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ソビエト連邦共産党

そびえとれんぽうきょうさんとう

1912年1月から1991年12月まで存続したソビエト連邦の支配・執政政党。マルクス・レーニン主義を掲げる労働者(プロレタリアート)階級前衛党であり、共産主義を理念に同国において一党独裁制を堅持した、世界の共産党組織のセンター。
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переход всей власти к Советам!(全ての権力をソヴィエトへ!) ーV.レーニンー


ソビエト連邦共産党党歌(1952–1991)

インターナショナル(Интернационал/インチェールナツィオナラム)」

「1976年ソビエト連邦共産党第25(XXV)回大会」


この動画は、ソ連共産党党歌インターナショナルを、1976年の共産党大会最終日の開会の際に斉唱している様子。この日の会議は、1976年3月5日、モスクワクレムリン大会宮殿で行われた。当時の党書記長は、レオニード・ブレジネフ


概要

ソビエト連邦共産党(そびえとれんぽうきょうさんとう/ロシア語:Коммунисти́ческая па́ртия Сове́тского Сою́за/略称:КПСС[カムニスチーチェスカヤ・パールチヤ・サヴェーツカヴァ・サユーザ/略称:カー・ペー・エス・エス]〈英語:Communist Party of the Soviet Union/略:C.P.S.U.〉)

1912年1月からから1991年11月まで存続したソビエト連邦一党独裁政党マルクス・レーニン主義を掲げる労働者(プロレタリアート)階級前衛党として、長く同国に君臨し続けた世界史上唯一無二の共産主義国家の共産主義政党である。党は、1917年の10月革命から内戦での勝利を経て、1922年にソビエト社会主義共和国連邦(そびえとしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう/ロシア語:Союз Советских Социалистических Республик/略:СССР[サユース・サヴェーツキフ・サツィアリスチーチェスキフ・リスプーブリク/略称:エス・エス・エス・エル]〈英語:Union of Soviet Socialist Republics/略:U.S.S.R〉)を成立(建国)させた勢力である為に、その権威は絶対的なものであった。また、党は、ソビエト社会の「指導的かつ先導的勢力」であり、「政治制度及び国家・社会組織の中核」として認められていた為に、全盛期は約2000万人近いとも言われる党員数を擁した史上類を見ない超巨大政党としての圧倒的な威容を誇り、その歴史のほぼ全期間に渡って、ソ連全土における唯一にして絶対の“党”であり続けた。これによりソ連政府及びソ連邦全体を統治する共産党として、各ソビエト共和国共産党を支配下に置いた。


詳細


議会議席数一覧

  • ロマノフ朝ロシア帝国国会(ドゥーマ)
歴代国会総議席数ロシア社会民主労働党全体うちボリシェヴィキ(多数)派
第一国会(1906年4月)497議席18議席(3.6%)0議席(0.0%)※
第二国会(1907年2月)518議席65議席(12.5%)15議席(2.9%)
第三国会(1907年10月)441議席20議席(4.6%)8議席(1.9%)
第四国会(1912年9月)442議席15議席(3.2%)6議席(1.2%)

※レーニン率いるロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ(多数)派は、ボイコット戦術を採用し、メンシェヴィキのみが選挙に参加した。

  • 全ロシア憲法制定議会(1918年1月)
総議席数ボリシェヴィキ派メンシェヴィキ派
766議席180議席(23.5%)22議席(2.9%)

  • 労働者、農民、赤軍及びコサック代表全ロシアソビエト大会議席数

第14回全ロシア・ソビエト大会総議席数╱1929年5月

1260╱1784(70.7%)

  • ソビエト社会主義共和国連邦最高会議(ソビエト)議席数

第11回ソビエト連邦最高会議総議席数╱1984年3月

1,072╱1,500(71%)

民族会議(上院)議席数

521╱750(70%)

連邦会議(下院)議席数

551╱750(73%)

  • ソビエト連邦人民代議員大会選挙議席数
選挙総議席数ソビエト連邦共産党
第1回選挙(1989年3月)2249議席1958議席(87%)

  • 党員・党友数:約19,000,000人(1986年)

…党員数の推移

年度人数
1917年(ロシア十月革命時)35万人
1924年(ソビエト連邦成立時)73万人
1925年109万人
1930年200万人
1946年550万人
1965年1180万人
1981年1748万人
1986年1900万人(この時点で全有権者の1割以上を占める。)
1989年1月1948万7822人

なお、この1980年代後半をピークに、以降減少。

  • 中央委員会直属専従党官僚(アパラチク)人数

約1200人

  • 機関紙

新聞:プラウダ(Правда/プラーヴダ[真実])紙

…1912年〜1991年。ソ連共産党中央委員会の最主要な公式機関紙。党の政策や方針、指令、重要決定などの発表機関であり、これらの報道に指導的役割を果たした。記事や論説の多くはモスクワ放送によってソ連全土に放送され、また国営タス通信社によって各地域や外国に送信されていた。広告・娯楽記事は掲載しない。1989年時点で約966万部が発行されていた。

雑誌・理論誌:コムニスト(Коммунист/共産主義者)誌

…1923年〜1991年。ソ連共産党中央委員会の政治雑誌、理論誌。1923年、全連邦共産党(ボリシェビキ)中央委員会組織局の決定に基づいて、24年4月5日に第1号を『ボリシェビク』の名で発刊、52年11月に『コムニスト』と改称した。マルクス・レーニン主義の宣伝とその創造的発展、共産主義建設を目ざす党の路線の実現のための啓発活動を編集方針とした。

新聞:イスクラ(И́скра/火花)紙

…1900年〜1905年。ロシア社会民主労働党機関紙。

  • シンボル:鎌と槌
  • 党歌

ボリシェヴィキ党歌(Гимн партии большевиков/ギムン・パールチ・バリシェヴィコフ)」(1939年10月 – 1952年10月)


インターナショナル(Интернационал/インチェールナツィオナラム)」(1952年10月 – 1991年11月)

起ち上がれ!呪詛により烙印を押されし、

飢えたる者達の、労働者の全ての社会よ!

憤激する我らが理性は沸き立ち、死闘へと導かんとする!

我々は抑圧の世界を全て根底に至るまで破壊し、

そして、我々自らの、新世界を建設する!

無でありし者達が、全てとなるのだ!

これが我らの最後の決戦だ!

インターナショナルと共に人類は立ち上がるのだ!


  • 政治思想
時期思想
黎明期マルクス主義ボリシェビズム
共産主義極左
レーニン政権後期社会主義新経済政策
スターリン政権期スターリン主義マルクス・レーニン主義
    共産主義一国社会主義論
中期マルクス・レーニン主義一国社会主義論
    社会主義共産主義
後期マルクス・レーニン主義「人間的な社会主義」(1990年以降)
    社会主義左翼

解説

この項目では、ソ連共産党について、複数の参考文献を元に、解説を行っていく。

  • ソ連共産党とは、いかなる組織であったか?

ソビエト社会主義共和国連邦、通称ソ連。

この国は、世界的に見ても類を見ない、「“党”によって成立した国」であった。

しかし、それはあくまで実情であって、建前は違う。

この事は、国名を見れば一目瞭然である。

そもそも日本語では一口に「ソビエト社会主義共和国連邦」、などと呼んではいるが、これは本来のロシア語では、

「Союз Советских Социалистических Республик(СССР)」

となり、直訳すると

評議会(ソビエト)体制の社会主義共和国の同盟

という意味である。

字面を見れば分かる通り、ここには民族名や地名が一切入っていない。即ち、骨の髄まで人為的に設計された、徹底的な人工国家なのである。

それはこの国の成り立ちと、そして根本的な構造に由来する。

そもそも国名の「ソビエト」とはロシア語で「評議会」の意味であり、1905年の第一次ロシア革命の時、モスクワ北東のイワノボ・ボズネセンスク市で、歴史上初めて「評議会(ソビエト)」という名の全市的な労働者の代表機関が生まれた事に遡る。

その後1917年の第二次ロシア革命に際しては、労働者、兵士、農民達がそれぞれ自らのソビエトを創設し、これが革命において決定的な役割を果たす事になる。

ボリシェヴィキによる政権奪取後の当初こそ全権は全ソビエトの連合体たる「労働者・兵士代表評議会(ソビエト)」と呼ばれる労働者達と“複数”の社会主義系政党による自治組織に委ねられ、これはレーニンによって「パリ・コミューンと同じ型の権力」と評価された。

レーニンはこの評議会(ソビエト)を基礎としたコミューン型国家を構想しており、事実、ソ連は間接代表制を拒否し、労働者の組織「評議会(ソビエト)」が各職場の最下位単位から最高議決単位である「連邦最高会議(ソビエト)」まで組織されることで国家が構成されていたのある。

しかし、政府機関として内閣にあたる人民委員会議(ソヴナルコム)が設立されると、ソ連は急速にコミューン型国家から離れていき、最終的にロシア社会民主労働党少数派(メンシェヴィキ)及び社会革命党(エス・エル)の評議会(ソビエト)からの追放をもって、最終的に評議会(ソビエト)の中にはロシア共産党(ボリシェヴィキ)だけが残る事となり、その結果、政策決定はボリシェヴィキの党内で完結するようになっていった。

この事から、こうした評議会(ソビエト)による自治制度が有効に機能した期間はほとんどないに等しく、実際にはソビエトの最小単位から最高単位まですべてに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソ連共産党が全ての評議会(ソビエト)を支配しており、この事から、ソ連共産党はソ連の全権を握る一党独裁政党でとなり、「“党”の決定は“国家”の決定」となった。

この一党独裁は、ゴルバチョフ政権末期に複数政党制が再導入されるまで続く事となる。

ソ連においては、評議会(ソビエト)の中で最上部の機関であり、他国における国会にあたる「最高会議(ソビエト)」より「ソ連共産党大会」の方が重要であり、国家元首にあたる「最高会議(ソビエト)幹部会議長」より独裁政党であるソ連共産党の事実上の最高指導者である「ソ連共産党中央委員会書記長」の方が権力を握っており、独裁政党の観点から書記長が事実上国家の最高指導者でもある。

これだけの権力を握る党であるが、国民もまた、党と密接に結び付いた生活をしていた。

実際、地域の有力者は軒並み党員(チレン)であったし、下の組織から上の組織の順に代表者が選出されて上がっていき、最上部で物事が決定され、今度は決定を下した最上部から上から下に順に下ってゆくという民主主義的中央集権制、即ち「民主集中制」というシステムに基づいて、党が国民の意見を集約していたからである。

民主集中制は、共産党の最も特徴的な組織原則で、多数決によって採択された決定は反対した人も含めて全員が従わなければならない、という大前提に基づく。そして上級機関の命令は絶対的な権威を持ち、下級と定められた機関は、上級と定められた機関に無条件に従わなければならない(所謂、日本共産党で言うところの「一級上の指導機関」)、とする制度である。これによると、党の最高機関は地方の党組織が選挙した代議員からなる党大会であり、大会が選挙した中央委員会が次の大会までの最高機関である。中央委員会総会が選挙した政治局が、次の総会まで党の意思を決定する。すべての党機関は多数決で決定する。地方の党組織と党員は中央の決定を無条件に実行する義務を負う。このシステムによって政治局や中央委員会の決定は直ちに全国の地区委員会に周知徹底されるのである。この決定は形式的には民主的だが、党の運営を中央委員会の政治局と書記局に委ね、政治局員を兼ねる者に権力を集中させた。中央委員会には、党の政策を策定してその実施を指導する部局が多数つくられ、1990年代初めには数千人が党中央委員会に勤めていた。このような党の実態は秘密とされ、党員が党中央を批判することは許されなかった。

なお、これを徹底させる為に、1921年のロシア共産党(ボリシェヴィキ)第10回党大会において決議されたのが、組織横断的な団結は厳禁(分派[派閥]の禁止)、というものであった。レーニンは自分達ボリシェヴィキがロシア社会民主労働党から分派しそれが党として独立した経緯を踏まえ、自分の配下に対してはそのような行為はさせないという反面教師による反省を踏まえた措置を採ったのである。なお、それ以前は分派が存在しており、各分派は独自の政綱をかかげ、論争を展開する文化(日本の自民党内における宏池会平成研究会清和会のようなもの。民主党系におけるグループに当たる。)が存在したが、以降急速にその文化は衰退し、スターリン時代の大粛清によって、派閥というものはゴルバチョフの登場まで存在しなくなったのである。(ちなみに90年の党綱領は党の組織原則として民主的統一を定め、党員が党の政策を自由に議論する権利を認めたが、これによる党の再生以前にソビエト共産党は崩壊した。)

この民主集中制によって下から吸い上げられた国民の意見は党の政策に部分的に反映される事もあるが、それとは別に国民は別の方面からも党に慣れ親しんだ。

幼少期には「十月の子(オクチャブリャータ)」に加入したり、小学校の頃には「レーニン記念全ソ連邦ピオネール組織(ピオネール)」に入って課外活動を楽しむなど、“党員候補”として子供の頃から党と慣れ親しむ。

テレビ・新聞・ラジオでは党の決定や党の会議が政治のニュースとして取り上げられ、全ての勤務先には党の組織「細胞」が存在しており、党員によって非党員が「指導」される事もあったのである。

この政党の一組織である細胞を張り巡らせることによる民主集中制と、計画経済を基礎とする所謂、ソ連型社会主義と呼ばれる体制は、党官僚(アパラチク/「器官」の意)による抑圧的な体制であり、言論などの表現や集会、結社の自由は事実上、存在しなかった。

これを分かりやすく言えば、国家全体に国民のうち10人に1人の割合で風紀委員が存在し、委員長タイプの人が指導をしてくるという感覚である。

それによって党は国民を細部まで管理し、国民の意識深くにまで浸透したのである。

こうした党による国家の各単位把握、及びその二重権力体制はしばしば「党=国体制」等と呼ばれている。


  • ソ連共産党の組織的役割

ソビエト連邦共産党は、一口に言えばソ連を動かす原動力である。初代最高指導者のウラジーミル・レーニンは、共産党について、

「我々は、現代の英智と名誉と良心を党のうちに見る。」

と文学的に表現したが、党の性格と役割は1986年3月に第27回党大会で改正され、採択された党規約の前文を見れば、

党はソ連社会の社会・政治組織の最高形態であって、ソビエト社会の政治体制の中核であり、ソビエト社会を指導し続ける勢力である。党は国の発展の基本的展望を定め、国民の創造的活動の科学的指導を確保し、最終目的の達成、即ち共産主義の勝利を目指すその闘争に組織的・計画的且つ一貫的な性格を与える。

と規定している。

1977年10月、第9期最高会議第7臨時会期で採択された、3番目にして最後のソビエト連邦憲法であるブレジネフ憲法を参照しても、第1部「ソ連邦の社会制度と政治の基礎」の第1章「政治体制」第6条で次のように述べている。

ソビエト連邦共産党は、ソビエト社会を指導し、方向付ける勢力であり、ソビエト社会の政治体制、国家機関と社会組織の中核である…。

マルクス・レーニン主義の学説で武装した共産党は、社会発展の全般的な見通しをたて、ソ連邦の内外政策の方針を決定し、ソビエト国民の偉大な創造的活動を指導し、共産主義の勝利を目指すソビエト国民の闘いに計画性と科学的裏付けを与える…。

このように、憲法により社会や国家における党の指導的立場が明記されていた為に、強固な一党独裁支配体制の理論的根拠となっている。言わば、ソビエト連邦は、プロレタリアート独裁と前衛党革命指導を憲法により“保障”されている国家体制であったと言える。

党による指導という名目での党による支配の実態は以下のとおりである。

まず大前提として、共産党と政府は2つで1つの統治機構として人民の上に君臨する存在であり、その中央委員会、とくに政治局の決定がソ連の最高規範であった。共産党が、政治支配だけでなく、経済、教育、芸術、科学などあらゆる分野を「指導」してきた一党独裁。党と政府とが合同して初めて「ソ連邦」という国家であった。ある国家の歴史が、そっくりそのまま一つの「党」の歴史でもあるというのは、政党政治が自明となった20世紀においても極めて特異な存在であると言える。ソビエト連邦という国家は、「新しいタイプの党」と呼ばれた共産党(プロレタリアート階級独裁の前衛党)による「指導」に基づいて、その意思を伝達、体現する存在でしか無かった。党あってのソビエト連邦であったことは、1991年12月のソ連崩壊の展開過程が示している。党中央が解散した後僅か数ヶ月で『ソ連邦』とは歴史的呼称となったからである。(因みに中国共産党と中華人民共和国とは、明確に“国家の上に党が位置”している形態を採用しているが、ソ連共産党とソ連邦とはどちらかと言うとコインの裏表のように2つで1つ、といった側面が強かった。)

つまり具体的に言えば、ソ連の最高機関(議会、日本で言う国会)である最高会議(ソビエト)の中核は党である。党の指導と承認が無ければ、最高会議は重要事項を決定する事すら出来ないのである。それだけでは無い。最高会議と同じく、行政権を握る政府も、司法権を掌る裁判所も、一皮捲れば、中核である「党組織」が姿を現す。ソビエト社会内のあらゆる小社会で共産党は影のように存在し、軍・労働組合・作家同盟・スポーツ団体・婦人団体などの各種大衆組織も、中核たる党のまわりに組織を広げている党は、ソ連の隅々まで遍在する構造であり、ソ連のすべての組織にその代表者がいた。どの国家機関、企業、施設、団体にも専用の部屋をもつ党委員会または党ビューローがつくられ、その責任者は機関などのナンバー2の地位をもち、その給与と党委員会またはビューローの事務経費は、国家機関などの予算でまかなわれた。これにより共産党は、国家機関や民間組織を内部から支配することが可能であった。学校、高等教育機関、工場、病院、研究所、軍隊等々に浸透していたのである。これらの小社会に対して党は指名職名(ノーメンクラトゥーラ)制によって最も強い権限を保持していた。憲法その他の法令や各種団体の規約に違反して、中央、地方の党委員会が秘密の指名職名表(ノーメンクラトゥーラ)により、中央、地方の議員、国家機関、国有企業、コルホーズ、大学、研究所、劇場、労働組合などの幹部を秘密に決めていたのである。これによって党は、多極化するソビエト社会をくくっていたのだ。このマルクス・レーニン主義党は世界観党であったからその理念に応じて社会をつくってきたのであり、それゆえソビエト社会全体が一つの位階制社会と特徴づけられたのである。

党員の学歴上昇とか専門家・党員の増大といったことが、こうした党のあり方の反映でもあったわけであり、ソビエト社会学者の調査はそのことを明示していた。

かくて、ソビエト社会は、学歴位階=職種位階=所得位階=参加意識位階=党員位階=宗教者逆位階、という位階制の強い社会として特徴づけることができた。そしてその貫徹が、複雑に多元化するソビエト社会をミクロのレベルでも締めくくっていたのである。

このような位階制を制度として運用しつつソ連全土に張り巡らされた党組織は、国家機構の党組織による業務代行(подмена)が実際に生じたことさえあった(業務代行が目的として掲げられたことはなく、正しい活動と認められたこともなかったのも確かではあるが)。正にこのような全国に展開している党組織によって、党はソビエト社会を「指導し、方向づける」事が出来るようになっている訳であるが、こうした「主権在党」とも言われる統治方式を成立させていたのは、神経系のように張り巡らした党のネットワークによる国家・経済、社会の制御、そしてそれら党機構と国家・社会の蝶番として縁の下の力持ちをしていた党官僚(アパラチク)達である。

彼らによって、国家の裏に影のように存在した共産党は、ソ連邦の文字通り、東西南北各地の先端に至るまで、人々のイニシアティブを握り、「指導」による統治を実施していったのである。

尚、この仕組みは初めはレーニン時代に生まれたものであったのだが、ゴルバチョフ政権時のペレストロイカの進行の中で次第に明らかにされ、1989年に党が持つ間接的人事権は廃止された。1991年7月には政党が官庁や企業の中で活動する事が禁止され、党委員会による秘密の指導もグラスノスチ(情報公開)と複数政党制の導入の為、遂に機能しなくなったのである。


  • 党による『政治的指導』とは?

