『一九一四年八月、ある英国の飛行士はベルギーのモンス上空で哨戒中に、フォン・クルック隷下のドイツ陸軍が英国遠征軍の方向に進軍しつつあるのを発見した。五十年後にテレビの取材を受けたそのパイロットは、この大発見を報告したときの上官の反応について語っている。彼らは信じませんでした、と。そこでパイロットたちはすぐさまカメラを手に一斉に飛びたち、視野が地上に限定されている懐疑派の将官に、自分たちが見た光景を証拠として突きつけた』
『トム・クランシーの戦闘航空団解剖』(新潮文庫,1997)P24「はしがき」より
偵察機のはじまり
偵察機とは軍隊に欠かせない存在である。『空を飛ぶ』という事には、戦場を見渡せるという点での有利がある。空中偵察は気球の実用化とともに始まったと言われ、18世紀末には各国で活用が始まっている。
むろん、この事は航空機にも同じことが言える。現に最初に用いられた用途が偵察で,
戦場を偵察するにつれ、敵と味方とお互いに妨害し始める事になる。戦闘機の登場である。また、偵察のついでに手榴弾や爆弾、レンガや投下用スパイクを手で落としてくる、と言う用法も始まった。爆撃機の誕生である。戦場ではこれらが矢つぎ早に生まれていき、あっという間に激しい空中戦となっていった。
二度の大戦、一度の冷戦。
第1次大戦後も航空分野の発展は目ざましく、偵察機も次々に発展していった。その中で偵察機はしだいにその高速を武器代わりにしていった。戦闘機が迎撃しても、高度も速度も勝る偵察機は悠々と振り切って帰る、という訳である。第二次大戦の時には、大日本帝国陸軍の九七式司令部偵察機が世界初の戦略偵察機として開発され、後継機の百式司令部偵察機とともに戦後の偵察機開発に大きな影響を与えた。また、専門の偵察機だけでなく、速度に優れる戦闘機・爆撃機が改造されて使われた事も。
第二次世界大戦の後、偵察は大きく様変わりする。
戦場での無線通信の発展につれ、敵の使っている無線や、レーダーの情報を収集する電子偵察(ELINT)の登場したのだ。これには多くの機材や電力を必要とするため、大型の爆撃機や旅客機改造の偵察機が用いられている。RC-135やERB-47などである。
また、人工衛星を使った偵察(偵察衛星)も使われるようになった。宇宙は国境によって区切られないので、自由に偵察できるのである。しかし、地表まで非常に遠く、軌道次第では偵察できる日が間が空くので精度に問題があった。
さらなる手段として、さらに迎撃の及びにくい成層圏を飛行しての偵察が考えられた。
U-2はその元祖だが、U-2撃墜事件が発生してからは更なる後継が待たれる事になる。
その答えがSR-71である。
こちらは 高度24,000mをマッハ3.2で飛行する という超絶スペックの持ち主で、アメリカ の安全保障の一端を担い続けた。偵察衛星の発展とともに意味を失い、また高価な維持コストや長い飛行時間もあって退役した。事故による損失はあるものの、被撃墜は無い。
どちらも偵察衛星よりもハッキリした写真を撮れるので、重宝されたという。
なお、U-2はその後TR-1戦場監視機に発展している。こちらは戦場全体の状況を監視するための戦術偵察機(の一種)である。高精度カメラに代えて側方監視レーダーを装備しており、長時間滞空して戦場の状況を監視する。
こちらは現在でも現役である。
現代の偵察機
(画像はオリジナルメカ)
いくら高速や高高度といっても、偵察機に人間が乗っていく以上は危険がある。
(ましてや、敵の真ん中を突っ切るのである)
そこで登場したのが無人偵察機(偵察ドローン)である。
アメリカはベトナム戦争の頃から実用化している。当時は遠隔操作で無人機を操縦するという、ただ操作が航空機から離れただけだった。
(もちろん、本物の航空機のような操縦装置を使う)
専用の運用母機(DC-130)も開発し、北ベトナムの奥地を偵察している。撃墜される機も多かったが、重要な情報を収集した事であろう。
現在はさらに発展し、操縦を完全にコンピュータ任せで偵察している。
最近では攻撃できるものも登場するなど、兵力削減の担い手にもなっている。
余談ながら、偵察機のカメラなどの偵察機材が格納される部分がQベイと呼ばれるとか。