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概要

ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ(ロシア語:Ники́та Серге́евич Хрущёв、ウクライナ語:Мики́та Сергі́йович Хрущо́в、読み:ムィクィータ・セルヒーヨヴィチ・フルシチョーウ、ラテン文字表記の例:Nikita Sergeyevich Khrushchev、1894年4月17日 - 1971年9月11日)は、ソビエト連邦の政治家。1953年9月から1964年10月まで同国の第3代最高指導者であった。党第一書記、閣僚会議議長(首相)を兼任した。スターリン批判によってその独裁と恐怖政治を世界に暴露し、非スターリン化を掲げた。自身が無神論者であった為に宗教に対する弾圧を再び強化したが、スターリン時代よりは物流・学術の交流といった点で開放的だったとされている。

経歴

1894年4月17日にロシア帝国のクルスク県カリノフカに誕生する。家族と共にウクライナのドンバス地方にあるユゾフカに移り、15歳で鉛管工として働き始める。第一次世界大戦では工場で勤務していた為、徴兵を猶予された。

共産党入党

1918年4月にロシア共産党に入党し、1919年1月に赤軍政治委員として参加した。1920年9月に第9軍のインストラクターとなり、反革命を標榜した白軍・ポーランド軍との戦闘に参加した。

1925年7月にユゾフカのペトロフスコ・マリインスク地区党書記に就任し、以後は党活動に専従する。そこでは精力的な仕事ぶりと経験から学んだ実際的な現地事情に関する広範な知識で台頭し、スターリンの側近であったカガノーヴィチに注目されることになる。1929年にはスターリン記念工業アカデミーに入学を許可されて冶金学を学ぶと共に、大学内でも党活動を熱心に推進して学内の共産党書記に選出される。

中央委員就任

1931年1月にモスクワ党専従となり、モスクワ地下鉄の建設の功でレーニン勲章を受章した。この功績がスターリンの目に留まり、1934年1月の第17回大会で中央委員に選出され、翌年の1935年3月にモスクワ党第一書記となる。1938年4月に政治局員候補となり、スターリンに粛清されたスタニスラフ・コシオールの後任として、ウクライナ共産党第一書記となった。1939年3月の第18回党大会で政治局員に昇格する。

第二次世界大戦

1941年6月のドイツによる侵攻以降は、ウクライナ共産党の責任者としてウクライナの産業を東部に疎開させることに尽力する。疎開作業の完了後は、陸軍中将と同位の政治委員の階級を授与され、南部戦線でドイツ軍と戦った。

党第一書記・閣僚会議議長

1953年3月にラヴレンチー・ベリヤによってゲオルギー・マレンコフが閣僚会議議長(首相)に祭り上げられ、暫定的にスターリンの後継者となった。しかしベリヤの権力掌握を警戒する指導層の抵抗に遭い、マレンコフは書記局の主導権をフルシチョフに譲ることになった。フルシチョフはまずベリヤを逮捕・粛清して権力基盤を固めた後に共産党党首たる党第一書記に就任し、同年9月に最高指導者としての地位を確立した。次いでマレンコフに閣僚会議議長を辞任させ、後任には腹心のニコライ・ブルガーニンを充てた。

1957年6月にモロトフ、マレンコフ、カガノーヴィチらがフルシチョフの解任を要求し、中央委員会幹部会の投票で一旦フルシチョフの第一書記からの解任が決まるが、中央委員会総会での投票で逆転勝ちして辛くも第一書記の座に留まった(反党グループ事件)。この時に3人は追放されたが、この時フルシチョフを積極的に支持しなかったブルガーニンは程無く閣僚会議議長を辞任させられ、フルシチョフがそれを兼任した。

この一件でフルシチョフの積極的な支持者の中に、第二次世界大戦の英雄であるゲオルギー・ジューコフ国防相が居たが、ジューコフは広大なソ連各地から中央委員を集めるのに軍用機まで動員してフルシチョフに協力し、反党グループ追放後は中央委員会幹部会員(政治局員)として迎えられた。しかし軍縮をめぐってすぐにフルシチョフと対立した結果、大臣を解任されて中央委員会からも追放された。

