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概要

1902年1月13日生まれ。ソビエト連邦共産党2代書記長。スターリンの側近、しかし実力は芳しくなかった。
スターリンから後継者として指名されたが、ニキータ・フルシチョフの謀略によって失脚、ラヴレンチー・ベリヤ共々党を追放される。(ネタとしての解説⇒マなんとかさん

Георгий Максимилианович Маленков
ラテン文字:Georgy Maximilianovich Malenkov
ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチ・マレンコフ(ロシア語:Георгий Максимилианович Маленков, ラテン文字表記:Georgy Maximilianovich Malenkov

生没:1902年1月13日(ユリウス暦1月8日) - 1988年1月14日

ソビエト社会主義共和国連邦の政治家。第2代閣僚会議議長(首相)。
ヨシフ・スターリンの重要な側近でありスターリンの死後短期間ながらソビエト連邦の最高指導者を務めた。


ロシアのオレンブルク州でマケドニア人移民のもとに生まれた。
1919年には、赤軍の政治将校になっている。その1年後には共産党に正式に加入し赤い皇帝の腹心の一人となった。

党中央委員会書記

1930年代後半にはラヴレンチー・ベリヤとともにスターリンの大粛清に加担しその功で1939年3月に党中央委員会書記となり1941年には政治局員候補となった、その後ベリヤとは政敵になった。

独ソ戦

1941年6月、独ソ戦が開始されると国家防衛委員会の委員となり、各戦線の戦力の組織化に尽力した。

第二次大戦後

1946年、党中央委員会政治局の正局員に昇進し1947年に閣僚会議副議長(副首相)となった。
その後政敵であったアンドレイ・ジダーノフやベリヤによって追い落とされたがジダーノフの失脚によりすぐにスターリンの腹心に戻った。
ベリヤはマレンコフの傘下に入り彼らは「レニングラード事件」なるものを捏造しジダーノフの同調者をすべて強制労働収容所に追放した。

ソ連最高建権力者に

1953年のスターリンの死により、マレンコフは『閣僚会議議長(首相)共産党書記局筆頭書記』となりソビエト連邦の最高指導者となった。
しかし集団指導体制を構想したマレンコフはすぐに筆頭書記の職をニキータ・フルシチョフに譲った。
副首相兼内相となったベリヤはスターリン批判を展開したが、マレンコフはそれを支持しなかった。
この行動はフルシチョフにとっても承認できるものではなく、ベリヤは逮捕され、処刑された。

核兵器反対

マレンコフは首相の座にあった2年間「核兵器は世界の破滅を招く」と宣言して核兵器に反対する立場を表明した。
このような西側との平和共存を模索する方針は強硬派から反発を受け、1955年2月には首相を辞任したが、政治局には留まった。

最高権力者フルシチョフ追い落としに失敗

1957年6月ニコライ・ブルガーニンヴャチェスラフ・モロトフラーザリ・カガノーヴィチらの「反党グループ」を主導してフルシチョフを失脚させようとしたために政治局からも辞職させられた。

その後

その後は連邦内を転々としカザフ・ソビエト社会主義共和国のウスチ・カメノゴルスクにあるダム水力発電所の指導者となった後同じくの炭鉱都市エキバストス(ここの政治犯特別収容所にはアレクサンドル・ソルジェニーツィンが1950年から1953年まで収容されていた)にあるエキバストス第一発電所の所長を務めたが1961年、エキバストス市党委員会により党籍を剥奪され党を追放される。

共産党追放後はモスクワ市内のアパートで年金を受けながら余生を送り80歳を過ぎてからはモスクワのイェロホヴォ大聖堂(w:Elokhovo Cathedral)の教会合唱団に所属していた。
マレンコフが晩年を過ごしたアパートの隣人は、同じく反党グループとして失脚し、党籍を剥奪されて年金生活に入ったラーザリ・カガノーヴィチであった。
失脚後は不遇の晩年を過ごしたマレンコフだが生涯を通じて共産主義者ではあり続けたとされる。
1988年1月14日、若き書記長ミハイル・ゴルバチョフの時代に、86歳でひっそりと亡くなる。

関連タグ

次代☞ニキータ・フルシチョフ
なんとかさん
ソビエト連邦共産党 ソ連

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