「党」がソ連社会を動かすのは、「命令」によってでは無く、「政治的指導」によるとされる。

かつて、ヨシフ・スターリンは、アメリカの労働組合の指導者との会談で、

ソビエトや労働組合、その他の大衆組織は、“『党』の指導”なくしては、重要な政治上、又は組織上(人事上)の問題を決定し得ない。

と、語った事があると言う。

この場合の“党の指導”が、正に「政治的指導」と呼ばれるものであろう。

ソ連ではあらゆるレベルで党が政策の基本を決定し、国家機関がそれを具体化し、法制化し、実行していくという形をとっていた。

この場合、党はまず、ソ連社会の発展の基本的展望を定め、社会・経済分野やイデオロギー分野の主要課題を設定し、人材の登用と配置を行う。そして、ソビエトやその他の国家機関、経済機関、社会団体、勤労者集団の中の党組織を通じて、一般的統制(監督)を行い、党の政策の実現を図る訳である。

勿論、党が国家的業務の直接管理の機能を引き受けたり、自らソビエト機関や社会団体に取って代わったり、それらを後見する事が、党の指導では無い。

反対に党は、これら諸組織のイニシアティブと自主的活動を全面的に発展させる事を目指しているという。

党規約も、

党組織は、ソビエト、労働組合、協同組合やその他の社会団体に取って代わるような事が無いようにし、党機関の機能と他の機能の混同を避け、活動上の不必要な重複を許さない。(第60条)」

と謳っている。

しかし、実際には党政治局員がソ連最高会議幹部会議長やソ連閣僚会議議長を担当しており、党機関員と国家機関員は密接な人的関係にあった。

要は、人事面や実行プロセスから

「党」と「政府や労働組合など」

の関係を比べた場合は、

「金と人事権を握っているホールディングス会社」と「同じグループの事業会社」

の関係になるし、

「党」と「各地の自治体の評議会(ソビエト)」

との関係は

「職員会議」と「生徒会と学級委員」

となる。

そして、「政治的指導」を学校で例えるならば、

「部長と部員の基本的な自治に任せるけど、校則や法律に触れそうになったり、部内のトラブルを収めたりする時に、“助言”する顧問」

を思い浮かべてくれれば良いだろう。この場合の顧問は、部長などにとって代わって運営し直接指揮下に置くことはせず、“道を示す”事を主な役割としているが、党の政治的指導の役割も、それとほぼ同じ事なのである。

この為、党としては、党機関が政治指導機関に徹し、国家機関にとってかわることのないよう努力していたが、党機関と国家機関の機能の癒着の傾向がみられた。

事実上、中央、地方の党委員会は国家機関、施設、団体に直接に“指令に近い”指導を下し、裁判所にも判決について指導が出ていたが、この事も国家の秘密とされていた。

党の書記長や第一書記が当該レベルの国家機関の最高指導者よりも上位にある如く、ソ連はやはり党主導型国家であったのである。

党名

  • (前身政党)ロシア社会民主労働党

(1898年3月 - 1912年1月)

Российская социал-демократическая рабочая партия/РСДРП

…ロシア語読みは「ラッシースカヤ・サツィアル・デモクラティチェスカヤ・ラボーチャヤ・パールチヤ/略称:エル・エス・デー・エル・ペー」。1912年1月の[ボリシェヴィキ“多数派”]成立まで。


  • ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ(多数)派

(1912年1月 - 1918年3月)

Российская социал-демократическая рабочая партия(большевиков)/РСДРП(Б)

…ロシア語読みは「ラッシースカヤ・サツィアル・デモクラティチェスカヤ・ラボーチャヤ・パールチヤ(バリシェヴィコフ)/略称:エル・エス・デー・エル・ペー(ボ)」。1918年3月のロシア共産党ボリシェヴィキへの改称まで。


  • ロシア共産党(ボリシェヴィキ)

(1918年3月 - 1925年12月)

Российская коммунистическая партия(большевиков)/РКП(Б)

…別名「全ロシア共産党」、あるいは「全ロシア共産党ボリシェヴィキ」。ロシア語読みは「ラッシースカヤ・カムニスチーチェスカヤ・パールチヤ(バリシェヴィコフ)/略称:エル・カー・ペー(ボ)」。レーニン中央委員兼政治局員が改称。(括弧付きが正式な党名)。


  • 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)

(1925年12月 - 1952年10月)

Всесоюзная коммунистическая партия(большевиков)/ВКП(Б)

…別名「全地域ソビエト連邦共産主義多数派党」、通称:全連邦共産党(ボ)[ロシア語略のВКП(Б)、ボリシェヴィキの(ボ)]。ロシア語読みは「ヴシェサユーズナヤ・カムニスチーチェスカヤ・パールチヤ(バリシェヴィコフ)/略称:ヴー・カー・ペー(ボ)」。スターリン書記長が改称。(括弧付きが正式な党名)。


  • ソビエト連邦共産党

(1952年10月 - 1991年11月)

Коммунистическая партия Советского Союза/КПСС

…ロシア語読みは「カムニスチーチェスカヤ・パールチヤ・サヴェーツカヴァ・サユーザ/略称:カー・ペー・エス・エス」。全連邦共産党第19回大会において、スターリン書記長が改称。

思想/イデオロギー

マルクス・レーニン主義

ソビエト連邦共産党は、マルクス・レーニン主義を公式のイデオロギーとして定めている。マルクス・レーニン主義とは、ロシア10月革命の指導理念としてボリシェヴィキの指導者ウラジーミル・レーニンが案出したものを、レーニンの死後、ヨシフ・スターリンが提唱し定式化、「帝国主義とプロレタリア革命の時代における階級闘争の新たな条件の下、レーニンに創出されたマルクス主義の教義」と定義された。

ソ連共産党において、マルクス・レーニン主義の存在は、マルクス主義へのレーニンの貢献とみなされ、哲学的、経済的および社会政治的な諸見解の、社会・自然・人類の思考の変化の法則、階級闘争と社会主義への移行(資本主義の打破を含む)、社会主義的・共産主義的社会の建設に直接に携わる勤労者の創造的能力に関する、世界の革命的な変革と知識の概念的な見解を統合する、単一真正の科学的システムとして賞賛された。


この思想の根本には、労働者や農民の階級意識(例えば、資本家や地主に搾取されていること)を目覚めさせ、彼らを闘争に立ち上がらせるには、少数精鋭による職業革命家の集団である共産党(前衛党)による指導が必須である、とした(前衛党論/外部注入論)考えがある。

本来は、階級による独裁を意味するプロレタリア独裁の理論を応用し、党による一党独裁制を正当化したのである。


又、党は労働者、農民、知識人の前衛組織であり、社会・政治組織の最高の形態であると規定されていた為、政府との事実上の一体化、「下部組織は上部組織に従う」(民主集中制)、「鉄の規律」、社会のあらゆる部門に党委員会の細胞を張り巡らせて統制するといったソ連における共産党のあり方が確立された。


これらのシステムは、プロレタリア独裁、民主集中制、前衛党論などで構成されたこの社会主義理論と共に世界へと発信され、後に多くの国家で独裁主義的な社会主義国の指導党を生み出す事となった。


詳しくは、マルクス・レーニン主義を参照のこと。

党歴代最高指導者

党歴代最高指導者

The Great Lenin (3)

最高指導者在任期間:1912年〜1924年

【役職名一覧】

ロシア社会民主労働党中央委員・政治局員(1898年3月 - 1912年1月)

ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ(多数派)中央委員・政治局員(1912年1月 - 1918年3月)

ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員・政治局員(1918年3月 -1924年1月)


約瑟夫•維薩里奧諾維奇•斯大林(スターリン)

最高指導者在任期間:1924年〜1953年

【役職名一覧】

ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会書記長・中央委員・政治局員・組織局員(1922年4月 - 1925年12月)

全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会書記長・中央委員・政治局員・組織局員(1925年12月 -1952年10月)

ソビエト連邦共産党中央委員会筆頭書記・中央委員・政治局員(1952年10月14日-1953年3月5日)


マレンコフおじさん

最高指導者在任期間:1953年

【役職名一覧】

ソビエト連邦共産党中央委員会筆頭書記・中央委員・政治局員(1953年3月7日 - 3月14日)


センシティブな作品

最高指導者在任期間:1953年〜1964年

【役職名一覧】

ソビエト連邦共産党中央委員会筆頭書記・中央委員・政治局員(1953年3月14日 - 1953年9月7日)

ソビエト連邦共産党中央委員会第一書記・中央委員・幹部会員(1953年9月7日 - 1964年10月14日)


レオニード・ブレジネフ

最高指導者在任期間:1953年〜1982年

【役職名一覧】

ソビエト連邦共産党中央委員会第一書記・中央委員・幹部会員(1964年10月14日 - 1966年4月8日)

ソビエト連邦共産党中央委員会書記長・中央委員・政治局員(1966年4月8日 - 1982年11月10日)


Send you to Lubyanka!!!

最高指導者在任期間:1982年〜1984年

【役職名一覧】

ソビエト連邦共産党中央委員会書記長・中央委員・政治局員(1982年11月12日 - 1984年2月9日)


契尔年科传(chernenko)

最高指導者在任期間:1984年〜1985年

【役職名一覧】

ソビエト連邦共産党中央委員会書記長・中央委員・政治局員( 1984年2月13日 - 1985年3月10日)


Gorbachev

最高指導者在任期間:1985年〜1991年

【役職名一覧】

ソビエト連邦共産党中央委員会書記長・中央委員・政治局員(1985年3月11日 - 1991年8月24日)


〔書記長代行〕

  • (ウラジーミル・アントーノヴィチ・イワシコ)

最高指導者代行在任期間:1991年

【役職名一覧】

ソビエト連邦共産党中央委員会書記長代行・中央委員・政治局員(1991年8月24日 - 1991年8月29日)

※ゴルバチョフ書記長辞任後に、党中央委員会自主解散までの間の5日間、ゴルバチョフに代わって党の最期を仕切った、ゴルバチョフ書記長の時代のNo.2である副書記長。代行であることと、国家の役職を兼任していない事などを含め、彼はソ連共産党最高指導者には含まれていない。因みに、共産党解散後、ゴルバチョフがソビエト連邦の最高指導者であるソ連大統領を辞任するのは、その4ヶ月後の12月のことである。

ソビエト連邦共産党党綱領

〈当時:通称『鉄の規律』(マルクス・レーニン主義派(スターリン派閥のルールとも)〉(引用)

  • ソビエト連邦共産党は、闘争は、プロレタリア(労働者)の本当に先駆的な前衛的(アバンギャルド)な一部、集団農業(コルホーズ)の一部、インテリゲンチュア(知識人)、団結した組織的義勇軍、ソ連の人々の先駆者と『契約』した〈聖書言:『テスタメント』〉。(前衛党)
  • プロレタリア(労働者)の先駆者として共産党の栄光に踏み切ったレーニンによって建設され、偉大なロシア10月社会主義革命、ソビエト連邦における労働者らの独裁の確立への勝利へと汗を流し農民らを主導した。
  • ソビエト連邦共産党の名の下に、邪悪を行っていた階層を排除し、ソビエト連邦における道徳、政治的団結を強化して開発してきました。
  • 共産党、労働者の党はすべての当事者となっています。
  • 党はすべての人々のために存在し、人々に提供します。それはソ連社会の力をリードし導く、社会政治的最高の形である。
  • 当事者(共産党、労働者、ソ連政府)はソ連の人々の偉大な建設的な作業を指示し、究極の目標を達成するために彼らの、組織的、計画的、科学的に実証された物語(計画)を授けます、共産主義の勝利を。(共産党がすべてにおいて最良の計画を与えます。)
  • 党は党の命である、レーニン主義の規範、集団指導の原則、党内民主主義(党員統制、民主集中制ともいう。)、コミュニスト(共産党員)の活動の主導権、批判と自己批判と自己批判の総合的な開発の厳守に基づいてその作業の基礎である。
  • 共産党の命である規律は、イデオロギーと組織の結束、その階層の堅牢性、すべての共産党員の高い意識の規律。当事者はプログラム共産党の規則とその行動で、高い意識の共産党員を損なうことに違反した人から排除する。
  • 共産党の全ての活動に共産主義社会を構築する時に党の主要な任務を定義して、その計画に基づいて開発されたマルクス・レーニン主義教義ドクトリン)によって導かれている。
  • 独創的な共産党、革命的な理論的共産主義党は、修正主義者の論理的教条主義(社会民主主義)、修正主義(社会主義全般〈社会改良主義、民主社会主義国家社会主義他〉)とは徹底的に戦争して、マルクス・レーニン主義を開発する。(社会主義者どまりの者たちは絶対許さぬ。)
  • ソ連共産党、国際共産主義(インターナショナル)と労働運動の重要な、不可欠な部分。それは、プロレタリア国際主義の『契約』とマルクス・レーニン主義の原則にしっかりと立って積極的に国際的な共産主義と労働運動の団結、すべての国の共産主義者の大軍との兄弟関係強化に貢献しています。

【追記2】

  • 本来、社会主義と共産主義にはクレバスよりも深い溝が存在しているようだ。
  • 安易に社会主義を名乗るほうが資本主義よりもソ連共産党の逆鱗に触れた。
  • すべての社会主義・共産主義政党のモデルケースである。
  • 無神論党で有名というより共産党綱領原理以外のものは排除するようにできているので、ロシア正教ほか宗教が教会を破壊され、神父やキリスト教を捨てきれない人々は徹底的に弾圧・処刑された。信仰に生きる人の場合は、を捨て共産党に帰依するしかなった。そして〈信仰を無理やり変えさせる〉というのは背徳性・精神的拷問に近い感覚があるらしい。一応、共産党公認キリスト教会はあった。
  • キリスト教世界、特にカトリック世界では、ローマ帝国東ローマ帝国オスマン帝国次ぐ最大の脅威という認識であった。
  • 党綱領にでてくる『契約』という表現が、キリスト教義における『神と人との契約』もっと言うと『聖書』そのものである。この場合の契約は『共産党と人との契約』だろうか。
  • キリスト教特にカトリックの歴史からすると、〈信仰を強制的に変えられる〉という状況、〈変えさせるほどの存在〉が登場したのは、ローマ帝国の時と大弾圧とオスマン帝国のヨーロッパ世界の一部支配による強制改宗などである。この場合のカトリック体制への脅威度でいうとソビエト連邦はローマ帝国並みに相容れない体制と目された。こうゆう敬意から西側諸国の信仰保守層からは『サタンの党』といわれた。キリスト教ならびに、イスラム世界にも最大の脅威であった。
  • ソ連共産党にはスターリン書記のやりすぎの整理整頓により、右派・左派というものはゴルバチョフ(共産党改革派)が登場するまで存在しない。
  • 同志』という言葉は一言も出てこない。

党員要項

党員(Член/チレン)

共産党員は共産主義の建設、そして物質的・技術的基礎の創出のために戦うことが任務とされている「真の共産主義者」とされる。

単純に言うと、ソ連の体制を支える為の社会的模範になる事である。即ち、眠気と戦いながらマルクス・レーニン主義を学び、指導者が変わる度に中身も変わる党中央の最新の政治動向を常に頭に入れておく必要がある、という事である。

又、論文を執筆して党の機関誌に投稿する事も重要な任務で、コツはマルクスやレーニンの言葉をどう上手く引用するか、という点で、更に現在の指導者の言葉も記すなども重要なポイントである。

更に、党員は職場では熱心に働き、残業(その中でも特に現代日本で言うところの「サービス残業〈通称、サビ残〉」)する事も奨励され、休日には公園や広場で清掃などの無償奉仕もしなくてはならない(全世界ホワイト労働化を謳った党の癖して、かの電通も真っ青のブラック体質である)。

そして、共産党員に相応しい人材を見つけ、体制に忠誠を違う優秀な人材を発掘し、党の勢力の拡大に繋げる事なども重要な仕事になる。こちらの党勢拡大に関しては、将来の出世にも関わってくるので大変重要で、ゆくゆくは自らを後押しする派閥の第一歩になると位置付けられていた。

しかし、それだけに共産党員は特権階級であり、住宅や教育など様々な面で優遇を受けていた。更に給料にも差があり、同じ能力の場合は党員が優先されて職場での出世スピードも上がったり、共産党員専用の商店を利用出来るようになることで品質の良い肉や野菜が手に入る、更にはウォッカやブランデー等も高級なものを購入出来るようになってくるのである。

また、それ自体巨大な集団となっていた党は、完全な位階制が貫徹し、下級細胞からトップの党中央委員会政治局、書記長に至るまでのピラミッドを形成していた。党員は、ソビエト連邦を構成する共和国や自治区にもそれぞれ共産党が置かれていた為、それら地方の党組織の統制下に置かれていた。中央委員会も各地区委員会も、それぞれのレベルで重要なポストには常に目配りをしている。その為、運良く有能であると一度認められれば、上のクラスへと昇格出来るチャンスを掴む事も出来たのである。

