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He177

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はいんけるひとなななな

第二次世界大戦中にハインケル社(ドイツ)が開発し、ドイツ空軍に採用された爆撃機

→ 詳細はwikipedia:He_177_(航空機)

概要

ハインケルHe177グライフ。(グライフはグリフォンのこと)

第二次世界大戦中にハインケル社が開発し、ドイツ空軍に採用された爆撃機

アメリカ本土に戦略爆撃を行う事を目的として開発されたが、双子エンジン(ダイムラー・ベンツDB606)の不調に悩まされた。

ウラル爆撃機計画

1930年代前半、ドイツ空軍省は来たるべきソビエト連邦との戦争を想定していた。

当初、モスクワを占領すればソ連は降伏すると見込まれていたが、スターリンの命により工業施設がウラルに移動させられるのを目の当たりにしたヴェーファー首席補佐官は、戦争勃発とともにウラル方面の工業施設が生産の鍵となり、戦争の帰趨をも左右すると予想した。

1935年、この予想に沿った爆撃機開発計画は「ウラル爆撃機計画」と名付けられ、ユンカース社とドルニエ社に開発・試作機製作が命じられる。

3月16日、ヒトラー政権がヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、ドイツの再軍備を宣言。軍備拡大を進めていく事になる。

アメリカ爆撃機計画

1936年4月、計画を主導していたヴェーファーは航空機事故で死亡し、「ウラル爆撃機計画」は中止となる。

同年6月3日、空軍省は「A爆撃機計画」を開始。「A」はアメリカ本土を意味する符丁である。

「A爆撃機計画」は、「ウラル爆撃機計画」よりもはるかに厳しい要求であったが、ハインケル社の案、P.1041が採用されることとなった。

ヴェーファー後任のケッセルリンクは敵中枢を長躯爆撃することに価値を感じておらず、爆撃機は双発の中型機で十分と考えていた。

また、空軍で急降下爆撃機支持の一大派閥を築いていたエルンスト・ウーデットの影響も受け、開発される爆撃機にはことごとく急降下爆撃能力をつけさせた。

1937年11月5日、P.1041に公式の型式番号He177が与えられる。

この時、空軍省でエルンスト・ウーデットとエルンスト・ハインケルの対談が行われた。急降下爆撃能力の追加が求められ、ハインケルは難色を示したものの、空軍の要求が通り、これは設計を一段と困難にした。

逆方向の「A爆撃機」

なお、アメリカでもアメリカ本土からドイツを直接空襲する計画が進められており、6発機B-36が設計された。「A爆撃機計画」では「エンジン6基の爆撃機が必要」とされたが、その試算に合うものになった。

設計

エンジン

He177を欠陥機とした最大の原因である。

DB601を横向きに2基連結したDB606エンジンにより、4発機でありながらエンジンナセルは一つで、見た目は双発機となっている。

2つのエンジンのクランクシャフトを1つのギアボックスに接続し、1つのプロペラを回すことで空気抵抗軽減と推進効率上昇を目指した構造で、ロールス・ロイス「ヴァルチャー」を採用したアブロ・マンチェスターのようなものである。

過熱

空力を最重視していたため、エンジンカウリング内部に余裕がほとんど無いことに起因する。中央部に熱がこもり排熱が追いつかなかった。そのため潤滑油が発火点に達して火災を起こす。2つのエンジンの間には、軽量化のため防火壁を設けておらず、どちらかが火を噴くと両方とも火災に至るのだった。

またエンジン室内でオイル配管と排気管がかなり接近しており、排気管の熱が伝わって発火する事もあった。燃料配管もエンジンに近いので漏れると発火につながった。

エンジン設計の変更が為され、新型のDB605を双子エンジンとしたDB610の採用で信頼性を上げた。

クラッチ

最後まで問題となったのが、2つのエンジンを接続するクラッチだった。2つのエンジン回転差がクラッチに負担をかけ、生じた衝撃に耐えられず破損してしまう。

エンジン過熱は原因を特定し、ある程度対処できたが、この問題は最後まで解決のメドが立たなかった。

ただでさえ中央部が冷えにくい上に、当時の技術ではエンジン個体のバラツキが出てしまう。エンジン温度や水温、回転計を見た上で、その日の調子を加味して空燃比や燃料流量などを調整する必要があった。

回転銃座

防御用の回転銃座はコクピットから遠隔操作され、人間が入る必要はなく、小型化して空気抵抗を少なくできる。だが、よく故障し命中精度は低かった。

実用化に成功した機にはB-29があるが、同様の理由でボツになりかけた。

表面冷却装置

ラジエーターを機体表面と一体化させたもので、空気抵抗を抑える効果を期待できるが、一体化させたラジエーターに被弾しやすくなる欠点がある。ラジエーターに被弾すれば焼きつきを起こしてエンジンが停止するので、この方式は軍用機には向かない。

結局、通常のラジエーターを設けることになった。

操縦性

He177A-1は1942年8月のテスト飛行の結果から、胴体を160cm延長しヨーピッチの安定性を改善した。

空気抵抗が少ない事などから4発機より軽快で、イギリス海軍テストパイロットエリック・ブラウンは、戦時中に鹵獲されたHe177A-5を操縦し、「驚くほど軽い」と自著で述べている。

主脚

He177のランディングギアはどういうわけか、左右のエンジンナセル下部に2つ独立した主脚を取り付けた、左右合計4つ並列という構造だった。

当然1つが壊れると離陸できなくなるが、専用のこの主脚の供給も不足がちで、しかも機構の数は倍で整備性でも重量でも悪影響を及ぼした。

運用実績

Bf109をはじめ他機種にエンジンが優先供給され、エンジンなしのHe177が工場に溢れた。初飛行は1939年だったが、ようやく実戦配備に就いた頃には1942年になっていた。

運用機数は少なく、部隊編成は遅れ、スターリングラードで包囲された第6軍への補給任務に輸送機として使用されたが、機体が大きいのにペイロードHe111とほぼ同じだった。負傷兵の輸送にも役立たなかった。

1944年1月からのイギリスへの夜間爆撃(シュタインボック作戦)では13機が出撃したが、1機はタイヤがバーストして離陸を中止、8機はエンジンのオーバーヒートで帰還、残り4機の内2機が撃墜された。

作戦中に使用された機体の平均損耗率60%に対し、He177は損耗率10%で作戦に参加した爆撃機の中で最良の結果を残したが、それは目標まで飛べた機が少ないためでもあった。

Hs293フリッツXといった誘導爆弾搭載機としても運用された。

試行錯誤を続けるうち、1944年後半には搭載量と技術面で優れた機体として最も信頼できる爆撃機となっていた。しかし、それ以降は燃料が不足し、He177を運用することはできなくなった。

派生型

運用初期から双子エンジンに問題があるのは明らかで、4発機のHe177B、He277、He274がそれぞれ設計された。

He177Bは空襲で失われ、He277は戦局の悪化とともに中止される。残るはフランスの元ファルマン社工場に委託したHe274だけだった。

1941年に委託された後、1943年まで着工されず、1944年7月に飛行試験の準備ができたが、連合軍が迫っていた。試作機をドイツに輸送するのは不可能で、ハインケル社員は機体を破壊して帰国した。

破壊されたHe274は戦後に修理され、フランス軍の標識をつけて各種エンジンテストに用いられた。

登場作品

八八艦隊海戦譜:最終巻で重要な働きをする。

架空戦記では、誘導爆弾母機として登場することが多い。

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