B-47
びーよんなな
B-47は、例えばB-25などの後継にあたる「中型爆撃機」として開発されている。
同時期に開発されていたB-36はあくまでレシプロエンジン機として開発されていたが、こちらは純粋にジェットエンジンを動力源とし、より高性能をめざしたのが特徴である。
現在みられるような姿になるのはもう少し後の話で、ナチスドイツが敗北し、先進的な空力研究、この場合「後退翼」に関する研究データが明らかになってからとなる。こうして変更された型はモデル448と呼ばれ、1945年6月からモックアップ製作が始まっている。
結果としてはかなり多く生産されており、その数は2000機以上となった。これは更なる発展型B-52の開発に手間取ったこと、ソビエト爆撃機部隊の勢力が思ったより大きそうだったので、数合わせのために生産が続けられた事による。
(これは『ボマーギャップ』と言われたが、実際には多分に「盛って」いた。)
爆撃機型以外にも、電子偵察機型や気象観測機が作られた。
1944年、アメリカ陸軍航空隊(USAAF)では、次世代の動力源としてジェットエンジンに注目し、これを搭載した爆撃機を国内メーカーに提案させた。書類審査の結果、ノースアメリカン、コンベア、ボーイング、マーチンの4社が残り、最終的には完成機で採用を決める事になった。
ここで発注されたのは
ノースアメリカン:XB-45「トーネード」
コンベア:XB-46
ボーイング:XB-47「ストラトジェット」
マーチン:XB-48
であり、中でもB-45は1944年中に設計が開始されている。
続いて1945年、XB-46・XB-47・XB-48の開発が始まった。これらは総じてB-45より大型で、一段と上の性能を目ざしている。中でもXB-46は完成が早く、同時期(1947年春)に初飛行を遂げたXB-45とは採用を争った。
続いて1947年6月、XB-48が初飛行。それから半年遅れ、ようやくXB-47が初飛行する。
ノースアメリカンB-45「トーネード」
以上4機種の中で最も早くから設計された。もちろん完成も最も早く、他の機種に先駆けて採用・配備されたのだが、あくまで「つなぎ」として採用されていたので退役するのも早かった。
1948年より配備され、爆撃機(核兵器搭載)以外に写真偵察機や標的曳航機としても使われた。「本命」ことB-47が配備されたので1959年にはすべての機体が退役。
ソビエトでも類似の機としてIl-28「ビーグル」が開発された。こちらもTu-16やTu-95につながる過渡期の爆撃機である。
最大速度;916km/h
航続距離:約4100km
参考資料:wikipedia
コンベアXB-46
アリソンJ35エンジンを4基搭載する機で、その滑らかな外見のとおり飛行特性は良好と評価された。代わってエンジンには問題が多く、同じくJ-35を採用したXB-48も不採用となっている。
また、この機の場合『胴体が細すぎて爆撃レーダーを搭載できない』という点も問題になった。結果として「次世代の爆撃機にはふさわしくない」とされ、設計や予算は対地攻撃機計画(別件)に回されてXB-53に発展することになる。
だがこちらの計画も後に中止となり、コンベアが返り咲くには超音速爆撃機ことB-58を待たねばならない。
最大速度:877km/h
航続距離:4260km
参考資料:wikipedia
コンベアXB-53
対地攻撃機計画には当初、XB-46をそのまま対地支援武装に差し替えたような機(XA-44)を製作する予定だったのだが、それでは性能が思ったよりも良くならないという試算結果が出てしまう。
そこでコンベアは新しく設計をやりなおし、前進翼を採用したXB-53を計画しなおす。だがこのあたりでジェット攻撃機計画は中止となり、従ってXB-53もアイデアスケッチの段階で中止された。
マーチンXB-48
以上4機種の中でいちばん垢抜けないスタイルとなったのがXB-48で、見た目の上ではB-26「マローダー」をジェット化したようなものとなっている。
特徴的なのは主翼に間を空けて取り付けられた左右6基のエンジンで、これはエンジンナセル間の気圧差を利用して推進力を高めようとする工夫である。エンジン性能がいまひとつだったのは当然の事として、このために採用された四角形のエンジンナセルは空気抵抗が大きかった。さらに風洞実験ではうまくいったこの3連エンジンナセル構造も、実際にはそれほど効果を生み出さなかった。結果、4機種のなかでは最も性能が低くなってしまい、当然ながら不採用となった。
最大速度:841km/h
航続距離:2900km
参考資料:wikipedia
さて、B-47の完成までには紆余曲折あった。
