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四式戦闘機

よんしきせんとうき

日本陸軍、中島飛行機の開発した戦闘機。一式戦闘機や二式単戦の発展型として開発された。大馬力のエンジンと20mm機銃で次期主力戦闘機となる筈だったが、戦局の激化と共に低下し続ける部品の品質に足をとられ続けた。設計の良さを製造で発揮できなかった戦闘機である。
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四式戦疾風陸軍四式戦とも。アメリカ軍では「フランク(Frank)」というコードネームで呼んでいた。

『やつはオスカーじゃない!フランクだ!うわさに聞いたナカジマの新型だ!』
『ベテランの乗ったフランクに挑むやつはバカだ!悪いがバカは助けてやれない。神にいのれ!』
松本零士「パイロット・ハンター」より

『(P-51など)赤子の手をねじるがごとし』
四式戦闘機でP-51と対戦した大日本帝国陸軍少佐若松幸禧の日記より

『大東亜決戦機』

太平洋戦争開始直後の1941年12月29日、陸軍は中島飛行機に次なる主力戦闘機の開発を命じた。設計主任は小山悌(こやま やすし)。
九七式戦闘機一式戦闘機二式単戦と続く中島飛行機戦闘機の集大成である。これまで1000馬力級だったエンジンは1800馬力の『ハ45(海軍名称NK9「誉」)』に強化され、新しい陸軍航空隊の主力となることが期待された。

Burned Well Done

しかし、戦局の悪化が日本の工業に与えた傷は深かった。工場から送られる部品の精度は低下し、また材料の質まで低下した。熟練工は残らず徴用され、それを埋めたのは勤労奉仕の高校生だった。実戦現場では品質低下した部品のせいで故障が続出。

高品質ガソリンも欠乏した。
実はハ45は陸軍の標準ではなく、海軍のそれを使って適正化されていたため、海軍標準の92オクタンガソリンが必要だった(ちなみに現在の自動車用ハイオクガソリンがJIS規定で95オクタン以上である。ただし現代では自動車のほうが身近なため勘違いされやすいが回転数が頻繁に変化する自動車の方が航空機より高品質燃料を必要とする)。
しかし資源事情が悪化し高品質ガソリンの入手が難しくなったため、代わりに87オクタンの陸軍標準ガソリンが使用されていた。また当時はアメリカ製の高品質潤滑油を戦前に備蓄した分に頼って戦っており、廃潤滑油を節約の為再生した再生潤滑油も四式戦に限らず多くの機体で用いられたがこれも悪影響を及ぼしていたらしい。
飛行104戦隊では再生潤滑油を使わずに高品質潤滑油のみを用いて高い稼働率を維持したという記録もあり、潤滑油の質的悪化が性能低下に拍車をかけ、故障はさらに増加した。

その他、軍の整備員教育が間違っていたせいだとも言われている。
飛行47戦隊で整備責任者だった刈谷正意大尉は、現代の鉄道車両などの整備のように綿密な整備記録を取って整備に係わる全要員で共有して全機を厳密に管理し、故障する前に直して高い稼働率を保ったといい(欧米では当時すでに普通に行われていたが…)、メーカーと未熟練工だけのせいとは到底言えない。

もはや『大東亜決戦機』の威容は無く、沈みゆく大日本帝国を象徴する戦闘機となっていったのである。

松本零士と四式戦

日本陸軍少佐だった松本零士の父親は戦闘機のテストパイロットを務めていた。
その最後の乗機が四式戦であり、教官を務めながらアメリカ軍とも戦っていた。終戦後は行商人となり、生活も赤貧そのものだったが、日本の再軍備の後に元同僚が自衛隊に転籍する中も行商人を続けた。

その理由とは『敵方の戦闘機には乗りたくない』という漢そのものな理由であり、
松本零士自身も『俺の父親は最高だ』と語る程だった。
(まあ、考え方によっては終わった戦争をうじうじ引っ張る女々しい理由とも受け取れるが…)
この父親のイメージは作品に強烈に反映され、沖田十三やキャプテン・ハーロックの元となった。
なお、他にも三式戦闘機にも乗っていたようで、作品にはこの機についての描写も多い。

