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F-100

えふひゃく

愛称は『スーパーセイバー』。アメリカ初、ひいては世界初の超音速戦闘機だったが、登場まもなく更なる高性能機が登場して立つ瀬が無くなってしまった。2294機が生産され、4か国に輸出された。名門とまで謳われたノースアメリカンで最後の空軍制式戦闘機である。
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新たなるセイバー

1949年、ノースアメリカンでは新型の戦闘機開発計画が始動していた。
コードネームは『セイバー45』
当時開発中だったF-86の後継機の開発が、早くも始まっていたのである。

この計画では新型エンジンの導入などにより、さらなる高性能を目指していた。
空力にも新たな研究成果が導入されており、一番の目玉はより大きな後退角の主翼である。
F-100では後退角がF-86の35°から45°へと増やされていた。基本的にF-86の後継機として堅実な方向性で設計されたようで、例えばエアインテイクは同様に機首先端に配置されている。

1951年11月、空軍と生産契約が結ばれ、YF-100A(試作機)2機とF-100A(生産機)203機の製造が決定した。F-86の戦果が好評だったせいか、なんと初飛行前の生産契約である。

1953年5月25日、最初の試作機が初飛行に成功。同10月29日には水平飛行にて1215km/h、つまり音速超えを記録した。これは戦闘機としては世界初の快挙であり、もちろん世界記録である。

『セイバー・ダンス』

だが、すべてが順風満帆とはいかなかった。
初期のF-100は垂直尾翼を低く抑えており、これが安定性を下げていたのだ。

また、主翼よりも低い位置に水平尾翼を配置していたことも原因だった。
上昇の際に尾翼が主翼の陰に入ってしまい、尾翼分の揚力が不足して急激な機首上げを生じたのだ。あるいは、この最中に機体をなんとか安定させようと操作するうちに空中分解を起してしまう。

前者は『セイバー・ダンス』、後者は『イナーシャカップリング』と呼ばれた。
1954年10月12日の事故から原因究明が始まり、同11月から翌2月までF-100は飛行停止に追い込まれた。対策には主翼や垂直尾翼の増積が行われ、当然パイロットにも注意が促されて、ひとまず事件解決となった。

配備と主な派生モデル

1953年の後半から生産機の引き渡しが始まっている。部隊での訓練が終了し、実戦化されたのは1954年9月の事となった。実はこの頃ソビエトではMiG-19が初飛行しており、こちらも後れをとっていない。

そんな事もつゆ知らず、アメリカはF-100を『世界最高性能の戦闘機』と宣伝していた。実際に最高級の性能だったのだが、その後まもなくF-105が登場したり、さらに高性能なF-4が採用された事から発展が続くことはなく、第一線からは早々と退くこととなった。

F-100A

F-100AはF-86に続き、敵戦闘機に対する格闘戦戦闘機として開発されている。試作機からはエンジンも換装され、制式型J57のJ57-P-39に変更された。武装はAIM-9を最大4基、ポンティアックM39機銃4門。

F-100B

別名:F-107「ウルトラセイバー」。F-105に並ぶ戦闘爆撃機であり、競作の敗北者。試作のみ。しかし外観は全く異なるものになっており、見る角度によってはユーロファイターと瓜二つのYe-8のように、信じられないほど未来的である。

F-100C

構造を強化し、主翼にハードポイントを6か所まで増設され、対地攻撃用アビオニクスも追加して戦闘爆撃機となる。空中給油受油装置も追加された。主な武装はA型に加えて爆弾ロケット弾

TF-100C

練習機型の試作機。F-100F開発のたたき台となる。

F-100D

C型の改良型で、低高度爆撃用に改良型アビオニクスを装備。対応武装も増やされた主力生産型であり、ベトナム戦争前半期に活躍した。対地支援(CAS)に用いられる一方、F-105の護衛としても使われたが、続いて更なる高性能機が登場したため、単座型としての発展はここまでにとどまった。

F-100E

前述の理由により開発中止となったF-100Dの改良型。

F-100F

練習機としてパイロット育成に使われる一方、FAC(前線空中管制)機としても実戦投入されている。だがF-100は低空・低速での飛行に向いておらず、この役目はOV-10のような専用機に引き継がれることとなる。

F-100だけでなく、F-105のパイロット育成にも関わった。F-105Fのような「ワイルド・ウィーゼル」にも改造されたが、能力的に不足だったのか、こちらは7機に留まった。

