概要
所属国 | ソビエト連邦 |
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出生日 | 1894年4月17日 |
死亡日 | 1971年9月11日(77歳) |
出生地 | ロシア帝国 クルスク県カリノフカ |
死亡地 | ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ |
所属政党 | ソビエト連邦共産党 |
出身校 | 全連邦工業専門学校 |
宗教 | 無神論 |
配偶者 | エフロシニア・フルシチョワ(故人)、マルシャ・フルシチョワ(離婚)、ニーナ・フルシチョワ |
子女 | 6人 |
その他 | ソビエト連邦軍の軍人として勤務(1918年 – 1945年) |
ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ(ロシア語:Ники́та Серге́евич Хрущёв、ウクライナ語:Мики́та Сергі́йович Хрущо́в、ラテン文字表記の例:Nikita Sergeyevich Khrushchev、1894年4月17日 - 1971年9月11日)は、ソビエト連邦の政治家。第3代ソビエト連邦最高指導者。1953年9月に最高指導者となり、1964年10月に失脚するまでその地位にあった。1956年2月にスターリン批判を展開し、その独裁と恐怖政治を世界に暴露して非スターリン化を掲げた。
経歴
初期
1894年4月17日にロシア帝国のクルスク県カリノフカにて、貧しいロシア人農民の家庭で炭鉱労働者の父と母との間に誕生した。1917年12月に金属労働者の労働組合委員長になり、1918年11月に共産党に入党した。1937年8月にスターリンが大粛清を開始した時は、これを支持して逮捕を承認した。1938年1月にウクライナに派遣されて弾圧の実行に重要な役割を果たし、1944年2月に人民委員となってスターリンと将軍たちの間の仲介役を務めた。1949年12月にスターリンの側近の1人としてモスクワに呼び戻され、1953年3月まで市党委員会第一書記を務めた。
権力闘争
1953年3月にスターリンが死去した事で権力闘争が発生し、フルシチョフは党第一書記としての権限を強化して勝利した。1956年2月に第20回党大会が開催された時にスターリン批判を展開し、政治・経済・文化・社会に様々な非スターリン化が推進された。一般国民の生活を向上させる事を目的としたフルシチョフの国内政策は、特に農業においては効果が無い事が多かった。フルシチョフは最終的に国防をミサイルに依存する事を望み、通常兵力を大幅に削減するように命じた。
最高指導者
1953年9月にマレンコフの後継として最高指導者となった後、アメリカを中心とする西側陣営と平和共存を図り、軍拡競争を抑制して軍縮と宇宙開発競争を積極的に実行した。他方で中国・アルバニアと対立し、1962年7月にキューバに核ミサイルを配備した後、同年10月にキューバ危機を招いた。同月に発生したハンガリー動乱に介入し、これをハンガリーの敗北に終わらせた。
失脚・その後
1964年10月に中国との問題の解決・農業政策の指導に失敗した事で失脚し、同月にブレジネフが後継の最高指導者となった。それまで権力闘争で敗北した者が味わった致命的な運命(辺境に追放される・投獄・獄死・処刑など)を経験せず、年金生活に入ってモスクワのアパートとダーチャ(別荘)を獲得して一応老後の安定を得た。1971年9月11日にモスクワで死去し、歴代の要人が埋葬されている赤の広場の脇では無く、ノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬された。
外交
アメリカ合衆国
1959年9月にソ連の最高指導者として初めてアメリカを公式訪問し、アイゼンハワー大統領との友好関係を築き、冷戦の世界に一時的な雪解けをもたらした。同年1月にキューバ革命で政権を掌握したフィデル・カストロとの関係を深め、1962年10月にキューバ危機が発生した時は、アメリカとの戦争の瀬戸際まで進んだものの、その寸前で譲歩・回避した。1960年5月にU-2撃墜事件が発生した時はアメリカと激しく対立し、1961年6月のウィーン会談ではケネディ大統領と会談したものの、ベルリンの処遇について対立してベルリンの壁の構築に繋がった。
日本
1956年10月に日ソ共同宣言を締結し、晩年に記した回想記の中で「平和条約締結後とはいえ歯舞・色丹の引き渡しに合意したのは、漁民と軍人しか利用していない島で防衛的・経済的にあまり価値が無く、これらを引き換えに日本から得られる友好関係の方が極めて大きい。」・「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった。」・「ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかった事は大きな失策だった。」などと述べていた。
家族
- エフロシーニャ・イワノヴナ・ピサレワ(最初の妻)
1男1女が誕生している。
- マルシャ(2番目の妻・姓は不明)
- ニーナ・クハルチュク(3番目の妻)
1男3女が誕生している。
逸話
- フルシチョフがスターリンの側近になれたのは、スターリンの2番目の妻であるナジェージダ・アリルーエワ(通称:ナージャ)のおかげである。ナージャの通う工業大学には論敵を次々に論破する耳の大きな太った若者がいた。後のフルシチョフである。ナージャはスターリンにフルシチョフを推薦し、定期的に家でナージャと3人で食事をするようになったのが出世の始まりとなる。これ以降フルシチョフはスターリンのお気に入りになる。
- 「こうやって私は生き延びた・・・・・・ナージャの存在は私の幸運の宝くじだった」。フルシチョフには自分がスターリンと同じ場所にいること自体が信じられなかったという。半ば神様のように尊敬していたスターリンが目の前にいて、いとも謙虚に「笑ったり、冗談を言ったり」していたからである。
- 第一書記に就任した後、一転してスターリン批判を展開した。記者会見でスターリンの悪行を述べている時、「その時あんたは何をしていたんだ。」と野次が飛んだ。するとフルシチョフは「今質問したのは誰だ!?」と怒鳴り、会場が静まり返ると「……そう、今の君たちのように沈黙していたのだ。」と言ったという。
- 激情家として知られ、国際的な舞台で話題を呼ぶ事件をいくつも引き起こした。有名なものの1つは1956年11月18日にモスクワのポーランド大使館でのレセプションで、西側諸国の大使に向って「あんたらを葬ってやる」(ロシア語:Мы вас похороним!)との暴言を吐いたことである。
- 1959年7月にアメリカのニクソン副大統領がモスクワを訪問した際に、博覧会会場に展示してあるアメリカ製のキッチン及び電化製品を前にして、ソ連の人工衛星である「スプートニク」の開発成功・アメリカにおける宇宙開発の遅れ・アメリカの自由経済とソ連の計画経済を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論した。この際に、ニクソンは消費財の充実と民生の重要性を堂々かつ理路整然と語ったのとは対照的に、フルシチョフは自国の宇宙及び軍事分野における成功を感情的にまくしたてた。その討論内容は後に「台所論争」(キッチン討論)として有名になった。
- 1960年10月12日に国際連合総会でソ連代表が提出した植民地主義非難決議に対し、フィリピンのロレンソ・スムロン代表が「ソ連の東ヨーロッパ諸国への関与こそ正に植民地主義であり非難されるべき。」と逆襲した。それに怒ったフルシチョフは、腕時計が壊れるほど拳で机をバンバン叩き始めてスムロンの演説を妨害した事件がある。