されど決戦機の誇り

速度

……と、末期的な話ばかりになってしまったが、本来の性能は優秀である。
陸軍審査部の記録では『高度5000mで624km/h』となっているが、実際にはもっと出せる個体もあったようである。この記録は試作機によるものであり、改良が加えられた生産機では向上している(はず)。

他に、『審査の基準がかなり厳かっただけで、量産型では実戦でも650km/h台をバンバン出していた』という説もある。もっともこれは「フル積載4/3状態」とする日本軍(海軍も同じ)の計測方法にも由来しているようで、速度で上でパワーダイブ(加速しながらの降下)にも強いF6F-5零戦五二型が追いついてしまった、ということがあるようである。

戦後、アメリカでのテスト飛行でも『高度6100mで689km/h』という記録を出しており、これはP-51の記録と比べても遜色ないものとなっている。数値そのものはP-51(703km/h)に比べると見劣りするが、記録時の高度差を考慮すれば勝っているとも言われている。

武装

武装も一式戦闘機に比べれば大幅に強化されており、12.7㎜機銃に加えて20㎜機銃が装備された。これで一式戦闘機いちばんの弱点が解消され、存分に戦えるようになった。世界的にはこれでも軽武装な方になるが、長い航続性能などを考えあわせれば良好だといえるだろう。

性能バランス

機体設計も格闘戦よりも一撃離脱戦法にふった設計である。現場のベテラン達には嫌がられたが、時代はすでに一撃離脱戦法に傾いていたし、なによりF6FP-51などに苦戦していた現場にとってはマトモに対抗できうる「切り札」でもあった。

設計者は『二式単座戦闘機一式戦闘機の要素を加えた』と語っており、総合的には疾風は一撃離脱戦法も格闘戦も高いレベルでこなせる性能バランスにいたっている。さすがは決戦機である。

航続性能

また航続距離は本体タンクのみで1400kmで、これは実はP-51を上回る

日本の架空戦記などではよく「航続距離が短い」と書かれがちだが、これは零戦と比べてしまうからである。そもそも日本の単発戦闘機の航続距離の長さが異常なんであり、よく短い短いといわれる二式単座戦闘機でも本体タンクだけで1000kmは飛べた。ちなみにBf109スピットファイアはこの半分~2/3程度でしかない。

生産・発展型

生産数は3500機近くと、短期間に多くの機体が生産された。ほとんどは一型甲であり、これは生産性にも配慮して設計していたからである。うち約100機は各種試作機であり、いかにエンジンが難しかったか、また主力機としてどれだけの期待が掛けられていたが窺える。

また本家中島飛行機のほか立川飛行機・満州飛行機で木製化や低質鋼材化が計画された。立川の木製機がキ106、立川の低質鋼材機がキ113、満飛の「ハ112II(海軍名称「金星」)」換装機がキ116。しかしキ106が10機、キ116が僅かに1機、キ113に至っては原型機が80%完成したところで終戦を迎え戦争には全く間に合わなかった。

他に開発元中島による改修案、キ117が存在する。こちらはエンジンを「ハ219(統合名称「ハ44-14」)」(2380馬力)に換装、プロペラ、主翼も設計を変え大幅な性能アップと実用性の向上を図ったものだった。しかしこちらも設計が80%ほど終わった段階で終戦を迎えてしまい、日の目を見ることなく終わってしまった。

現存機

アメリカ軍によってフィリピンで鹵獲されて後に私設航空博物館に払い下げられた一機が唯一の現存機で、レストアされて飛行可能な状態で保存され1973年に日本に里帰りし航空自衛隊入間基地にてお披露目飛行をして航空ファンを唸らせた。その後日本の一業者に引き取られて展示されたが、部品の盗難やら展示状態の悪化により飛行が不可能となった。これを知ったアメリカの前所有者が日本に引き渡したことを後悔したという。
その後展示場所を転々としていたが(栃木県宇都宮市京都市嵐山和歌山県白浜市)、現在は鹿児島県南九州市(旧知覧町)の知覧特攻平和会館にて一式戦闘機「隼」の9/10レプリカや海中から引き上げた零戦の残骸と共に良いコンディションで保存展示されている。
(かつて知覧に旧日本陸軍の飛行場があって、四式戦闘機が40機配属されて特攻機の誘導や護衛をしていた上に特攻機として4機が出撃【うち2機が未帰還】したため、知覧と縁の深い飛行機でもあった)

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