この党員の規範となってきたのが、文字通りの「鉄の規律」、そして一枚岩の様な「血の結束」による堅い団結であった事は言うまでも無い。それこそ正に軍事的規律に近い、「鉄の規律」と「血の結束」を持った組織として形作られてきたのが共産党という組織機構である。軍隊に「職業軍人」が不可欠であるように、共産党も「職業革命家」、即ち全体を指揮する“幹部”の集団を意識的に創り上げてきたのである。

この軍隊方式の秘密組織は、官僚社会、企業などにも広く浸透し、ソビエト社会の最終的紐帯をなしていた。

  • 入党手続き

①所定(通常1年)の候補期間期間を経る(党員候補)。

18歳以上で入党できるが、通常26歳以下はコムソモールを経る。党員候補は議決権を持たず、審議権のみ持つ。

この党員候補の意義は『大ソビエト百科事典』によると、「共産党綱領と憲章に精通し、党員になる準備をするためである」とされている。

この期間は一種の試用期間で、数か月から3年まで続くこともあった。

②入党希望者を1年以上知っている党歴5年以上の3名の党員の推薦。

③入党は公開の初級党組織の党員集会で審議、3分の2の多数決。

  • 入党に関する年齢資格

入党の年齢資格について、1975年の党規約によると「…党には、18歳に達した者が採用される。23歳以下の青年は全連邦レーニン共産主義青年同盟を通してのみ入党する。(第4条)」とある。

この「23歳以下」というコムソモールを通してしか入党し得ない年齢制限は1966年の党規約の改正によって引ぎ上げられたのであって、旧党規約では「20歳以下」とあった。また後に、「26歳以下」と改正されたようである。

  • 党員として

党費を納め、党の統制下に置かれることになる。

党費の支払いが終わる度に、党員証にその旨が記載される。

綱領・規約と党員

「党員は、党綱領・規約を承認し、共産主義建設に積極的に参加し、党組織の1つで活動し、党決定を守り、党費を支払う。」

  • 党員登録カード(人事録)と党員証

入党後に交付。党員登録カードによって党員は名簿として管理され、これがノーメンクラトゥーラ(номенклату́ра)制の基礎となった。

  • 離党

3ヵ月の党費滞納。

  • 除名処分

①初級党組織総員集会で3分の2の多数決。

②各級党委員会委員は当該委員会で3分にの2の多数決。

・(離婚をした場合などは、党員資格剥奪になる場合が多かったとされる。)

党員の全体像

ロシア二月革命の頃、僅か2万余名と言われた党員は、1930年には100万人を超え、1990年では1750万を数えるそれ自体膨大な社会内社会をなしていた。

1980年代の党員の特徴を幾つか挙げてみよう。

  • 女性党員の増加が著しい。

1920年ころ1割にも満たなかった女性党員は約4分の1にも達し、その割合はなおも増加傾向にあった。

  • 党員の学歴は顕著に高まっていた。

1927年には高等教育(含大学)修了者は1%にも満たず、6割以上もが初等教育止まりであったが、1970年代半ばには高等教育卒は4分の1にも達した。これは無論一般国民の教育水準の上昇という傾向の反映でもあるが、しかし、実は党員中での高等教育卒は一般国民中のそれよりもはるかに高い水準であり、党が学歴の面でもエリート集団と化していたことが明らかである。

  • いわゆる「専門家」としての中等・高等教育を受けた「コムニスト・スペツィアリスト(専門家共産党員)」が増加していたこと。

革命後まもない軍隊や企業で、党と専門技術者との管理指導上の主導権問題は深刻であり、中国などでも「紅か専か」といった形でしばしば問題となってきたわけであるが、ソ連ではこうした形で次第に解決が図られていたともいえよう。1939年にもなお15%に満たなかったこの種の党員は、半ば以上にまで増加していたのである。

党機関の選挙

基本的には、ソ連での選挙は、党組織であってもソビエトであっても、原則として無記名(秘密)投票による普通・平等・直接選挙である。ただし、例外として、15名以下の組織については、公開投票をする事も可能ではある。

投票は、候補者一人ひとりについて投票するのだが、実際には、ノーメンクラトゥーラ制により、定員と同数の候補者が示され投票していた(事実上の任命制かまたは信任投票制)。

  • 系統的更新および指導の継承性

「系統的更新」は、一定の割合で入れ替えを行ない、また長期の重任をしないということの穏やかな表現であるが、ブレジネフ時代には同一人物が20 年以上同一ポストにとどまる例は珍しくなかった。それは「指導の継承性」で合理化された。

党首格のポスト

名目上、共産党には党首がおらず、中央委員会には議長がいない。政治的な最終意思決定を行う中央委員会の上位機関である政治局にも、それを取り纏める政治局長は居ない。これは、共産主義を目指す党故の平等主義から来るものではあったが、しかし、中央委員兼政治局員として、圧倒的なカリスマ性で革命を指導した初代最高指導者のレーニンを除いて、トップとしての役職を持たずに党を指導出来る人間は遂にいなかった。その後、スターリンが書記長として独裁者となったため、実質的に書記長が共産党の党首である。

ここでは、書記長並びにそれに準ずるポストを解説する。


書記長

正式名称:ソビエト連邦共産党中央委員会書記長/Генеральный секретарь ЦК КПСС(ロシア語読み:ゲネラル・セクレタリー、略:генсек[ゲンセク])

党の事務方トップであり、様々な重要ポストの名簿リストである指名職名表(ノーメンクラトゥーラ)に基づいて党人事を決定出来る人事権を握っていた、事実上の党最高指導者。

初代書記長はヨシフ・スターリン、最後はミハイル・ゴルバチョフ

書記長官邸所在地ソビエト社会主義共和国連邦ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国/モスクワ州/モスクワ市/クレムリン「元老院宮殿(カザコフ館)」
任命ソ連共産党中央委員会
創設1917年4月
初代エレーナ・スタソヴァ(中央委員会専門書記)
最後ウラジーミル・イワシコ(中央委員会書記長代行)
廃止1991年8月29日

  • 概要

書記局及び所属する書記、そして党全体を指導する党最高指導者

ソ連の最高権力者は、国家元首として西側世界の大統領などに相当する最高会議幹部会議長では無い。ましてや首相でも無い。この、ソ連共産党中央委員会書記長こそが、ソ連とソ連共産党全体を“指導”する絶対的な最高権力者なのである。

無論、ソ連のファーストレディーは、書記長夫人に他ならない。

確かに、ソ連の最高会議幹部会議長は、国家権力の最高機関である、「最高会議(ソビエト)」(日本で言う国会に相当)によって選出される国家元首である。議長が諸外国を訪問すれば、大統領や国王並みに21発の礼砲で迎えられる。が、このポストには実権が伴っていない。単なる権威的、儀礼的な役職でしか無く、つまるところ、日本の象徴天皇やドイツやイタリアにあるような儀礼的な大統領などと、本質的に同じものであると考えてもらって良い。

それに引き換え共産党書記長は、幹部会議長を兼ねていなければ、首相並みの19発の礼砲で遇せられる事もあるのである。

だが、最高会議で幹部会議長の候補者を指名するのは、代議員としての共産党書記長であり、行政府の長である首相もこれまた最高会議で選出されるが、こちらの候補者を推薦するのも、これまたやはり、共産党書記長なのである。

最高会議は常に書記長の推薦を満場一致で採択する為、事実上、国家元首である幹部会議長も、行政府の長である首相も、党書記長によって選任されるのに等しい。書記長がこれらの、実質的な役職より上位にある事への証左である。

もっとも、後のブレジネフ書記長の時代になると、この様な矛盾を解消する為、共産党書記長が半ば自動的に最高会議幹部会議長を兼任する慣習が出来るようにはなる。

  • 書記長の権力

ソ連のワンマンとも言える書記長の権威と権力は、ソ連社会全体を動かしている共産党の事実上の“党首”である事、それに基づいてソ連の内外政策の指導権と幹部要員の任免権を握っている事、更にソ連体制を実力で支え続けているKGBをはじめとする秘密警察と、強大な武力でソ連内外に影響を及ぼしているソ連軍の事実上の統率者である事に由来する。

ソ連の当面の内外路線は、5年毎の党大会によって策定されるが、この党大会で基調報告を行うのは書記長であり、報告は満場一致の承認を受けて、その具体化と執行が、最高会議の常設機関である最高会議幹部会や、閣僚会議(政府)に依託される。

つまり、党こそがソ連の政治のイニシアティブを取っているのである。

政治だけでは無い。国民のモラルや教育、文化の分野に至るまで、全てしっかりと党の指導と統制が行き渡っている。国民にウォッカの暴飲をやめるように諭し、職場規律の確立を呼び掛け、汚職を厳しく糾弾するのは党である。科学技術の時代に相応しく教育改革を進める一方で、正統的なイデオロギーを鼓吹して、国民を社会主義の完成に奮い立たせようとするのも党である。

そのような党の“顔”である書記長は、従って、単に政治指導者であるだけでは無く、“人民の教師”でもなければならない。文字通り、「万能の人」として機能する事が求められるのである。

その言葉通り、スターリンが死んだ時、モスクワ放送は彼を

「ソ連共産党とソ連人民の賢明な指導者にして教師」

と呼んだものである。

その為、彼らはそれなりの長時間勤務に耐えていた。例えばブレジネフ書記長は一日のうち、具体的には朝8時45分頃から夜中10時30分まで勤務して、それでも余ってしまう書類をパンパンになるまでカバンにつめて家に仕事を持ち帰る日々を送っており、時に一日16時間労働になったと言われている。(もっとも、夜型人間であったスターリン時代に鍛え上げられたブレジネフにとっては、この位の勤務は、どうということは無かったらしい。)勿論、それは必要な事で、彼ら共産党書記長は、ソ連という国の全てを動かしているし、また、動かさなければならないのである。

書記長とは、その名の通り、本来は事務組織である書記局の長で、党の事務方のトップとしての、いわゆる事務総長、事務局長などのような意味合いの役職として創設された。しかし、スターリン書記長によって、書記局が組織局を事実上の支配下に置かれた後、書記長の権限の中に、党人事の記録を管理するという、本来は組織局の管轄であるはずの権限が付与されるようになり、その為に、ノーメンクラトゥーラ(指命職名表)に基づく重要管理者ポスト人事の任命制と呼ばれる、人事表を使って党人事を決定出来る人事権を握るようになった事から、「同志人事カード」等と呼ばれるようになった。これを契機に権限が拡大されていったこの書記長というポストは、党の最高政治機関である政治局に政治局長というポストが無い事を利用して、人事権を握っている事を背景に事実上書記長が、政治局の長となるようになり、以降、党最高指導部である政治局の毎週の定例会議を主宰し、議長を務めるのは書記長となった。この事から書記長は、人事権を一手に握り、党最高指導部も抑える、事実上の党の代表者となったのである。

日本などに分かりやすい例を出して敢えて例えるならば、総裁というポストが無いので、権限の大きさ故に非公式に党首になってしまった自民党幹事長、あるいは委員長を置かない委員会を非公式に取り仕切る事になってしまった事務局長という所だろうか。

  • 待遇

・書記長の基本給

ソ連共産党中央委員会書記長の基本給は、1ヶ月900ルーブル

これは、1981年当時のソ連の労働者の平均月収167ルーブルの約5倍程度で、そこまで多い額ではない。

ただし、これは書記長という役職に付く給料単体で見た場合である。書記長は連邦最高会議代議員(国会議員)になっているので、この手当が月100ルーブル。更に連邦構成共和国であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の最高会議代議員も兼ねるのでその手当が月50ルーブル。ここまでで合わせて1050ルーブルになるが、高給には違いないものの、それでもやはり作曲家同盟第一書記(ソ連の作曲家が必ず加入させられるソ連の作曲家による協同組合。第一書記はそこのトップで、作曲家事務所の社長みたいなもの。基本給800ルーブルに著作権料などを加算すると推定約1400ルーブル)には劣り、全国的に著名なバレリーナ(公表500ルーブルに出演料を加えて約900~1200ルーブル)と肩を並べる程度である。

しかし書記長は、必ず最高会議幹部会員を兼ね、場合によっては幹部会議長にも就任する事があるのでそれに見合った手当や、書記長が軍の階級を持っている時にはその階級に応じた給料が発生する。更にはその他の兼任するポストに付く手当を含めた場合、はっきりとしている1050ルーブル+αと言ったところだろう。

そうなってくると、やはり書記長の給与はソ連でもトップクラスとなりそうである。

なお、アメリカの大衆紙ピープルによれば、ゴルバチョフ書記長の年収は約1万8700ドル(日本円で約300万円、ルーブルの月収に直すと約1230ルーブル)だという。

※ちなみに、映画「ロッキー」や「ランボー」で売ったハリウッド・スターであるシルヴェスター・スタローンの映画1本の出演料約1200万ドルを書記長が稼ぐには、約642年間も働かなければならない計算になる。言う程のべらぼうな高給取りでは無いのである。

  • 歴史

1919年以降、「責任書記」(ответственный секретарь)が党中央の事務を処理したが、政治的役割は果たさなかった。地方の党委員会の責任書記は、それぞれの委員会の指導者を務めた。

1922年に新設された書記長は、純粋に行政上の規律的な役割であった。スターリンが初代書記長に選出されると、党紀・党に対するあらゆる従属と党の一般方針・派閥争いに対する罰則・党の指導者の仕事を任務とする民主集中制の原則が適用された。より高等な組織が下部組織に全面的に義務を負わせ、党幹部である書記長による統制はより強くなり、党の指導者間における地位は高まっていった。中央政治局の他の局員たちは党幹部からますます分裂し、スターリンが異なる党派を互いに対抗させるのを黙認して漁夫の利を得たことで結局彼ら自身は排除された。1930年までに党のみならずソ連の事実上の指導者にまでなったのはスターリンのみであった。スターリンの権力による支配がより確かなものになったことで、彼は党の公式の役割を軽視し始めるようになる。スターリンの周囲で彼に対する個人崇拝の発生が認められた。

1927年の第15回党大会後の12月19日に開かれた最初の党中央委員会総会にて、スターリンは役職の廃止を提案したが、それは反対された。1934年、1939年、1952年の党大会の後、それにより選出された中央委員会はスターリンが書記長であることを確認するためのものではなくなっていた。むしろ、スターリンは役職に関係なく、政治局員、書記局員、そして組織局員に選出され、「中央委員会書記」として書類に署名することをますます好んだ。しかし1952年10月に書記長職が正式に廃止されるまではスターリンが同職に留まり続けたとみなされている。

1948年以降、スターリンの将来的な後継者としてゲオルギー・マレンコフが書記を務めることになり、組織の指揮を執るようになった。その後、スターリンは書記局の仕事からますます離れるようになる。スターリンが死ぬ少し前の1952年10月16日、スターリンは書記長の役職の廃止(これによってスターリンの権力が衰えることは無かったが)を含む党指導部の再編成を行った。

スターリンの死によって中央委員会の統率が再編成されたとき、書記長の座は一時的に空いたままだったが、書記局には政治局の上級委員である2人の人物、すなわち新首相となるマレンコフとニキータ・フルシチョフがいた。当初書記局の筆頭に名を連ねたマレンコフであったが、後に組織の事実上の支配権を握ったフルシチョフによって、1953年3月14日に書記局から追われた。同年9月14日の党中央委員会にて、フルシチョフはソ連共産党中央委員会第一書記に選出された。当初は集団指導体制を考えていたフルシチョフも、自身の政敵の追放のため、党第一書記の権限を強化した。この「第一書記」という呼称は1964年にフルシチョフを失脚させたレオニード・ブレジネフの時代でも継続されたが、呼称に対する党幹部の不満が表出した。そして、1966年の第23回党大会にて、初期の呼称である「書記長」が復活した。

その後、8月クーデターを受けて、ソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフは書記長を辞任し、副書記長ウラジーミル・イワシコが書記長代行を5日間務めた。1991年8月29日にロシアの初代大統領となるボリス・エリツィンがソ連共産党の全ての活動の停止を命じ、ソ連共産党は解散した。

・その他の党首格のポスト

  • 第一書記(通称:ペールヴィ・セクレタリー。書記長の、主にフルシチョフ時代の呼び方。スターリンによる独裁体制を批判したフルシチョフが、その反省から書記の一人である事を含意して変更した名称。後に第一書記となるブレジネフによって、元の書記長という名前に戻される。)
  • 筆頭書記(ゲオルギー・マレンコフによる集団指導体制下での党指導者の名前。長年に渡り党の最高指導者であり続けた、党書記長ヨシフ・スターリンは、晩年、書記長のポストを廃し、書記局の筆頭にのみ、名を連ねた。彼の死後、彼の補佐役であったゲオルギー・マレンコフが、臨時の指導者として政権を握り、スターリンの後継者として第2代閣僚会議議長[首相]に就任したが、その時マレンコフは同時に書記局の局員(つまりは書記)の名簿筆頭にも名を連ねた為に、筆頭書記の通称が定着した。上記の為、この役職名は、正規のものではない事に注意が必要。)

《党首相当の役職》

  • 書記長代行(ゴルバチョフの書記長辞任後に、党中央委員会自主解散までの間の5日間、ゴルバチョフに代わって党の最期を仕切った際の、ゴルバチョフ政権の副書記長、ウラジーミル・イワシコの役職名。あくまで「代行」であって、正規の党首ポジションでは無いものの、実質的に最後の党首格に相当するので記載する。)

・ソ連共産党書記長等一覧

氏名役職就任退任
エレーナ・スタソヴァロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)中央委員会専門書記1917年4月1918年
ヤーコフ・スヴェルドロフロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会書記局長1918年1919年3月16日
エレーナ・スタソヴァロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会書記局長1919年3月1919年12月
ニコライ・クレスチンスキーロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会責任書記1919年12月1921年3月
ヴャチェスラフ・モロトフロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会責任書記1921年3月16日1922年4月3日
ヨシフ・スターリンロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会書記長1922年4月3日1925年12月
ヨシフ・スターリン全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会書記長1925年12月1952年10月14日
ヨシフ・スターリンソ連共産党中央委員会筆頭書記1952年10月14日1953年3月5日
ゲオルギー・マレンコフソ連共産党中央委員会筆頭書記1953年3月5日1953年3月14日
ニキータ・フルシチョフソ連共産党中央委員会筆頭書記1953年3月14日1953年9月7日
ニキータ・フルシチョフソ連共産党中央委員会第一書記1953年9月7日1964年10月14日
レオニード・ブレジネフソ連共産党中央委員会第一書記1964年10月14日1966年4月8日
レオニード・ブレジネフソ連共産党中央委員会書記長1966年4月8日1982年11月10日
ユーリ・アンドロポフソ連共産党中央委員会書記長1982年11月12日1984年2月9日
コンスタンティン・チェルネンコソ連共産党中央委員会書記長1984年2月13日1985年3月10日
ミハイル・ゴルバチョフソ連共産党中央委員会書記長1985年3月11日1991年8月24日
ウラジーミル・イワシコソ連共産党中央委員会書記長代行1991年8月24日1991年8月29日

