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B-29

びーにじゅうく

太平洋戦争で有名になった日本国民の仇敵。B-17よりさらに飛行性能が優れており、特に航続距離が長い。当時としては非常に先進的な航空機であり、当初は「海を越え南米を爆撃できる爆撃機」として開発が進められていた。愛称は「スーパー・フォートレス(超・空の要塞)」。他にも「白銀の悪魔」などの多数の異名がある。
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概要編集

アメリカボーイングが開発した、アメリカ陸軍(当時)の爆撃機

スーパーフォートレス」の愛称がある。

開発は第二次大戦前から始まっており、当時の最新鋭機である。大戦後期、日本各地を空襲した機体として知られており、特に初期の中国大陸からの直接攻撃は航続距離の関係でこの機だけが遂行できた。wikipediaのB-29の記事とは、重複を避けることに留意して記述する。


大出力のレシプロエンジンを4基搭載する大型機ではあるが、後継には更なる大型機であるB-36が配備されて、大戦後は『中型爆撃機』に格下げされた。


孤立主義と爆撃機編集

アメリカは孤立主義の強い国家である。

これは建国当時から脈々と受け継がれているもので、当初は「ヨーロッパ的な古い空気」を嫌がって新大陸へと渡った『フロンティア精神』と表裏一体のものだった。


つまり古い因習や風俗を嫌い、新しい価値観を新しい土地で作ろうという精神に近いだろう。

(このあたりはどうにも表現が難しい)

さらに砕くと、『そっち(ヨーロッパ)の事情なんて知りません。こっちは好き勝手します』という、特に「モンロー主義」と呼ばれるものである。


これは1823年にアメリカ議会に提出されたもので、

・ヨーロッパの紛争には介入しない

・南北アメリカにある他の植民地には干渉しない

・南北アメリカの植民地化はこれ以上承認しない

・独立の動きがくすぶる旧スペイン領への干渉は許さない

という概要である。

一言で言えば、『アメリカ大陸の事はもう放っといてくれ』という宣言だ。


この外交方針は長らく維持されており、第一次世界大戦の時もアメリカは干渉しなかった。これが破られるのはUボートによる「無制限潜水艦作戦」で、『ルシタニア号事件』が起こってからである。死亡した1198名の乗客の中に、128名のアメリカ人が居たのである。この事件をきっかけに1917年、アメリカ第一次世界大戦に参戦。翌1918年に終戦するまで戦争に参加した。


だが、終戦してからも外交の基礎は変わらなかった。『出来る限り他国の戦争には関わらない』という基礎である。また第一次世界大戦は最初で最後の世界戦争であり、「もうこれ以上大きな戦争は起きっこない」との観測も支配的であった。それ以上に「戦争はこりごりだ」との世論も強く、ウィルソン大統領の『国際連盟樹立』に繋がった。


だったのだが、肝心のアメリカは連盟に加入しなかった。『連盟に加入なんかしたら、他国の戦争に巻き込まれるじゃないか!』これが当時の議会の考えであり、孤立主義(一国平和主義とも)の継続とも言えた。


しかし、アメリカ政府(ホワイトハウス)は危機感を捨ててはいなかった。それがB-17であり、納税者には『アメリカに侵攻してくる侵略軍を撃滅するため』と説明された。アメリカの海岸線は長大で、そのすべてを取り巻くための鉄道網は今なお不完全である。B-17は沿岸砲台の代わりとして説明され、少なくとも議会は説得できていた。

(それでも「高価すぎる」として批判されていたが)


このB-29はその改良・発展型として開発された。B-17は『侵略軍に対する防御要塞(防御砲台)』だったが、このB-29では流行の「戦略爆撃理論」を導入して『敵本土を直接爆撃し、戦争継続を困難にさせる空中要塞』とされた。


仮想敵は中南米に植民地を抱える列強諸国である。イギリススペインフランスといった欧州列強と睨み合った時代から一世代経ていたが、『世界恐慌をきっかけにヨーロッパが新たな干渉を始める』という予測は、当時でも妥当だと考えられたのだ。


前置きが長くなってしまったが、これでようやく本機の解説に移れるというものである。


空飛ぶ技術博覧会編集

B-29には1930年代後半の最新技術が惜しみなく投入されている。例えばB-17で取り入れられた新要素(排気タービン・重防御)はすべて取り入れられ、これらに機内を完全機密・完全与圧にして、リモコン機銃を防御銃座に取り入れている。これらはどれを取っても当時の最新技術の結集であり、最高傑作だった。