F-100G

レーダー装備型で、エアインテイクの下にレーダーが追加される予定だった。計画のみ。

ベトナム戦争とスーパーセイバー

1964年、「北爆」によりベトナム独立戦争に介入したアメリカだったが、そこで展開された戦争はそれまでの戦争と全く趣の違う、まさに泥沼の戦争だった。想定されたものは全て覆され、戦争はハイテクを駆使したものから、密林の下で人間が血まみれになってお互いを殺し合うものに立ち返った。

そんな中、F-100もまた役立たずになってしまった。
まずは空襲を掛けるF-105の護衛機に駆り出されたが、F-100は対空用の捜索レーダーを搭載しておらず、ミグ戦闘機とはろくに接敵すらせずに終わった。相手がMiG-17だったとはいえ、F-105はバルカンで果敢に対抗したにも関わらず、である。

護衛機としては期待はずれになってしまったF-100は、続いて対地支援に用いられる。
しかし改良されたとはいえ、F-100の搭載機器ではジャングルの下でうごめくベトナム兵を見つけ出すことは出来ず、また飛行速度も速すぎて地上の様子がさっぱり分からず、対地支援にもまったく不向きと判定されてしまった。

こうしてF-100は実戦投入されても、肝心の実戦で「不向き」という欠点が明らかになってしまう。そもそも想定されていた戦争が第二次世界大戦から進歩していないのが問題だった。ベトナムには大規模な空軍は存在しなかったが、そのかわり空軍の目を盗んで行動できる歩兵はいた。この歩兵でもって地上を制圧・占領し、とうとうパリ和平協定(1972)にまで持ち込んで、『戦争の勝敗は歩兵の活躍で決まる』という原則を新たにするところとなった。

唯一の戦果?

一応、空戦で全く戦果が上がらなかった訳ではなく、一度だけMiG-17に損害を与えたことはあった。致命傷となったようだが墜落は確認されず、従ってこの戦果は撃墜認定されていない。


海外組の活躍

フランストルコ台湾デンマークに輸出された。とくにトルコや台湾では実戦に投入しており、損害も出している。

日本での導入

F-100は日本でも導入が検討されていた事があり、ノースアメリカンからは『F-100J』という航空自衛隊仕様機が提案されていた。しかし岸首相(当時)がF-100について確認した際、
「日本に爆撃機は要らん!」という鶴の一声によって採用は見送られた。
(他にもレーダーの能力不足などもあった)

その後F-4が採用され、2012年現在も戦闘爆撃機として飛行を続けている。
もしかするとF-100が航空自衛隊に採用されていた場合、こうなっていたかもしれない。
(ASM-1を2基搭載して「対艦番長」になったF-100が見れたかも?)

『剣』の晩年

華々しいデビューを飾り、『世界初の超音速戦闘機』の名を欲しいままにしたF-100だったが、
時代の移り変わりは激しかった。

1950年代当時はいわゆる『冷戦』の時代であり、軍事力だけでなく科学力でも激しい競争をしていたアメリカソビエトの競争は「初めてのジェット戦闘機」から10年経たないうちに時代を超音速とし、核兵器の登場で戦闘機の在り方も大きく変えていた。

こんな中、「F-86の後継」として開発されたF-100では荷が重かった。当時のレーダーは複雑すぎて1人では扱えず、早くも時代から遅れ始めたF-100の活躍は戦争前半までだった。得意の空中戦で肝心のミグ撃墜も果たせず、近接航空支援(FAC)機としても対空砲火で損害は積み上がった上、『高速すぎて地上の様子がわからない』と、どこまでも不評づくしの残念戦闘機になってしまった。

一つの時代を象徴したF-100だったが、そんな時代もここまでだった。
当初は「F-100」に番号を合わせるため、F-98とF-99はミサイルに割り振ってまで演出された登場だった。
(F-98はのちのAIM-4、F-99は同じくCIM-10地対空ミサイル)

しかし泥臭い戦場は幻想をすっかり洗い流し、登場10年で早くも『戦闘機としては時代遅れ』という現実を突きつけた。電子機器の未発達な戦闘機はお払い箱となり、のちのF-4だけでなく、F-101以降はレーダーが標準装備されて、現代の戦闘機の基礎が築かれる事になる。

さしもの『世界初の超音速戦闘機』も、時代には撃墜されたのであった。

関連項目

ベトナム戦争
A-7:搭載力があって低空・低速も得意と、CASには最適な能力を持った後継機。
F-4:もう一つの後継機。レーダーと搭載力を併せ持つ第3世代機の傑作。

エリア88:主要登場人物の一人ミッキー・サイモンが当初乗機にしていた。

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