外交

アメリカ合衆国

1959年9月にソ連の最高指導者として初めてアメリカを公式訪問し、アイゼンハワー大統領との友好関係を築く事で、冷戦下の世界に一時的な「雪融け」をもたらした。

1959年1月のキューバ革命後に同国の政権を掌握したフィデル・カストロとの関係を深め、1962年10月に発生したキューバ危機ではアメリカとの戦争の瀬戸際まで進むことになるが、寸前で譲歩して戦争を回避した。1960年5月に発生したU-2撃墜事件ではアメリカと激しく対立し、1961年6月のウィーン会談ではケネディ大統領との会談を行ったものの、ベルリンの処遇について対立し、その後の「ベルリンの壁」の構築につながった。

日本

1956年12月に日ソ共同宣言が発効された当時の指導者である。フルシチョフは晩年に記した回想記の中で「平和条約締結後とはいえ歯舞・色丹の引き渡しに合意したのは、漁民と軍人しか利用していない島で防衛的・経済的にあまり価値が無く、これらを引き換えに日本から得られる友好関係の方が極めて大きい」と考えており、戦後の日本の経済成長を羨んで「ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかったことは大きな失策だった」・「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と述べていた。

他にもフルシチョフは「日本との平和条約締結に失敗したのは、スターリン個人のプライドとモロトフの頑迷さにあった」と指摘している。

逸話

  • フルシチョフがスターリンの側近になれたのは、スターリンの2番目の妻であるナジェージダ・アリルーエワ(通称ナージャ)のおかげである。ナージャの通う工業大学には論敵を次々に論破する耳の大きな太った若者がいた。後のフルシチョフである。ナージャはスターリンにフルシチョフを推薦し、定期的に家でナージャと3人で食事をするようになったのが出世の始まりとなる。これ以降フルシチョフはスターリンのお気に入りになる。
  • 「こうやって私は生き延びた・・・・・・ナージャの存在は私の幸運の宝くじだった」。フルシチョフには自分がスターリンと同じ場所にいること自体が信じられなかったという。半ば神様のように尊敬していたスターリンが目の前にいて、いとも謙虚に「笑ったり、冗談を言ったり」していたからである。
  • そんな彼だが第一書記に就任した後、一転してスターリン批判を行なった。記者会見でスターリンの悪行を述べている時、「その時あんたは何をしていたんだ」と野次が飛んだ。するとフルシチョフは「今質問したのは誰だ!?」と怒鳴り、会場が静まり返ると「……そう、今の君たちのように沈黙していたのだ」と言ったという。
  • 激情家として知られ、国際的な舞台で話題を呼ぶ事件をいくつも引き起こした。有名なものの1つは1956年11月18日にモスクワのポーランド大使館でのレセプションで、西側諸国の大使に向って「あんたらを葬ってやる」(ロシア語:Мы вас похороним!)との暴言を吐いたことである。
  • 1959年7月にアメリカのニクソン副大統領がモスクワを訪問した際に、博覧会会場に展示してあるアメリカ製のキッチン及び電化製品を前にして、ソ連の人工衛星である「スプートニク」の開発成功・アメリカにおける宇宙開発の遅れ・アメリカの自由経済とソ連の計画経済を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論した。この際に、ニクソンは消費財の充実と民生の重要性を堂々かつ理路整然と語ったのとは対照的に、フルシチョフは自国の宇宙及び軍事分野における成功を感情的にまくしたてた。その討論内容は後に「台所論争」(キッチン討論)として有名になった。
  • 1960年10月12日の国際連合総会で、ソ連代表の提出した「植民地主義非難決議」に対し、フィリピンのロレンソ・スムロン代表が「ソ連の東ヨーロッパ諸国への関与こそ正に植民地主義であり非難されるべき」と逆襲したことに怒ったフルシチョフは、腕時計が壊れるほど拳で机をバンバン叩き始めてスムロンの演説を妨害した事件がある。


関連項目

ソビエト連邦 ソビエト連邦共産党 スターリン
マレンコフ(前任) ブレジネフ(後任)

参考文献

wikipedeia『二キータ・フルシチョフ』

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