ナチス「急降下爆撃機」のはじまり
事のはじまりは1933年、ドイツがワイマール制からナチ党独裁へと変遷した直後のこと。ドイツ航空運輸委員会技術局(当時。まもなく空軍省となる)から出された「急降下爆撃機」の開発要件について、ヘンシェル社が応えたのがこのHs123である。
時はドイツ再軍備宣言の前だったため、最初は軍用機としてではなく民間用として登録され、1935年4月5日にHs123V1「登録記号:D-ILUA」が初飛行した。テストは空軍省のエルンスト・ウーデット自らも行い、フィーゼラー社のFi98(旧態依然が過ぎて不採用)や、ブローム・ウント・フォス社のHa137(先進的な単発・単葉機だったが飛行安定性が不足していた)よりも高い性能を示したため採用を勝ち取った。
Hs123は、急降下爆撃機開発のための第1段階、つまり「今ある技術で、ある程度の急降下爆撃の出来る機を開発し、続く第2段階(本命)のためのデータ収集・ノウハウ蓄積を行う」という目的で開発された。本格的な急降下爆撃機開発のための、試金石に過ぎなかったのである。
複葉機⇒Hs123⇒単葉機
Hs123は複葉機ではあるが、戦間期に進んだ航空研究によって、単葉機への進化過程を取り込んだ形態になっていた。まず特徴的なのは主翼である。
一見では第一次世界大戦に活躍した複葉機のような恰好をしているが、細かい部分は研究結果を反映させたものになっている。まずは主翼の強度を増し、大きな空気抵抗となっていた主翼間の張線を廃した。代わりに強固な支柱を翼端近くに1つだけ設置する。
主翼もかつてのように、ただ上下に配置しただけではお互いの気流が干渉して、主翼二枚分の効果を得ることはできない。そこで上下翼は少し前後にもずらし、より効果的に揚力を生み出てせるようにした。エンジンも発達して速度も向上し、揚力を速度からも得られるようになったので、揚力を翼面積に頼らなくても良くなった。そこで効果の大きい上翼をそのままにして、下翼は小型化した。こうして戦間期の複葉機の姿の大勢は固まった。他国でも同様の姿になった複葉機は九五式戦闘機やI-15などが開発されている。
他にも主脚はむき出しではなく、整流カバーに覆われたものになった。機体各所に張られたワイヤーなどはほとんど無く、ここでも空力が追及されていることが分かる。
時代遅れの急降下爆撃機と戦争と
取り残されたもの
Hs123の軍用機としての初飛行は1935年5月8日であった。ナチス政権は同年3月16日に再軍備宣言を発布しており、もはや堂々と「軍用」と名乗るようになっていた。
しかし9月17日には急降下爆撃機の本命が初飛行し、Hs123よりも全てに優れた性能を発揮した。こうなるとすべての関心はHs123から離れてしまい、(最初から「つなぎ」である事は分かっていたとはいえ)役割は既に終えたように思われた。
スペイン内乱
1931年、スペインでは王政が倒されて共和制へと移行した、しかしこの革命は暴力革命であったために国民の反感・失望をかい、33年の総選挙では中道右派が政権を採ることになった。
すると1934年に今度は左派による暴動が発生。この解決は穏便であったものの、国内外の非難を呼んで支持は落ち、スキャンダルから首相は35年に退陣。政権は壊滅状態となり、大統領は国会を解散し、翌36年に総選挙を再び実施するとの決定を下す。この選挙では左派が勝利し、再び政権の座に就いた。
同年7月、共和派の軍人がファシスト党支持者によって殺害される事件が発生。まもなく保守派の有力者も報復に殺害された。この事件を契機として右派・左派の不和は決定的となって軍隊が蜂起。1936年、反乱軍と共和派の二つに分かれてのスペイン内乱が勃発した。
ナチスドイツはイタリア等と一緒に反乱軍を支援していたが、フランスがドイツ軍通過を許すはずが無かったので、空軍主力の義勇兵部隊『コンドル軍団』としてモロッコへ派遣された。
Hs123は5機が当初から派遣されていたが、性能が高いBf109やJu87が配備される事になったため、急降下爆撃の任務からは外される事になった。
替わって投入される事になったのは対地支援(対地直協)任務で、こうした用途ではHs123はそれまで以上の適性を見せた。まず複葉機なので低空・低速飛行との相性はよく、天蓋をもたない解放式コクピットなので視界も抜群。たしかに搭載力は小さいが、こうした任務では大威力の爆弾よりも、精確に投下できる小型爆弾のほうが頼りにされた。地上部隊からすれば、巻き添えを受ける心配が少ないからだ。
最初スペインに送られたHs123は6機と少なかったが、精確に爆弾を落とす能力には長け、機体や空冷エンジンは頑丈で被弾にも強く、反乱軍では『アンジェリート(天使ちゃん)』と呼んで、早くも好評を得ていた。さらに反乱軍は評価試験が終了すると残存機をそのまま買い上げ、さらにドイツへ12機の追加注文を出した。その後1945年には、少なくとも1機は実働していたようである。
ポーランドからバルカン、ロシアへ
スペインであれほどの効果を示したにもかかわらず、上層部の将軍たちはHs123を『時代遅れ』と評価して、実地の活躍に無関心だった。Ju87が華々しく活躍したせいもあってHs123の生産は増やされず、編成された飛行隊も第2教導航空団第2飛行隊だけに限定された。
1939年9月からはポーランド侵攻に参加(残り39機)。敵の銃口前で活躍する「対地直協」という任務上、戦果も損害も多く、飛行隊長をはじめ9人が戦死して部隊損耗率は25%を記録した。
