あくまでも戦闘機です!
リパブリック社(アメリカ)によって開発された超音速戦闘爆撃機。前作F-84で得たノウハウをふんだんに盛り込んで設計された。
通称は「サンダーチーフ」だが、パイロットたちには「サッド」と呼ばれた。主にベトナム戦争前期に活躍。
全長20m近い巨体で機体内に爆弾倉を持つが、爆撃機ではなく戦闘機である。
1950年代、アメリカ空軍の「核爆弾を搭載して、低空を高速で飛行。敵に気付かれない内に核攻撃を敢行する」という構想に基づいて設計された。
その存在感を示し続けることで、戦略空軍から「お株」を取り戻す算段もあった。
クック・クレイギー・プランの失敗
1951年、リパブリック社は次世代戦闘爆撃機の開発を進め、1952年にアメリカ国防総省に設計案を提出した。
正式な開発契約が結ばれ、199機を生産し1955年から配備開始と決まった。
しかし、翌年に朝鮮戦争が休戦になったため発注数が大幅に絞られ、199機が合計46機にまで減らされた。
先に生産ラインを組み、量産準備型を製作しつつテストを行い、本格量産型にフィードバックして開発期間の短縮を目指す「クック・クレイギー・プラン方式」により、1955年にはYF-105Aが完成し量産も進行中だったが、その間にもエリアルールの発見や効率の良いエアインテーク形状の開発などがあり、大幅に改装される事となる。
さらにはエンジン換装も決定し、生産は完全に勇み足であった。
中止された偵察型
偵察機型はRF-105と呼ばれたが、完成間近で偵察型の役目はF-101が担う事となり、RF-105はJF-105と改称されて各種実験に用いられた。
ワンマン・エアフォース
最初の量産型がF-105Bである。
爆撃に関しては優れた能力を示したが、対戦闘機戦は苦手だった。
1964年、F-105Bは空軍の曲技飛行隊「サンダーバーズ」に採用され、広報部は「ワンマン・エアフォース」と宣伝した。
しかし、同年中のエア・ショーで機体が真っ二つに折れて墜落する事故があり、パイロットは死亡した。以前、空中給油の際に損傷していたのが原因と見られる。
F-105Bによるショーは6回で終わり、「サンダーバーズ」の機体はF-100Dに戻された。
海外への配備
最初の配属先はドイツのビトブルグ基地で、続いて日本の嘉手納基地と板付基地(現・福岡空港)にも配備された。
陸海空軍兵器統合
ケネディ政権の国防長官ロバート・S・マクナマラは、開発費、及び維持費の削減のため陸海空軍の兵器の統合を推進した。これによりF-105の採用は大幅にF-4に喰われ、1400機配備の計画は610機にまで減らされた。F-106も減らされている。
ベトナム戦争
1964年8月2日と8月4日、トンキン湾で北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃があり(トンキン湾事件)、ベトナム戦争が勃発した。
F-105Dが投入されたが、開発計画には無い中高度での水平爆撃だった。機体内の爆弾倉は通常爆弾を積むのに向かず、燃料タンクのスペースとして使用された。
重い爆弾をぶら下げて動きが鈍かったため、2線級だったMiG-17にまで撃墜された。
迎撃に現れた北ベトナム軍のMiG-17は、F-105Dに反撃のため爆弾を捨てさせると全速で逃げ、爆撃任務を妨害した。爆弾を捨てないなら空戦を挑み、F-105Dを撃墜した。
北ベトナム軍主力戦闘機のMiG-21は撃墜できず、逆にF-105が14機撃墜されている。
1960年代の終り、F-4を配備によりF-105Dの戦闘爆撃機としての任務は終わったが、複座のF-105Fの生産数の6割が対空ミサイル・レーダー狩り専門機「ワイルドウィーゼル」へ改修された。
F-105FはF-105Gへと改造され、ベトナム戦争を戦い抜いた。
派生型
YF-105A
最初の試作型。YF-105Bとはエアインテイク、テイルパイプの形状が違い、さらに垂直尾翼の面積も狭い。特にテイルパイプはのっぺりしている。
2機製造。
YF-105B
エリアルールを採用し、エアインテイクとテイルパイプの形状が違い、垂直尾翼も増積された。
YF-105Aに似ているが、構造はまったくの別物。
4機製造。
F-105B
最初の生産型。バルカン砲の砲口が機首先端に空けられている。
75機製造。
F-105C
B型の複座練習機。ワンピースキャノピー採用。計画中止。
F-105D
B型の発展型で、レーダー変更で全天候能力付加。これにより見かけ上はバルカン砲の砲口が後退した。シリーズ最多の610機が生産されるが、喪失機も最多。
ベトナム戦争前期の主力。
F-105E
C型計画の再提出。やはりワンピースキャノピー。
D型に準拠して全天候能力を付加している。
計画中止。
F-105F
三度提出の複座型。
機体を延長してワンピースキャノピーを止めた。本来は練習機だが、生産数の6割はワイルド・ウィーゼル仕様に改造される。
143機製造。
EF-105F
「ワイルドウィーゼルⅡ」とも。
本格的な対レーダー装備を施したF-105Fの改造機の非公式な名称(制式名はF-105Fのまま)。
86機が改造された。
F-105G
「ワイルドウィーゼルⅢ」とも。
それまで外付けだったECMポッドを内蔵するなど、EF-105Fの対レーダー装備をさらに強化した。
61機がEF-105Fより改造された。
退役
D型の生産数の半分が撃墜され、生き残った機も傷みが激しかったため、本国へ帰されたF-105は州空軍(ANG)などの後方任務で細々と使われた。
1983年5月25日を最後に全機退役。
チーフ(酋長)かく戦えり
空中戦
ベトナム戦争のでは「やられ役」のイメージの強いF-105だが、27.5機の撃墜も記録している(0.5機はF-4との共同撃墜分)。いずれもMiG-17である。
2機をサイドワインダーミサイルで撃墜した以外は、すべてM-61バルカン砲での撃墜である。この戦訓を元に、アメリカ空軍は格闘戦を見直し、海軍でも「トップガン」が設立されるきっかけとなった。
対空火器
撃墜された機の総数は398機にのぼり、9割以上は対空火器によるものである。
F-105は核爆弾を投下するための機体であり、高射砲の弾幕の中で爆弾投下は想定されていなかった。被弾にも弱く、特に油圧系統に損害を負って墜落する事が多かった。これには急いで対策がなされ、予備の油圧系を追加している。
D型には電子妨害装置を標準装備した機もある。この改造は「サンダースティック」と呼ばれ、胴体背部のフェアリング(膨らみ)が拡大されていることから識別できる。しかし、専門機が対処することとなり、少数に終わった。
F-105の意義
レーザー誘導爆弾が実用化すると、そこそこ小回りが利き、大型爆撃機などよりも目標になりにくい戦闘爆撃機の存在は無視できないものになった。レーザー誘導爆弾は軌道修正のため投下に6,000mほどの高度が必要である。
低空でダッシュを仕掛けられるパワーと、爆弾の積載力。
その理想はF-111で具現化され、後の戦争で威力を発揮していくことになる。
フィクション作品のF-105
漫画「エリア88」に登場している。
南ベトナム出身のグエン・ヴァン・チョムが搭乗するが、何度も登場しないうちに対空地雷に撃墜された。
それにしてもわざわざ空戦向きでない機体でエリア88志願とは…………もっとも彼自身が並のパイロットでは無い為、自信の表れとも取れるが。