付け加えるならば、当時(戦間期)までのアメリカの工業技術は過小評価されていた。

『アメリカは文明世界の片田舎』と見なされていたのだ。

開拓時代のイメージそのものだったのだが、その後の発展で一つだけ見過ごされていた。

『新大陸では自動車が生活道具になった』という事である。


これは大きな相違を生んだ。

その国の工業技術レベルの基準ともされる自動車の普及は工業技術の発展を促し、庶民の生活も向上させるものではあったが、自動車が発明された欧州はそれほど広大ではなく、交通網は自動車の黎明期は普及していた馬車、鉄道でまだ充分で、『自動車は金持ちの道楽専用』とみなされていたからだ。

しかし、広大で鉄道の敷設状態も満足ではなかった新大陸では自動車は輸送・移動手段に不可欠な生活道具となっていき、『貴族・金持ちの道楽』に留まる事は許されず、資金さえあれば誰でも自動車を買える物となっていた。


象徴的な出来事は1908年の『T型フォード』発売である。

労働者の給与で買える自動車の登場である。この登場は大きな生産設備を必要とし、これがまた工業技術の発展を促した。生産工場の労働者にも恩恵があった。


自動車を作って売る。

売れて儲けが出る。

儲けたので給与が増え、工場労働者も自分の自動車を買う。

また儲けが出る。

そしてその過程で技術も発達・進化を遂げていった。


まさに発展のスパイラルである。

こうして、欧州にすら負けない程にアメリカでは工業技術が発達していったのである。


再び話が逸れてしまったが、B-29にはこうして培われた工業技術の粋が集められている。

排気タービン一つとっても細かい技術発展の結集であるし、しかもこれを大量に生産できて、かつ一定以上の性能を保証されている。全ては工業技術の高さなのである。

これらが注目されなかったのは、単にヨーロッパが偏見を持っていたからである。

ちなみにこのターボチャージャー、アメリカの高い冶金技術を以てしても未だ手に余る代物であり、実は使い捨てに近い耐久性の物を自慢の工業力に物を言わせて数多く供給することで毎回の出撃をこなせるようにしていた。


だが…当初はB-29の生産は難航した。初期生産分が100機ほど引き渡されても、R-3350エンジンが意外と故障しやすかった他、機体側でもエンジンナセルが空気抵抗を減らそうと絞り込みすぎており、冷却能力に余裕がなかった。

エンジン火災に付きまとわれた機体でもあり、試作1号機もエンジン火災事故で墜落し、地上の食品工場の人なども含め30名もの犠牲者を出している。

中国に展開させる予定の部隊に割り当てられた初期ロットの機体100機ほどは、稼働率が0%近いという散々な有様で、業を煮やしたアメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将が強権でカンザス州に機体を集め、工員や技師も集め、修理や改修を緊急に行わせ、ようやく一定数を送りだせたというエピソードもある。


モデル341編集

1940年1月29日、アメリカ国内の航空機メーカーは

・最大速度400mph(644km/h)で

・往路に1tの爆弾を搭載し、

・5333マイル(8582km)飛行できる

長距離爆撃機の計画案を1か月以内に提出するように求められた。


ボーイングが提出したのが「モデル341」という計画案である。

この計画案は、後のB-29に非常に似通ったもので、徹底的に空気抵抗を抑え込むため、B-17のようにコクピットが一段高くされていない。このため機体表面にも突起物がほとんど無く、非常にスマートである。この計画案は他社を差し置いてトップで提出され、試作される事になったのである。


他社も黙ってはいなかった。

ボーイングに続いてロッキード、ダグラス、コンソリデーテッドと開発案を提出し、それぞれ試作・試験がされるようになった……と、ここでロッキードとダグラスが揃って脱落。


どの会社も開発が難航し、自社で研究を重ねていたボーイングだけが順調に進行したのだ。

唯一コンソリデーテッドだけがB-32を完成させたものの、トラブルが続出し、解決に奔走する内に第二次世界大戦は終結寸前となっていた。


B-32「ドミネーター」編集

前述のとおりトラブルが続出して実戦投入は大幅に遅れた。

中でも与圧装置が不調で、高高度飛行ができなかった。


B-29の方が先に完成・実戦化したため、主に練習機(機上作業練習機)として生産されることになる。だがB-29をそのまま使った方が便利で、しかも高高度飛行が出来ないのでは何の練習にもならないので発注は大幅に減らされている。


開発・生産元である「コンソリデーテッド航空機社」は1941年末に「バルティ航空機社」と合併し、「コンソリデーテッド・バルティ航空機社」(のちに略してコンベア)となる。B-32の実績のためか、はたまた新規出直し企業としての面子を守るためか、1945年8月18日に2機が関東上空の偵察に沖縄から投入されている。