当初は以上のライバル機と同様に直線翼で設計されていたが、ナチスドイツの敗戦と共にもたらされた最新の空力研究がすべてを変えた。それまでの研究ではどうしても突破できなかった、性能の限界を大きく打ち破る秘密。すなわち後退翼についての研究データがもたらされたのだ。
ボーイングはすでにモデル445(直線翼)開発をだいぶ進めていたのだが、こうした思わぬプレゼントは全てをかなぐり捨てても余りあるほど価値があった。ボーイングがそれまで蓄積した大型航空機建造のノウハウと、ナチスドイツ最新の空力研究はさっそく開発で生かされる事になり、その成果はこのB-47で結実することとなった。
ナチスドイツの研究は後退翼だけではない。
主翼下にエンジンナセルをパイロンで吊り下げるというアイデアもナチスドイツ発である。これによりエンジンの振動は直接胴体まで伝わらず、さらに主翼が曲がり過ぎないようにするマスバランサーのような効果も追加された。こうしてエンジンをパイロンで吊り下げる構造は以降の標準となり、現在でも旅客機等でよく見かけることができる。
同様に研究を参考にしたもの
ここで示されていたのは35度後退翼のものだったので、同じデータを参考にしたF-86も35度後退翼を採用している。
さて、もともとは中型爆撃機の後継として開発されていたB-47だったが、高性能がかわれて戦略爆撃機として活躍していく事となった。
搭乗員の負担
だが、あくまでも「中型」の爆撃機を、そのまま戦略任務に用いるのには無理もあった。なにせ、元をただせばA-20やA-26、B-25のようなレシプロ双発爆撃機の後継だったのである。いままで4~5人で作業を分担していたのを、今度は3人で分担する事になったのだから負担も増えるのも無理はない。
しかも、コクピットは前後に搭乗するタンデム複座式である。たとえば副操縦士が操縦を代わろうにも、後席の視界が悪くて十分に代替しきれない等の不都合は仕方のない事だった。結果、後継のB-52では空気抵抗で不利なサイドバイサイド(並列)方式に戻され、正副操縦士が十分に作業を分担して操縦できるようになる事は、長距離・長時間の作戦にタンデム方式は向いていないと判断されたという事になる。
また飛行性能はともかく、ほかにも長距離・長時間の任務に搭乗員の負担が大きくなる事は看過できなかったらしい。続くB-52では作業を分担する搭乗員が5人に増やされている。
(航法士・防御用電子システムオペレータを追加)
航続距離
また、大陸間爆撃機にしては航続距離が短いのも欠点だった。
元が中型爆撃機だったことを考えれば仕方がない事でもあるのだが、航続距離が約6000kmでは発進基地はヨーロッパに据えるしか選択肢がない。これは後に空中給油が実用化されて上限はなくなるのだが、それでも搭乗員3人では飛び続けるにも限界はあった。これまた続くB-52では16000kmに改善され、空中給油もあいまって世界中無尽に活躍することができた。
エンジン換装による改善の試み
XB-47Dでは航続距離を改善すべく、内側4基のジェットエンジンが2基の燃費のいいターボプロップエンジンに換装されていた。だが元はジェットエンジンに特化して設計されていたので、操縦性や飛行性能などはすっかりバランスを崩してしまった。外側のジェットエンジンも廃して完全なターボプロップ機とする案(XB-55)もあったが、XB-47Dの問題点が解決する見込みもなかったため、2機が製作された同機のテストだけで計画は終了した。ただし、戦略爆撃機にターボプロップを使用する研究自体はその後も続き、B-52の初期案でも同様の案が検討されている。
このほかジェットエンジンのまま出力向上を目指すXB-47C案もあったが、エンジン選定の過程で最終的にB-52と同じエンジンを同じ数だけ装備する案(B-56)になってしまい、それならB-52を生産したほうが効率的だということになりボツになった。
冷戦は冷戦のまま、つまり両者とも本格的な武力衝突を起こすことがなかったため、B-47が実力を披露することは無かった。だが爆撃機ということで搭載力はあったので、爆弾倉を利用して電子情報解析室を組み込み、電子偵察機として利用されている。
(当然、情報収集用アンテナも増設した)
これがRB-47B/E/K/Hの各型で、アンテナを増設して爆弾倉に解析室を「ポン付け」している。これはあらかじめ爆弾倉の大きさにあわせた解析室を製造していた事による。こうしてRB-47は「航法を間違えて迷い込んだ」ふりをして防空識別圏(付近)を飛び回り、それに反応した無線交信の発信数や内容、戦闘機の邀撃までの時間を計ったりして情報を収集した。「最終戦争」の際、すこしでも見つかりにくい進入口を見つけるためである。
