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F-104

14

えふいちまるよん

アメリカ・ロッキード社が設計・開発した戦闘機。愛称は「スターファイター」。「最後の(究極の)有人戦闘機」とも。朝鮮戦争での戦訓を調査した上で設計しており、徹底した軽量化を心掛けた結果、推力対重量比や上昇力に優れる機体となった。

「F-104ほど堂々と男根の象徴性を押しだした航空機をほかに見たことがあるかい?」

マイケル・スキナー作「ファースト・エア2」(東京創元社)P195より

『もっと上昇力を!』

F-104はアメリカの傑作戦闘機のひとつ。

時は1951年、朝鮮戦争の最中、ロッキード社のクラレンス(ケリー)・ジョンソンは調査のため、戦地である韓国を訪れた。

『戦闘機に何を求めているか?』という点について、最前線で飛ぶパイロットに意見を求めるためだった。

ケリーの質問について、

パイロット達は異口同音に追跡するためにも上昇力が欲しい』と要望してきた。

中には『そのためには射出座席を無くしたって構わない!』と主張する者まで現れた。

(当時の射出座席はまだ未完成で、単純に信頼できなかった事も大きい)

当時、朝鮮戦争ではF-86でさえMiG-15が上昇して逃げると追跡できず、

そのためにパイロット達は上昇力に優れた戦闘機を求めたのだった。

割れ鍋にとじ蓋

MiG-15は上昇力に優れるが、音速に近づくと操縦不能になる不具合があった。

F-86は急降下で音速を超えても平気だが、エンジンのパワーにあまり余裕が無いので上昇力では負けている。つまりF-86は急降下で逃げられて、MiG-15も急上昇で逃げられたのだ。

両者この戦訓を元に、ソビエトでは急降下でも音速突破できるMiG-17を、

アメリカではこのF-104を開発した。

「最後」?「究極」?

現在F-104は『究極の有人戦闘機』として知られているが、かつては(90年代までだろうか)『最後の有人戦闘機』と言う方がよく通っていた。これは「The Ultimate manned Fighter」という原語を尊重した結果と思われるが、どちらにしても「これ以上に洗練された戦闘機を作るとしたら、そこには人間が乗る余地など無いだろう。だからF-104は有人機の究極なのだ」という意味においては、どちらも同じだと言える。

空軍を動かした要望

調査結果を携えて会社に戻ると、ケリーはさっそく製図板に向き合った。

1952年3月には構想図がいくつか出来上がり、以降は版を重ねるごとに洗練されていった。

空軍も『次の戦闘機は軽量な機体に強力なエンジンを備えたものとする』と歩調を合わせた。

(何よりもパイロット達がそれを望んでいた事も大きいだろう)

1952年5月、空軍は国内の各メーカーに上記のような要求仕様を提示。

1952年11月、ロッキード社からケリーの『スカンクワークス』が開発案を提出。

1953年3月、数ある提案の中からケリーの開発案を採用。契約と共に2機の原型機製作を発注した。

当初は新型のJ-79エンジンに合わせて設計されていたが、

原型機には間に合いそうになかったのでJ-65エンジンに合わせて再設計された。

1954年3月、最初の原型機XF-104が初飛行。

その月の末にはJ-79エンジン装備のYF-104が17機発注された。

1955年4月、YF-104はテスト飛行でマッハ2を記録した。

合わせた歩調のそのあとで

ただし、この変更は競合する他のメーカーからは大顰蹙をかった。

「戦闘機に合わせて要求仕様を作るなんてズルイ!」

と言われてしまったのである。

もちろん結果はロッキードの一人勝ち。

しかし、これは「ロッキードはずるい」というよりも、「売り込みが上手い」と言われるべきかもしれない。

前線のパイロットに要望を聞きに行き、それに合わせて設計したのだから、採用は当然だっただろう。

『宇宙戦闘機』(スター・ファイター)について

前述のように、上昇力に的を絞って設計されている。

最小限の空気抵抗にするため、鉛筆のように細い胴体レーダーからエンジンまでを詰め込んでいる。

主翼もX-3実験機のような小型の台形翼を採用。

この主翼はとても薄いので、地上では整備員がケガをしないように保護カバーがかけられる

薄さをアピールする為に翼で野菜を切ったこともある。(しかもLIFE誌に載せた)

最大速度はマッハ2.2を発揮するが、これでも機体が熱に耐えられないので速度制限されている。

エンジンのパワーそのものには余裕があり、本当はもっと出せるのだ。

イタリア空軍のF-104Sでは機体やエンジンの耐熱限界を高め、マッハ2.4まで出せるようになった。

操縦性はピーキー神経質の一言である。

低速での安定が悪く、高速になれば今度は曲がらなくなるため低空飛行・離着陸中にしばしば事故を引き起こし、未亡人製造機』とまで呼ばれた。戦闘爆撃機として用いた西ドイツ空軍(同空軍は916機のF-104を導入した世界最大のF-104ユーザーであったが、そのうち292機、割合にして1/3弱を事故で喪失している)では、この他にも『空とぶ棺桶』だの『地面に刺さるクギ』などとアダ名された。

