。
ヘンシェルはもともと機関車メーカーだったが、初めて航空機開発に挑み、提示された要件を満たすHs123を生み出した。Hs123は1936年から生産されたが、旧式の急降下爆撃機であるハインケルHe50からJu87へのつなぎとしての意味合いが強く、Ju87の採用後は生産ラインを縮小されることとなった。
ダイブブレーキを持たず、兵器搭載量も小さいHs123は、実際のところ急降下爆撃任務には不十分な航空機だったが、スペイン内戦に投入されると、対地支援任務において意外な活躍をみせることになった。対地支援では短い航続距離はそれほど問題にならず、低速さは弾着の正確につながったのである。さらに、機体やエンジンへの直撃を受けても行動可能な頑丈さから、使用者のスペイン反乱軍から高い評価を受けた。
対地支援専用機の着想と挫折
Hs123の意外な活躍は、急降下爆撃機こそ地上攻撃任務の最適解だとするドイツ軍上層部の見解を改めさせることになった。
1937年、ドイツ空軍省は『堅固な防御装甲を施した、20mm機銃装備の小型双発攻撃機』の開発計画を、各航空機メーカーに向けて指示した。この計画では、戦闘機や爆撃機に使用されるような高出力エンジンをあえて使用せず、需要の少ない低出力エンジンを活用することも意図されていた。低速でも対地支援機としてなら問題ないと判断されたのである。国内の4社がこれに応え、うちフォッケウルフとヘンシェルの2社で試作機が製作されることになった。
フォッケウルフはFw189を改設計した機体を出品していたが、対するヘンシェルは専用設計の対地攻撃機を出品し、比較の結果、ヘンシェル案が採用されることになり、早速12機が発注された。それがHs129の試作機であった。
Hs129の特徴は表面積を最小限とするため、胴体の断面を三角形にしている事である。
当然コクピット内は狭く、
- 計器が全て収まり切らないので、エンジン関係の計器はエンジンナセルに外付け
- 射撃照準機もコクピット外付け
- そもそも操縦桿もつっかかって完全に動かせない
・・・といった特徴がある。
スペイン内戦での戦訓から、対地支援任務につく航空機にとって敵歩兵の小火器による攻撃が脅威になると考えられたため、コックピットには厳重な装甲が施されたが、総重量はかなりのものとなり、初期の時点で5tにも及んだという。
そうすると問題は『大重量に見合ったエンジンがあるか』という事になる。
戦闘機用のエンジンは使用できないという縛りから、試作機Hs129A-0ではエンジンに「アルグスAs410A-1」(465馬力)が使われていたが、テストではパワー不足甚だしいと判定された。実際、この重量級の機体を飛ばすのにテストパイロットは苦心しており、パワー不足故に加速性能が悪くスピードも出ず、旋回にすら気を使うというシロモノだった。
1940年には教育部隊に配備され、実戦部隊の編成に向けて準備が行われた。
しかし、前述の通りエンジンの想定以上のパワー不足のせいで運動性は劣悪なので、HS129A-0の生産には『待った!』がかかる事となった。
『Hs129に新しい心臓を!』
もちろん、有効な解決法は『高性能エンジンへの換装』である。
だが既に戦争は始まっており、高性能エンジンは戦闘機や爆撃機など、『今すぐに必要な軍用機』に優先して廻されてしまい、Hs129が使えるエンジンはドイツに残されていなかった。このジレンマにヘンシェル社は苦悩した。
これに対し、採られた手だてが『接収したフランス製エンジンの流用』である。
占領した工場から「ノーム・ローン14M(700馬力)」を持ち出し、パワーアップを図ったのである。
これに加えて機体各部にも改良が施され、Hs129Bへと発展した。
これにより実に1.5倍ものエンジン出力のパワーアップが図られた訳だが、これでも出力は不足気味だったという。
鈍重という意味では相変わらずだが、これならマシな方だろうと判断されたのか、生産にはゴーサインが下りている。
武装の変遷
Hs129A-0ではコクピット下のスリットに20㎜機関砲と7.92㎜機銃を2門ずつ、合計4門装備していた。エンジンを換装したHs129B-1では、更に爆弾ラックを胴体下と主翼に追加している。
Hs129B-1/R2では20㎜機関砲の威力不足が明らかになり、胴体下の爆弾ラックに強力な「Mk101」30㎜機関砲(総弾数30発)をオプション装備している。
Hs129B-2はエンジン周りの設計を手直しして、アンテナ支柱が無くなっている。
オプションの30㎜機関砲が改良型の「Mk103」となり、更にJu87Gと同じ37㎜機関砲にも対応している。
続くHs129B-2/R4(HS-129B-3)はシリーズ決定版とも言える型で、胴体下のオプションが大口径の『75㎜自動砲(総弾数12発)』に換装された事で頂点を極めた。
これは圧搾空気で作動するもので、命中すれば重装甲のjS-2すら一撃で葬るほどの威力があったという。
25機程度が配備されたというが、自動砲の重量や空気抵抗で、扱いにくさは相当のものだっただろうと思われる。
『空飛ぶ缶切り』
最初の実戦は1942年のアフリカ戦線だったが、「ただでさえパワー不足気味」だった事と、砂による稼働率の低下等により、目立った戦果を挙げるには至らなかった。
初めて威力を見せ付ける機会を得たのが、1943年のチタデレ作戦である。
第1、第2地上襲撃航空団の攻撃により、1個戦車旅団がたった1日(それも数時間)で壊滅したのだ。
(ただしソ連側ではHs129による戦車隊の被害は記録されていない、その代わり輸送トラック隊がHs129により大きな被害を受けたと記録されている)
だが、このように鈍重な攻撃機が活躍するには航空優勢の確保が必須なのだ。
この作戦(失敗)以降、戦争の主導権はソビエト側へと移り、それに伴いHs129の活躍の場も制限される事になってしまった。
実際、この後の活躍には目立った事に乏しいものがあったようで、生産の優先順位も爆撃機や戦闘機が先にされてしまい、エンジン工場すらもフランスの解放によって連合軍の手に渡ってしまった。
ただでさえ優先すべき航空機が列を作って待っている、という状況では性能向上計画、果ては生産さえも無い物ねだりに過ぎなかった。