だが、海軍・厚木基地から出撃した4機の集中攻撃を受けて1機がエンジンを損傷。

1名戦死・2名負傷の損害を出しながら辛くも帰投したが、これが唯一の実戦となった。この戦いの詳細は軍事機密とされ、B-32による東京偵察の事実は長らく謎といわれていた。

(この戦闘には坂井三郎も参加している)


が、実際には「終戦間際に要らんコトやって死人まで出した醜聞を秘密にしたかった」というのが実態だったらしい。厚木基地をかすめるコースをとった時点で(日本側の)自衛が成立することになり、さらに死人まで出してしまっては言い訳ができる訳もなかった。関係者には口止め料代わりの勲章がばら撒かれ、こうして最後の醜聞は関係者の死に絶える約50年にわたって封印されることになったのだった。よほど機密性の高いことをしていたからではない。単に醜聞だったのである。


XB-32が3機・生産型B-32が75機・練習機型であるTB-32が40機と、

B-29の生産数に比べるとささやかな数だけが完成している。


『超・空の要塞』来たる編集

これまで示してきたように、B-29は先進的な機体である。

エンジンは9気筒星形を2列重ねにした18気筒。さらに排気タービン(過給機)が装備されており、成層圏の巡航も可能。また、当時珍しかった与圧システムを採用し、機内の乗員区画はすべて1気圧に与圧されており、普段は酸素マスクや防寒着が要らない。これだけでも驚くべきものだが、防御銃座にはリモコン機銃まで採用されている。


どれだけ凄いのか。

ほかの国には出来なかった位に凄いのである。

(防御用リモコン機銃はドイツのMe410でも採用されたが)

リモコン銃塔、かつてはあんまりに当たらないのでB-17で一度ボツになったシロモノである。

(E型の初期で搭載されたが、後期型から有名なボール型有人銃塔になった)

ただしB-29にはなんと敵機を照準レティクルに捉えると自動的に偏差射撃を行う、アナログ・コンピュータによる高性能な弾道計算装置が使用され、驚異的な命中率を誇っていた。

これにより日本側の迎撃機はB-29と同高度までたどり着くのが困難なだけでなく、例え近づけても強烈な対空砲火を浴びることになり、おいそれとは接近できなくなった。

この照準用アナログ・コンピュータというものは、例えば軍艦の主砲射撃用などには戦前から使われており、日本の軍艦も装備している。しかしこれを爆撃機の銃塔の照準用に1機の爆撃機に5台も積んでいる所がこの機体の恐ろしい所である。


ちなみにこのリモコン機銃の本体自体は夜間戦闘機のP-61にも同じものが搭載(照準コンピュータは無し)されており、B-29への供給を優先するため、P-61では一部の機体がリモコン機銃無しでロールアウトしている。


B-29とB-29Aがあるが、これは工場が違う他にも内部構造が変更され、生産性が向上している。夜間爆撃用にレーダーを搭載したのがB-29Bで、さらにエンジンを換装したB-29Cも計画されたが、これは実現しなかった


対日戦の成績編集

B-29の「作戦回数から見た延べ機数(ソーティ)」では、アメリカ側の記録では33401機が出撃して485機が失われ、損耗率は1.45%程度と極端に低くなっている。

特に9000m以上の高高度で侵入した場合、高高度性能が低い日本機では急上昇して相手を迎撃できる高度に上がったうえで迎撃出来るのは短時間で、会敵も困難で、出来たとしても一撃を加えた後に排気タービンでエンジン出力がほぼ変わらない高速のB-29を追尾するだけでもやっとといわれ、高射砲第一次世界大戦レベルだったので砲弾は届かないか、届いてもそれは間近に迫った短時間のみで阻止が困難だった、と言われる。

(有効射高が大きい三式12糎高射砲は数が少なく、久我山だけは当時最新鋭の五式15糎高射砲が配備されたが、これも2門のみ)

もっともB-29も高高度でのジェット気流に悩まされ、目標地点上空に達しないものや、故障で引き返す機体が相次いだという。


一方で「実際に投入された機体数(スコードロン)」では、損耗率は約20%となる。八幡空襲で航空特攻を受けて戦死したロバート・クリンクスケールズ中佐など爆撃隊長クラスにも戦死者が出ており、余裕綽々で任務をこなしていたというわけではない。

B-29自体、エンジンが不完全で火災事故などが絶えなかった(主にエンジンナセルの狭さによる排熱不良や排気タービンに関連した火災)


B-29はB-17を超える装甲を持ち、機体を貫通するような大穴が開いたり、尾翼の殆どを失うような大損害を受けても無事帰投するなど、機体自体の頑強さに磨きがかかっていたが、後述する機体の特徴から被弾するとB-17より脆いこともあった。