中央の役職/政治局員

《政治局》

  • 政治局員(ロシア語:член политического бюро ЦК。政治局を構成する局員。発言権に加え、投票権をもつ。1952年から1966年までの間は、幹部会員[ロシア語:член Президиума ЦК]と呼ばれていた。
  • 政治局員候補(ロシア語:кандидат в члены политического бюро ЦК。発言権のみを持つ。1952年から1966年までの間は、幹部会員候補[ロシア語:кандидат в члены Президиума ЦК]と呼ばれていた。

・歴代政治局員変遷

日付事項
1917年10月23日 正局員:ブーブノフ、ジノヴィエフ、カーメネフ、レーニン、ソコリニコフ、スターリン、トロツキー
1917年11月7日十月革命成功後、機能を一時停止。
1919年3月25日正局員:カーメネフ、クレスチンスキー、レーニン、スターリン、トロツキー
局員候補:ニコライ・ブハーリン、ジノヴィエフ、ミハイル・カリーニン
1919年7-9月政治局と組織局の合意で、中央委書記局長エレーナ・スタソヴァ、一時的に政治局加入。
1920年4月5日正局員:カーメネフ、クレスチンスキー、レーニン、スターリン、トロツキー
局員候補:ブハーリン、ジノヴィエフ、カリーニン
1921年3月16日正局員:ジノヴィエフ、カーメネフ、レーニン、スターリン、トロツキー
局員候補:ブハーリン、カリーニン、モロトフ
1922年4月3日正局員:ジノヴィエフ、カーメネフ、レーニン、ルイコフ、スターリン、トムスキー、トロツキー
局員候補:ブハーリン、カリーニン、モロトフ
1923年4月26日正局員:ジノヴィエフ、カーメネフ、レーニン、ルイコフ、スターリン、トムスキー、トロツキー
局員候補:ブハーリン、カリーニン、モロトフ、ルズターク
1924年1月21日レーニン死去
1924年6月2日正局員:ブハーリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、スターリン、トムスキー、トロツキー
局員候補:ジェルジンスキー、カリーニン、モロトフ、ルズターク、ソコリニコフ、フルンゼ
1925年10月31日フルンゼ死去
1926年1月1日正局員:ブハーリン、ヴォロシーロフ、ジノヴィエフ、カリーニン、モロトフ、ルイコフ、スターリン、トムスキー、トロツキー
局員候補:ジェルジンスキー、カーメネフ、ペトロフスキー、ルズターク、ウグラーノフ
1926年7月20日ジェルジンスキー死去
1926年7月23日ジノヴィエフ中央委員会総会で解任。ルズターク正局員選出。
局員候補:アンドレーエフ、カガノーヴィチ、カーメネフ、キーロフ、ミコヤン、オルジョニキーゼ、ペトロフスキー、ウグラーノフ
1926年10月23日トロツキー、カーメネフ中央委員会・中央統制委員会合同総会で解任。
1926年11月3日オルジョニキーゼ中央委員会・中央統制委員会合同総会で解任。チュバーリ局員候補選出。
1927年12月19日正局員:ブハーリン、ヴォロシーロフ、カリーニン、クイビシェフ、モロトフ、ルイコフ、ルズターク、スターリン、トムスキー
局員候補:アンドレーエフ、カガノーヴィチ、キーロフ、コシオール、ミコヤン、ペトロフスキー、ウグラーノフ、チュバーリ
1929年4月29日ウグラーノフ中央委員会総会で解任。カール・バウマン局員候補選出。
1929年6月21日セルゲイ・スイルツォフ中央委員会総会で局員候補選出。
1929年11月17日ブハーリン中央委員会総会で解任。
1930年7月13日正局員:ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、カリーニン、キーロフ、コシオール、クイビシェフ、モロトフ、ルズターク、ルイコフ、スターリン
局員候補:アンドレーエフ、ミコヤン、ペトロフスキー、スルツォフ、チュバーリ
1930年12月1日スルツォフが中央委員会総会で解任。
1930年12月21日ルイコフ、アンドレーエフが中央委員会・中央統制委員会合同総会で解任。オルジョニキーゼが正局員に選出。
1932年2月4日ルズタークが中央委員会総会で解任。アンドレーエフが正局員に選出。
1934年2月10日正局員:アンドレーエフ、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、カリーニン
正局員②:キーロフ、コシオール、クイビシェフ、モロトフ、オルジョニキーゼ、スターリン
局員候補:ミコヤン、ペトロフスキー、パーヴェル・ポスティシェフ、ルズターク、チュバーリ
1934年12月1日キーロフ暗殺
1935年1月25日クイビシェフ死去
1935年2月1日ミコヤン、チュバーリ中央委員会総会で正局員選出。ジダーノフ、エイヘ、局員候補選出。
1937年2月18日オルジョニキーゼ自殺
1937年5月26日ルズタークは5月25日逮捕の後、中央委員会および党から追放。
1937年10月12日ニコライ・エジョフ が中央委員会総会で局員候補に選出。
1938年1月14日ポスティシェフが中央委員会総会で解任。フルシチョフ局員候補に選出。
1938年4月29日エイヘ逮捕
1938年5月3日コシオール逮捕
1938年6月16日チュバーリが政治局決定で解任。
1939年3月22日正局員:アンドレーエフ、ヴォロシーロフ、ジダーノフ、カガノーヴィチ、カリーニン、ミコヤン、モロトフ、スターリン、フルシチョフ
ベリヤ、シュヴェルニクが局員候補選出。
1941年2月21日ヴォズネセンスキー、マレンコフ、シチェルバコフ、局員候補選出。
1945年5月10日シチェルバコフ死去
1946年3月18日ベリヤ、マレンコフ、正局員選出。ブルガーニン、コスイギン、局員候補選出。
1946年6月3日カリーニン死去
1947年2月26日ヴォズネセンスキーが中央委員会総会で正局員に選出。
1948年2月18日アンケートにより、ブルガーニンの正会員選出を確認。
1948年8月31日ジダーノフ死去
1948年9月4日アンケートにより、コスイギンの正会員選出を確認。
1949年3月7日ヴォズネセンスキー解任。
1952年10月16日正局員:アンドリアーノフ、アーリストフ、ベリヤ、ブルガーニン、ヴォロシーロフ、イグナチョフ、カガノーヴィチ、コロチェンコ
正局員②:クズネツォフ、クーシネン、マレンコフ、マルイシェフ、メルニコフ、ミコヤン、ミハイロフ、モロトフ、ペルヴーヒン
正局員③ポノマレンコ、サブーロフ、スターリン、スースロフ、フルシチョフ、チェスノコフ、シュヴェルニク、シキリャートフ。
局員候補:ブレジネフ、ヴィシンスキー、ズヴェーレフ、イグナトフ、カバノフ、コスイギン、パトリチェフ、ペゴフ、プザーノフ、テヴォーシヤン、ユーディン
非公式の幹部会が以下により組織:ベリヤ、ブルガーニン、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、マレンコフ、ペルヴーヒン、サブーロフ、スターリン、フルシチョフ。
1953年3月5日スターリン死去
1953年3月5日中央委員会、閣僚会議、最高会議幹部会合同会議。
正会員:ベリヤ、ブルガーニン、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、マレンコフ、ミコヤン、モロトフ、ペルヴーヒン、サブーロフ、フルシチョフ
会員候補:バギーロフ、メルニコフ、ポノマレンコ、シュヴェルニク
1953年6月6日メルニコフが中央委員会総会で解任。アレクセイ・キリチェンコが会員候補に選出。
1953年7月7日ベリヤが中央委員会総会で解任。(1953年6月26日逮捕)
1953年7月17日バギーロフが中央委員会総会で解任。
1955年7月12日キリチェンコ、スースロフが中央委員会総会で正会員に選出。
1956年2月27日正会員:ブルガーニン、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、キリチェンコ、マレンコフ、ミコヤン、モロトフ、ペルヴーヒン、サブーロフ、スースロフ、フルシチョフ
会員候補:ブレジネフ、ゲオルギー・ジューコフ、ヌリトディン・ムヒトディノフ、フルツェワ、シュヴェルニク、シェピーロフ
1957年2月14日フロル・コズロフが中央委員会総会で会員候補に選出。
1957年6月29日カガノーヴィチ、マレンコフ、モロトフ、シェピーロフが中央委員会総会で解任。
正会員:アーリストフ、ベリヤエフ、ブレジネフ、ブルガーニン、ヴォロシーロフ、ジューコフ
正会員②:イグナトフ、キリチェンコ、コズロフ、クーシネン、ミコヤン、スースロフ、フルツェワ、フルシチョフ、シュヴェルニク
会員候補:カールンベルジン、キリレンコ、コロチェンコ、コスイギン、マズロフ、ムジャヴァナゼ、ムヒトディノフ、ペルヴーヒン、ポスペーロフ
1957年10月29日ジューコフが中央委員会総会で解任。
1957年12月17日ムヒトディノフが中央委員会総会で正会員に選出。
1958年6月18日ニコライ・ポドゴルヌイ、ドミトリー・ポリャンスキーが中央委員会総会で会員候補に選出。
1958年9月5日ブルガーニンが中央委員会総会で解任。
1960年5月4日ベルヤエフ、キリチェンコが中央委員会総会で解任。コスイギン、ポドゴルヌイ、ポリャンスキーが正会員に選出。
1960年7月16日ヴォロシーロフが中央委員会総会で解任。
1961年1月18日ゲンナジー・ヴォロノフ、ヴィクトル・グリシンが中央委員会総会で会員候補に選出。
1961年10月31日正会員:ブレジネフ、ヴォロノフ、コズロフ、コスイギン、クーシネン、
正局員②:ミコヤン、ポドゴルヌイ、ポリャンスキー、スースロフ、フルシチョフ、シュヴェルニク
会員候補:グリシン、マズロフ、ムジャヴァナゼ、シャラフ・ラシドフ、ウラジーミル・シチェルビツキー。
1962年4月23日キリレンコが中央委員会総会で正会員に選出。
1962年11月23日イェフレモフが中央委員会総会で会員候補に選出。
1963年12月13日シチェルビツキーが中央委員会総会で解任。ペトロ・シェレストが会員候補に選出。
1964年5月17日クーシネン死去
1964年10月14日フルシチョフが中央委員会総会で解任。
1964年11月16日コズロフが中央委員会総会で解任。シェレーピン、シェレストが正会員に選出。デミチェフが会員候補に選出。
1965年3月26日キリル・マズロフが中央委員会総会で正会員に選出。ウスチノフが会員候補に選出。
1965年12月6日シチェルビツキーが中央委員会総会で会員候補に再度選出。
1966年4月8日正局員:ブレジネフ、ヴォロノフ、キリレンコ、コスイギン、マズロフ、ペーリシェ
正局員②:ポドゴルヌイ、ポリャンスキー、スースロフ、シェレーピン、シェレスト
局員候補:グリシン、デミチェフ、クナーエフ、マシェロフ、ムジャヴァナゼ、ラシドフ、ウスチノフ、シチェルビツキー
1967年6月21日アンドロポフが中央委員会総会で局員候補に選出。
1971年4月9日正局員:ブレジネフ、ヴォロノフ、グリシン、キリレンコ、コスイギン、クラコフ、クナーエフ、マズロフ
正局員②:ペーリシェ、ポドゴルヌイ、ポリャンスキー、スースロフ、シェレーピン、シェレスト、シチェルビツキー
アンドロポフ、デミチェフ、マシェロフ、ムジャヴァナゼ、ラシドフ、ウスチノフが局員候補に選出。
1971年11月23日ソロメンツェフが中央委員会総会で局員候補に選出。
1972年5月19日ボリス・ポノマリョフが中央委員会総会で局員候補に選出。
1972年12月18日ムジャヴァナゼが中央委員会総会で解任。
1973年4月27日ヴォロノフ、シェレストが中央委員会総会で解任。アンドロポフ、グレチコ、グロムイコが正局員に選出。ロマノフが局員候補に。
1975年4月16日シェレーピンが中央委員会総会で解任。
1976年3月5日正局員:アンドロポフ、ブレジネフ、グレチコ、グリシン、グロムイコ、キリレンコ、コスイギン、クラコフ
正局員②:クナーエフ、マズロフ、ペーリシェ、ポドゴルヌイ、ロマノフ、スースロフ、ウスチノフ、シチェルビツキー
ヘイダル・アリエフ、デミチェフ、マシェロフ、ポノマリョフ、ラシドフ、ソロメンツェフが局員候補に選出。
1976年4月26日グレチコ死去
1977年5月24日ポドゴルヌイが中央委員会総会で解任。
1977年10月3日クズネツォフ、チェルネンコが中央委員会総会で局員候補に選出。
1978年7月17日クラコフ死去
1978年11月27日マズロフが中央委員会総会で解任。チェルネンコが正局員に選出。チーホノフ、シェワルナゼが局員候補に選出。
1979年11月27日チーホノフが中央委員会総会で正局員に選出。ゴルバチョフが局員候補に選出。
1980年10月4日マシェロフが自動車事故死。
1980年10月21日コスイギンが中央委員会総会で解任。ゴルバチョフが正局員に、キセリョーフが局員候補に選出。
1981年3月3日正局員:アンドロポフ、ブレジネフ、ゴルバチョフ、グリシン、グロムイコ、キリレンコ、クナーエフ、ペーリシェ
正局員②:ロマノフ、スースロフ、チーホノフ、ウスチノフ、チェルネンコ、シチェルビツキー
アリエフ、デミチェフ、キセリョーフ、クズネツォフ、ポノマリョフ、ラシドフ、ソロメンツェフ、シェワルナゼが局員候補に選出。
1982年1月25日スースロフ死去
1982年5月24日ドルギフが中央委員会総会で局員候補に選出。
1982年11月10日ブレジネフ死去
1982年11月22日キリレンコが中央委員会総会で解任。アリエフが正局員に選出。
1983年1月11日キセリョーフ死去
1983年5月29日ペーリシェ死去
1983年6月15日ウォロトニコフが中央委員会総会で局員候補に選出。
1983年10月31日ラシドフ自殺
1983年12月26日ウォロトニコフ、ソロメンツェフが中央委員会総会で正局員に選出。チェブリコフが局員候補に選出。
1984年2月9日アンドロポフ死去
1984年12月20日ウスチノフ死去
1985年3月10日チェルネンコ死去
1985年4月23日リガチョフ、ルイシコフ、チェブリコフが中央委員会総会で正局員に選出。セルゲイ・ソコロフが局員候補に選出。
1985年7月1日ロマノフが中央委員会総会で解任。シェワルナゼが正局員に選出。
1985年10月15日チーホノフが中央委員会総会で解任。ニコライ・タルイジンが局員候補に選出。
1986年2月18日グリシンが中央委員会総会で解任。ボリス・エリツィンが局員候補に選出。
1986年3月6日正局員:アリエフ、ウォロトニコフ、ゴルバチョフ、グロムイコ、ザウコフ、クナーエフ
正局員②:リガチョフ、ルイシコフ、ソロメンツェフ、チェブリコフ、シェワルナゼ、シチェルビツキー
デミチェフ、ドルギーフ、エリツィン、スリュニコフ、S.ソコロフ、ソロヴィヨフ、タルイジンが局員候補に選出。
1987年1月28日クナーエフが中央委員会総会で解任。アレクサンドル・ヤコブレフが局員候補に選出。
1987年6月26日S.ソコロフが中央委員会総会で解任。
スリューニコフ、ヤコブレフ、ニコノフが正局員に選出。ヤゾフが局員候補に選出。
1987年10月21日アリエフが中央委員会総会で解任。
1988年2月14日エリツィンが中央委員会総会で解任。ユーリ・マスリュコフ、ラズモヴィスキーが局員候補に選出。
1988年9月30日グロムイコ、ソロメンツェフ、デミチェフ、ドルギーフが中央委員会総会で解任。メドヴェージェフが正局員に選出。ビリュコワ、ヴラソフ、ルキヤノフが局員候補に選出。
1989年9月20日ニコノフ、チェブリコフ、シチェルビツキー、ソロヴィヨフ、タルイジン中央委員会総会で解任。
クリュチコフ、マスリュコフ、正局員選出。プリマコフ、プーゴ局員候補選出。
1989年12月9日イワシコが中央委員会総会で正局員に選出。
1990年7月14日正局員:ブロキャヴィチュス、グンバリゼ、ゴルバチョフ、グレンコ、ジャソーホフ、イワシコ、カリモフ、ルチンスキ、
正局員②マサリエフ、マフカモフ、モフシシャン、ムタリボフ、ナザルバエフ、ニヤゾフ、ポロスコフ
正局員③プロコフィエフ、ルビクス、セミョーノワ、シラーリ、Ye.ソコロフ、ストローエフ、フロロフ、シェーニン、ヤナーエフ
1990年12月11日Ye.ソコロフ、モフシシャンが中央委員会総会で解任。マロフェエフ、ポゴシャンが正局員に選出。
1991年1月31日グンバリゼ、ヤナーエフが中央委員会・中央統制委員会合同総会で解任。アンヌスが正局員に選出。
1991年4月25日マサリエフが中央委員会・中央統制委員会合同総会で解任。アマンバエフ、エレメイ、スルコフが正局員に選出。
1991年7月26日ポゴシャンが中央委員会総会で解任。
1991年8月24日ソ連8月クーデター失敗の後、エリツィンがソ連共産党の活動を禁止。

