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ベトナム人民軍

べとなむじんみんぐん

ベトナム人民軍とは、ベトナムの国防を担当する軍事組織。
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概要

ベトナム人民軍は、ベトナム社会主義共和国の国防を目的とした軍事組織であり、ヴォー・グエン・ザップが組織した武装宣伝旅団を前身に、1944年12月22日に建軍された。

徴兵制を採用しており、18-27歳の男子には、原則として2年の兵役義務があり、主力部隊・地方部隊・民兵の三結合方式による全国民国防体制を採用している。ちなみに旧共産圏のお約束である赤軍ではなく国軍であり、民兵は別組織である。

国防安全保障評議会の議長は国家主席が兼任し、首相が副議長を務めており、憲法ではこの国家主席がベトナム人民軍の統帥権を持つとされるが、軍の実質的な最高意思決定機関はベトナム共産党中央軍事委員会であり、党中央軍事委員会書記を兼任するベトナム共産党書記長が事実上の最高指揮官とされる。

1946年11月、ハイフォン(海防)でのフランス軍との衝突から始まった、フランス植民地からの独立戦争である、第一次インドシナ戦争(ベトナム独立戦争)に始まり、1962年2月、アメリカ合衆国がサイゴンに援助軍司令部を作り、軍事介入したことによる、ベトナム戦争の名称で知られる第二次インドシナ戦争を戦いぬき、1978年12月に、カンボジアによる多くの国境侵犯やバチュク村の虐殺などにより、カンボジアへの侵攻によるカンボジア・ベトナム戦争(第三次インドシナ戦争)が勃発し、1979年に侵攻を非難する中華人民共和国がベトナムを攻撃したことで、中越戦争が開始され、ベトナム人民軍はこの過酷な連戦にいずれも勝利している。

特に目を見張るのは、ベトナム共産党民兵組織が国軍並みに非常に士気が高いことであり、前述した戦いではゲリラ戦法を駆使した恐ろしい強さで、最終的にはアメリカ軍中国人民解放軍韓国軍らを完膚なきまでに返り討ちにし、世界最強の民兵とまで呼ばれるほどである。

日本軍との関係

ベトナムにおける初の陸軍士官学校である、クァンガイ陸軍中学トイホア陸軍中学の最初の教官・助教官全員と医務官は、全て戦後ベトナムに残った元日本軍兵士の日本人で構成されていた。

終戦後にベトミンは、「ベトナム民主共和国」の独立を宣言したが、旧植民地の再支配を謀るフランスは、日本軍の武装解除を担当していたイギリス軍、そして降伏後連合国の指揮下に入れられた日本軍と共同で革命鎮圧戦『マスターダム作戦』を行った。

この時、ホー・チ・ミン率いるベトミンは日本軍兵士たちを連合軍から匿い、彼の片腕であったボー・グエンザップ将軍の証言によれば、「抗日を旗印にしたが、日本が降伏するとホーは『日本人とは戦うな。彼らを保護せよ』といった。日本人はその後もクアンガイの士官学校で軍事指導もしてくれた」としている。
そうしてフランスとの独立戦争になだれ込むと、日本軍の戦闘能力に目をつけ、ベトナム全土で残留日本兵への協力を求め、勧誘活動を行った。

ベトミンに参加した残留日本軍兵士の松嶋春義元陸軍一等兵は、「あれは大東亜戦争の続きだった。ベトナム人を見殺しにして、おめおめと帰国できるかと思った」と語っており、自ら志願してきた者も多かったという。
ベトナム独立のために明号作戦を工作した特務機関安機関の面々も参加しており、様々な思いを胸にベトミンに参加した日本軍兵士は約600名にも上った。

日本陸軍第34独立混成旅団の参謀井川省少佐(新ベトナムとしての名:レ・チ・ゴー)は、戦争終結以前からベトミンと接触していた。
また、終戦時にベトミンに武器を提供し、ベトミンに参加後はベトナム人兵士に軍事調練を行って、フランス軍とベトミン軍の戦力差を考慮し、遊撃・奇襲戦術を重視するよう進言していた。
上述したクァンガイ陸軍中学トイホア陸軍中学で教官を行っていた石井卓雄少佐は、日本への帰国を拒否してベトミン軍の南部総司令部の顧問としてゲリラ戦を伝授していた。

つまり、ベトナム人民軍の原型となったベトナム最初の軍事組織である“ベトミン軍”は、日本陸軍によって育成されていたのである。
そのためベトナム人民軍には、日本陸軍の戦術や精神性が受け継がれているという声もある。

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