その後まもなくフランス戦役へ参加。初任務はエバン・エマール要塞攻略にともなう支援任務であった。その後5月中は第6軍への支援に忙殺され、アラスの戦いではイギリス軍の反撃を挫く一助となった。
だがバトルオブブリテンには参加不可能だった。Hs123ではドーバー海峡を越えられなかったのだ。他の飛行隊が激戦を繰り広げる中、Hs123飛行隊はドイツ本国に戻って再編成を受け、新たにBf109E-4Bも配備された。そこから再び戦場に取って返すと、この機をもってイギリス本土への空襲に参加している。しかし帰趨を替えるほどにはならず、12機(すべてBf109)を失った。
その後は、Bf109EとHs123の2機ずつを補充に受けてバルカン作戦にも参加(残り32機)。1941年6月には独ソ戦開戦に向けて東部戦線へ移動した。バルバロッサ作戦では中央軍集団に属し、作戦開始時点ではHs123の残余は22機だった。6月にミンスクを占領し、その後7月末には稼働Hs123は14機にまで減っていた。
補充は飛行学校用の訓練機を引き揚げたり、予備部品をスクラップ場から得ていたが、そろそろ限界だった。常に稼働機を減らしながら、それでも作戦を続けていたが、クリミアやハリコフ、スターリングラードなどの激戦場ばかりを渡り歩くHs123の損害は、今や飛行隊として運営できない線にまでなりつつあった。
1943年1月、空軍のリヒトホーフェン元帥はヘンシェル社にHs123再生産の可否を問い合わせたが、回答は「38年に生産治具を解体したため不可能」というものだった。
その後、飛行隊はクルスクの戦いに参加した後、クリミアでJu87への機種転換を受けた。ここまで生き残っていたHs123は前線の任務を解かれ、今度こそ訓練やちょっとした輸送、グライダー曳航などの後方任務に回されて、終戦まで何かと便利に運用され続けた。Hs123が退役する事は、『ルフトヴァッフェ』が存続する限り無かったのだった。
高性能な機≒便利な機
Hs123は高性能というよりも、任務に便利だったので支持され続けた。
元々は急降下爆撃機として設計されていたおかげで設計は頑丈で、低空での荒っぽい操縦にも十分耐えられた。設備の整っていない飛行場でも十分扱えるほど軽くて構造も簡単、もちろん車輪も固定式なので地面の状態が悪くても平気だった。空冷エンジンは冷却剤漏れを起こすことはなく、弱点が少ないので被弾にも強い。こうした頑丈さは襲撃機として転用されたあとにも役に立っていた。
一方で搭載力は合計で450kgが限界と低かったが、戦車やトーチカなど、地上部隊の誘導に従って小型の目標を相手にする分には事足りた。Hs123は時代遅れの風貌をしていたが、性能よりも実際の活躍の確かさから信頼され、支持されていたのだった。とくに1941年はあらゆる空軍機が凍てつき、活動できなかったが、Hs123は41年中とおして空軍で最も多くの戦闘任務を行った機種とされ、スペインでは『アンジェリート』、バルカン半島では『イチニサン(型番の123から)』『伍長どの』などと呼ばれて信頼された。
同様の例は、ソビエトでも練習機のPo-2(U-2)が襲撃機に転用された例がある。頑丈なPo-2は厳しいロシアの気候にも適応し、早朝や深夜など、ドイツ空軍ではとても活動できないような時間に爆撃しては地上部隊を悩ませた。ちっぽけなエンジンで駆動するオンボロ複葉機ではあったが、その小さなエンジンは音も小さく、風などに紛れて地上では判らなかった。全くの無音から突然の爆撃で夜も眠れない日々が繰り返された事と、部隊の構成員が主に女性から成っていた事から『魔女飛行隊』とあだ名され、とくに第588夜間爆撃連隊の活躍は有名である。
このように、たとえ性能的には弱かったとしても、戦場は常に高性能な兵器『だけ』が活躍できる場ではない。マッハ2を誇る戦闘機がベトナムの空では全くの役立たずだったのと同じように、その場に最も適した兵器こそが頼りにされ、支持される兵器なのである。
派生型
Hs123は試作機4機、先行量産型A-0が7機、A-1が229機、B-0が10機生産されたとされ、合計で250機となる。最大速度は340km/h(高度1200m)であり、上昇限度は9000m。重量は全備重量でも2215kgとなる。
Hs123V1
1935年4月5日に初飛行を遂げた試作機で、エンジンにはBMW132Aを搭載する。
Hs123V2
アメリカ製のライト「サイクロン」R-1820を搭載。のちにBMW132Aへ換装してHs123V8とされる。
Hs123V3
BMW132を搭載する試作機。
Hs123V4
墜落事故を受けて、主翼の取り付け強度を増す改造を施した改良型。のちの生産型はこの機に従う規格になった。
Hs123V5
BMW132Gや132J、132Kをテストした試験機。Hs123B系列の試作機でもあったが採用されず。搭載力は500kgへ増大。後にこの規格で10機生産(Hs123B-0)。
Hs123V6
エンジンはBMW132J、もしくは132Kとし、密閉式コクピットを備えて機内燃料タンクを拡大。機銃も4挺へ増設したHs123Cの試作機。不採用。
Hs123V7
BMW132-V107を搭載したエンジン試験機。
Hs123A-1
唯一の生産型で、固定武装として7.92mm機銃MG17をエンジンカウリングに2挺装備。これを20mm機銃MGFFに換装した現地改造機もある。
爆弾は主翼の支柱下に50kg爆弾を左右各2個、胴体には250kg爆弾あるいは増槽(150ℓ)を装備できる。
輸出
スペイン
コンドル軍団の持ち込んだ6機に加え、のちに12機を追加注文。
中華民国(国民党)
1938年に12機が輸出され、揚子江方面の第15飛行隊が運用。