中央の役職/書記局のポスト

  • 副書記長(別名:書記長代行。ゴルバチョフ政権時に新設された、“正式なNo.2”の役職。ゴルバチョフの腹心であった、ウラジーミル・イワシコが、最初にして最後の副書記長を務めた。)
  • 第二書記(同名の役職でも、前期と後期で性格が異なる。前期とは、スターリン政権下での全連邦共産党(ボリシェヴィキ)時代を主に指し、これは特定の役職では無く、書記局の中で書記長に次ぐ第二の地位を確立した書記を自然と第二書記と呼び、書記長の補佐役を務めた。この時代の第二書記には、1922年4月から1930年12月までの間、中央委員会第二書記を務めたヴャチェスラフ・モロトフ、1948年8月31日から1952年10月16日までの間、中央委員会第二書記を務めたゲオルギー・マレンコフらがいる。後期は、主にスターリン政権後を指し、正式名称はソ連共産党中央委員会政治局員兼イデオロギー担当書記。ここでも第二書記というのは正式な名前ではなく、あくまで非公式の呼び方。これはソ連後期のマルクス・レーニン主義の指導的理論家(イデオローグ)にしてレオニード・ブレジネフ書記長時代のイデオロギー担当書記、ミハイル・スースロフが、党政治局員及び日本の国会にあたる最高会議(ソビエト)における外交政策のトップ、最高会議連邦会議(≒国会下院)外交委員長を兼任し、同政権のNo.2、事実上の第二書記として辣腕を振るい、後々まで「クレムリンのキングメーカー」との異名を取る権力者として君臨した事に由来する。これ以降、この役職に就く者は、スースロフ同様に政治局員と最高会議連邦会議外交委員長を兼任する事で、実質上の党のNo.2、つまりは第二書記、と認識される事になり、これは事実上のソ連No.2になる事を意味していた。実際、イデオロギー担当書記はソ連共産党において最も重要な役職であった。ソ連はマルクス・レーニン主義のイデオロギー国家としての側面が強く存在し、イデオロギー担当書記はそのマルクス・レーニン主義の解釈権を握っていた為に、ソ連国内では絶大な権限を有していたのである。これはつまり、物事の正当性を決定する事の出来る権限を握っていたのと同等で、時の党最高指導者であったとしても、政策の実行にはイデオロギー担当書記に同意を得て、「これはマルクス・レーニン主義的に正しい、科学的政策である!(意訳)」と逐一正当化する為の説明をして貰わなければ次の段階に進む事すら出来なかったのである。つまるところ、このイデオロギー担当書記の保持する「イデオロギー解釈権」こそが、一党独裁の要石でもあったと言えるのである。なお、書記長死去の際には第二書記が後継者になることがほとんど制度化されつつあった。)

・ソ連共産党第二書記、副書記長等一覧

氏名役職就任退任
ヴャチェスラフ・モロトフロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会責任書記1921年3月16日1922年4月3日
ヴャチェスラフ・モロトフロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会第二書記1922年4月3日1930年12月
ヴャチェスラフ・モロトフ全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会第二書記1925年12月1930年12月
ラーザリ・カガノーヴィチ全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会第二書記1930年12月1939年3月21日
アンドレイ・ジダーノフ全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会第二書記1939年3月21日1948年8月31日
ゲオルギー・マレンコフ全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会第二書記1948年8月31日1952年10月14日
ゲオルギー・マレンコフソ連共産党中央委員会第二書記1952年10月14日1953年3月6日
空白(未定)ソ連共産党中央委員会第二書記1953年3月6日1953年9月14日
ミハイル・スースロフソ連共産党中央委員会第二書記1953年9月14日1957年12月17日
アレクセイ・キリチェンコソ連共産党中央委員会第二書記1957年12月17日1963年6月21日
フロル・コズロフソ連共産党中央委員会第二書記1957年12月17日1963年6月21日
レオニード・ブレジネフソ連共産党中央委員会第二書記1963年6月21日1964年10月14日
ニコライ・ポドゴルヌイソ連共産党中央委員会第二書記1964年10月14日1965年12月6日
ミハイル・スースロフソ連共産党中央委員会第二書記1965年12月6日1982年1月25日
コンスタンティン・チェルネンコソ連共産党中央委員会第二書記代理1982年1月25日1982年5月24日
ユーリ・アンドロポフソ連共産党中央委員会第二書記1982年5月24日1982年11月10日
コンスタンティン・チェルネンコソ連共産党中央委員会第二書記1982年11月10日1984年2月9日
ミハイル・ゴルバチョフソ連共産党中央委員会第二書記1984年2月9日1985年3月10日
エゴール・リガチョフソ連共産党中央委員会第二書記1985年3月10日1990年7月14日
ウラジーミル・イワシコソ連共産党中央委員会副書記長1990年7月14日1991年8月24日
ウラジーミル・イワシコソ連共産党中央委員会書記長代行1991年8月24日1991年8月29日

  • 専門書記(ボリシェヴィキの書記局において、最初に置かれた書記局のまとめ役となる役職。要は書記局の初代トップ。だが、書記長とは違い、ただの事務方のトップと言うだけである。初代専門書記:エレーナ・スタソヴァ。)
  • 書記局長(党の草創期において置かれた書記局の取りまとめ役。書記“局”長は書記長とは異なり、ただの事務方のトップと言うだけである事に注意が必要。初代書記局長:ヤーコフ・スヴェルドロフ。)
  • 責任書記(党の草創期において、書記局長の次に置かれた書記局のトップの役職で、書記長が置かれる前の書記局の取りまとめ役。こちらもただの事務方のトップと言うだけである。初代責任書記:ニコライ・クレチンスキー。)
  • 書記(通称:セクレタリー、党最高幹部。書記局の局員として、党全体の意思決定に携わる。各政策ごとに担当の書記がおり、それぞれ〇〇担当書記、あるいは〇〇書記と呼ばれる。書記長と同じ様に書記と政治局員を兼任する事が出来るのは、わずか数人の最高指導者のみであり、スターリン後の時代においては、これが最高権力への階段となった。)

【書記の例】

イデオロギー担当書記/上記の通り、後に第二書記と同義となる。

組織担当書記

人事担当書記/イデオロギー担当と兼任する事が多い。

農業担当書記

経済担当書記

文化担当書記/教育・宣伝担当と兼任する事も多い。

教育担当書記/文化・宣伝担当と兼任する事が多い。

宣伝担当書記/文化・教育担当と兼任する事が多い。

消費生活担当書記

燃料・エネルギー担当書記

軽工業担当書記

重工業担当書記/軍需産業担当と兼任する事が多い。

軍需産業担当書記

社会主義諸国党担当書記

国際共産主義運動担当書記

  • 副書記(ロシア語:замести́тель секрета́ря)

・歴代書記変遷

日付等事項等
1917年3月13日専門書記スタソヴァ、書記:スヴェルドロフ
1917年8月6日専門書記スタソヴァ、書記:スヴェルドロフ、ジェルジンスキー、ムラーノフ、ヨッフェ
1918年3月8日書記局長スヴェルドロフ、書記:スタソヴァ
1918年3月30日書記局長スヴェルドロフ、書記:スタソヴァ、クラウディア
1919年3月16日スヴェルドロフ死去
1919年3月25日書記局長スタソヴァ
1919年11月29日責任書記クレスチンスキー、書記:スタソヴァ
1920年4月5日責任書記クレスチンスキー、書記:プレオブラジェンスキー、セレブリャコフ
1921年3月16日責任書記モロトフ、書記:ミハイロフ、ヤロスラフスキー
1921年8月8日ヤロスラフスキー解任
1922年3月27日~4月2日ロシア共産党(ボリシェヴィキ)第11回党大会
※レーニン出席の最後の党大会。政治局員兼組織局員スターリン、両局及び中央委の調整役として新設の党書記長に指名される。
1922年4月3日ロシア共産党(ボリシェヴィキ)第11期第1回中央委員会総会(1中総)
書記長ヨシフ・スターリン、第二書記モロトフ、書記:クイビシェフ
※スターリンが正式に党書記長に選出。
1923年4月26日書記長スターリン、第二書記モロトフ、書記:ルズターク
1924年1月21日ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員兼政治局員(初代最高指導者)、レーニン死去
1924年2月ルズターク、アンドレーエフと交代
1924年6月2日書記長スターリン、第二書記モロトフ、書記:アンドレーエフ、ゼレンスキー、カガノーヴィチ
1924年8月ゼレンスキー、ウグラーノフと交代
1925年4月30日カガノーヴィチ、ブブノフと交代
1926年1月1日書記長スターリン、第二書記モロトフ、書記:エヴドキモフ、コシオール
書記候補:ウグラーノフ、アルトゥヒナ、ブブノフ
1926年4月9日エヴドキモフ、シュヴェルニクと交代
1927年4月16日シュヴェルニク、クビャークと交代
1927年12月19日書記長スターリン、第二書記モロトフ、書記:コシオール、クビャーク、ウグラーノフ
書記候補:アルトゥヒナ、ブブノフ、モスクヴィン
1928年4月11日クビャーク、スミルノフと交代。バウマン書記候補選出。
1928年7月12日コシオール、カガノーヴィチと交代
1929年4月30日ウグラーノフ、バウマンと交代
1930年7月13日第16期第1回中央委員会総会
書記長スターリン、第二書記モロトフ、書記:バウマン、カガノーヴィチ、ポストィシェフ
書記候補:モスクヴィン、シュヴェルニク
1930年12月21日モロトフ解任、第二書記カガノーヴィチ
1932年10月2日バウマン、モスクヴィン解任
1934年1月26日~2月10日全連邦共産党(ボリシェヴィキ)第17回党大会
※通称、『勝利者の大会』。スターリン独裁体制完成。社会主義建設勝利と党内反対派屈服が宣言。
1934年2月10日全連邦共産党(ボリシェヴィキ)第17期第1回中央委員会総会
書記長スターリン、第二書記カガノーヴィチ、書記:ジダーノフ、キーロフ
1934年12月1日キーロフ暗殺
1935年2月エジョフ、アンドレーエフ、書記選出
1939年3月22日書記長スターリン、第二書記ジダーノフ、書記:アンドレーエフ、マレンコフ
1941年5月4日シチェルバコフ書記選出
1945年5月10日シチェルバコフ死去
1946年3月18日書記長スターリン、第二書記ジダーノフ、書記:クズネツォフ、マレンコフ、ポポフ
1946年5月6日マレンコフ、パトリチェフと交代
1947年5月24日パトリチェフ、スースロフと交代
1948年7月1日マレンコフ、ポノマレンコ選出
1948年8月31日ジダーノフ死去、第二書記マレンコフ
1949年1月28日クズネツォフ解任
1949年12月16日ポポフ、フルシチョフと交代
1952年10月5日〜1952年10月14日全連邦共産党(ボリシェヴィキ)第19回大会(Съезд ВКП(Б)XIX)
※スターリン体制最後の党大会。全連邦共産党(ボリシェヴィキ)からソ連共産党へ改称。書記長職は廃止されスターリンは一書記の筆頭となる。政治局は幹部会となり、組織局は正式に書記局に合併される。
1952年10月16日第19期第1回中央委員会総会(10月総会)
筆頭書記スターリン、第二書記マレンコフ、書記:アリストフ、ブレジネフ、イグナトフ
書記②:ミハイロフ、ペゴフ、ポノマレンコ、スースロフ、フルシチョフ
※本総会がスターリン最後の公務となった。
1953年3月5日20時00分ソ連閣僚会議・ソ連最高会議幹部会・第19期第2回中央委員会合同総会(3月総会)
筆頭書記マレンコフ、書記:フルシチョフ、スースロフ、ミハイロフ、アリストフ、イグナチェフ、シャターリン、ポスペーロフ
※ブレジネフ、イグナトフ、ペゴフ、ポノマレンコ、イグナチェフ、ポスペーロフ、シャターリンと交代。マレンコフは首相を兼務した為、筆頭書記となった。
同日21時50分スターリン死去
1953年3月14日第19期第3回中央委員会総会
マレンコフ解任、筆頭書記フルシチョフ
筆頭書記フルシチョフ、第二書記スースロフ、書記:イグナチェフ、ポスペーロフ、シャターリン
1953年4月5日イグナチェフ解任
1953年9月7日第19期第5回中央委員会総会(9月総会)
フルシチョフ、第一書記選出。
※ソ連農業史に名を残した総会。内容はスターリン批判の嚆矢とも取れる内容で、スターリン体制成立後初めてその農業政策が批判された。また、筆頭書記が廃され第一書記が新設された。
1955年3月8日シャターリン解任
1955年7月12日アリストフ、ベリャーエフ、シェピーロフ選出
1956 年2月14日~25日ソ連共産党第20回党大会(Съезд КПСС XX)
『スターリン批判』開始。フルシチョフ第一書記の秘密報告で有名。
1956年2月27日第20期第1回中央委員会総会
第一書記フルシチョフ、第二書記スースロフ、書記:アリストフ、ベリャーエフ
書記②:ブレジネフ、ポスペーロフ、フルツェワ、シェピーロフ
1956年12月24日シェピーロフ解任
1957年2月14日シェピーロフ再選出
1957年6月18日中央委員会幹部会定例会議、フルシチョフ第一書記の解任決議(賛成7票、反対4票)。しかしフルシチョフ第一書記が中央委員会総会を開催。
1957年6月22日~29日第20期第4回中央委員会総会(6月総会)
※中央委員の過半数フルシチョフ支持、事態逆転(反党グループ事件)。
1957年6月29日シェピーロフ、クーシネンと交代
1957年12月17日イグナトフ、キリチェンコ、ムヒトディノフ選出。第二書記キリチェンコ
1958年11月12日ベリャーエフ解任
1960年5月4日アリストフ、イグナトフ、キリチェンコ、ポスペーロフ、フルツェヴァ解任
コズロフ選出、第二書記コズロフ
1960年7月16日ブレジネフ解任
1961年10月31日第一書記フルシチョフ、第二書記コズロフ、書記:デミチェフ、イリーチェフ、クーシネン
書記②:ポノマリョフ、スピリドノフ、スースロフ、シェレーピン
1962年4月23日スピリドノフ解任
1962年11月23日アンドロポフ、ポリャーコフ、ルダコフ、チトフ選出。
1963年6月21日ブレジネフ、ポドゴルヌイ選出
第二書記ブレジネフ
1964年5月17日クーシネン死去
1964年10月12日〜13日中央委員会幹部会緊急会議、フルシチョフ第一書記解任決議。
1964年10月14日第22期第9回中央委員会総会(10月総会)
フルシチョフ第一書記兼ソ連閣僚会議議長、解任決議。ブレジネフ第一書記選出。第二書記ポドゴルヌイ。
1964年11月16日人事担当書記コズロフ、農業担当書記ポリャコフ解任
1965年3月26日イデオロギー担当書記イリーチェフ、軍需産業担当書記ウスチノフと交代
1965年9月29日農業担当書記チトフ、クラコフと交代
1965年12月6日人事担当書記ポドゴルヌイ、キリレンコと交代。イデオロギー担当書記(第二書記)スースロフ、組織担当書記カピトノフ
1966年3月29日~4月8日ソ連共産党第23回党大会
※ブレジネフ、第一書記から書記長に名称変更。スターリン回帰。
1966年4月8日第23期第1回中央委員会総会(4月総会)
書記長ブレジネフ
イデオロギー担当書記(第二書記)スースロフ
組織・人事担当書記キリレンコ
組織・人事担当書記シェレーピン/党統制委員会議長
組織担当書記カピトノフ/組織・党活動部長
国際共産主義運動担当書記ポノマリョフ/国際部長
社会主義諸国党担当書記アンドロポフ/社会主義諸国党連絡部長
農業担当書記クラコフ
軍需産業担当書記ウスチノフ
重工業担当書記ルダコフ
文化・教育・宣伝担当書記デミチェフ
1966年7月10日ルダコフ死去
1966年12月13日重工業担当書記ソロメンツェフ選出
1967年6月21日社会主義諸国党担当書記アンドロポフ解任
1967年9月26日組織・人事担当書記シェレーピン解任
1968年4月10日社会主義諸国党担当書記カツシェフ選出
1971年3月30日~4月9日ソ連共産党第24回党大会
1971年4月9日第24期第1回中央委員会総会(4月総会)
書記長ブレジネフ
イデオロギー担当書記(第二書記)スースロフ
人事担当書記チェルネンコ/総務部長
組織担当書記カピトノフ/組織・党活動部長
経済担当書記キリレンコ
国際共産主義運動担当書記ポノマリョフ/国際部長
社会主義諸国党担当書記カツシェフ/社会主義諸国党連絡部長
農業担当書記クラコフ
軍需産業担当書記ウスチノフ
重工業担当書記ソロメンツェフ
文化・教育・宣伝担当書記デミチェフ
1971年11月23日重工業担当書記ソロメンツェフ転出
1972年12月18日重工業担当書記ドルギフ選出
1974年12月16日文化・教育・宣伝担当書記デミチェフ、文化相就任に伴い中央委総会で解任
1976年2月24日~3月5日ソ連共産党第25回党大会
1976年3月5日第25期第1回中央委員会総会(3月総会)
書記長ブレジネフ
イデオロギー担当書記(第二書記)スースロフ
人事担当書記チェルネンコ/総務部長
組織担当書記カピトノフ/組織・党活動部長
経済担当書記キリレンコ
国際共産主義運動担当書記ポノマリョフ/国際部長
社会主義諸国党担当書記カツシェフ/社会主義諸国党連絡部長
農業担当書記クラコフ
軍需産業担当書記ウスチノフ
重工業担当書記ドルギフ
文化・教育・宣伝担当書記ジミャーニン
1976年10月軍需産業担当書記ウスチノフ、リャボフと交代
1977年5月24日社会主義諸国党担当書記カツシェフ、ルサコフと交代
1978年7月17日農業担当書記クラコフ死去
1978年11月27日農業担当書記ゴルバチョフ選出
1979年4月17日リャボフ転出
1981年2月23日~3月3日ソ連共産党第26回党大会
1981年3月3日第26期第1回中央委員会総会
書記長ブレジネフ
イデオロギー担当書記(第二書記)スースロフ
人事担当書記チェルネンコ/総務部長
組織担当書記カピトノフ/組織・党活動部長
経済担当書記キリレンコ
国際共産主義運動担当書記ポノマリョフ/国際部長
社会主義諸国党担当書記ルサコフ/社会主義諸国党連絡部長
農業担当書記ゴルバチョフ
軍需産業担当書記リャボフ
重工業担当書記ドルギフ
文化・教育・宣伝担当書記ジミャーニン
1982年1月25日イデオロギー担当書記(第二書記)スースロフ死去
1982年5月24日イデオロギー担当書記(第二書記)アンドロポフ選出
1982年11月10日書記長ブレジネフ死去
1982年11月12日第26期第4回中央委員会緊急総会(11月総会)
アンドロポフ書記長選出
1982年11月22日経済担当書記キリレンコ、ルイシコフと交代
1983年6月15日ロマノフが選出
1983年12月26日第26期第7回中央委員会総会
書記長アンドロポフ
イデオロギー担当書記(第二書記)チェルネンコ
人事担当書記リガチョフ
組織担当書記カピトノフ/組織・党活動部長
経済担当書記ルイシコフ/経済部長
国際共産主義運動担当書記ポノマリョフ/国際部長
社会主義諸国党担当書記ルサコフ/社会主義諸国党連絡部長
農業担当書記ゴルバチョフ
軍需産業担当書記ロマノフ
重工業担当書記ドルギフ
文化・教育・宣伝担当書記ジミャーニン
1984年2月9日書記長アンドロポフ死去
1984年2月13日第26期第8回中央委員会緊急総会(2月総会)
書記長チェルネンコ
イデオロギー・農業担当書記(第二書記)ゴルバチョフ
人事担当書記リガチョフ
組織担当書記カピトノフ/組織・党活動部長
経済担当書記ルイシコフ/経済部長
国際共産主義運動担当書記ポノマリョフ/国際部長
社会主義諸国党担当書記ルサコフ/社会主義諸国党連絡部長
軍需産業担当書記ロマノフ
重工業担当書記ドルギフ
文化・教育・宣伝担当書記ジミャーニン
1985年3月10日書記長チェルネンコ死去
1985年3月11日第26期第11回中央委員会緊急総会(3月総会)
ゴルバチョフ書記長選出
1985年4月23日第26期第12回中央委員会総会(4月総会)
書記長ゴルバチョフ
組織・人事担当書記(第二書記)リガチョフ/組織・党活動部長
経済担当書記ルイシコフ/経済部長
軍需産業担当書記ロマノフ
重工業担当書記ドルギフ
軽工業担当書記カピトノフ
農業担当書記ニコノフ
国際共産主義運動担当書記ポノマリョフ/国際部長
社会主義諸国党担当書記ルサコフ/社会主義国党連絡部長
文化・教育・宣伝担当書記ジミャーニン
※ゴルバチョフの後任の農業担当書記ニコノフ選出
1985年7月1日軍需産業担当書記ロマノフ、ザイコフと交代。建設担当書記エリツィン選出。
1985年10月15日経済担当書記ルイシコフ、首相就任に伴い転出
1986年2月18日建設担当書記エリツィン、社会主義諸国党担当書記ルサコフ転出
1986年2月25日~3月6日ソ連共産党第27回党大会
※ゴルバチョフ書記長就任後初にして東側の連帯を示した最後の党大会。停滞と官僚主義が批判されペレストロイカが承認された。
1986年3月6日第27期第1回中央委員会総会
書記長ゴルバチョフ
イデオロギー・人事担当書記(第二書記)リガチョフ
組織担当書記ラズモフスキー/組織・党活動部長
重工業・軍需産業担当書記ザイコフ
燃料・エネルギー担当書記ドルギフ
軽工業・消費生活担当書記ビリュコワ
国際共産主義運動担当書記ドブルイニン/国際部長
社会主義諸国党担当書記メドヴェージェフ/社会主義諸国党連絡部長
農業担当書記ニコノフ
文化担当書記ジミャーニン
宣伝担当書記ヤコヴレフ/宣伝部長
1987年1月28日文化担当書記ジミャーニン解任。法制担当書記ルキヤノフ、経済担当書記スリュニコフ選出。
1988年2月18日軍需産業担当書記バクラーノフ選出
1988年9月30日軽工業・消費生活担当書記ビリュコワ、国際共産主義運動担当書記ドブルイニン、燃料・エネルギー担当書記ドルギフ、法制担当書記ルキヤノフ解任 、法制担当書記チェブリコフ選出
1989年9月20日農業担当書記ニコノフ、法制担当書記チェブリコフ解任
ギレンコ、組織担当書記マナエンコフ、農業担当書記ストローエフ、ウスマノフ選出
1989年12月9日イデオロギー担当書記フロロフ選出。※ただしこれは第二書記では無い。
1990年7月2日~13日ソ連共産党第28回党大会
※ソ連共産党最後の党大会。ゴルバチョフ、書記長制を廃止し党議長職創設する構想を断念。ゴルバチョフ書記長再選、 イワシコ副書記長選出
1990年7月13日~14日第28期第1回中央委員会総会(7月総会)
書記長ゴルバチョフ
副書記長イワシコ
人事担当書記(第二書記)シェーニン
組織担当書記マナエンコフ
軍需産業担当書記バクラーノフ
燃料・エネルギー担当書記ギダスポフ
軽工業・消費生活担当書記ギレンコ
国際共産主義運動担当書記ファーリン/国際部長
国際共産主義運動担当書記ヤナーエフ
社会主義諸国党担当書記ザソホフ/社会主義諸国党連絡部長
農業担当書記ストローエフ
文化担当書記クプツォフ
女性・教育担当書記セミョーノワ
書記局員アニスキン、ガイヴォロンスキー、メルニコフ、テプレニチェフ、トゥルグノワ
1991年1月31日国際共産主義運動担当書記ヤナーエフ、副大統領転出。経済担当書記ルチンスキー選出
1991年4月25日第28期第5回中央委員会・党中央統制委員会合同総会
ゴルバチョフ、書記長辞任を提案するも、党中央委員会、党統制委員会の合同総会によって拒否される。
軍需産業担当書記バクラーノフ、国防会議第一副議長に転出
1991年7月26日書記:カラシニコフ、メルニコフ、マルツェフ選出
1991年8月24日ソ連8月クーデターの失敗の後、ゴルバチョフが書記長を辞任し、エリツィンがソ連共産党の活動を禁止。