西ドイツ空軍への導入に当たっては、エーリヒ・ハルトマン大佐が事故を懸念して反対したが、空軍上層部の不興を買い、退役した。

なお、似たような事例は西ドイツの陰に隠れがちだが、オランダベルギー台湾でもよく発生していたという。

ただし前からは機体が小さく見えるため、パイロット次第では空戦で有利に働ける利点がもある。

故・ロック岩崎氏は模擬戦でF-15を「撃墜」した(ただし初期型のため、F-15側には実質ハンデが付いていた)実績を持つ。

他にもNASAの高速チェイス機F-104Nや、熱圏成層圏のさらに上)での操縦訓練のためにロケットブースターを増設したNF-104も製作され、まさに宇宙に近い戦闘機となった。

射出座席の変遷

余談ながら、

初期の機体は尾翼への接触を懸念して射出座席が下に射出されるようになっていた。

しかし、下方射出方式は低高度での緊急脱出に問題があり、前述の「低速での安定の悪さ」と相まって、離着陸時の事故でパイロットが死亡する事例が続出してしまった。

パラシュートが開く前に地面に激突する)

後に全機が改良された射出座席を搭載し、上方向への射出へと変更された。

防空戦闘機として

このような戦闘機なので『アメリカ空軍防空軍団ではさぞ活躍しただろう』と思われるかも知れない。

実際には防空システムとのリンク機材(SAGEシステム)を搭載するスペースが無く

さらには航続距離が不足して、武装も貧弱なので嫌われたと言われている。

(F-102のE型システムなら搭載可能だが、これはもともとF-86Dの旧型システムなのだ)

事実、1958年2月に運用が開始されたが、1960年には一度退役している。

1963年には復帰しているが、1970年以降に再び退役した。

これはF-106に比べても現役期間が著しく短いといえるだろう。

やはりソビエト流の戦術戦闘機(前線戦闘機)では、本土防空のように長い航続時間や大きい射程、高速を求められる任務は困難なのだ。

事実、ソビエトでは迎撃専用の戦闘機は別に開発している。

戦術戦闘機の役割はあくまで『戦場近くから発進し、戦場上空の制空を行う事』だったのだ。

コンセプトの有効性こそ認められたものの、防空戦闘機としては不適格と判断された。

ソビエトアメリカの防空事情は違いがありすぎたのだ。

このF-104で小型軽量の意義を再確認したアメリカだったが、

『小型は不便』とも感じたようで、続くF-4F-15では再び大型化の道をたどっている。

(大出力エンジンの意義は認められたようだが)

但し国が変われば話は別で、インド・パキスタン戦争では、パキスタン空軍のF-104Aが敵機撃墜の戦果を挙げる働きを見せた。

戦闘爆撃機として

上昇性能を重視して設計されたF-104だが、この構造が招いた意外な『副作用』があった。

翼面加重が高くなったお陰で、低空での速度性能や安定性も高いものとなったのである。そのため、低空を高速で侵入し、精度の高い爆撃を行える戦闘爆撃機としてのF-104の活路が見出された。

だが、航続距離が短いという如何ともしがたい弱点があったため、アメリカ本国でこの特性が活かされることはやはりなかった。

一方で、冷戦の最前線であり、航続距離の短さをあまり気にしなくていいヨーロッパ諸国は、こぞってこの特性に注目した。

こうしてF-104は、制空戦闘のみならず戦闘爆撃もこなすマルチロール・ファイターとして、西ドイツ、オランダ、ベルギー、ギリシャなどなど、ヨーロッパの多くの国々で採用されていくこととなる。在欧部隊向けに採用したカナダは、レーダーの対空機能をオミットし、純粋な対地攻撃機としてF-104を運用していたほどである。これらの国々のいくらかでは、有事の際にはF-104にアメリカが管理する核爆弾を搭載し、ワルシャワ条約機構軍へ戦術核攻撃を行う事になっていた。

ただ、安定性の高さは機動性の悪さの裏返しでもあり、ヨーロッパの天気の悪さも相まって、低空侵攻を行うF-104の事故率を高くする一因にもなってしまっている。

輸出戦闘機として

このF-104は輸出戦闘機としても用いられた。

当時のアメリカの戦闘機としては比較的簡単な戦闘機であり、高度な機密を搭載する余地が小さいのも大きいだろう。これは元になったミグ戦闘機にも共通している特徴である。

(あくまで『他のセンチュリーシリーズに比べて』の事であり、のちにF-5が登場するとそちらが多く用いられた。第一、ショックコーンの事だけでも大きな機密だったのだ)

このようなシンプルさ故に、気候が厳しい国でも維持ができるのだ。

現にヨルダンパキスタンといった、乾燥の厳しい国にも輸出されている。

また、そうでなくとも高い上昇力は魅力であり、迎撃戦闘機として日本でも採用された。

ちなみにドイツでは先制核攻撃で被害を受けた際に滑走路を使用せずに打ち出す研究がされていた。ロケットブースターを用いてカタパルトから打ち出し、戦術核弾頭を東側へと運ぶという方法である。ちなみに配備直前に戦略変更で放棄された。

