概要
生年不詳-建武19年(43年)4月。 一世紀の交阯郡(現ベトナム北部)で徴姉妹の反乱(ハイ・バ・チュンのはんらん)を起こした豪族姉妹で、姉は徵側(チュン・チャク) 妹は徵弐(チュン・ニ)。交阯郡麊泠県(現在のハノイ市メリン県)の有力な貉将(地域の軍事指導者)の娘として生まれたとされていて(妹の徴弐の出生地は不明だが、姉と同様であると伝わっている)、姉の徵側は朱䳒県(現在のソンタイ)の有力者であった詩索の妻であった。
建武16年(40年)、当時ベトナムを支配していた後漢の交趾郡大守蘇定は徵側の夫を殺した。これにより、同年3月に徴姉妹は、百越の人々を率いて、漢に対する蜂起を起こすことを決意した。そして、たちまちのうちに広東省からベトナム北部にかけての65城を落とした。この時徴側は、自ら女王として「徴王」と称した。
これに対して、当時漢の王朝初代皇帝であった光武帝は徴姉妹による一連の行動を漢への「重大な反乱行為」と判断し、老将馬援(マ・ユアン)を伏波将軍として派遣し鎮圧を命じた。馬援は兵2万を率いて建武18年(42年)4月に交阯へ到着した。しかし、漢軍は悪天候と疫病の流行によって行軍も進まず、苦戦を強いられたが徴氏側でも厭戦気分が広がったことから徴姉妹は決着を急がざるを得なくなり、漢軍に浪泊(現在のバクニン省ティエンズー県)で決戦を挑んだが、寄せ集めの軍であったために大敗を喫して数千が戦死し、1万人が捕虜となり処刑された。徴姉妹は禁谿(現在のヴィンフック省ヴィントゥオン県)へ逃れたが最終的に捕らえられ斬首された。(伝承では徴姉妹は斬首されず川に身を投げた説がある)
徴姉妹の反乱は3年に過ぎなかったが、その後も徴姉妹はベトナム史の民族的な英雄として語り継がれ、彼女らを祀る寺院も数多く造られている。またその勇猛さからベトナムのジャンヌ・ダルクと呼ばれるようになった。
12世紀にベトナムが大干魃に見舞われたとき、ベトナム李朝皇帝李英宗(Lý Anh Tông)は僧侶を招いて雨乞いの儀式を行った。雨が降ったあと皇帝の夢に二人が現われ玉皇大帝の命にしたがい雨を降らせた、とお告げをしたため、ふたりを祀る古い祠を修理し、王都たる昇龍京城に雨弥堂を建立してそこに姉妹を祀った。さらに都城の外にも姉妹を祀る祠を新しく建てさせた。
姉妹の故郷である、ハノイ北西部のメリン県にはふたりを祀る代表的な寺院がある(ゾウに乗って戦ったベトナムの伝説的ヒロイン、徴姉妹とは)。
登場作品
「水怪クライシス〜無垢なる者たちの浮島〜」にセイバーのサーヴァントとして登場した。