中央の役職/幹部級のポスト

党の幹部級のポスト

ソ連共産党の原動力の1つが、前述の通り、党幹部“カードル”である。彼らは、ノーメンクラトゥーラ制の過酷な出世競争を重ねながら、ソ連共産党の活動の、文字通り手足となって働き、共産党の発展を支え続けて来た。ここでは、ソ連共産党にあまたある役職の中でも、特に主要なものを紹介する。

《党中央委員会》

  • 中央委員
  • 中央委員候補

《その他の党幹部》

  • 中央統制委員会議長
  • 中央監査委員会議長
  • 総務部長
  • 組織・党活動部長
  • 行政機関部長
  • 投書部長
  • 宣伝部長
  • 文化部長
  • 科学・教育機関部長
  • 海外要員部長
  • 国際部長
  • 国際情報部長
  • 社会主義諸国共産党・労働者党連絡部長
  • 軍事部長(陸海軍政治総本部長)
  • 国防工業部長
  • 機械製作工業部長
  • 化学工業部長
  • 重工業部長
  • 建設部長
  • 運輸・通信部長
  • 軽工業・消費財部長
  • 農業・食品工業部長
  • 農業機械製作部長
  • 商業・サービス部長
  • 経済部長
  • 事務局長
  • ロシア共和国・ビューロー(事務局)局長
  • ソ連共産党中央委員会附属マルクス・レーニン主義研究所所長
  • ソ連共産党中央委員会附属社会科学アカデミー学長
  • ソ連共産党中央委員会附属高等党学校校長
  • ソ連共産党中央委員会附属通信高等党学校校長
  • ソ連共産党中央委員会附属全連邦レーニン共産主義青年同盟(コムソモール)中央委員会第一書記

《ソ連共産党中央委員会附属プラウダ編集局》

プラウダ紙編集委員会

  • プラウダ紙編集長:1名
  • 副編集長:2名
  • 事務長:2名
  • 編集委員 兼 各部編集主任:8名

…計13名で構成。編集委員は選抜された主要部編集主任が就任する。各委員会毎に輪番制であり、編集長、副編集長、事務長のみが当直制を採っている。


【中央委員会附属委員会議長(1988年10月1日〜1991年12月24日)】

  • 法律委員会議長

ヴィクトル・チェブリコフ

  • 農業委員会議長

エゴール・リガチョフ

  • イデオロギー委員会議長

ワジム・メドヴェージェフ

  • 党建設・人事委員会議長

ゲオルギー・ラズモフスキー

  • 社会・経済委員会議長

ニコライ・スリュニコフ

  • 国際政策委員会

アレクサンドル・ヤコブレフ

地方の役職/幹部級のポスト


最上級地方党組織

《共和国共産党》[※90年までロシア共和国以外]

  • 共和国共産党第一書記
  • 共和国共産党第二書記(組織・党活動問題担当)
  • イデオロギー担当書記
  • 社会・経済問題担当書記
  • 重工業担当書記
  • 農業担当書記
  • ビューロー員
  • ビューロー員候補
  • 中央委員
  • 中央委員候補
  • 中央委員会付属党統制委員会議長
  • 組織・党活動部長
  • イデオロギー部長
  • 社会・経済部長
  • 財務・計画部長
  • 科学・教育機関部長
  • 運輸・通信部長
  • 行政機関部長
  • 宣伝扇動部長
  • 国際情報部長
  • 重工業部長
  • 女性部長
  • 軍事部長
  • 農業部長
  • 貿易部長
  • 建設部長

《州・市党組織》[※〜1990年/ロシア共和国内]

  • 州・市党委員会第一書記
  • 州・市党委員会第二書記
  • 書記
  • 党ビューロー員
  • 党ビューロー員候補
  • 市党委員
  • 市党委員候補
  • 総務部長
  • 文化部長
  • 工業部長
  • 宣伝扇動部長
  • 行政金融機関部長
  • 教育科学機関部長
  • 軽工業・食品・経済部長
  • 建設輸送・地方自治体サービス部長
  • 州党委員会附属歴史研究所所長

州・地方級党組織[※ロシア共和国以外]

《州・地方共産党組織》

  • 州・地方党委員会第一書記
  • 州・地方党委員会第二書記
  • 州・地方党委員会書記
  • 党ビューロー員
  • 党ビューロー員候補
  • 州・地方党委員
  • 州・地方党委員候補

地区・市・辺区・管区級党組織

《地区党組織》

  • 地区党委員会第一書記
  • 地区党委員会第二書記
  • 地区党委員会書記
  • 地区党委員会第一書記補佐官
  • 党ビューロー員
  • 党ビューロー員候補
  • 地区党委員
  • 地区党委員候補
  • 地区党委員会イデオロギー部長
  • 地区党委員会組織部長
  • 地区党委員会社会・経済発展部長
  • 地区党委員会総務部長
  • 地区党委員会財政・経営部長

●地区党委員会所属党官僚(アパラチク)の役割

地区党委員会所属党官僚の一日は、通勤する時、新聞を注意深く読む事から始まる。

それは、中央委員会や政治局が何が良くて何が悪いか、という1つの判断を下すと、まず報道機関にそれとなく伝えるのである。

例として、『“ある組織”が“ある問題”で事情聴取された』と言う記事があるとする。無論、そうした事柄の背景には、指導部の何らかの決定がある。

なので、こういった記事は地区党委員会の党官僚らに対し、『お前の地区ではどうなっているか直ちに調べろ!』と言う合図なのである。

何故なら、いつ他の地区にも同じ様な問題で上層部から取り調べが来るか分からないからである。

《辺区共産党(крайко́м)》

  • 辺区党委員会第一書記

《管区共産党(окружко́й комите́)》

  • 管区党委員会第一書記

初級党組織

《共産党初級党組織/перви́чная парти́йная организа́ция(略称:ППО/旧称:党細胞)》

  • 初級党組織書記
  • 初級党組織ビューロー員
  • 初級党組織ビューロー員候補
  • 初級党組織委員
  • 初級党組織委員候補

その他の党幹部関連

《その他の党活動家の呼称》

  • 高級幹部(通称:ノーメンクラトゥーラ。元々は党書記局の管轄する指命職名表の名前。全人口に対して約1%のソ連における特権階級である。「赤い貴族」とも呼ばれる。)
  • 党幹部/幹部活動家(通称:カードル。党の中核を担う共産党専属の党員。特にその中でも幹部級の人材の事。)
  • 党官僚(ロシア語:аппара́тчик/通称:アパラチク[あるいはアパラチキ]。直訳すると「器官」の意味。党務を担う専属党員。「専従党員」、あるいは「党機関専従員」、「専従活動家」とも言う。)

党の幹部陣についてのまとめ

以上を図式的に整理すると、おおよそ以下のようになる。即ち、最高指導者としてソ連共産党中央委員会書記長がいる。その下に、ソ連共産党中央委員会政治局員、同政治局員候補、同書記が、合計で20人ほどいる。そしてその下にソ連共産党中央委員と中央委員候補が100人から300人ほどいる。これがソ連における最高エリート集団である。

最高会議(ソヴィエト)も閣僚会議も、形式的にはソ連共産党の“指導”を受ける立場であるから、この下に位置するということになる。とはいえ、閣僚会議議長や主要閣僚は、ソ連共産党中央委員を兼務しており、特に閣僚会議議長は必ず政治局員でもあった。国防相や外相、秘密警察長官なども、同じく政治局員を兼務していたことがある。このため、単純に政府は共産党の下に位置する、とも言い切れない。

さて、このエリート集団を形作っていたシステムがカードル政策である。カードル政策こそが、即ちノーメンクラトゥーラ制の真髄であり、幹部の選抜、配置、教育によって行われるカードル政策による間接支配の社会構造がソ連共産党組織の基本だったのである。その為、このカードル政策を分析することがソ連共産党の果たしていた機能を知ることにとって最重要なのである。

中央組織

主要組織

  • 党大会(ロシア語:Съезд КПСС。基本的には5年毎に1回以上開催され、党規上は最高意思決定機関として党全体を監督する機関である。定期党大会は5年に1回、臨時党大会は中央委員会の発意、または全党員の3分の1以上の要求によって、それぞれ中央委員会が召集する。党大会は、全党員から選ばれる代議員によって構成され、書記長の中央委員会報告や首相の経済計画報告を聴取すると共に、内外政策の基本方針を決定し、経済・社会発展計画(五ヶ年計画)や、より長期の経済戦略の基本方向の決定の他、党の綱領、規約の採択と改正、中央委員会と中央監査委員会の選出、中央委員会、中央監査委員会報告の聴取と承認、当面の主要問題に関する政策についての党の戦術の決定などを行う。だが、この最高意思決定というプロセスは、共産党自体が官僚主義的になって行く中で、形式的なものとなっていき、実際には実質的討議や批判は行われず、中央委員会や政治局の決定を形式的に承認するだけの単なる政策発表の場となっていた。上記の通り、理論的にはこの党大会で〈党綱領、鉄の規律〉を変更できるのだが、ゴルバチョフ書記長の時代の第28回大会まで、鉄の規律は全く変更出来ないままであった。第28回大会になってようやく、党大会は「人間的で民主的な社会主義」を目指す綱領的宣言と新党規約を採択し、党機構の改革を承認した(しかし同時に、保守派と改革派とが激しく対立し、エリツィン、ポポフ、サプチャークら急進改革派の代議員約40人が脱党を宣言し、独立院内会派「地域間代議員グループ」を結成したという事件も発生した。)。なお、日本では国家の最高機関(要は国会)である『最高ソビエト』と一緒くたにされている感もある。ソ連成立までは、様々な場所で開かれていたが、首都モスクワに移転してからは、主にモスクワクレムリン大会宮殿で開かれる事が多くなった。

・党大会の代表選出基準

党員何人につき代議員1人か、という問題に、例えば党員5000 人に1人という決定がなされると、仮に党員が1万人いる工場からは2人の代議員が出られるということになるが、実際にはそうはならなず、モスクワの閣僚や党幹部、地方の党幹部が力関係によって選出される為に、必ずしもその過程が公平という訳では無かった。

