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三式戦闘機

さんしきせんとうき

太平洋戦争時の昭和18年に大日本帝国陸軍に正式採用された、日本では珍しい液冷エンジン搭載の戦闘機。精巧・高性能で知られたドイツのダイムラー・ベンツDB601エンジンのライセンス生産品、「ハ40」を搭載した。
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概要編集

1939年、川崎航空機ダイムラーベンツ社のDB601A液冷エンジンのライセンス製造権を取得し『ハ40』として生産を開始した。陸軍は1940年に、このハ40を使用した重・軽戦闘機の開発を川崎航空機に指示。翌年にそれぞれキ60キ61として初飛行し、そのうちのキ61が1943年10月9日に陸軍に正式採用された。


正式名称は「三式戦闘機」、愛称は「飛燕」。

部隊では「三式戦」「ロクイチ戦」、川崎社内では「ろくいち」、二型登場後は「いちがた」「にがた」とよばれたという。

連合軍コードネームは「Tony(トニー)」。これは米国における伊系移民男性の典型的な名前とされ、当初本機が伊空軍のマッキ MC.202のコピーと誤認されたことから名づけられた。

現在では、液冷エンジンの機首形状やキャノピーが似ていることから、ドイツのBf109になぞらえて「和製メッサー」と呼ばれることもある。


1943年のニューギニア戦線から実戦投入されるが、日本軍にとって不慣れな液冷エンジン、また連合軍の戦闘機の世代交代に焦り、その戦力化を余りに急ぎすぎだためと、素材の不良と初期不良を解消しきれないままの戦線投入で、なんと配備されるはずの機体のうち90%が途中で落伍するという惨憺たる有様であった。(なお、その原因としては先導機の居ない不慣れな長距離の洋上飛行が原因でもあり、78戦隊はその失敗を生かして、島伝いに移動し、無事に進出している)その後もエンジン故障、生産停滞などに苦しみ、ついには液冷エンジンに見切りをつけられ、空冷エンジンに換装されてしまうなどしたが、それでも終戦まで奮戦した。戦争末期の本土防空戦では、高高度を飛来するB-29に対する体当たり攻撃も敢行され、沖縄戦では特攻機としても運用された。しかし、高高度性能の不足は如何ともし難く、空対空特攻の際には、余剰装備全てを外されても、肝心の高高度に迅速には上がれなかった。このことが日本軍全体がレシプロの改良に絶望的になり、根本的に構造の異なるジェットエンジンに傾倒していく一つの理由であった。


特徴編集

頑丈な機体編集

三式戦の主翼は箱型断面の主桁を中心にトラス構造をなしており、重量がかさむかわりに大変に頑丈な構造であった。また従来は発動機架(エンジンを収める機首部分)は機体とは別に鉄パイプを組んで作っていたが、これを胴体と一体のモノコック構造とすることで大幅な強度向上を成し遂げ、降下限界速度の引き上げ、重量軽減に貢献している。


前線の部隊では『突っ込みがきく』と評価されており、日本戦闘機の弱点と言われる「急降下性能」に優れていた。速度計は850km/hまでのものが取り付けられていたが、実際にはそれ以上の速度を出すこともできたらしく、設計者が「三式戦が音速を突破した」という話をきいたと自著に書いている(無論パイロットの錯覚)。1000km/hまで表示できるものに換装したという話もある。

細長い主翼編集

当時の主力戦闘機から見ても明らかに細長い主翼は、高速・運動性能、高高度性能を確保するためであった。一般に主翼長が長いとロール性能(横転しやすさ)は悪化するが、これは補助翼の設計でカバーしたという。

また全幅の大きい主翼を採用したために主輪幅に余裕があり、荒地での運用に耐え、さらに胴体下面の装備配置が余裕を持って行えるという副次効果もあった。

ちなみに、日本の戦闘機は大戦初期までは左右の翼を別々に胴体へ接合しているものが多かったが、三式戦は一体となった両翼を胴体へ下からボルト留めしている。これも機体強度の高さに貢献しており、さらに重量変化に伴い主翼の取り付け位置を変更することも容易だった。