実機が作られることは無かった、二個一で双胴化したものや主翼にラムジェットエンジンを追加したものも計画されていた。

主な派生型

XF-104A

1954年3月4日初飛行。

最初に2機が完成した飛行試験用の原型機で、エンジンにはJ65を搭載している。エアインテイクにショックコーンが無く、F-104にしては胴が短い寸詰まりな恰好となった。このエンジンにはアフターバーナーが無かったため、緩降下以上でないと音速を越えられない。

基本的に非武装だが、2号機だけは搭載試験のためM61バルカン砲を装備した。

YF-104A

YF-104ではエンジンにJ79が間に合い、本格的な先行生産機となった。17機製作。1956年2月27日にF-104で初めてのマッハ2を記録した。

F-104A

153機製造。1958年~1960年にかけてアメリカ空軍防空軍団向けに配備され、その後は63年~68年まで州兵空軍で運用された。台湾・ヨルダン・パキスタン向けにも輸出。

F-104B

26機製造。操縦席後方の燃料タンク・M61バルカン砲を廃して教官席に替えた複座練習機型で、安定性と操縦性のためにベントラルフィンと舵翼を拡張している。

練習機といえども、レーダー等はそのままなので実戦能力がある。

F-104C

77機製造。防空軍団向けのA型と違い、こちらは戦術空軍向けの戦闘爆撃機型。

レーダーFCSが交換された他、左右主翼にハードポイントが追加されて計5カ所に増えた(胴体中央・主翼2か所ずつ)。

ベトナム戦争にも派遣されたが、MiG-21を撃墜するどころか空中衝突で2機が失われた。

F-104D

21機製作。F-104Cを複座仕様にしたもので、基本的にF-104Bに準じる。

F-104DJ

20機製造。F-104Dの航空自衛隊向け仕様で、最初の1機がロッキード・バーバンク工場で製造された他は日本国内でノックダウン生産された。

F-104F

30機製造。西ドイツ空軍向けの練習機型で、レーダーFCSは未装備なので実戦能力は無く、エンジンもF-104Gと同型とされている。

F-104G

各国で1127機が製造された最多生産型で、設計は大幅に刷新されている。舵翼は複座型同様の大型のもので、ブレーキや車輪、フラップも新設計された。その刷新ぶりからロッキード社では当初「スーパー・スターファイター」と呼んでいた。

TF-104G

172機製造。F-104G規格の練習機型で、バルカン砲と燃料タンクの一部を教官席に替えているのはF-104B/Dと同様。

F-104H

電子機器を簡素化した輸出専用の計画型。おそらくF-5への対抗だが、生産されず。

F-104J「栄光」

210機製造。F-104Gを基に航空自衛隊向けとした迎撃機専用型。

最初の3機は輸入、次の29機は三菱重工にてノックダウン生産、残り178機はライセンス生産機となった。

怪獣映画などでお馴染みだが、迎撃専用なので実際には対地攻撃能力を持たない。

このためか怪獣映画の代名詞でもあるゴジラシリーズには一切登場していない。ただし『今日もわれ大空にあり』で収録したエンジン音がウルトラシリーズで防衛チームの戦闘機のエンジン音に流用されている。

F-104S

246機製造(内1機は軍への引き渡し前に墜落し、それで計245機製造とされることが多い)。安定性強化のためベントラルフィンが2枚に増えている。全機フィアットでライセンス生産されたF-104最終型で、内40機はトルコ空軍へ引き渡された。

レーダーFCSがナサールR-21に更新されてAIM-7の運用能力を備えた他、主翼ハードポイントが増設されて合計9カ所となった。AIM-7は増設された主翼外翼パイロンに搭載する。サイドワインダーと併せてミサイル搭載数は計8発を数える。戦闘爆撃飛行隊向けの機はバルカン砲が残されており、迎撃飛行隊では撤去している。

F-104シリーズの中では最も強力な機で、イタリア空軍の象徴的な戦闘機である。

F-104S-ASA

150機改造。1985年に初飛行。レーダーFCSをルックダウン・シュートダウン能力のあるR-21G/M1に換装し、IFFと火器管制装置を更新。これでAIM-9Lに対応し、敵機を前方からでもロックオンできるようになった。

またAIM-7の他にも、これをセレニアで改良した「アスピーデ」ミサイルが加わるようになった。しかし運用開始までにシステム統合は間に合わず、AIM-7だけにしか対応していない機をASA-1、アスピーデに対応した機をASA-2と呼んで区別していた。最終的には全機がASA-2仕様へ改造されている。

F-104S-ASA/M

1995年~1997年にかけて49機改造。主に航法装置を換装し、GPSにも対応した。対地攻撃関連の装備は全て廃され、全機バルカン砲を持たない迎撃機仕様となっている。

イタリア空軍にて2004年10月まで運用され、F-104シリーズの中では最も長寿となった。

CF-104

200機製造。1961年に初飛行したカナダ空軍向けの戦闘爆撃機型で、カナデア・セイバーの後継機である。ブラックバーン・バッカニアミラージュ3フィアットG.91グラマンF11F-1F「スーパー・タイガー」F-5F-105等と共に比較検討された。実はカナダ空軍としてはF-105が欲しかったのだが、ロッキードとカナデア社との関係でライセンス生産が許される事から、F-104が採用を勝ち取った。