  • 党協議会[全国協議会](本来は党大会の閉会中に党を監督する機関で、要は本来中央委員会と党大会の間にあったはずの会議”。通常、年に1度開催されるはずであった。第1回党協議会は1905年に帝政ロシア支配下にあったフィンランド大公国の首都タンペレで開催された。以後1920年代まで頻繁に開催され、特に1929年4月23~29日にかけて開催された全連邦共産党(ボリシェヴィキ)第16回全国協議会は、第一次五カ年計画が採択された事でも知られる。しかし、この協議会はスターリン書記長の時代の1941年にモスクワで開催された第18回党協議会を最後に長らく開催されず、名前こそ存在しているものの、実質的には存在しない会議となっていた[つまり、殆どの事項が書記局、あるいはその影響下にある政治局で決定され、それを中央委員会で追認し、更にそれを党大会に下ろして承認させるだけのルーティーンになっていたので必要無くなってしまったのである。]。ところが、ミハイル・ゴルバチョフ書記長により1988年に、なんと実に47年ぶりとなる第19回党協議会が開催され、ソ連共産党と党機関の改革、国家と共産党の関係、人民代議員大会の創設に関して活発な討論が行われ、最高会議(ソビエト)議長職の新設、党役員の任期制(1期5年で2期10年を限度とする)の導入や、ソビエト制度の改革(ソビエトの権限拡大)に伴って各官庁の部門別構成と並行する形でで存在していた党中央委員会を始めとする党機関の付属部局を削減する事などが決定され、党当局者がリコールの対象となることも決定された。これは、党と国家の分離が明確化された事を、つまりは事実上のノーメンクラトゥーラ制の廃止が決定された事になる。この第19回党協議会の開催によって、極めて久しぶりに党協議会は復活したのである。)
  • 中央委員会(旧名:中央執行委員会/通称:中央委、あるいはЦК[ツェーカ]。70年以上に渡る一党独裁体制の下、国民生活の全てを支配下に置き、ソ連の国家と社会に厳然と君臨してきた存在が、この機関である。中央委員会は、決議権をもつ中央委員と審議権のみをもつ中央委員候補からなり、少なくとも年2回[6か月に1回]以上、中央委員会の総会である、「党中央委員会総会」を開き、大会間のすべての党活動を指導した。総会は、約500人の中央委員、及び中央委員候補により開催され、大会の代行として党〈ソ連他〈社会主義国〉の場合中央省庁・国家機関もだけど〉の運営をする。また、執行部の報告を受け、承認を与えた。党中央委員に選ばれるのは、党・国家機関のあるレベル以上の役職者であり、非常に少数のエリートである。しかし、総会自体は形式化し、政策決定機関とはいえなかった。(しかしこの総会の決議でさも重要な決定として極秘とされたものが多く、これらはソ連崩壊後になって初めて“歴史的文書”として漸く公表された。)即ち、中央委員会という存在の大部分の権限は、滅多に開かれない会議や多数の党員によって制限を受けており、真の権限は政治局が握っていたのである。中央委員会は、政治局の決定への合意の雰囲気を作ってゴム印が押されるための役割として機能していた。この様になった経緯として、かつて1917年から1934年までは政治的議論が行われる場所(≒議会)としての役割を大体において果たしていた中央委員会において、ときおり現れる反対者の多くが、軒並み1934年から1939年の間(即ち第17回および第18回党大会の間)にヨシフ・スターリン書記長が敢行した大粛清の犠牲となってしまった事が挙げられる。それ故に、中央委員会の役割は、以降急激に低下してしまったのである。また、中央委員会は政治局員、書記などの党幹部、そして書記長を選出し、党幹部人事を決定すると共に、中央委員会付属党統制委員会を組織した。この党統制委員会とは、中央委員会・中央統制委員会合同総会を共同で開催し、中央委員の解任などの舞台となる事も多かった。書記長の更迭、選出、新計画の発表などの重要案件が生じた時には臨時総会が招集される。なお、委員数は増加傾向にあった。尚、中央委員会で働く直属の専従党官僚(アパラチク)は、91年時点で人数約1200人。彼らは政策の立案だけでなく、下部組織の指導にも当たっていた。1990年に開催された第28回党大会に合わせて全党を挙げて行われた党改革に関する「総討議」の際にも、投じられた5万通にも及ぶ投書は最終的にここに集められた。1986年2~3月に開かれた第27回大会では中央委員会の政治路線と実践活動が承認され、綱領新版が採択され、規約が修正され、1986~1990年間および2000年までの期間のソ連経済社会発展の基本方向が確認された。また、中央委員307人、中央委員候補170人、中央監査委員83人、計560人の中央機関構成員が選出された。同年3月6日に行われた第1回中央委員会総会では、ゴルバチョフが書記長に選ばれたのをはじめ、政治局員12人、政治局員候補7人、書記11人(書記長を含む)が選出され、ソロメンツェフが党統制委員会議長として承認された。中央監査委員会議長にはカピトノフが選出された。)
  • 書記局(通称:セクレタリアト、中央委員会付属部局の1つで、初期は主に文書管理などを担っていた中央委員会の事務機関という扱いだったが、レーニンの死後、スターリン書記長は人事権を握っていた組織局:オルグ・ビューローの実権を握った事もあって、人事配置や組織統制等の権限を強め、実質的に中央委員会を統率する局となり、中央委員会各部局の指導、政策決定に依然と重要な役割を果たし、実際は中央委員会よりも上の、事実上のソ連共産党の最高指導部となった。これは、中央委員会や政治局などの構成員は選挙で選ばれる事になっているものの、実際には信任投票で、候補者となるには書記局の推薦が必要であること、そして都合の悪い文書や記録を封印出来る権限を手にしていること、又、歴代書記長にはいずれも政治局員を兼ねる書記が就任していること、などからもこれは明らかであろう。政策の決定は大抵、政治局で行うのに対し、書記局は党の運営の中心を担っていた。書記局は中央委員会の中央機構を代表し、専ら成長と党略の実現に対する責任を負った。書記は中央委員会部局の業務を監督し、主に内外政策の立案、党の決定の履行状況の監督と指導、要員の選抜・配置、などを行っていたのである。通常10人内外(政治局員、政治局員候補兼任者を含む)の書記で構成される書記局は、政治局と共にソ連共産党の(即ちソ連全体の)政治的権力の中枢であった。書記は中央委員会附属部局、及び党活動に関する業務の全てを監督していたのであり、党の構築と党幹部の業務は名簿による任命管理(ノーメンクラトゥーラ制)によって党の人員が割り当てられた。中央委員会の機構は様々な部局が形作っていたが、それら中央委員会附属部局の部長達の地位は、当然書記よりも低かった。書記局は、クレムリンから少し離れた党本部、モスクワ市スターラヤ広場4番地の中央委員会本部ビルに置かれており、通常、毎週火曜日に書記長以下全書記の集まる定例会議、「書記局会議」を開いて政治局に上程する事案が決定され、書記長がこの会議を主宰した。中央委員会書記は中央委員会総会で選ばれ、書記局会議を構成する。なお、綱領記載の役割は次の通り「日常業務の指導、主として幹部の選択、組織、執行の点検」。)
  • 政治局(通称:ポリト・ビューロー。中央委員会付属部局の1つで、政治的決定を行う為の政策決定機関および管理機関、イデオロギーの執行機関である。党中央委員会の総会から総会の間の党活動を指導する機関で、ソ連の内政・外交の全般について基本政策を決定する、ソ連共産党の事実上の最高意思決定機関であり、全ての主要な政治的決定を行っていた。中央委員会の存在そのもの、と言っても良い。大抵は14人の政治局員と8人の政治局員候補から構成されるが、政治局員は16人以下、政治局員候補は9人を上回らないという内規がある。政治局員が評議権に加え表決権を持つのに対し、政治局員候補は評議権だけを持ち、表決権は無い。通常、週に1回、木曜日の午後、クレムリン内の閣僚会議ビルで定例会議を開き、党活動を指導した。この会議の決定は全会一致の形で行われ、表決に持ち込まれた例は無いと言われる。なお、1982年、アンドロポフ政権が発足してから、討議事項と決定事項が翌金曜日のプラウダ紙を始めソ連各紙の一面に発表されるようになった(土曜日になることがある)。元々は中央委員会が党の最高機関だったのだが、党が拡大するにつれ中央委も大きくなり、機動性が低下してしまった為に、さらに1919年、政治局を設置してそれを党の指導機関とした。レーニンらが社会民主労働党員を制御するのに使ったのに始まる。共産党世界ではここが最高政治決定機関になる。一時期、幹部会(プレジディウム/ロシア語:Президиум)と改称された(1952年〜1966年まで)。公式には局長は存在しなかったが、通常、中央委員会及び書記局の長を務めていた書記長が、常に政治局でも主導的な役割を担い、毎週の政治局の定例会議を主宰し、議長を務めた。その為、ブレジネフ時代の政治局は、「同志レオニード・イリイチ・ブレジネフの率いる政治局」「同志レオニード・イリイチ・ブレジネフを長(シェフ)とする政治局」と呼ばれ、「書記長の率いる政治局」との呼称が当たり前となった。政治局員は基本、専任ではなく、党あるいは政府その他の機関の機関のメンバーとの兼任であり、その陣容は、書記長を始め、ソ連閣僚会議議長(首相)ソ連最高会議[ソビエト]幹部会議長(国家元首)、党中央統制委員会議長、更に外相や国防相、国家保安委員会(KGB)議長、国家計画委員会議長などの主要閣僚、モスクワ市党委員会やウクライナ共産党等の大規模な党組織の第一書記、等の錚々たるものであった。)
  • 組織局(通称:オルグ・ビューロー。レーニン時代には元々3つあった中央委員会付属部局の1つで、本来人事権を握っていた部局。中央及び地方党組織の人事権と地方党組織の運営を担っていた。党書記長の絶大なる権力の源泉の一つである人事権、即ちノーメンクラトゥーラの権限は、本来はこの組織局の権限であったのだ。レーニン時代に政治局員及び組織局員を唯一兼任していた書記であったスターリンが党書記長に就任すると、書記局と組織局の力関係に変化が生じる事になる。1920年代後半から、スターリン書記長率いる実務機関の書記局によって、次々と権限を吸収されて行ったのである。後の1952年第19回党大会において名実共に書記局に完全併合され、遂に廃止される。これによってノーメンクラトゥーラは名実共に書記局の、そして書記長の権限となったのである。)
  • 中央統制委員会(正式名称:中央委員会付属党統制委員会。党員と党員候補の党規律に関する遵守状況を点検し、党綱領と規約、党と国家の規律を犯した党員、党員候補、党生活モラルの審判者の責任を追及するとともに、党からの除名や処罰に関する連邦構成共和国の党中央委員会、地方・州の党委員会の決定に対する上訴を審査する。元々、統制委員会は中央委員会と並ぶ強力な権限を持っていた。しかし1934年の組織改正で中央委員会の付属機関に格下げされ、その地位は下落した。その後は中央委員会に付属して設置されていたが、1990年、再び中央委員会から独立した組織となった。)
  • 中央監査委員会(ロシア語:ЦРК。党大会により選出され、6か月に1回以上会議を開き、党中央諸機関の業務、中央委員会の会計及び党予算の執行状況の監査、労働者からの投書や申請、苦情の処理作業、プラウダの発行所などの党の経営する企業の監査を行い、党大会に報告する。議長は中央監査委員の中から選出される。中央監査委員は、ソ連共産党の中では中央委員より一段下に格付けされ、党中央監査委員→中央委員といった具合に昇進するコースがあった。)

中央委員会部局

中央委員会には事務局の他、20余の部門別直属部局が設置された。ブレジネフ期からゴルバチョフ期まで24の部局が確認されている。これら中央委員会部局はそれぞれの分野における党の政策立案や関連分野の政府各省庁の指導、監督に重要な役割を果たした。

【中央委員会部局一覧(〜1988年10月1日)】

《主な中央委員会部局》

  • 総務部(通称:「書記長官房」。政治局の議題設定、中央委員会が策定した多数の法案と決議案の準備、さまざまな党幹部の電話を盗聴し、行動を監視する、等の任務を遂行する。)
  • 組織・党活動部(指名職名表(ノーメンクラトゥーラ)のリストを保持し、1900万人の党員の人事を一手に握っている人事担当部署。更に党内だけでなく工場長や作家同盟の幹部、研究所の所長など、国の様々な重要ポストの人事にも強い影響力を行使してきた。)
  • 行政機関部
  • 投書部(書簡受入部)
  • 宣伝部(通称:アギト・プロッブ。党の政策を広く国民に宣伝すると共に、党の利益に反する情報が流れない様、厳しくチェックする部署。新聞、雑誌、テレビ等、あらゆるマスコミを監督するだけでなく、教育や芸術団体も一部指導し、西側の報道にもその鋭い目を光らせてきたのである。)
  • 文化部
  • 科学・教育機関部
  • 海外要員部
  • 国際部(コミンテルン崩壊後の国際共産主義運動の調整を担当した部局で、コミンテルン執行委員会(IKKI)の事実上の後継機関である。)
  • 国際情報部
  • 社会主義諸国共産党・労働者党連絡部(第二国際部とも呼ばれる。)
  • 軍事部(陸海軍政治総本部)
  • 国防工業部
  • 機械製作工業部
  • 化学工業部
  • 重工業部
  • 建設部
  • 運輸・通信部
  • 軽工業・消費財部
  • 農業・食品工業部
  • 農業機械製作部
  • 商業・サービス部
  • 経済部
  • 事務局(事務管理部)

《その他の中央委員会附属部局》

  • ソ連共産党中央委員会附属ロシア共和国・ビューロー(事務局)

通称:ロシア・ビューロー。1956年のニキータ・フルシチョフ時代に設置された、ソ連共産党中央委員会直属のロシア共和国の党組織管理機関。後のロシア共産党の前身となる。

元来、ソ連共産党は、イコールロシア共産党であり、ロシア共和国はいわばソ連構成各共和国の長兄として、独自の共和国党を持っておらず、ソ連共産党が直接統治していたのである。このロシア共和国とソ連共産党中央委員会の窓口として設置された実務機関が、ロシア・ビューロー(事務局)なのである。

  • ソ連共産党中央委員会附属プラウダ編集局

ソ連共産党中央委員会の日刊公式機関誌であるプラウダ(Правда/プラーヴダ[真実])紙の編集局。ソ連共産党中央委員会直属。

・【プラウダ編集委員会】

編集長1名、副編集長2名、事務長2名、編集主任7名の計13名の編集委員で構成するプラウダ編集局の最高意思決定機関。

〔委員会直属部局〕

・記事部

・地方記者部

・読者来信部

・写真部

・新聞雑誌部

・国際部(内部部局に、欧州部、米州部、植民地・半植民地部、人民民主主義国家部、国際資料室を設置している。)

・文学芸術部(文芸部)

・図書評論部

・短文部

・経済部

・ソビエト建設部(1950年代に廃止、その役割は党本体及び編集局記事部に分割・吸収される。)

・新聞局(地方統括担当組織。)

※プラウダ編集局直属の地方支部組織については地方組織の欄にて記述。



【中央委員会部局(1988年10月1日〜1991年12月24日)】

中央委員会機構にはこれら20数部があったとされるが、ゴルバチョフ政権下で大幅な機構改革が行われた。

ソ連の国内行政の重要な問題点の一つは、政府の各省庁や地方行政機関の各部門と同様の担当領域を持つソ連共産党の機関が存在し、その党機関が細々とした行政上の問題にまであれこれと指導を下してしまう事で、各行政機関が党の命令を待つかたちになって、国家の議会、即ち人民代議員大会が形骸化してしまい、結局の所、ソビエトを通じて実現されるはずの民主主義が実現されないということであった。

したがって、人民代議員選挙制度の改革を、ただの追認機関では無く、純粋な議会或いは評議会としての、ソビエトの活性化と行政の民主化に繋げる為には、是非ともこうした党機関による国家行政機関の代行を禁止しなければな らない。

そこで、この問題を解決するために、各官庁の部門別構成と並行する形でで存在していた党中央委員会を始めとする党機関の付属部局を削減する事が、前述の通り、第19回党協議会で決定された。

1988年9月30日から10月1日にかけて、第19回党協議会の決定に基づいて、ソ連共産党中央委員会総会が開かれ、中央委員会内に

  • 法律委員会(ヴィクトル・チェブリコフ議長/旧・行政機関部)
  • 農業委員会(エゴール・リガチョフ議長/旧・農業・食品工業部)
  • イデオロギー委員会(ワジム・メドヴェージェフ議長/旧・宣伝部、文化部、科学・教育機関部の3部)
  • 党建設・人事委員会(ゲオルギー・ラズモフスキー議長/旧・組織・党活動部)
  • 社会・経済委員会(ニコライ・スリュニコフ議長/旧・重工業・エネルギー産業部、機械製作部、運輸・通信部、経済部、軽工業・消費財部、商業・サービス部、建設部の8部)
  • 国際政策委員会(アレクサンドル・ヤコブレフ議長/旧・国際部、社会主義党連絡部、海外要員部の3部)

の6つの委員会が新設され、上記の通り、各部局はこれらの委員会が指導する10の部局に統合・廃止された。 

これら6委員会は、その後の89年初めの時点で、既に従来の24ある部局の一部の業務を委任され、その頃には書記局の機関も半減している。

地方組織

ソ連共産党は民主集中制(民主主義的中央集権制、または民主的権力統合制)に基づき、中央集権的な組織形態を採っていた。党組織は党規約によって定められた。

地域的党組織は、初級党組織を基礎に、その上に地区、都市の区、市、州・地方、連邦構成共和国の各段階ごとにピラミッド型の党組織を構築し、最上級の党組織としてソビエト連邦の党組織があって、ソ連の全共産党組織を統一する形式になっていた。

党機関は、代表機関(指導機関)と執行機関に二分され、執行機関は代表機関(指導機関)の選挙によって選出される。

厳密に言うならば、ソビエト連邦共産党の下には、1990年6月2つの指揮系統が存在した。

1つは、ソ連共産党の下に、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を除く各連邦加盟共和国に存在した共和国級共産党が存在し、そこから州の党組織、地区、市の党組織、初級党組織へと連なる指揮系統。

もう1つが、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、通称ロシア共和国の指揮系統で、この共和国はソ連共産党直属として、共和国共産党が置かれず、モスクワ市共産党、レニングラード市共産党と、各州の共産党が同格の組織としてソ連共産党の直属の下部組織となっていた。

共和国共産党以下の地方党組織は、基本的に最高意思決定機関として、政治局や書記局等は置かれず、その代わりに事務局(ビューローと称される。直訳すると事務机の意。)が置かれ、書記を中心としてこのビューローで全てが決定される。


【地方組織一覧(上位組織順)】


最上級党組織

《共和国共産党》[※90年までロシア共和国以外]

共和国級共産党組織

代表機関(指導機関)…共和国共産党大会

執行機関…共和国共産党中央委員会

〔組織詳細〕

各連邦構成ソビエト共和国の共産党。1990年まではロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を除く共和国にのみ存在した。

  • 共和国共産党大会
  • 共和国共産党中央委員会
  • 共和国共産党ビューロー
  • 共和国共産党協議会
  • 中央委員会付属党統制委員会
  • 組織・党活動部
  • イデオロギー部
  • 社会・経済部
  • 財務・計画部
  • 科学・教育機関部
  • 運輸・通信部
  • 行政機関部
  • 宣伝扇動部
  • 国際情報部
  • 重工業部
  • 女性部
  • 軍事部
  • 農業部
  • 貿易部
  • 建設部

【各共和国級共産党組織一覧】

ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党

(ロシア語:Коммунистическая партия Российской Советской Федеративной Социалистической Республики/通称:ロシア共産党。※1990年6月設置。前身となる組織は、ソ連共産党中央委員会附属ロシア共和国・ビューロー(事務局)。前述の通り、これはソ連共産党中央委員会が直接統治していたロシア共和国との窓口としての実務機関であったが、ソ連末期の1990年6月に、国内の民族主義の噴出に伴って、全共和国は平等であるとの観点から、ロシア共和国だけの特別扱いを取りやめると共にロシア共産党が結成され、ソ連共産党保守派を代表する領袖であるイワン・ポロスコフが第一書記に選出された。彼は同年7月には共産党党規約の改正にともない、各共和国党第一書記とともに党政治局員に就任している。結成後はソビエト連邦共産党の全組織中、約58%の党員を確保し、ミハイル・ゴルバチョフ書記長に対する党内保守派の中核の一つとなった。後のロシア連邦共産党の直接の源流であり、この事から現・ロシア連邦共産党は、往時のソビエト連邦共産党の中でも更に強硬的保守派が結成した政党である事が窺える。)

ウクライナ共産党

(ソ連三大幹部級構成国筆頭にして、ソ連邦No.2の構成国、ウクライナの執政党。ウクライナは革命前からのロシアや他国に対する自主独立の気風が強く、ウクライナ共産党にも、ビューローでは無く、正式な「政治局」が置かれるなど、ソ連共産党政治局の絶対的支配から多少独立している傾向がある。)

白ロシア共産党

(通称:ベロルシア/ベラルーシ共産党。ソ連三大幹部級構成国の次席に位置するベラルーシの執政党。本国・ロシアへの忠誠に関しては、革命前からの自主独立の気風の強いウクライナと比して自他共に認めるトップクラスの従順度を誇る。)