のっぺりと長い機体に与圧キャビンが仇となって、の貧弱な12.7mm機銃2丁でも当たり所によっては空中分解する危険があった。実際に乗員が吸い出されかけた事例もあり、隣の搭乗員が大急ぎで駆けつけ、引き留めてようやく命拾いした事例もある。この様子は僚機からの写真でも残っている。

雷電(20mm機銃4門装備)に襲い掛かられた時など、クルーは恐怖のどん底に叩き込まれたという。

実際、日本側にもB-29の被弾時の脆さは認識されてしまっていた。特に主翼付け根が弱点とされた。ただ、日本側は「このあたりに酸素タンクがあるので被弾すると破裂しさらに火災が起こる」と思いこんでいたのだが、実際には「高アスペクト比の主翼の荷重がもっとも集中するところなのでここに被弾すると空中分解の危険性が高い」だった。

この為、日本軍戦闘機が執拗にここを狙うため、日本側が撃墜にまで至っていないと判断した機体も、帰路で強度が限界に達し洋上で墜落・喪失というケースも多かった。


また東京湾に爆撃高度(おおむね8000m以下)で侵入した時などは高射砲弾もよく集まってきたという。東京に関して言えば、爆撃直後に離脱コースを取っているときがもっとも危険で、高射砲弾は集まってくるわ雷電(海軍・厚木基地所属)や鍾馗(陸軍・柏基地所属)は逆さ落としに突っ込んでくるわで、気が気じゃなかったらしい。


それでも高いレベルで作戦行動を維持し続けたのは一重に高度にシステム化された乗員育成プログラムと、高い練度の維持・そして何より乗員や整備員の献身的な努力の賜物である。技術的な事ばかり注目されるが、詰まるところアメリカは「人材」という面でもこの機体に相応しいレベルだったのである。


一方、逆に人的資質に頼りがちとされる日本は逆に、B-29が日本本土空襲に投入される時期には、すでにオホーツク海沿岸部の一部を除いて電波警戒機(レーダー)の警戒網が沿岸に張り巡らされていた。

この電波警戒機はよく、「高度や機種識別機能もなかった」とされるが、超短波警戒機乙は警戒・捜索用受信機(タチ6)と高度算定用受信機(タチ20)が別ユニット扱いだっただけである。実際にはタチ20はタチ6の送信波を共有している。

ついでに言うと、機種識別なるものは相手の機体が出している信号(トランスポンダ)によって行っている。現代においてもこれが基本であり、ましてや第二次世界大戦中には、レーダーの側で受動的に識別するシステムなど連合国にもなかった。

この他にも黒潮部隊と言われる徴用した漁船からなる第22戦隊によるB-29監視の哨戒網が鳥島と小笠原諸島の間に配置され、対空レーダーも配備したこれらの早期の情報は本土防空に大いに役立ったが、それ故にアメリカ軍機、潜水艦による攻撃も激しく、碌な武器も速力もない第22戦隊は大きな犠牲を出し、硫黄島が陥落した後の4月30日に監視は終了となり、本土沿岸に後退している。


フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の出来るだけの早い日本本土攻撃の要望により、1944年6月13日にインドから中国の成都に、5日にタイのバンコクを爆撃したばかりの第20爆撃集団が進出した。そして15日のB-29による日本本土初回空襲では北九州の日本の防空圏への侵入に成功した63機は高射砲以外は僅かに屠龍8機の迎撃を受けたのみで、損失は高射砲・屠龍に撃墜された機も含む7機であった。これは夜間爆撃で、日本軍の迎撃は限定的だろうと2000~3000mの低高度で行われたレーダー爆撃であり、目標の八幡製鉄所への命中弾はなくアメリカ側を失望させるものであった(この時、第一報は済州島に配備されていた超短波警戒機乙で、その後本土で警戒網を張り巡らせていた超短波警戒機甲にこの情報が引き継がれ、1時間以上にわたって追尾され続けている。ただ当初は敵味方判別が出来ず、味方機より高速な事から敵と判断したという)。

また、補給はインドからヒマラヤ山脈を越えて空輸する状況で、この時点ではまだ続々と送り込めるほど生産数も爆弾も燃料も物資も揃っていなかった為に出撃数の約1割の損失を出した今回の状況が続くのなら10回出撃すれば壊滅どころか確実に全滅で、それ以前に備蓄燃料を使い切って当分出撃出来ない状態であった。だが、この初空襲はB-29の日本側の予想以上の高性能も相まって宣伝効果は抜群で、日本側には大きな衝撃を与え、アメリカ側は日本本土への本格的な爆撃が行われた事に士気を高め、また過剰な期待と牽制作戦の為に、燃料・物資不足に悩まされながらも日本本土だけでなく満州、スマトラへの爆撃にまで7月から8月初旬まで駆り出されて4回の夜間爆撃を行うも戦果は少なかった。

