概説
第二次世界大戦後からベトナム戦争終了までベトナム南部に存在した国家。それに関連するイラストに付けられるタグ。首都はサイゴンに存在した。
歴史
成立以前
第二次世界大戦のさなか、ベトナムは独立を認められベトナム帝国が成立したものの、ラオスやカンボジアとの領土紛争が発生したことおよび大日本帝国の敗戦によりきちんと独立はできなかった。
そんな中ベトミンはベトナム8月革命によって政権を獲得、8月30日にベトナム帝国最後の皇帝バオ・ダイの退位と共に国璽と剣を引き継ぎ、9月2日ベトナム民主共和国成立を宣言した。
一方で戦後、北部は中国国民党が、南部はイギリスが占領したが、後にフランスと交代している。
北部は戦争中からレジスタンス活動をしていたホー・チ・ミン率いるベトミンにより、ベトナム民主共和国が実質支配していた。
ベトナム国成立および独立戦争
南部に関してはプランテーションなどが存在しフランスが利権を持っていたため、コーチシナ共和国という傀儡政権を作成、利害が対立したためベトナム独立戦争が発生した。
フランスはゲリラとなったベトミンに苦戦、その上戦闘により肉体的、精神的にダメージを受けた兵士を見て海外派遣が禁止され、このままではソビエト連邦や中華人民共和国の援助を受け手をつけられなくなる、と考えたフランスはラオスやカンボジアを独立させ、アメリカの支援を受けた。
このとき方針を変え、一度退位したバオ・ダイを再び担ぎ上げてベトナム全土の支配を主張するベトナム国が成立している。しかし、既にこの時点で長年の植民地支配による搾取や愚民化政策の為にベトナム国は人材も枯渇しており、この頃から植民地時代のスライド人事が大半という、正統性にも乏しい有様だった。
驚くことに、国歌「青年行進曲」や南ベトナム空軍の公式隊歌「ベトナム空軍は行進する」ですらベトミンの活動家が作った曲を無断で流用する有様だった。当然北ベトナムにいた作曲者達は激怒するが、ベトナム戦争終結まで南ベトナムはこれらの曲を著作権を無視し(国歌の方は共和制導入後に詞だけを変えた「市民への呼びかけ」とした。当たり前だがこれも無許可なので同一性保持権まで侵害している。)無断使用し続けていた。(なお、「青年行進曲」の作曲者は後にひそかに南にわたり解放戦線の兵士として戦い、解放戦線隊歌「南部解放」を作曲している。また「ベトナム空軍は行進する」の作曲者はベトナム民主共和国時代から現在まで使用されている国歌「進軍歌」を製作した。)
バオ・ダイ帝自身もベトナムへの帰国を拒み、民への求心力はなかった。
1956年、フランスは敗北を認め、北緯17度線を境界として分割し、選挙により政権を決定するという条約を結んだ。
この時植民地時代特権を享受していたカトリックや、(剣か改宗かという流血も辞さない強引な布教を行っていた為)教祖が処刑された和好教の信者、隣国中国の国共内戦の影響でベトナム共産党と対立したベトナム国民党が南部に移り、傀儡国の色は多少薄まったもののこれらは私兵組織を有しており、後に南部をさらに混乱させる原因となった。
ベトナム共和国
「共産主義国家を存在させると周辺国までも共産主義国家となる」というドミノ理論を信じたアメリカ合衆国はこの条約には参加せず、規定されていたはずの南北選挙も行わず、ベトナム国から単独選挙によって融和派をたたき出し貴族出身で、当時ベトナム国首相であったゴ・ディン・ジェムを首班とするベトナム共和国を成立させた。
アメリカにとって、戦前からの独立運動家であったゴ・ディン・ジェム大統領はベトナム国が指摘されていた「植民地のスライド人事=傀儡政権」という弱点を補う、いわば韓国の李承晩大統領のような役割を果たすと期待されていた。ところが、この人物「国民から乖離しており、しかもジエム本人以上に好ましくない人物に取り巻かれている」とアメリカで言われるほどアレな状態であり、しかも自分の信仰するカトリックを優遇するあまり仏教徒を弾圧するなどの行為を行った。なお、カトリックは宗主国であったフランスの支援を受けて布教されたもので、また南ベトナム内部でも少数派である。当然仏教を信仰していた国民の大多数の反感を買ってしまった。
また、その不安定さを見た元ベトミンが1960年に南ベトナム解放民族戦線を成立させ、ベトナム戦争を開始する。
それらの行為もあり、この人物が1963年、軍部によるクーデターにより暗殺された。この行為に当時のアメリカ、CIAの支持は確実であり、アメリカ合衆国大統領であったジョン・F・ケネディなどの中枢部がかかわったという説もある。
ただし、その後軍部のクーデターが頻発、戦争中にもかかわらず国内は不安定な状況となった。このクーデターにより、国歌の変更計画(問題のある「市民への呼びかけ」から新たに作成した「ベトナム、ベトナム」へ変更する計画)など民族色の強いジエムの改革構想は全て破棄され、クーデターの度にアメリカ軍が強力な影響力を行使し続けた為にアメリカの傀儡というイメージは避けがたくなった。先述した私兵組織の武装解除も進まない状況が続き、地方には私兵組織が実効支配し政府の統治が及ばない地域まで出ていた。
