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I-15

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いーぴとなーっつぁち

1934年、労農赤軍航空隊(ソビエト連邦)に採用された複葉レシプロ戦闘機

概要

1933年、ポリカルポフ設計局が開発し、1934年に労農赤軍航空隊(ソビエト連邦)に採用された複葉レシプロ戦闘機。

上翼は左右分割しコクピットを避けて胴体に取り付けたガル翼で、複葉機ながら前方視界が良い。降着装置は固定脚。

当時の戦闘機として標準的な性能で、軽快で、ドッグファイトに慣れたパイロット達に支持された。

主な戦歴(派生型含む)

スペイン内戦(1936~1939年)

ソ連より共和国側に供与され、ファシスト側のフィアットCR.32マッキMC.200メッサーシュミットBf109C、ハインケルHe51などと戦火を交えた。

ノモンハン事変(1939年)

日本陸軍中島九七式戦闘機川崎九五式戦闘機と戦火を交えた。日本側は「イの15」と呼んでいた。

I-15はもっぱらI-16と組にして運用され、空戦でI-15が日本陸軍機の格闘戦を誘い、そこをI-16が急降下からの一撃離脱をかけては、うかつな日本機を血祭りにあげていった。そうして混乱を誘ったあとに格闘戦に入れば、I-15は有利にも立ち回れた。

しかもソ連空軍は損耗するごとに新しい部隊を次々と投入し、疲労する一方の日本陸軍は徐々に損害を大きくすることになってしまった。こうした戦訓を踏まえて一撃離脱戦法への対応を求めた結果、完成するのが後の一式戦闘機二式単座戦闘機である。

冬戦争(1939年~1945年)

ソ連のI-153がフィンランド軍のグロスターグラジエーターフォッカーD21フィアットG.50、鹵獲されたI-15などと戦火を交えた。のちにフィンランド側も撃墜・不時着したI-153を分捕り、自軍の戦力として活用している。

独ソ戦(1941~1945年)

戦争初期に小型爆弾を抱えたI-15bisが夜間にドイツ軍陣地を襲撃する、ロケット弾で後方の車両列を攻撃するなどして活躍したが、性能ではすでに旧式にも程があり、Il-2Pe-2などに交代することになった。

派生型

I-15bis

1937年、上翼を通常のパラソル翼とし、エンジン出力を強化(700ps⇒750ps)した上、対地攻撃も可能なように主翼ハードポイントを追加したI-15bisが開発された。

武装もそれまでの7.62mm機銃4挺に加え、50kg爆弾2個or82mmロケット弾6発を装備できるようになった。これで戦闘爆撃機としても運用できるようになり、複葉機ならではの運動性を生かして対地攻撃にも使われた。

登場当時ですら旧式化していたが、独ソ戦初期にはモスクワ目掛けて急進するドイツ軍へ果敢な攻撃を繰り返した。もちろん損害も大きく、のちに部隊は新型機で再編成されることになる。

I-153「チャイカ」

スペイン内戦でフィアットCR.32とのドッグファイトで劣勢だったため、1938年、上翼をI-15のガル翼に戻し、エンジンを強化(1000馬力)して引き込み脚を採用したI-15ter(制式化されてI-153となる)が開発された。複葉機としては異例に洗練された機ではあったが、それでも旧式であり、しかしパイロット達にはよく信頼されて愛された機でもある。

エンジン出力も初期のゼロ戦に並ぶほどであり、7.62mm機銃に替えて12.7㎜機銃も搭載できるようになったので、火力も申し分ない程になっていた。もはや魔改造とも言うべき変貌ぶりである。

引き込み脚の車輪をスキーに換装でき、その状態でもちゃんと引き込めるという雪国らしい配慮もされている。

さらにノモンハン事変では、脚を出したまま飛行してI-15のフリをし、油断して襲い掛かった日本陸軍機を返り討ちにすることもあった。またフィンランドでは貴重な戦力として終戦まで有効活用されている。

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