日本本土への3回の夜間爆撃では損害のみで目標にほとんど爆弾が命中しなかったことから、同年8月20日の北九州爆撃では昼間高々度爆撃を実施したが、防空体制を整えた日本側は82機という出撃したB-29より多い戦闘機により、7000mで侵入したB-29に対して8000mの高度で迎撃する事に成功した事もあってB-29は61機中14機の損失を出し、損害率23%という以後も含めての出撃したB-29最大の損害率を出したものの、48時間後には復旧したが目標の八幡製鉄所には大きな被害を与える事が出来た。

この為にアメリカ側は、日本軍も模造紙に銀箔を張る形で使用していたレーダーを反射するのに必要な長さを持つアルミ箔(チャフ)を散布するという単純で効果的な方法で日本側のレーダーを欺瞞することになった。(因みにこれを大規模にアメリカに先駆けて使用したのはイギリスで、当初はドイツ側の報復を怖れ使用を憚っていたが、マイクロ波の研究が進み、アルミ箔と敵機との判別が出来るレーダーを開発し普及させ、それに対してドイツ側最新鋭レーダーの性能が自軍の旧式レーダーと同じ程度でアルミ箔と敵機の判別が出来ない事を確認した上で1943年7月より「ウィンドウ」と称して使用を始めゴモラ作戦で大規模に使用してドイツ側の大半のレーダーを無力化しての夜間爆撃でハンブルクを灰燼にした。後述のようにドイツはこれへの対応策の一つとして探照灯を用いての目視での迎撃ヴィルデ・ザウを行った)

中国からの日本本土爆撃は東京は航続距離の半径外であり、当初から指摘されていたようにインドからヒマラヤ山脈を越えての空輸による補給も困難で効率的ではなく現場は物資不足に悩まされており、マリアナ諸島より第21爆撃集団が日本本土を空襲するようになるとその活動意義は低下し、1945年1月には中国の基地は放棄されて第20爆撃集団はインドに移り、3月末にマリアナ諸島に移転するまでそこで東南アジアの日本勢力圏への爆撃活動に従事した。


1944年11月24日にはマリアナ諸島に展開する第21爆撃集団のB-29による本格的な東京初空襲が行われ、進入に成功した94機に対して日本側はそれ以上の100機以上の戦闘機を迎撃に出す事に成功したが、高度9500m以上のB-29に対しては高高度性能が低く排気タービンもない日本軍戦闘機の迎撃は困難で、対空砲火も殆どが届かず、B-29は2機を損失したのみであった。しかし、前述のようにB-29もジェット気流に翻弄され、目標に辿り着けたのは24機に過ぎず、肝心の目標の武蔵野工場への損害は軽微なものだった。

以後もB-29の白昼の高高度からの爆撃は損害は軽微ながらも、12月13日、18日の名古屋爆撃で計8機の犠牲で、特に18日の爆撃は雲の立ち込める中のレーダー爆撃であったが両日とも2割に近い損害を工場に与え、1945年1月17日の神戸空襲で損失機無しで目標のおよそ4割を破壊したもの以外は肝心の目標に大きな損害を与える事は出来ない事が繰り返されていた。


1945年1月20日にそれまでの高高度爆撃による成果の少なさにより解任されたヘイウッド・ハンセル准将の後任として、第20爆撃集団司令官として物資・燃料の不足に晒されながらも目標破壊の成果を出し続け、1944年12月18日には漢口を焼夷弾爆撃で灰燼にした実績を持つカーチス・ルメイ少将が第21爆撃集団司令官に就任し、彼はこの状況を目の当たりにして改善の必要性を感じ、日本側の防空能力を再分析した。

そして欧州戦線に比べ日本軍の対空砲の数の少なさを考慮して、3000m以下での低高度での焼夷弾(ナパーム弾)を主とした低空無差別爆撃に方針を転換。ただし昼間では迎撃機・対空砲による犠牲も当然ながら増大すると考えられ、夜間爆撃とされた。また少しでも爆弾を搭載する為に尾部銃座以外の機銃を外しての軽量化が図られたが、流石に乗員からの不満で東京大空襲の後は戻された。だが、夜間爆撃では弾薬は下部の銃座にしか配給されなかったという。

高高度爆撃機としてのB-29の利点を捨てるような措置ではあったが、ジェット気流を受けない事から燃料の節約にもつながり航続距離は伸び、日本の広大な地域を灰燼にさせ、大勢の民間人を殺傷すると共に工業地帯に壊滅的な打撃を与える事となった。

現場の人員は当然「我々を的にする気か」と憤慨していたが、蓋を開けてみると3月10日の東京大空襲は侵入した279機のうち夜間とはいえ低高度で日本軍高射砲も充分活躍できる状態でありながら損失は14機に留まり、東京の多くを灰燼とするなどルメイの想定は見事に正鵠を射ていた。