ガラス細工の心臓編集

この戦闘機が搭載するハ40エンジンはドイツ製液冷エンジンDB601Aのライセンス生産品である。このエンジンはBf109(ドイツ)、MC202(イタリア)など多くの独伊戦闘機に採用された傑作だった。


しかし、このエンジンは当時の日本の工場と工員にとっては、あまりにも精密すぎた。川崎航空機では精緻なパーツを生産する最新の工作機械が揃わなかったため、工作精度をオリジナルに比べて許容公差で1桁妥協せざるを得なかった。クランクシャフトに至っては本家の熱間鍛造に対して削り出しである。さらに希少金属の配給制限による素材の強度低下、熟練工の徴兵による技術低下も相当なもので、軸受(ベアリング)の破損、クランクシャフトの折損などが相次ぐ。エンジンの冷却を行うラジエーターの設計も非常にずさんで、冷却効率が悪い上に過熱で冷却液が噴き出すこともザラであった。また、たった80時間の運転で新品のエンジンが使い物にならなくなるという珍事も続発した。これらの惨状から、前線からは「飛ぶと壊れる」、「触れると壊れる」とさえ言われるようになってしまった。工員達は必死に改善に努めたが、日本の技術力ではどうにもならなかった。ついには昭和19年(1944年)に見切りをつけられて生産中止が決定され、空冷エンジン換装型の五式戦闘機の開発が始まるのだった。



なお、改良型のキ61-IIからはエンジンも強化型のハ140に変わり、速度上昇と高高度性能の向上が見込まれ、熟練工が作り、高オクタン価燃料で稼働した機体では旋回性能以外は一型を上回っていた。しかし、ハ140は信頼性が日本軍の目で見ても壊滅的な有様で、生産されたエンジンで、テックスペックを満たす物はほとんどなかったという。さらに生産性は最悪といってよく、エンジンを積んで完成できたのは僅かに99機、それ以外は首なしで工場外にズラーッと並ぶという異様な光景を呈していた。


『整備兵の未熟』という問題は、マニュアルの徹底や教育で改善できたが、部品や機体設計にまつわるエンジン不調は如何ともしがたく、落ち続ける部品の質に足を引っ張られ続け、ついには日本機で一番に組みやすい機体という悪評がついてしまった。


各型編集

原型機(キ61)編集

試作機と増加試作機。

最初の3機の試作機はドイツから輸入したオリジナルのDB601エンジンを搭載していたとされる。

一型甲(キ61-I甲)編集

最初の生産型である一型甲では、機首に「一式十二・七粍固定機関砲(ホ103)」を2門、主翼内に「八九式固定機関銃(7.7mm)」を2門搭載した。これは米国のブローニングM2機関銃のコピーであるホ103がまだ十分な数を揃えられず、また信頼性に不安があったためである。

各燃料タンクにはゴムとフェルトが貼られ、防漏仕様となっていた。

一型乙(キ61-I乙)編集

一型乙では翼内砲をホ103に換装し12.7mm砲を4門になった。

防弾鋼板が追加され、翼内タンクにも防弾ゴムを追加、また被弾時に危険の大きい胴体内タンクは途中から撤去された。

一型丙(キ61-I丙)編集

一型丙では、翼内砲をドイツの傑作銃「MG151/20(口径20mm、通称マウザー砲)」に換装。この機銃は火力、命中精度共に優れ、評判が良かったという。

川崎内では「キ61マ式」とも呼ばれた。重量増加によって機体性能は落ちてしまっている。なお、この機銃は当時の日本軍の整備班の手に余る精密な構造だったため、整備班はこの機銃を怖がったという。

一型丁(キ61-I丁)編集

評価の高いマウザー砲は弾丸も輸入に頼っており、40万発の備蓄が尽きれば使用不能だった。そこで翼内砲を12.7㎜のホ103に戻し、機首にはなんとか実用化に成功した「二式二十粍固定機関砲(ホ5)」2門を搭載した。これは主翼に装備するより胴体に装備したほうが命中率を上げられたためである(「ホ5」はマウザー砲よりも短いために機首に搭載可能となった)。なお「ホ5」の翼内搭載には主翼の再設計が必要だったために避けられたとする説もある。