カナダ空軍でCF-104は核攻撃を担当し、これはNATOとの関係から空軍の一部をヨーロッパへも派遣していた為。「最終戦争」の際はアメリカより「貸与」された核兵器を搭載し、低空飛行にてワルシャワ条約機構軍に核爆弾を見舞うはずだった。このため対空用FCSのナサールR-24やバルカン砲が撤去されている。

しかし、このため任務はもっぱら低空飛行が求められ、西ドイツ空軍同様に事故・墜落が続出した。25年に及ぶ運用のなかでクラスA事故(機体全損および高額修理・死亡者あり)は110件起こっており、F-104を低空で運用する困難さが窺い知れる。

のちに核攻撃任務は解除され、ナサールR-24やバルカン砲は1972年以降順次戻されている。意外なことに、カナダ空軍ではCF-104にサイドワインダーを搭載する事は無かった。1982年からは役割をCF-18に譲って退役が始まり、1987年には完全に姿を消すことになった。退役した機はトルコ空軍に引き渡され、1995年まで運用された。

CF-104D

F-104Dのカナダ空軍仕様。全機ロッキードで生産され、エンジンにはオレンダでライセンス生産されたJ79-OEL-7を搭載している。

CL-704 VTOL

1962年に提案された攻撃・偵察機で、翼端にRB181リフトジェットエンジンを7基収容するエンジンポッドを備える。リフトジェットを備えるとおりVTOL機であるが、より高性能で現実的なハリアーが開発されるとあって中止された。

なお、画像検索すると中止もむべなるかな、と思える模型の写真が出てくる。

CL-1200-1「ランサー」

F-104の発展型で、60年台後半に始まった「国際戦闘機計画」において、輸出市場でF-4F-5ミラージュ3MiG-21などに対抗すべく開発されていた。

F-104の製造治具を最大限に利用しつつ、しかし設計は別物に進化している。たとえば主翼は約1.5倍拡大されて肩翼配置となり、尾翼はT字型配置をやめて垂直尾翼・水平尾翼は別々に配置された。胴体も76cm延長されて燃料タンクを新設している。こうした設計のおかげで、おりから問題となっていた着陸速度は半分にできるだろうと推定された。エンジンはJ79のままだが、よりチューンアップの進んだものを搭載する。

しかし、国際戦闘機計画で採用されたのはF-5-21(のちのF-5E)であり、CL-1200は実機が制作されないまま計画終了に追い込まれた。

X-27(CL-1600)

CL-1200を基に、NASAでマッハ2.5以上の環境を観測すべく提案された実験機。

こう言っては何だが、実際にはケリー・ジョンソンがCL-1200の開発資金を得るため、政府に資金を支出させるべくでっち上げたのがX-27の正体で、結局は型番が交付されただけで終わった。

CL-1200-2「ランサー」

1972年の「軽量戦闘機計画(F-16YF-17が出品されたアレ)」に提案されたCL-1200の発展型で、エンジンはTF30を予定していた。エアインテイクは2次元式の四角いものになり、出力は従来のJ79から6割も向上するものとされた。

しかし、新しい目的には新しい設計が有利なのは明白なことであり、旧態依然のCL-1200はまたも注目を集めることなく終わった。

CL-1400

その後アメリカ海軍向けのコンペに提案されたもので、CL-1200を基にX-27の後部胴体を組み合わせたものらしい。今度はYF-17に敗北して製作されず。

『レッド・バロン104号』(N104RB)

RB-104とも。これは民間人のダリル・グリーナマイヤーの手によって製作されたF-104原型の特別機である。

この機は無数のF-104の部品から組み上げられており、コクピット部品のいくらかは最初に墜落した生産型F-104から、尾部(尾翼以外)はカリフォルニアのスクラップ置き場から、尾翼と前輪の一部はフロリダのスクラップ屋をハシゴして手に入れ、昇降舵の作動機構・射出座席のレールはエドワーズ空軍基地の事故機置き場から、リノ・エアレースでの出会いからも部品を譲り受け、更に細々とした部品は空軍放出品の鉄くずの山から使えそうなものを探した。

高度が上がって空気が薄れると共に操縦性は低くなるため、この対策のためグリーナマイヤーはNASAと交渉、8つの姿勢制御装置を備えたNF-104A用の機首を譲り受けた。エンジンはF-4J用のJ79-GE-10を海軍から手に入れている。

このように『レッド・バロン号』は数多のスクラップを寄せ集め、完成した。

1977年、FAA規定の3kmコースにて1590.4kmを記録。さらにYe266Mから高度記録(37,650m)世界一の座を取り戻す予定だったが、1978年に車輪のロック不良により着陸は困難と判断された。まだ安全な内にパイロットは射出を選び、機体は墜落して失われた。

ところで、エースコンバット7にもRB-104のようにスクラップから再生されたF-104が登場する。こちらの再生主は女性で、その後本編にも関わるメインキャラクターである。