しかもその状況でベトナム戦争がアメリカ介入により激化、大変な状況となった。
また、1968年以降は泥沼化する情勢国内外から非難の声が上がり、アメリカ軍が手を引き始めた。
南ベトナムが恐ろしく腐敗していたり(驚くべきことに私腹を肥やすために武器を解放戦線に売却した者までいた。)、約束されたはずの南北総選挙を南側が拒否したり、そもそもベトナム共和国建国自体が98.2%という不正以外あり得ないような賛成票で建国された代物だったため、介入の大義も余りに乏しすぎた。
そのような状態、かつ政権中枢部の腐敗、たとえば麻薬の売買などもあり、国内はさらに乱れ、このような状況であるため、人民、特に地方の人間の信頼はないため、そのような状況ではいくらアメリカ軍が援助していようとも、民衆の支援を得て、敵から技術および鹵獲物資の支援を受けさらに長い間ゲリラ戦を行い続けていたベトナム民主共和国および南ベトナム解放民族戦線には勝ち目はないわけである。
無論、末端部では郷土を守る為だと信じて真面目に活動をしていた人もいた。現に再末期のスアンロクの戦いでは士気の高さと善戦を見せていた。にも拘わらず、上層部の民主主義軽視及び腐敗・不正の横行がすべてを台無しにしたのである。
そして1973年に停戦が示されたものの、北ベトナムはそれを守らなかったこと、さらにアメリカが無責任にも手を引いたため、中部平原の全面撤退という南部政府の作戦の致命的な失態もあって1975年に首都は占領され、国は滅亡した。
結局のところ支援したアメリカやフランスに人を見る目がなかった、ということに尽きる。
ベトナム共和国崩壊後、新たに建てられた南ベトナム共和国は無断使用されていた旧国歌に代わる国歌として、先述する同じ人物が作曲した「南部解放」を使用し、翌年条約に規定された総選挙を行った結果、統一された新国家「ベトナム社会主義共和国」に権限を譲渡し南ベトナムは名実ともに消滅した。
なお、「ベトナム空軍は行進する」に関しては、統一後に作曲者のかねてからの望み通りベトナム人民空軍の軍歌として改めて採用されることになった。
そして北ベトナムによる統一により、ようやくベトナムの人々は解放・・・されなかった。既に1968年の北ベトナム軍が行ったテト攻勢の際に、戦後の運命は暗示されていた。三週間に渡って北ベトナム軍が占領したフエの街では、南ベトナム政府で働いていた市民から人道支援に携わっていた外国人までが次々と軍によって虐殺された。その数は遺体が発見されただけで三千人に及び、未だに公式の調査や責任者の処罰は行われていない。南ベトナムの独裁政権に反発した数多くの民族主義者や自由主義者たちは解放戦線に参加して北ベトナム軍に協力した。だが、サイゴン陥落後に待っていたのは反革命分子の一斉検挙であった。サイゴン政府関係者将兵数十万人の逮捕、八千人に及ぶ親米派少数民族FULROの殺害、その上で南北統一選挙が行われたが。もはや自由なベトナムが復活するどころかベトナム共産党(労働党から改称)が要職を独占する為の不正選挙でしかなかった(中野亜里『ベトナム戦争の「戦後」』)。残された逃げ道は国外脱出しかない。こうして数十万人~百万人以上に及ぶポートピープルが危険な海路で米国や豪州などを目指し、その多くが荒天や海賊の犠牲となった。
亡命政府
ベトナム共和国の亡命政府を自称する団体はアメリカに複数存在する。一番有名であったものが、1995年に設立された自由ベトナム臨時政府であり、この団体はグエン・カーン元大統領を元首として推戴し、また設立当初からベトナム社会主義共和国政府へのテロ攻撃を繰り返した。しかし、2013年のグエン・カーン元大統領の死去により瓦解している。
現在活動中の亡命政府は2つ存在し、1つはベトナム共和国軍の旧軍人により1991年に設立されたベトナム第三共和国であり、旧ベトナム共和国第二共和政を継ぎ、自称はベトナム全土の政府であるという主張の組織である。こちらもテロ容疑で関係者がベトナム本土で逮捕起訴されており逮捕があった2018年より前のベトナム臨時国民政府から改称しているが、ベトナム社会主義共和国からはテロ組織に指定された。
もう一つは南ベトナムの再分離独立を主張し、南部のみの政府を自称するベトナム共和国体制回復運動という組織である。この組織は2012年から活動を開始し、2015年から法人組織であるベトナム共和国財団を樹立している。こちらの組織は前者2団体の反省から武力ではなく国際法に基づく運動を標榜している。
この他ベトナム国民党などかつて南部で活動していた政党がアメリカで活動を続けている例もある。