しかしこの改設計で機首延長や胴体内タンク復活などの手が加わった結果、重量増でさらに性能は落ちている……。

キ61-II編集

エンジンをより出力の大きいハ140に換装し、翼内にホ5を搭載可能なように主翼を再設計、火力強化、速度向上、高高度性能改善、さらに製造整備の容易化を目指した。

武装はホ5を4門またはホ5とホ103を2門ずつ搭載する予定だった。しかし性能は芳しくなく量産されること無く終わった。

二型(キ61-II改)編集

キ61-IIの主翼を一型丁のものに戻したもの。武装はホ5とホ103を2門ずつ搭載するが一型丁より装備弾数が増えている。

重量が355kg増えたが、エンジンが好調であれば高高度の速度は(日本機の割に)非常に優秀であった、また上昇性能も一型丁よりは良くなっており、上昇中の三式戦一型を、後から離陸した二型が追い抜くこともあった。急降下性能も非常に良く、四式戦や五式戦よりも優れていた。そのため本土防空戦でも少なくない活躍をしており、兵士からもP-51に引けを取らないのではと評価されている。しかしハ140は金属材質の低下などもあり、製造と品質に問題が発生しまともに送り出すことができなかった。ただし、検査に合格したハ140は概して好評であり、故障も少なく整備もハ40と同じで(工具を曲芸的に扱う必要があるが)整備しづらい事はないとの評価であった。


なお、機銃を37mmモーターカノンとして搭載する案、エンジンを更なる改良型であるハ240に換装する案もあったが、いずれも机上の検討に終わっている。三式戦の風防は後方視界に難があったファストバック式風防であったが、末期に製造された機体は後方視界が利く水滴形風防を採用した。


性能編集

三式戦闘機は軽戦闘機・重戦闘機の区分にとらわれない、中戦闘機として計画された。このため両方の特徴をほどよく併せ持っている(軽戦:格闘型 重戦:一撃離脱型)。アスペクト比の高い長大な主翼により、高高度性能にも比較的優れていた。

卓越した急降下性能を活かしてP-38を振り切ったり、P-40相手には優勢に戦い、P-47には一撃離脱をされない限りは同等に戦えた。

「一撃離脱戦法で攻撃を加えた後急降下で離脱する米軍機に食いついて撃墜する」など。他の日本機にはあまり見られない活躍も見せている。


しかし、この特徴は連合軍戦闘機と比べても似通ったものとなり、米軍パイロットからは「零戦や隼ほど小回りが利くわけじゃないし、日本機にしてはやや速いが、P-38P-51ほどじゃない。あらゆる面で米軍機に劣る」「もっとも食いやすい日本機」という低い評価を下されている。

一方で、沖縄戦や本土防空戦、鹵獲機のテスト飛行では高く評価されており、飛燕は毀誉褒貶のある機体と言える。


そして、三式戦の性能面での最大のウイークポイントが上昇力である。もともと過度に頑丈な設計の上、改修の度に重量は増加。フル装備の上に増槽タンクまで付けると、護衛する爆撃機よりも上昇率が悪く置いて行かれたことさえあった。

この上昇力の不足は戦争後期のB-29迎撃において顕著となり、せっかく強化した武装や防弾装備を外して軽量化し体当たりを敢行、機体を捨てて落下傘降下するという戦術がとられるようになった。


どうしてこうなった!!編集

もちろん、最初から出来が悪ければ制式採用されるわけがない。本家DB601エンジンを乗せた試作一号機は速度・旋回性・操縦性いずれも良好、テストパイロットをして「こんなバランスの良い舵の機体には乗ったことがない」と言わしめる、陸軍幹部を有頂天にさせる出来栄えだった。

傑作機が駄作機となってしまった要因、それは実戦装備を積んだことによる重量増と機体バランスの悪化、そして本家DB601をコピー出来ず額面割れを起こしたエンジン。

(バランスを整えようとして乗せたバラストがさらに足を引っ張った。)