もちろんソビエトもこうした思惑は承知しており、場合によっては問答無用に撃墜したりする事もあった。すべては(いちおう表向きは)戦争に突入しないため、戦争同然の駆け引きを繰り広げていたのである。
B-47B
最初の本格的生産型で、後部胴体側面・下面には核兵器搭載時の離陸に備えた補助ロケットブースター(JATO)の取り付けラックが設けられている。
離陸そのものはこれで問題無くなったのだが、今度はロケットの噴煙が滑走路上にたれ込んで、後続の視界をふさぐという問題が発生し、結局は離陸の効率を重視して『JATOを使わずに離陸、燃料は空中給油で補う』という事になってしまった。のちにE型仕様に改造されてBⅡ型となる。
YB-47C
戦略爆撃機として、B-47はどうにもビミョーな性能だったのは理解していたのか、今度はエンジンを換装して性能向上を目指した型。アリソンJ35-A-23(後のJ71)の4発化案から始まった計画は迷走し、最終的にはB-52が搭載するJ57エンジンをナセルまるごと流用するB-56案に行きつくが、今度はわざわざそこまでする事もないとして計画中止。
XB-47D
戦略爆撃機としてどうにもビミョーな性能をどうにかする案その2。
主翼内側のエンジン2基をターボプロップエンジンYT49に換装し、良くなった燃費分の性能向上を図る。
しかし、ターボプロップエンジンということはプロペラ駆動になるという事であり、元々ジェットエンジン用に設計されたB-47にはムリがあった。試作機2機が製作されたが、飛行・操縦特性はムチャクチャになっており、テスト後にはもはや誰も見向きもしなかった。
その後エンジンをアリソンXT40エンジン4基に換装するXB-55案もあったが、XT40エンジン自体の信頼性は低く、更に性能予測がターボジェット型より劣ることが判明したため、計画中止となった。
B-47E
B-47Bの純粋な発展型で、こちらはB型のエンジンをチューンアップしたもの。
シリーズ最多の1240機が生産されており、B-47の主力ともいえる型である。胴体後半のJATO搭載ラックが無くなって空力的にもスッキリ収まっている。
のちELINT機や写真偵察機のベースにも使われ、北極方面では被撃墜機もある。
情報解析室の中身
なおB-47搭乗員と情報解析室オペレータは完全に分業となっており、たとえばオペレータが何を解析しているかまでは知らされていなかった。
そもそも解析室は爆弾倉内部に据え付けられるために窓もなく、また内部は解析機材で占有されていたおかげで極めて窮屈な空間だったという。もちろん稼動熱も内部にこもりっぱなしであり、こうしたオペレータには尋常ならぬ忍耐が必要とされた。いちおう緊急脱出口も用意されてはいたが、墜落中にただでさえ殺人的に狭いなかで小さな脱出口を潜り抜けることは不可能に近いことだったという。
そもそも解析室そのものがNSAやCIAといった情報機関の持ち物であり、搭乗員は触れることはおろか、見ることさえも許されないのだった。
戦略爆撃機ということで、冷戦中のメディア露出は最低限となっていたが、映画『戦略空軍命令』(1955)の後半は本機の独壇場となっている。
チュール基地に展開する予定だったが低温により内翼部外板(ちょうどインテグラル式燃料タンクになっている部分)が割れ、燃料漏れから火災を起こして墜落事故に見舞われてしまった主人公のホランド中佐だったが、今度は当時の新型爆撃機である本機を嘉手納に空輸する任務を受ける、という展開である。
ちなみにこの時のコクピット内カメラアングルはバストアップに限られており、B-36に比べても狭い印象を受けるが、実際に単座戦闘機なみの広さなのでその印象は間違っていない。もっとも、この映画が公開された3か月後にはB-52の配備が始まり、戦略空軍はより一層の進化を遂げるのだが。
航空自衛隊の創設期に本機やB-66の供与が打診されたこともあった。最も航空自衛隊側は海軍の大型艦上攻撃機A3Dスカイウォーリアの空軍型であるB-66を要望してたのだがどちらも政治的配慮で実現しなかった(B-47は戦略爆撃機扱いなのに対してB-66は戦術爆撃機なので当時の航空自衛隊の状況からすれば後者の方が扱いやすかったのだろう)。
もっとも導入について具体的な話までいったところで当時の政治情勢から国会や国民から反対されるのは目に見えてるので、(ましてや核兵器を運用する戦略爆撃機であるB-47なら尚更であろう)なんにせよ導入は現実的ではなかったのかもしれない。実際にF-100の導入協議で「戦闘爆撃機」という用語を使ったがために「日本に爆撃機は要らない」と一蹴されてしまった例がある。