参考

Lockheed F-104 Starfighter

Canadair CF-104 Starfighter

Aeritalia F-104S Starfighter

CL-1200 Lancer

関連タグ

U-2

「F-104ほど堂々と男根の象徴性を押しだした航空機をほかに見たことがあるかい?」

マイケル・スキナー作「ファースト・エア2」(東京創元社)P195より

『もっと上昇力を!』

F-104はアメリカの傑作戦闘機のひとつ。

時は1951年、朝鮮戦争の最中、ロッキード社のクラレンス(ケリー)・ジョンソンは調査のため、戦地である韓国を訪れた。

『戦闘機に何を求めているか?』という点について、最前線で飛ぶパイロットに意見を求めるためだった。

ケリーの質問について、

パイロット達は異口同音に追跡するためにも上昇力が欲しい』と要望してきた。

中には『そのためには射出座席を無くしたって構わない!』と主張する者まで現れた。

(当時の射出座席はまだ未完成で、単純に信頼できなかった事も大きい)

当時、朝鮮戦争ではF-86でさえMiG-15が上昇して逃げると追跡できず、

そのためにパイロット達は上昇力に優れた戦闘機を求めたのだった。

割れ鍋にとじ蓋

MiG-15は上昇力に優れるが、音速に近づくと操縦不能になる不具合があった。

F-86は急降下で音速を超えても平気だが、エンジンのパワーにあまり余裕が無いので上昇力では負けている。つまりF-86は急降下で逃げられて、MiG-15も急上昇で逃げられたのだ。

両者この戦訓を元に、ソビエトでは急降下でも音速突破できるMiG-17を、

アメリカではこのF-104を開発した。

「最後」?「究極」?

現在F-104は『究極の有人戦闘機』として知られているが、かつては(90年代までだろうか)『最後の有人戦闘機』と言う方がよく通っていた。これは「The Ultimate manned Fighter」という原語を尊重した結果と思われるが、どちらにしても「これ以上に洗練された戦闘機を作るとしたら、そこには人間が乗る余地など無いだろう。だからF-104は有人機の究極なのだ」という意味においては、どちらも同じだと言える。

空軍を動かした要望

調査結果を携えて会社に戻ると、ケリーはさっそく製図板に向き合った。

1952年3月には構想図がいくつか出来上がり、以降は版を重ねるごとに洗練されていった。

空軍も『次の戦闘機は軽量な機体に強力なエンジンを備えたものとする』と歩調を合わせた。

(何よりもパイロット達がそれを望んでいた事も大きいだろう)

1952年5月、空軍は国内の各メーカーに上記のような要求仕様を提示。

1952年11月、ロッキード社からケリーの『スカンクワークス』が開発案を提出。

1953年3月、数ある提案の中からケリーの開発案を採用。契約と共に2機の原型機製作を発注した。

当初は新型のJ-79エンジンに合わせて設計されていたが、

原型機には間に合いそうになかったのでJ-65エンジンに合わせて再設計された。

1954年3月、最初の原型機XF-104が初飛行。

その月の末にはJ-79エンジン装備のYF-104が17機発注された。

1955年4月、YF-104はテスト飛行でマッハ2を記録した。

合わせた歩調のそのあとで

ただし、この変更は競合する他のメーカーからは大顰蹙をかった。

「戦闘機に合わせて要求仕様を作るなんてズルイ!」

と言われてしまったのである。

もちろん結果はロッキードの一人勝ち。

しかし、これは「ロッキードはずるい」というよりも、「売り込みが上手い」と言われるべきかもしれない。

前線のパイロットに要望を聞きに行き、それに合わせて設計したのだから、採用は当然だっただろう。

『宇宙戦闘機』(スター・ファイター)について

前述のように、上昇力に的を絞って設計されている。

最小限の空気抵抗にするため、鉛筆のように細い胴体レーダーからエンジンまでを詰め込んでいる。

主翼もX-3実験機のような小型の台形翼を採用。

この主翼はとても薄いので、地上では整備員がケガをしないように保護カバーがかけられる

薄さをアピールする為に翼で野菜を切ったこともある。(しかもLIFE誌に載せた)

最大速度はマッハ2.2を発揮するが、これでも機体が熱に耐えられないので速度制限されている。

エンジンのパワーそのものには余裕があり、本当はもっと出せるのだ。

イタリア空軍のF-104Sでは機体やエンジンの耐熱限界を高め、マッハ2.4まで出せるようになった。

操縦性はピーキー神経質の一言である。

低速での安定が悪く、高速になれば今度は曲がらなくなるため低空飛行・離着陸中にしばしば事故を引き起こし、未亡人製造機』とまで呼ばれた。戦闘爆撃機として用いた西ドイツ空軍(同空軍は916機のF-104を導入した世界最大のF-104ユーザーであったが、そのうち292機、割合にして1/3弱を事故で喪失している)では、この他にも『空とぶ棺桶』だの『地面に刺さるクギ』などとアダ名された。