低高度爆撃でも損耗率が有意に上昇することはなく、一方で比べるまでもない圧倒的な戦果を実現したのである。低空爆撃戦術はこれ以降も続行され、日本人の目にそのシルエットを焼き付けることとなったのである。

その低さたるや、燃え盛る炎によってB-29が照らし出され、乗員は時計を読むことが出来たというほど。この為、日本側では何とか爆撃前に何機かだけでも落とせないかと、灯火管制の中止が提案されたことがある(なおドイツは本当にやった)。

日本側が夜間低空爆撃戦術への対応策を取る前に戦果を拡大しようと東京大空襲後の9日間の間にルメイは大阪、名古屋、神戸への計四回の爆撃で総計1595機を出撃させ、9365tもの爆弾を投下し、損失も計7機に過ぎなかったが、それ以後一か月間爆撃は中止された。

理由は焼夷弾を使い切ったからであり、ルメイは補給担当の海軍側に「これまでの四倍の出撃を行う」「爆撃が出来ないと魚釣りをするだけになるが、それでいいか?」と圧力をかけ、一か月後にはほぼ補充させたという。

また沖縄で日本軍の特攻に苦しむ海軍の要求で九州の日本軍航空基地攻撃を4月上旬から5月中旬までB-29を計2000機程出撃させて爆撃するというB-29は戦略爆撃機であり戦術爆撃機ではないと考えるルメイには不満な任務(案の定日本側が機体を退避させるか偽装して隠す為に効果的ではなかった)を与えられるという戦略爆撃の阻害となるような事もあったが、終戦間際にはアメリカ側にとっての日本の都市目標は破壊され無くなっており、次は鉄道交通網を狙う予定であった。


またルメイは敵国家の産業を破壊して屈服させる従来の戦略爆撃を信奉する陸軍航空隊上層部があまり乗り気でないなか、空中より機雷を敷設するスターベイション作戦に熱心で、第313爆撃航空団のほぼ全てをこれに従事させ、1944年3月27日から始まったこの作戦で1529回の出撃で1万2135個の機雷を敷設し、およそ30万トンの船舶を沈め、朝鮮半島と日本との海上航路、国内海上交通を寸断・麻痺させ、その代償は15機で、第21爆撃集団の出撃機数の6%を下回る効果的な作戦となり、この作戦がもっと早く行われていれば潜水艦のシーレーン破壊と相まって、それだけで日本を屈服させたという説もある。


1945年6月以降になると宣伝ビラも撒かれるようになり、その内容は日本人が悪いのでなく軍部が悪いのだから軍部の政権を倒して戦争を止める新政権をつくればどうかなどの宣伝工作文が日本語で記されたり、他にもヤルタ会談や投下された原子爆弾に触れた内容のものがある。その書き方は堅苦しい高圧的なものや丁寧なもの、印刷も手書きのようなものや活版のようなものと様々で、写真や絵などが印刷されていた。また6月以降には余裕が出来たのか(6月には日本陸軍は本土決戦に備えて戦闘機を温存するようになり、敵戦闘機との空戦を避け、護衛が居ない場合のみにB-29を迎撃するようになったていた)全部か数カ所と曖昧な書き方にしているものの空襲する予定の都市名が記され、避難するように勧告しているものもあった。

しかし、この宣伝ビラは拾うと罰則が科せられるものであり、非国民とされない為にも殆どが破り捨てられたり、警察・警防団に提出された。


硫黄島攻略の理由は、長大な距離を帰還するB-29のうち損傷・故障などで緊急着陸を要する機体の着陸基地とする為と、硫黄島からならP-51の護衛がつけられるからであるが、ルメイが太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥を騙したためニミッツはルメイが大嫌いになった。

(ニミッツは「日本海軍が壊滅した時点で日本はいずれ干上がるのだから、民間人に多大な犠牲の出る戦略爆撃などやるべきではない」と主張していた。しかしながらドイツが降伏し早くも勝利ムードに国民が浮かれている状態で、長々と日本人の餓死を待つ猶予はアメリカには無かった)


本土防空戦ということで日本側にも手練れがそろっており、雷電P-51を撃墜する強者もいたが、伝説的な戦闘をいくら語ろうと戦略的見地から見れば誤差の範囲である。エースパイロットらの奮戦が米軍の損耗許容値を超えることは無かった。