陸軍が恋焦がれた液冷エンジン。

それは当時の日本には到底手の届かない、オーバーテクノロジーの塊だったのである。

(皮肉な事に、新技術であるジェットエンジンの方が稼働率が期待されたという)



起死回生の一手編集

二型において、エンジンの製造がまったくもって振るわず工場外に首なし機体が200余機も並んだ、というのは前述したとおりである。これに対する対策が、エンジンを「ハ-112II(海軍名:金星62型)」へ換装することだった。このエンジンは日本軍にとって馴染み深い空冷エンジンであり、信頼性も1945年次でも高く、ハ40はもとよりハ140を上回る馬力を持っていた。

空冷エンジンへの換装と補器類・バラストの取り外しによりパワー・重量増・機体バランス全てのネックが解消された機体は、本来の素性の良さを取り戻した。

完成した機体はテストで良好な成績を示し、すぐさま既存の首なし機体への適用が命じられた。エンジン不調の既存機からも改造されたといわれ、あわせて400機余りが戦場へ送られた。実戦部隊の隊員からも「に近い、思い通りに動く機体」と高評価。この五式戦闘機が、帝国陸軍最後の制式戦闘機である。


生産数編集

最終的に(五式戦闘機に改造された分を含め)各型合計でおよそ3200機弱が製造されたといわれる。これは陸軍戦闘機において4番目の製造数だった。

現存機編集

まともな機体は唯一、二型試作機の17号機が国内に現存している。

この機体は終戦当時日本陸軍航空審査部所属で多摩飛行場(別名・福生【ふっさ】飛行場。後のアメリカ空軍横田基地)に残っていたところをアメリカ軍に接収されたものである。しばらくの間横田基地に展示され、1953年に日本航空協会に譲渡された。

その後、各地で展示されたが展示状態が悪くボロボロになった。そして1962年一旦アメリカ軍に引き渡され立川基地にて大規模なレストアが行われ、1963年に日本航空協会に返還された。その後は航空自衛隊岐阜基地にて保管管理されるも再び全国各地で展示され、1986年から知覧特攻平和会館で展示されていた。

2015年に生みの親である川崎重工に引き取られ大規模なレストアが行われることになった。神戸市での展示の後、2018年からはかかみがはら航空宇宙科学博物館で恒久展示されている。


なお過去には嵐山美術館に於いて、高知県沖から引き上げられた胴体前部と主翼桁のみが展示されていたことがある。


また、オーストラリアでは川崎重工の現役社員及びOBの協力を得て、飛行可能復元を目指している一型がある。


ほかに、アメリカ、ロシアにいくつかの残骸が保管されており、ニューギニアの森の奥には当時のまま忘れ去られた残骸が残っているとのこと。


なお、三式戦闘機は知覧飛行場から50機が特攻機として出撃しており、一式戦闘機四式戦闘機同様に知覧と縁の深い飛行機でもある。(現存機は知覧にいたことはないが。)

登場作品編集

艦隊これくしょん編集

本機は陸軍の機体であるため、当分は実装されないものと思われていたが、グラーフ・ツェッペリンが「メッサーシュミットに似た機体」について言及。そして2016年春イベントにて新機能「基地航空隊」と共に実装された。


名前は「三式戦 飛燕」。艦娘には搭載不可能で、基地航空隊にて運用可能。スペックに対空+8を持つほか、艦戦にない対爆+1、迎撃+3というパラメータを持っている。


また同時にネームド装備である「三式戦 飛燕(飛行第244戦隊)」も実装された。帝都防空を目的に調布で活動した飛行第244戦隊がモデルである。スペックは対空+9、対爆+3、迎撃+4となっている。

WarThunder編集

日本ツリーに一型甲、乙、丙、丁と2型にキ100が、米軍には鹵獲機である一型乙、中国には終戦後接収した一型乙が登場する。


関連イラスト編集

成層圏の燕 キ61-II型後期生産機三式戦

別名・表記ゆれ編集

飛燕

関連タグ編集

五式戦闘機

外部リンク編集

Wikipedia「三式戦闘機」

陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち

インターネット航空雑誌ヒコーキ雲(サイト内に現存機の戦後の画像が掲載。)

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