西ドイツ空軍への導入に当たっては、エーリヒ・ハルトマン大佐が事故を懸念して反対したが、空軍上層部の不興を買い、退役した。

なお、似たような事例は西ドイツの陰に隠れがちだが、オランダベルギー台湾でもよく発生していたという。

ただし前からは機体が小さく見えるため、パイロット次第では空戦で有利に働ける利点がもある。

故・ロック岩崎氏は模擬戦でF-15を「撃墜」した(ただし初期型のため、F-15側には実質ハンデが付いていた)実績を持つ。

他にもNASAの高速チェイス機F-104Nや、熱圏成層圏のさらに上)での操縦訓練のためにロケットブースターを増設したNF-104も製作され、まさに宇宙に近い戦闘機となった。

射出座席の変遷

余談ながら、

初期の機体は尾翼への接触を懸念して射出座席が下に射出されるようになっていた。

しかし、下方射出方式は低高度での緊急脱出に問題があり、前述の「低速での安定の悪さ」と相まって、離着陸時の事故でパイロットが死亡する事例が続出してしまった。

パラシュートが開く前に地面に激突する)

後に全機が改良された射出座席を搭載し、上方向への射出へと変更された。

防空戦闘機として

このような戦闘機なので『アメリカ空軍防空軍団ではさぞ活躍しただろう』と思われるかも知れない。

実際には防空システムとのリンク機材(SAGEシステム)を搭載するスペースが無く

さらには航続距離が不足して、武装も貧弱なので嫌われたと言われている。

(F-102のE型システムなら搭載可能だが、これはもともとF-86Dの旧型システムなのだ)

事実、1958年2月に運用が開始されたが、1960年には一度退役している。

1963年には復帰しているが、1970年以降に再び退役した。

これはF-106に比べても現役期間が著しく短いといえるだろう。

やはりソビエト流の戦術戦闘機(前線戦闘機)では、本土防空のように長い航続時間や大きい射程、高速を求められる任務は困難なのだ。

事実、ソビエトでは迎撃専用の戦闘機は別に開発している。

戦術戦闘機の役割はあくまで『戦場近くから発進し、戦場上空の制空を行う事』だったのだ。

コンセプトの有効性こそ認められたものの、防空戦闘機としては不適格と判断された。

ソビエトアメリカの防空事情は違いがありすぎたのだ。

このF-104で小型軽量の意義を再確認したアメリカだったが、

『小型は不便』とも感じたようで、続くF-4F-15では再び大型化の道をたどっている。

(大出力エンジンの意義は認められたようだが)

但し国が変われば話は別で、インド・パキスタン戦争では、パキスタン空軍のF-104Aが敵機撃墜の戦果を挙げる働きを見せた。

戦闘爆撃機として

上昇性能を重視して設計されたF-104だが、この構造が招いた意外な『副作用』があった。

翼面加重が高くなったお陰で、低空での速度性能や安定性も高いものとなったのである。そのため、低空を高速で侵入し、精度の高い爆撃を行える戦闘爆撃機としてのF-104の活路が見出された。

だが、航続距離が短いという如何ともしがたい弱点があったため、アメリカ本国でこの特性が活かされることはやはりなかった。

一方で、冷戦の最前線であり、航続距離の短さをあまり気にしなくていいヨーロッパ諸国は、こぞってこの特性に注目した。

こうしてF-104は、制空戦闘のみならず戦闘爆撃もこなすマルチロール・ファイターとして、西ドイツ、オランダ、ベルギー、ギリシャなどなど、ヨーロッパの多くの国々で採用されていくこととなる。在欧部隊向けに採用したカナダは、レーダーの対空機能をオミットし、純粋な対地攻撃機としてF-104を運用していたほどである。これらの国々のいくらかでは、有事の際にはF-104にアメリカが管理する核爆弾を搭載し、ワルシャワ条約機構軍へ戦術核攻撃を行う事になっていた。

ただ、安定性の高さは機動性の悪さの裏返しでもあり、ヨーロッパの天気の悪さも相まって、低空侵攻を行うF-104の事故率を高くする一因にもなってしまっている。

輸出戦闘機として

このF-104は輸出戦闘機としても用いられた。

当時のアメリカの戦闘機としては比較的簡単な戦闘機であり、高度な機密を搭載する余地が小さいのも大きいだろう。これは元になったミグ戦闘機にも共通している特徴である。

(あくまで『他のセンチュリーシリーズに比べて』の事であり、のちにF-5が登場するとそちらが多く用いられた。第一、ショックコーンの事だけでも大きな機密だったのだ)

このようなシンプルさ故に、気候が厳しい国でも維持ができるのだ。

現にヨルダンパキスタンといった、乾燥の厳しい国にも輸出されている。

また、そうでなくとも高い上昇力は魅力であり、迎撃戦闘機として日本でも採用された。

ちなみにドイツでは先制核攻撃で被害を受けた際に滑走路を使用せずに打ち出す研究がされていた。ロケットブースターを用いてカタパルトから打ち出し、戦術核弾頭を東側へと運ぶという方法である。ちなみに配備直前に戦略変更で放棄された。