そしてP-51が護衛に就くようになるとB-29を攻撃する機会も減っていった。

また司令官のルメイは日本軍戦闘機を侮っており、硫黄島占領もP-51がB-29を護衛できる事より、日本軍のマリアナ諸島爆撃での中継基地としての機能とB-29監視施設の排除、B-29緊急着陸の為に硫黄島が欲しかったようである。実際、彼は満足な航法装置を持たない単座戦闘機のP-51が航法誘導を必要とする事からお荷物にすら感じており、硫黄島にも戦闘機を置くよりB-29を配置した方が良いとするなど現場の将兵の気持ちは省みず護衛は必要ないと考えていた。

日本陸軍の思想は元々防空においても攻撃的であり、敵がこちらを爆撃出来る地点に航空基地を持つならそれを攻撃して占拠、海から航空母艦から攻撃するのであればそれを撃沈すれば良いという考えが強く、防空戦闘機・高射砲の為に限りあるリソースを割くぐらいなら攻勢の為に回すべきという考えが強かった。1941年には防空専門の航空隊、そして要地地上防空隊も編成されたが実体は伴っておらず、直接防空対策はあまり考えれていなかった。

だが1942年からのドイツ本土防空戦の報告より、漸く防空体制の強化が始まったが、本土防空体制は全体的に見れば満足できるものではなく、現場の将兵は不足するものをあるものと努力で補おうと努めて奮闘したが、戦闘機の護衛も無い爆撃機のB-29に対しての戦闘機の迎撃数もB-29の本土空襲当初のまだ出撃数が少ない時期ですら相手の出撃数を超える事は少なく、首都防衛では100機を超える迎撃を行うも、その分だけ地方の防空は疎かになり、それも後半にはB-29の数は欧州戦線で動員された爆撃隊ほどの数では無いにせよ迎撃機の数を上回るなど防空戦闘機の数は不足気味で、高射砲の数も充分ではなく、レーダーや部隊を誘導する電波装置などの電子兵器も技術的に見劣りする面があった。

1945年5月24日、25日に東京に対して夜間爆撃を行ったB-29に対して140機を超える戦闘機も迎撃し、24日には出撃数525機のうち17機、25日には出撃数470機のうち26機損失という絶対数ではB-29に対して最大の損害を与えるも、ルメイは戦果を考慮すれば出撃数の5.5%の損失など許容範囲とし、残念ながらルメイに戦闘機の護衛は不要との考えを改めさせるほどの損害を日本軍は遂に与えることは出来なかった。

戦後の研究では高射砲のほうが有効に機能していたのではないかという分析もある。ドイツでもアドルフ・ヒトラー総統が本土防空戦で爆撃機と護衛戦闘機の数に圧倒されたドイツ空軍戦闘機に失望し、高射砲の方が役に立っていると判断している。また心理的にも、戦車乗りが敵戦車よりも上手く偽装されて待ち伏せる敵対戦車砲の方を怖れたように、搭乗員にとって撃たれて存在に気付く高射砲のような見えない相手の攻撃は、戦闘機のように見える相手の攻撃より恐怖を抱かせるものであった。

ただ戦闘においては相手に圧迫をかけて両者に対処する余裕を失わせることは重要であり、その対策をしなければならない点では戦闘機の迎撃が不要だったという結論にはならない。


なにより、B-29の乗員も人間である。体当たりも辞さない、アメリカ側の価値観と現状では狂気としか思えない戦術で迎撃してくる日本軍の前に、B-29の低い損耗率など、実際のクルーにはなんの気休めにもならなかった。


対日作戦におけるB-29の最終的な損害は、終戦までの総生産数約2,500機に対して、損失485機約20%に達し(実際には戦線に送られる前の機体も相当数あったはずなので、作戦参加機の数で言えばもっと高い比率になる。また日本軍により撃墜されたのはこのなかの凡そ300機という説が強い)、戦死者は3,041名に達した。

B-29は日本の敗北の一因を作った高性能の爆撃機であったのは疑いないが、それを活かしたのは新型機故のトラブルを抱えながらも2500機で出撃機数総計33401機もの出撃をこなし、単純に計算すると平均1機あたり13回以上の出撃を可能とした、豊富な物量だけでなくそれを有効に運用するロジスティックにも長けた無敵の超国家アメリカだからできた作戦だった面もある。




超・空の『偵察機』編集

B-29には偵察機型がある。これはF-13と呼ばれており、爆弾の代わりに偵察カメラを搭載している。実はこのような改造は現地で多く為されていたのだが、F-13は本格的な改造を受けた機体である。


B-29から改造された機体がF-13、B-29Aから改造された機体はF-13Aという。改造機数は117機とも118機とも。主な機体はトウキョウローズ、ヨコハマヨーヨーなど。


