もしかして→北越戦争(戊辰戦争の一つ。本記事は新潟県中越地方とは無関係です)
概要
1979年に起こった、中国軍のベトナムに対する「懲罰」と称した軍事行動が発端となった戦争。
背景
19世紀にフランス植民地だったベトナムは20世紀の第二次世界大戦で進駐した日本に統治・支援され(仏印進駐)、戦後はフランスとの独立戦争(ベトナム独立戦争)でフランス軍を退けるも南北に分裂し、1965年にベトナム戦争が勃発し、米ソも介入する代理戦争となった。その頃、米ソがイデオロギー対立する冷戦期だったが、フルシチョフ政権と毛沢東政権以後の東側陣営で中ソが思想方針の不一致から対立状態(中ソ対立)となっていた。
1970年代に中国はソ連を牽制しようと、ニクソン政権時に米中が急接近。これに北ベトナムは味方が敵と手を結んだ裏切りとして、外交方針が親ソ路線へ傾いた。
その頃、ベトナムの隣国のカンボジアはシアヌーク国王統治の下、ベトナム戦争には中立的だった。しかし、国内にホーチミン・ルートが存在し、アメリカにとって問題だったが、アメリカ支援で国王外遊中にクーデターが起こり、親米政権が成立。国王は過激派のクメール・ルージュと手を結び、新旧政府軍の内乱となった。新政権が倒されたが、国王は幽閉され、ポル・ポトによる恐怖政治で大量虐殺が起こった。
1975年にベトナム戦争は北ベトナム勝利で終結し、ベトナムは統一を果たした。この頃のカンボジアはベトナムに挑発したことで国境紛争が起こり、カンボジア国内のベトナム人への迫害も増し、インドシナ半島の覇権を巡る対立に発展していた。
1979年、カンボジアからヘン・サムリン将軍が亡命し、彼を支援する形でベトナムはカンボジアに侵攻。クメール・ルージュは西部の密林地帯に敗走し、ポル・ポトの独裁政権は3年で崩壊した。
毛沢東主義を極端に標榜していたポル・ポトにとって中国が後ろ盾であり、中国にとってカンボジアは東南アジアの重要な友好国であった。その親中政権を倒したベトナムを鄧小平と華国鋒はソ連の手先である裏切り者と見なし、「懲罰」とする戦争を決定した。
推移
1979年2月17日、中国軍56万人の陸上軍は中越国境に集結し侵攻を開始した。対するベトナム側は主力軍がカンボジアに集中していたために、対処したのは国境警備の正規軍と民兵、合わせて約10万人。
戦車部隊で侵攻してきた中国軍をベトナム軍は地雷や長距離砲による対戦車兵器で大半を撃破。ベトナム軍は複数の陣地を構築しながら後退を続け、3月5日には北部要所・ランソンを中国軍が制圧し、ベトナム軍はハノイの陣地に入った。
この間にカンボジアにいたベトナム軍主力部隊がハノイに合流。中国側はベトナム主力軍と戦うことになれば損害はさらに大きくなり、占領地も維持できなくなると判断し、翌日に撤退を開始。ベトナム軍の追撃に対して撤退時に中国軍は非人道的な焦土作戦を繰り返し 、3月16日にベトナム領から完全撤退。
中国は「懲罰を達成できたので撤退し、自分たちの勝利」と称した。しかし、国際的にはベトナム側の勝利という認識が殆ど。
意義・敗因・勝因
ベトナムへの攻撃と一部地域の一時的占領を達成した点では政治的に勝利できたが、軍事的には大きな敗北となった。中国軍の敗因は文化大革命の影響が大きかった。文革の混乱と疲弊で軍の近代化に遅れ、さらに階級を廃止していたために別働部隊の共同作戦や代行指揮官の存在など、指揮系統が崩壊してしまっていた。一部方面ではベトナム軍部隊を包囲殲滅したものの、短期間での撤退を余儀なくされた。
一方のベトナム軍は民兵がほとんどだったが、これがアメリカ軍を相手にした実戦経験豊富なの精鋭の主力部隊だった。しかも、最新のソ連製武器や米軍から接収・鹵獲した最新兵器で武装しており、正規軍に匹敵する規模だった。さらにお得意のゲリラ戦法で中国軍を翻弄し、意図的に内陸部へ誘い出し、真正面から突撃する中国軍に大打撃を与えた。
このベトナム軍勝利により、ベトナムは仏日米中の大国・強国の帝国主義国家を撃退した稀な国と称えられた。
だが、この戦争がベトナムに残した爪痕も小さくはなく、戦死者数は数万人とも言われ(ベトナム軍は当時の戦死者数を未だに秘密にしているため被害規模の全貌は明らかでない)、中国軍が撤退時に実施した徹底した焦土作戦*とあいまってベトナムを長く苦しめることになる。
中国側は、この敗北を受け軍の近代化が急がれることとなった。
戦後
その後も中越関係は改善せず険悪な状態が続き、国境紛争も繰り返された。
中国は毛沢東時代の大躍進政策や文化大革命によって疲弊した経済を立て直すため、鄧小平主席の改革開放の指導体制の下、アメリカや日本の支援もあって発展し、中越戦争の教訓を取り入れた軍制改革で戦力を充実させたのに対し、ベトナムは経済政策の失敗やカンボジア占領の負担が重なってしまい年々疲弊、後ろ盾だったソ連の衰退もあってベトナムはしだいに劣勢に追い込まれてしまう。
1979年から1989年にかけて中越国境紛争や赤瓜礁海戦などが引き起こされ、1989年のスプラトリー諸島海戦では中国海軍がベトナム側陣地を一方的に攻撃殲滅し(中国側の死者0に対しベトナム側の死者74)、ベトナムは領土を奪われている。その後、1989年に中越国交回復により両国間に国交が結ばれたが、この際ベトナムは中国の侵略の結果を認めざるを得ず、中国の支配地域が増すこととなった。
ベトナムでは中国を自国への侵略者として、中国ではベトナムを支援を仇で返す裏切り者への侵攻と認識され、また、旧南ベトナムの経済を支配していた華僑への迫害や、ベトナム難民(ボート・ピープル)が20年に渡って香港の深刻な社会問題となっているため、中国ベトナム両国の互いのイメージは中越戦争以降ずっと悪いままである(元々、歴代の中華帝国諸王朝とベトナム諸王朝の時代から国境問題などで数千年前からずっと関係は良くないとも言える)。