実機が作られることは無かった、二個一で双胴化したものや主翼にラムジェットエンジンを追加したものも計画されていた。

主な派生型

XF-104A

1954年3月4日初飛行。

最初に2機が完成した飛行試験用の原型機で、エンジンにはJ65を搭載している。エアインテイクにショックコーンが無く、F-104にしては胴が短い寸詰まりな恰好となった。このエンジンにはアフターバーナーが無かったため、緩降下以上でないと音速を越えられない。

基本的に非武装だが、2号機だけは搭載試験のためM61バルカン砲を装備した。

YF-104A

YF-104ではエンジンにJ79が間に合い、本格的な先行生産機となった。17機製作。1956年2月27日にF-104で初めてのマッハ2を記録した。

F-104A

153機製造。1958年~1960年にかけてアメリカ空軍防空軍団向けに配備され、その後は63年~68年まで州兵空軍で運用された。台湾・ヨルダン・パキスタン向けにも輸出。

F-104B

26機製造。操縦席後方の燃料タンク・M61バルカン砲を廃して教官席に替えた複座練習機型で、安定性と操縦性のためにベントラルフィンと舵翼を拡張している。

練習機といえども、レーダー等はそのままなので実戦能力がある。

F-104C

77機製造。防空軍団向けのA型と違い、こちらは戦術空軍向けの戦闘爆撃機型。

レーダーFCSが交換された他、左右主翼にハードポイントが追加されて計5カ所に増えた(胴体中央・主翼2か所ずつ)。

ベトナム戦争にも派遣されたが、MiG-21を撃墜するどころか空中衝突で2機が失われた。

F-104D

21機製作。F-104Cを複座仕様にしたもので、基本的にF-104Bに準じる。

F-104DJ

20機製造。F-104Dの航空自衛隊向け仕様で、最初の1機がロッキード・バーバンク工場で製造された他は日本国内でノックダウン生産された。

F-104F

30機製造。西ドイツ空軍向けの練習機型で、レーダーFCSは未装備なので実戦能力は無く、エンジンもF-104Gと同型とされている。

F-104G

各国で1127機が製造された最多生産型で、設計は大幅に刷新されている。舵翼は複座型同様の大型のもので、ブレーキや車輪、フラップも新設計された。その刷新ぶりからロッキード社では当初「スーパー・スターファイター」と呼んでいた。

TF-104G

172機製造。F-104G規格の練習機型で、バルカン砲と燃料タンクの一部を教官席に替えているのはF-104B/Dと同様。

F-104H

電子機器を簡素化した輸出専用の計画型。おそらくF-5への対抗だが、生産されず。

F-104J「栄光」

210機製造。F-104Gを基に航空自衛隊向けとした迎撃機専用型。

最初の3機は輸入、次の29機は三菱重工にてノックダウン生産、残り178機はライセンス生産機となった。

怪獣映画などでお馴染みだが、迎撃専用なので実際には対地攻撃能力を持たない。

このためか怪獣映画の代名詞でもあるゴジラシリーズには一切登場していない。ただし『今日もわれ大空にあり』で収録したエンジン音がウルトラシリーズで防衛チームの戦闘機のエンジン音に流用されている。

F-104S

246機製造(内1機は軍への引き渡し前に墜落し、それで計245機製造とされることが多い)。安定性強化のためベントラルフィンが2枚に増えている。全機フィアットでライセンス生産されたF-104最終型で、内40機はトルコ空軍へ引き渡された。

レーダーFCSがナサールR-21に更新されてAIM-7の運用能力を備えた他、主翼ハードポイントが増設されて合計9カ所となった。AIM-7は増設された主翼外翼パイロンに搭載する。サイドワインダーと併せてミサイル搭載数は計8発を数える。戦闘爆撃飛行隊向けの機はバルカン砲が残されており、迎撃飛行隊では撤去している。

F-104シリーズの中では最も強力な機で、イタリア空軍の象徴的な戦闘機である。

F-104S-ASA

150機改造。1985年に初飛行。レーダーFCSをルックダウン・シュートダウン能力のあるR-21G/M1に換装し、IFFと火器管制装置を更新。これでAIM-9Lに対応し、敵機を前方からでもロックオンできるようになった。

またAIM-7の他にも、これをセレニアで改良した「アスピーデ」ミサイルが加わるようになった。しかし運用開始までにシステム統合は間に合わず、AIM-7だけにしか対応していない機をASA-1、アスピーデに対応した機をASA-2と呼んで区別していた。最終的には全機がASA-2仕様へ改造されている。

F-104S-ASA/M

1995年~1997年にかけて49機改造。主に航法装置を換装し、GPSにも対応した。対地攻撃関連の装備は全て廃され、全機バルカン砲を持たない迎撃機仕様となっている。

イタリア空軍にて2004年10月まで運用され、F-104シリーズの中では最も長寿となった。

CF-104

200機製造。1961年に初飛行したカナダ空軍向けの戦闘爆撃機型で、カナデア・セイバーの後継機である。ブラックバーン・バッカニアミラージュ3フィアットG.91グラマンF11F-1F「スーパー・タイガー」F-5F-105等と共に比較検討された。実はカナダ空軍としてはF-105が欲しかったのだが、ロッキードとカナデア社との関係でライセンス生産が許される事から、F-104が採用を勝ち取った。

