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U-2

ゆーつー

元はアメリカ、CIAの開発したスパイ偵察機。25000mもの高高度を飛行し、偵察衛星よりも格段に低い高度で写真撮影できる。当時はこの高度まで上昇できる迎撃機がなかったが、1960年の「事件」ではSA-2防空ミサイルに撃墜されている。
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U-2(多目的機の2番目)編集

このU-2はロッキード社の秘密開発部門『スカンクワークス』で開発された。

開発主任はケリー・ジョンソンで、見た目は全く違うが、実はF-104から発展している。

(胴体の形状そのものはほぼ同一)


開発要請は『アメリカ中央情報局』ことCIAから出されており、当初は隠蔽のため『成層圏の気象データ収集機』という説明がなされていた。(そのため接頭記号は「多用途機」を示す『U』となっている)

初飛行は1955年で、その2年後には部隊運用が始まっている。


特徴編集

一番の特徴は長い主翼で、これにより成層圏での揚力を確保している。

もちろんこれは敵の迎撃をかわす為であり、実際に25000mに上昇できる迎撃機は当時、まず存在しなかった。


また、徹底した軽量化の結果、細い胴体の前後2箇所にしか車輪がない。例えるなら二輪車に翼がついているようなものである。


高い難度のU-2編集

このU-2は飛行高度が高い事もさることながら、それ以上に操縦が難しい事でも知られている。

高度25000mでの最高速度と失速速度の差が18km/hという話は有名で、前述の通り主翼がやたら長いくせに車輪が胴体にしか無く風にも弱いので、着陸にも気をつかう。

一応、翼端はソリ代わりに使えるようになっており、着陸時は片方の翼端を滑走路に擦りつけて駐機する。が、主翼の強度が極めて低いため、十分に速度を落としてからでないと折れてしまう。

従って停止ギリギリまで機体の水平を保つ必要があるため、着陸時には後方を支援車両が併走しながら指示を出す。


なお、地上走行時には翼端に補助輪を取り付けるが、軽量化のためか離陸時に切り離される仕様。

着陸後は再び補助輪を装着するため、傾いた機体を起こす必要がある……のだが、その方法はまさかの人力である。


U-2G編集

基地使用といった政治的問題を解決するため、空母で運用すべく改修されたU-2。

63年に「ホエールテール」計画が始まり、ケリー・ジョンソンは機体にいくつかの改修を施し、1964年3月2日には最初の着艦に成功。

改修内容は着陸脚の強化やアレスティングフック、主翼にスポイラーの追加など。

1964年5月19日、作戦名「フィッシュホーク」で空母レンジャーから飛び立ちフランスの水爆実験区域の偵察を行ったのが初の運用となる。

しかし、同年5月22日に再び偵察が行われて以降は空母からの運用はされず、この作戦が最初で最後となった。

元より航続距離が長いので空母の助けを借りる必要がなく、空母一隻動かすだけの予算を投入してスケジュールの都合をつけるより、多少のリスクを無視して地上基地からの運用の方が合理的として判断された模様。


『黒いジェット機』編集

『全身機密のカタマリ』たるU-2だが、日本国内でも数度の目撃情報がある。

これは中国ソビエト北朝鮮への偵察活動の際の出来事と思われる。


最たるものが1959年、神奈川県藤沢で起こった『黒いジェット機事件』である。

この事件は

・目撃者の違法な拘束

・目撃者宅への法的根拠のない家宅捜索

・警察や報道への不当な圧力

・警察への捜査妨害

などなど、当時の日本アメリカの関係を浮き彫りにしている。

(ただし、それが冷戦である)


冷戦の危機編集

U-2撃墜事件編集

1960年5月1日(メーデー)にパキスタンから発進した機がソ連領空を侵犯し、S-75防空ミサイル(NATOコードネーム:SA-2『ガイドライン』)により撃墜されている。

パイロットのフランシス・ゲーリー・パワーズは拘束され、公開尋問でスパイ行為を証言。

証言ではソ連軍に撃墜されたのではなく機器の故障で墜落したのだと嘘の証言を強要された。

この時期、米ソ両国では対立から緩和へと関係改善「雪解け」が進んでいたが、この事態にアメリカはスパイ偵察を認め、ソ連側にとっても軍事力の実態が明るみに出ていたことを知り慄くこととなり、米ソの情勢は不穏な方向へ逆戻りとなってしまった。

パイロットは釈放され帰国できたが、東側各国ではミサイル迎撃の開発を進めた。


キューバ危機編集

1962年10月14日、キューバ上空を偵察飛行していたU-2は、ソ連がキューバに弾道ミサイルを配備しようと建設中のミサイル基地を捕捉。

第三次世界大戦の可能性を持った「キューバ危機」である。

米ソはミサイルの配備と撤去で交渉を続け、極度の緊張状態が世界中を覆ったが、10月27日、U-2がキューバ上空でソ連軍に撃墜され、誰もが米ソ核戦争勃発を覚悟した。

その翌日、ソ連側がミサイル撤去に合意したため最悪の事態は脱し、冷戦は新たな段階へ進み、その後もU-2は東側への偵察活動で活躍し続けた。


『黒猫中隊』編集

1961年、台湾空軍第25中隊を設立した。

この部隊は通称『黒猫中隊』と呼ばれており、実態はCIAの台湾支局といったところである。

パイロット達は1959年よりアメリカで訓練を受けており、U-2で中国奥地の極秘偵察に従事した。


当然ながら非常に危険な行為なので、1974年の任務終了までに5機のU-2と3名のパイロットを失っている。

また、訓練中や非作戦中の事故で6名を失った。


U-2からTR-1へ編集

さて、1974年の『黒猫中隊』解散でCIAはU-2での戦略偵察からはすっかり足を洗ってしまい、機体はすべて空軍へ移管される事となった。


この時移された機体の多くは初期生産機の残存機だったのだが、中には初飛行から11年後に再設計された新造機『U-2R』も含まれていた。

空軍はこの設計に目をつけ、戦略偵察機材を側方監視レーダーに換装した『TR-1』を開発した。形式のTRは戦術偵察を意味するもので、怪しさとは無縁の至って普通な偵察用になったためこの形式になった。


現在ではエンジンを新型のターボファンエンジンに換装し、航法・偵察機材も更新した『U-2S』に発展している。


変わったところでは、NASAもオゾン層などを測定する研究機として『ER-2』を使用している。


東日本大震災編集

2011年3月11日東日本大震災が発生。米国は災害支援「トモダチ作戦」を発動したが、米軍は日本政府の許可を得て在韓米空軍基地よりU-2を福島第一原発に向け出動させた。

本来、在韓米軍のU-2は北朝鮮の核施設監視のために配備していたが、今回は事故後の原発建屋内部の状況と放射線量測定などの情報収集を目的とした。


関連タグ編集

兵器 軍用機 偵察機 冷戦

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