戦後のB-29編集

アメリカ編編集

第二次大戦が終結した後も、B-29は継続して爆撃任務に用いられた。だが朝鮮戦争MiG-15に惨敗を喫してしまい、以降は優秀な飛行性能を買われて空中給油機として活躍する事となった。各種エンジンのテスト機や、X-1やXF-85といった実験機の母機にも使われた。また、ワシントンMk.1としてイギリスにも貸与されている。


のちにエンジンを換装して性能向上を図ったB-50(元B-29D)も設計された。最大速度で60km/h程度向上しているが、既に後継機としてB-36が活躍しているせいか300機余りしか生産されていない。

(B-29の生産数は3970機)

おそらく高価なB-36の補助だったのだろう。エンジンもB-36と共通にされている。こちらも後に空中給油機となっている。


さらなる発展として胴体を大型化し、主翼やエンジンなどを流用したC-97輸送機が888機生産。こちらも後に空中給油機として使用され、KC-135に交代するまで主力を務めた。


そして更にC-97を民生用に再設計したのが「最後の大型レシプロ旅客機」と呼ばれた旅客機ボーイング377ストラトクルーザーである。

豪華な設備が話題を呼んだが、当時の旅客機としてはあまりに大型・高価すぎたため、56機しか生産されなかった。

日本での採用会社は無かったが、パンナムやBOACなど英米の主要航空会社で使用され、羽田にもよく飛来していた。

この機体を更に改造したものが大型貨物輸送機「プレグナントグッピー」とその後継機である「スーパーグッピー」で、「スーパーグッピー」は今も現役で飛行する唯一のB-29一族の機体である。


ソビエト編編集

ソビエトでも戦後、B-29を基にした爆撃機を開発している。

これは被弾して帰投が困難になり、やむなくウラジオストクに不時着したもので、本来ならばすぐに返却しなければならないものだった。だが、なにぶん戦争遂行中で忙しく、なにより開発の難航していた「4発重爆撃機」の生きた参考資料である。なんやかんやと言い訳をしつつ、とうとう自分のものにしてしまった。


こうした無茶が通ったのはルーズベルト大統領が親ソビエトの立場をとっており、ガミガミと返還要求しなかった事や、ソビエトが「不時着した後、乗員は勝手に逃げ出した。そうなると機体と乗員を保護・返還するという正式な手順は満たしていない。なら機体はあくまで拾い物であるから、むしろ迷惑料に寄越せ」と主張していっこうに返す気配を見せなかった事がある。

(ただし、ソ連の立場上正式に返還することはできなかったのも事実である。と言うのも、この時点で米ソは同盟国だったが、ソ連はまだ対日参戦前で、対日戦に参加してソ連に不時着した米軍機や搭乗員を保護したりすると日ソ中立条約違反になってしまうからである。もっとも、すぐ後に自ら破るのだが)


こうして分捕った(?)B-29は3機にもなり、分解して設計図におこすと早速生産に取り掛かった。完成したものがツポレフTu-4「ブル」で、詳細はTu-4の項目に譲るが、文字通り瓜二つのコピー品である。


あまりに完璧にコピーしようとしたあまり、B-29の設計には本来存在しない、製造途中のミスで開けられたドリル穴までコピーしてしまった(被弾痕をパッチでふさいだ跡という説も)という逸話も伝えられている位である。

一方で、ヤード・ポンド法で設計された機体をメートル法で再設計したことによって誤差が生じて重量が500kgほど増えたり、インテグラルタンクや前後乗員区画を結ぶ与圧トンネル等のコピーが上手くいかなかったりしたため、航続距離は本家より短くなった。


B-29に準じた爆撃機ではあったが、1950年に勃発した朝鮮戦争でB-29が大損害を負ったので、こちらも自動的に時代遅れとなってしまった。

だが、朝鮮戦争でMig-15を用いてB-29を過去のものにした中国空軍もTu-4を入手しており、エンジンをターボプロップエンジンに換装するなど、独自の改修を施して運用していた。

後に中国空軍はこの改造Tu-4を更に改造、レーダードームを装備した早期警戒機型KJ-1を開発している。だが、こちらは文化大革命の混乱に巻き込まれて計画中止となってしまった。


本家アメリカが新型のジェット爆撃機を開発・配備していくのと違い、Tu-4はそのまま新世代機のベースとなっていった。民間機に発展したTu-70、Tu-75、Tu-80に引き続き、ターボプロップエンジンを採用したTu-95が登場したのだ。


見た目の上ではすっかり別物になってしまったが、機体尾部の機銃座にはよく似た面影を残している。時代は半世紀経ってしまったが、Tu-95は同時期に開発されたB-52とともに、現在も世界の空を飛びまわっているのである。


関連動画編集

動態保存されているB-29。爆弾が展示用のダミーに換装され、通信機器にGPSが追加されている点以外、ほぼ当時のまま。

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