カナダ空軍でCF-104は核攻撃を担当し、これはNATOとの関係から空軍の一部をヨーロッパへも派遣していた為。「最終戦争」の際はアメリカより「貸与」された核兵器を搭載し、低空飛行にてワルシャワ条約機構軍に核爆弾を見舞うはずだった。このため対空用FCSのナサールR-24やバルカン砲が撤去されている。

しかし、このため任務はもっぱら低空飛行が求められ、西ドイツ空軍同様に事故・墜落が続出した。25年に及ぶ運用のなかでクラスA事故(機体全損および高額修理・死亡者あり)は110件起こっており、F-104を低空で運用する困難さが窺い知れる。

のちに核攻撃任務は解除され、ナサールR-24やバルカン砲は1972年以降順次戻されている。意外なことに、カナダ空軍ではCF-104にサイドワインダーを搭載する事は無かった。1982年からは役割をCF-18に譲って退役が始まり、1987年には完全に姿を消すことになった。退役した機はトルコ空軍に引き渡され、1995年まで運用された。

CF-104D

F-104Dのカナダ空軍仕様。全機ロッキードで生産され、エンジンにはオレンダでライセンス生産されたJ79-OEL-7を搭載している。

CL-704 VTOL

1962年に提案された攻撃・偵察機で、翼端にRB181リフトジェットエンジンを7基収容するエンジンポッドを備える。リフトジェットを備えるとおりVTOL機であるが、より高性能で現実的なハリアーが開発されるとあって中止された。

なお、画像検索すると中止もむべなるかな、と思える模型の写真が出てくる。

CL-1200-1「ランサー」

F-104の発展型で、60年台後半に始まった「国際戦闘機計画」において、輸出市場でF-4F-5ミラージュ3MiG-21などに対抗すべく開発されていた。

F-104の製造治具を最大限に利用しつつ、しかし設計は別物に進化している。たとえば主翼は約1.5倍拡大されて肩翼配置となり、尾翼はT字型配置をやめて垂直尾翼・水平尾翼は別々に配置された。胴体も76cm延長されて燃料タンクを新設している。こうした設計のおかげで、おりから問題となっていた着陸速度は半分にできるだろうと推定された。エンジンはJ79のままだが、よりチューンアップの進んだものを搭載する。

しかし、国際戦闘機計画で採用されたのはF-5-21(のちのF-5E)であり、CL-1200は実機が制作されないまま計画終了に追い込まれた。

X-27(CL-1600)

CL-1200を基に、NASAでマッハ2.5以上の環境を観測すべく提案された実験機。

こう言っては何だが、実際にはケリー・ジョンソンがCL-1200の開発資金を得るため、政府に資金を支出させるべくでっち上げたのがX-27の正体で、結局は型番が交付されただけで終わった。

CL-1200-2「ランサー」

1972年の「軽量戦闘機計画(F-16YF-17が出品されたアレ)」に提案されたCL-1200の発展型で、エンジンはTF30を予定していた。エアインテイクは2次元式の四角いものになり、出力は従来のJ79から6割も向上するものとされた。

しかし、新しい目的には新しい設計が有利なのは明白なことであり、旧態依然のCL-1200はまたも注目を集めることなく終わった。

CL-1400

その後アメリカ海軍向けのコンペに提案されたもので、CL-1200を基にX-27の後部胴体を組み合わせたものらしい。今度はYF-17に敗北して製作されず。

『レッド・バロン104号』(N104RB)

RB-104とも。これは民間人のダリル・グリーナマイヤーの手によって製作されたF-104原型の特別機である。

この機は無数のF-104の部品から組み上げられており、コクピット部品のいくらかは最初に墜落した生産型F-104から、尾部(尾翼以外)はカリフォルニアのスクラップ置き場から、尾翼と前輪の一部はフロリダのスクラップ屋をハシゴして手に入れ、昇降舵の作動機構・射出座席のレールはエドワーズ空軍基地の事故機置き場から、リノ・エアレースでの出会いからも部品を譲り受け、更に細々とした部品は空軍放出品の鉄くずの山から使えそうなものを探した。

高度が上がって空気が薄れると共に操縦性は低くなるため、この対策のためグリーナマイヤーはNASAと交渉、8つの姿勢制御装置を備えたNF-104A用の機首を譲り受けた。エンジンはF-4J用のJ79-GE-10を海軍から手に入れている。

このように『レッド・バロン号』は数多のスクラップを寄せ集め、完成した。

1977年、FAA規定の3kmコースにて1590.4kmを記録。さらにYe266Mから高度記録(37,650m)世界一の座を取り戻す予定だったが、1978年に車輪のロック不良により着陸は困難と判断された。まだ安全な内にパイロットは射出を選び、機体は墜落して失われた。

ところで、エースコンバット7にもRB-104のようにスクラップから再生されたF-104が登場する。こちらの再生主は女性で、その後本編にも関わるメインキャラクターである。

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