カザフスタン共産党

(通称:カザフ共産党。ソ連三大幹部級構成国の末席に位置し、ソ連構成国の中では本国・ロシアに次ぐ巨大な国土を有するカザフスタンの執政党。)

ウズベキスタン共産党

(通称:ウズベク共産党)

グルジア共産党

モルダビア共産党

タジク共産党

アルメニア共産党

トルクメン共産党

リトアニア共産党

ラトビア共産党

キルギス共産党

アゼルバイジャン共産党

エストニア共産党

※ソビエト連邦共産党中央委員会は各共和国級共産党の中央委員を初めとした最高幹部を中心に選出される。各共産党の党首は第一書記。


《州・市党組織》[※〜1990年/ロシア共和国内]

州・市級共産党組織

代表機関(指導機関)…州・地方党会議

執行機関…州・地方党委員会

〔組織詳細〕

  • 州・市党委員会
  • 州・市ビューロー
  • 総務部
  • 文化部
  • 工業部
  • 宣伝扇動部
  • 組織・党事業部
  • 行政金融機関部
  • 教育科学機関部
  • 軽工業・食品・経済部
  • 建設輸送・地方自治体サービス部
  • 州党委員会附属歴史研究所

【直属の市級党組織】

・モスクワ市党委員会

革命の首都、党中央のお膝元のモスクワ市の護りを堅めるソ連共産党中央委員会直属の市党委員会。レニングラード市と並んで、州級党組織と同格である事を許されたエリート組織で、モスクワ市党委員会第一書記は、ソ連共産党内における出世コースの一つである。)

・レニングラード市党委員会

(ソ連の革命から建国歴史上重要な場所で、10月革命の主力、ペトログラード・ソビエトのあった都市であるレニングラードに置かれたソ連共産党中央委員会直属の市党委員会。即ちこここそが『ソビエト』と『共産党』が融合した場所であり、レーニンの名を冠したソ連第二の都市である。クレムリンに党中央が移動する前は、ここにボリシェヴィキの本部があった。)

【直属の州級党組織】

・モスクワ州党委員会

・レニングラード州党委員会

・スベルドロフスク州党委員会

・チェリャビンスク州党委員会

・ウリヤノフスク州党委員会

・タタール州党委員会

・ケメロボ州党委員会

・ロストフ州党委員会

・ペルミ州党委員会

…その他、上記含め40の州党委員会が存在。


州・地方級党組織[※ロシア共和国以外]

《州・地方共産党組織》

州・地方級共産党組織

代表機関(指導機関)…州・地方党会議

執行機関…州・地方党委員会


地区・市・辺区・管区級党組織

《地区・市共産党》

地区・市級共産党組織

代表機関(指導機関)…地区・市党会議

執行機関…地区・市党委員会

〔組織概要〕

ピラミッドの頂点に立つ中央委員会に対して、実質上の底辺に位置するのが、この「地区党委員会」である。91年時点のモスクワだけでも30箇所以上存在する事が確認されている。彼らは一般党員や地域の住民と接しながら、中央委員会ら指導部が打ち出す政策の実現に当たってきたのである。

〔組織詳細〕

  • 地区・市党会議…通常は2、3年に1度、臨時の場合は全党員1/3の要求、或いは地区・市党委員会総会の決議によって開催。
  • 地区・市党委員会…少なくとも3ヶ月に1度総会を開催する。
  • 地区・市ビューロー…2週間に1度ビューロー会議を開催する。
  • イデオロギー部…組織No.2の第二書記直属機関。
  • 総務部
  • 組織部
  • 社会・経済発展部
  • 財政・経営部
  • 社会・経済発展部

●イデオロギー指導

中央委員会の命令を、党員でない一般市民にも徹底させる目的で住民の代表を集めて行われる地区委員会での会議。中央委員会から中央委員会直属党官僚が講師として派遣される事もある。

この会議で人々は真剣に注意深くイデオロギーについての講義を聞くことになるが、中でも、中央委員会から党官僚(アパラチク)の講師が来た時には特に注意深く聞いたという。

中央委員会から派遣された講師は、『ここだけの話ですけれどね、』と語り掛ける。そこには、新聞を読むより多くの情報が詰まっている。ソ連において新聞の種類は確かに多いのであるが、記事の中身はどれも似たり寄ったりなものであり、その点、中央委員会の講師は、もしかしたら『内緒の話』を聞かせてくれるかもしれない。なので人々は、特に耳をそば立てて話を聞くのである。

《辺区共産党(крайко́м)》

  • 辺区党委員会

《管区共産党(окружко́й комите́)》

  • 管区党委員会

初級党組織

《共産党初級党組織/перви́чная парти́йная организа́ция(略称:ППО/旧称:党細胞)》

初(職場、村落)級共産党組織

代表機関(指導機関)…初級党組織党員総会

執行機関…初級党組織委員会またはビューロー

〔組織概要〕

共産党によりあらゆる社会活動が規定されるという原則及び規約により、党は職場と地域ごとに組織された。すなわち官庁、企業、コルホーズ(集団農場)、ソフホーズ(国営農場)、軍、学校など職場ごと、または村落ごとなどのあらゆる部門に、党員3人以上によって党員の集合体が設立され、それぞれ、工場細胞、街頭細胞、農村細胞 (農細)などより構成されていた。そしてこれがソ連全土津々浦々、正に社会の隅々にまで綿密に張り巡らされたのである。

これがソ連共産党の末端に位置する、組織的な基礎となる。

この組織は1919年第8回ロシア共産党ボリシェヴィキの党協議会採択の党規約(第6次規約)で「党細胞」と称されることとなり、のちに初級党組織の名称に改められる。規則により

「工業、運輸、通信、建設、資材供給、商業、公共給食、公共生活サービスの諸企業、コルホーズ、ソフホーズおよびその他の農業企業、設計組織、建設事務所、学術研究所、学校、文化・啓蒙施設、医療施設の初級党組織は、管理部の活動に対する監督権を持つ。」

と定められ、管理部に対する監督による直接支配を確立していた。そうして確立したこの初級党組織には、上意下達の指揮系統が明確に規則に刻み込まれた。

初級党組織は、党の幹部要員(кадр)政策の実行に積極的に参加する。

これは党指導部の指令に絶対的に服従し、日常活動を実践するという役割を持っており、党細胞組織は社会全体の掌握には有効な手段と考えられたのである。そのため、この党細胞のシステムは、ソ連共産党が指導した共産主義運動の為の国際組織、共産主義インターナショナル(コミンテルン)を通じてソ連共産党の指導を受ける各国の共産党や、組織形態では共産党を模倣したとされる国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP/ナチス党)でも採用された。

因みに、組織の構成単位として「細胞」(covert cell) を最初に組織したのは、19世紀フランスの革命家で、カルボナリ党員でもあり、パリ・コミューンの指導者ともなったルイ・オーギュスト・ブランキである。これは『広辞苑』(岩波書店)曰くの「生物体を組成する構造的・機能的単位。分裂によって増殖する」とある通り、地域や企業の中で自己増殖的に勢力・影響力を拡大していくことを目指して付けられたものであった。その後、社会主義や無政府主義のグループにおいても取り入れられ、その流れを引くソ連共産党でも取り入れられたのである。



プラウダ編集局地方支部組織

  • プラウダ編集局地方新聞局

プラウダ編集紙の地方支部。

  • プラウダ紙担当地方党委員会

プラウダ紙の地方支部に対するお目付役。

・宣伝教育部

・生産部

・文化部

・「プラウダ人」紙編集部

プラウダ編集局の内部出版紙「プラウダ人」の編集部。2つの編集委員会によって構成される。「プラウダ人」紙は、「プラウダ」紙を表立って批判する事の出来る唯一の新聞とされる。

・ゼミナール班/自習班

党の方針及びイデオロギーと自らの仕事を結び付けた理論の学習を行う組織。


教育・研究組織

  • ソビエト連邦共産党中央委員会附属マルクス・レーニン主義研究所(通称:ML研究所、ロシア語略:ИМЛ(イームル)。ソ連共産党中央委員会直属の中央研究機関であった研究所。共産主義イデオロギーを支える学者たちの聖域とも言うべき場所であった。モスクワに所在し、カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスウラジーミル・レーニン等、その他指導的共産主義者たちの著作や関連資料、マルクス・レーニン主義の研究、党大会決定やソ連共産党史の資料を始めとした党関係資料等の、収集・保存・編集・出版などを行っていた。機関誌は、1957年創刊の「ソ連共産党史の諸問題(Вопро́сы исто́рии КПСС)」。研究所は、(1)マルクス、エンゲルス、レーニンの著作(2)ソビエト連邦共産党史(3)党建設(4)科学的共産主義(5)国際共産主義運動史(6)支部および研究の調整(7)中央党アルヒーフ(文書館)(8)図書館(9)マルクス=エンゲルス博物館[1962年5月7日、モスクワに開設]の諸部門を擁し、連邦の中心であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を除く、ソ連を構成する14の共和国モスクワレニングラード(現サンクトペテルブルク)に計16の支部があった。所長には代々、ピョートル・ポスペーロフやミハイル・スースロフといった、その当時を代表するマルクス・レーニン主義の理論家が就任し、その知見を集積させていった。)

【マルクス・レーニン主義研究所の歴史】

・1921年:マルクス・エンゲルス研究所設立。

初代所長ダヴィト・リャザーノフ。同研究所の目的は、様々な時期に様々な言語で刊行された、マルクスとエンゲルスの著作を集め、彼らの未刊の著作物(草稿、書簡、彼らが読んで下線や欄外書き込みを入れてある書籍、等)を収集する事、また、これと並んで、その当時の国外におけるマルクスとエンゲルスについての研究活動(書籍、雑誌論文、等)をサーベイする事であった。中でも、ロシアの外部での当時の世界のマルクス主義にとって最も重要な地域であった、ドイツオーストリアにおける研究のサーベイは特に重視された。リャザーノフは研究の為に、研究所を党の干渉から保護し、弾圧対象であったメンシェビキ(旧・社会民主労働党の穏健・少数派)、或いは党の異端者をも雇った。例えば、「マルクス主義価値論概説」(初版:1923年)の著者であるイサーク・イリイチ・ルービンは、この研究所の主要なメンバーの一人であり、彼はリャザーノフとの密接な協力関係の下に、こうした研究所の任務に携わった。彼の「概説」は、この研究所における以上のような研究活動の1つの結果であったと見なすことが出来る。また、この研究所のもう1つの任務は、カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスの全集である、「マルクス・エンゲルス全集(Marx-Engels-Gesamtausgabe/マルクス・エンゲルス・ゲザムタウスガーベ、略称MEGA[メガ])」の旧版(通称:旧メガ)の編纂を行う事であった。所長のダヴィト・リャザーノフは、当時第一級のロシアにおけるマルクスの文献学者であり、1917年のロシア革命以前からマルクス学者として活躍していた(1930年には彼の生誕60周年の行事[記念論文集刊行、最良のマルクス主義研究に与える2年ごとのリャザーノフ賞設立、党幹部の称賛メッセージ]なども行われている。)。また彼は、カール・マルクスが党の創設に携わり、フリードリヒ・エンゲルスが名誉会長を務めた19世紀後半〜第一次世界大戦前に至るまでの社会主義運動の国際組織である国際社会主義者大会第二インターナショナル)を牽引した為に、ロシア革命以前の社会主義運動の中心的政党であった、ドイツ社会民主党(SPD)の様々な理論的指導者達とも緊密な関係にあった。彼は、ドイツ社会民主党の党文庫に保管されていたマルクスやエンゲルスの草稿に、自由にアクセスする事が出来たのである。1922年にリャザーノフはドイツ社会民主党の幹部にして社会民主主義、修正主義の理論的創始者であるエドゥアルト・ベルンシュタインに依頼して、社会民主党に保管されていた、彼らの原稿の利用を許可された。その結果、同研究所は充実した資料を元に全集を編集し、1927年、フランクフルトで最初の巻が刊行された。なお、新版である通称:新メガは、現在も刊行が続けられている。

・1923年:レーニン研究所設立

初代所長レフ・カーメネフ。1920年のレーニン生誕50周年を記念して、同年に開かれたロシア共産党ボリシェヴィキ第9回党大会の決定に基づき、ソ連の初代指導者、ウラジーミル・イリイチ・レーニンの著作・書簡・ノートを集めたロシア語の著作集、ヴェ・イ・レーニン全集の編纂の任に当たる。1924年発行の改訂版の序文は所長カメーネフ自らが書いている。

・1931年:マルクス・エンゲルス・レーニン研究所(MEL研究所)設立。

初代所長:ウラジーミル・アドラツキー。全連邦共産党ボリシェヴィキ中央委員会の決定により、マルクス・エンゲルス研究所とレーニン研究所を合併して設立。同年にリャザーノフは合併されたマルクス・エンゲルス研究所の所長を解任、ルービンを含む若干の研究スタッフも追放を余儀なくされる。党中央文書保管局次長であった同研究所の初代所長、アドラツキーが責任編集者となり、彼の主導の元、リャザーノフから引き継いだ旧メガ編纂のプロジェクトを継続し、完成させる。またアドラツキーはその他にも、レーニン研究所のカーメネフから引き継いだヴェ・イ・レーニン全集の編集責任者も務めた。

・1954年:マルクス=エンゲルス=レーニン=スターリン研究所(MELS研究所)に改称。

・1956年:マルクス=レーニン主義研究所(ML研究所)に改称。

・1991年6月:社会主義理論歴史研究所と改称。

・1991年11月:廃止。

ソ連共産党中央委員会附属マルクス・レーニン主義研究所附属ソ連共産党中央文書館(ЦПА ИМЛ/中央党アルヒーフ)、ロシア現代史資料保存・研究センター等に所蔵資料を移行。

・1999年3月:研究センター、ロシア国立社会政治史文書館(ロシア語:Российский государственный архив социально-политической истории/略称:РГАСПИ[ルガスピ])に改称。

現在もモスクワ市にある公文書館として、マルクス・レーニン主義研究所所蔵文書などの、コミンテルン国際共産主義運動、ソビエト連邦共産党に関する文書を所蔵・公開している。同文書館の保管文書には、4000通にのぼるレーニンの未公開書簡やコミンテルンの会議の速記録が含まれている。

(この研究所で研究していた思想である、マルクス・レーニン主義については、右記リンクを参照の事。→【マルクス・レーニン主義】)

《地方党研究機関》

・州党委員会附属歴史研究所

(モスクワ州などの党委員会に存在。)

…など

  • ソ連共産党附属高等党学校(ロシア語:ブッシャ・パルティーナ・シコーラ、ロシア語略:ВПШ。1946年から1991年にかけて存在したソ連共産党直属の高等教育機関で、指導的な立場に立つ将来のエリート党員、言わば共産党の幹部候補生の養成を目的とした学校であり、主に、党幹部及び国家官僚の教育や、プロパガンダ及びメディア方面の幹部の教育を行った。党は党員の思想・政治教育に関心を注ぎ、またそれなりの努力を、成果はともかくとして払ってきた。とくに1956年以後関心が急速に高まり、1965年の大規模な改革を経て、党の教育機関は以下の通りとなった。高等党学校は、全日制と通信制の2コースがあり、全日制は、ソ連共産党中央委員会附属高等党学校をはじめ、3年制及び4年制の中央委員会附属各地方高等党学校や各共和国共産党中央委員会附属高等党学校などが存在する。通信制は、ソ連共産党中央委員会附属通信高等党学校がよく知られる。党学校への入学は、いずれも党員にのみ限定されているばかりでなく、ソ連共産党中央委員会による直々の推薦、あるいは共和国共産党の中央委員会、または地区委員会等の推薦によって許可された。申請要件は、共産党、ソビエト、コムソモールでの活動経験、あるいはメディアでの仕事経験、等であった。科目は(1)ソ連共産党の歴史(2)マルクス・レーニン主義とその哲学(3)政治経済(4)科学的社会主義(5)党建設(6)ソビエト国家建設と法律(7)国際共産主義と国家解放運動(8)ソビエト経済と国民経済(9)共産主義(10)ロシア語(11)外国語、等であった。決して勘違いしてはならないのが、この学校は名前に「高等」「学校」とついてはいるものの、いわゆる日本の「高等学校(通称:高校)」では無い。あくまでも高等「党」学校なのである。この学校は、純粋無垢な少年少女が素敵な甘酸っぱい青春を送る為の機関ではなく、将来を嘱望されし革命的な若手の共産党活動家(多くの場合は20代後半〜30代にかけて)が、マルクスとレーニンの思想及びソ連共産党の活動について徹底的に叩き込まれる為の機関なのである。決して「JK」など居ないという事に留意されたい(ただし例外もある)。各高等党学校は、ソ連共産党及び共和国共産党の中央委員会、又は地区委員会の指導下に置かれた。1991年廃止。その後はソ連共産党資産の国有化に伴い、高等党学校はカードル・センターに改組された。その中央機関はロシア共和国国家勤務局が格上げされて生まれた「国家勤務のためのカードル育成総局」(略称:ロスカードルィ)であった。こうして、旧ソ連高等党学校のシステムはほぼ無傷でロシア連邦政府に吸収され、 1992年までに国内に7つのカードル・センターが生まれた。1994年には口スカードルィは廃止され、モスクワの国家勤務アカデミー(ソ連共産党中央委員会付属社会科学アカデミーが改組されたもの)が各地のカードル・センターの統括機関となった。ロスカードルィが省に準ずる機関として政府に属していたのに対し、国家勤務アカデミーはロシア大統領府直属の機関である。)

【ソ連共産党(連邦党)中央委員会直属の教育・研究機関】

ソ連共産党中央委員会附属の中でも直属校。

即ち、ソ連最高峰の選ばれし者のみが所属する超エリート組織。多くはモスクワに所在し、党最高幹部の若き候補生達を養成している。


《直属高等党学校》

・ソ連共産党中央委員会附属高等党学校=社会科学アカデミー

1978年、ソ連共産党中央委員会附属社会科学アカデミーが高等党学校及び通信高等党学校と統合された形で、全高等党学校組織の頂点に君臨する最高学術機関。1991年廃止。


・ソ連共産党中央委員会附属社会科学アカデミー

1978年以前に全高等党学校組織の頂点に君臨していた最高学術機関。

1978年、高等党学校及び通信高等党学校と統合される。


・ソ連共産党中央委員会附属高等党学校

ソ連共産党中央委員会直属の教育機関。別名は、連邦党中央委員会附属高等党学校、など。

所在地はモスクワ。

ソ連で最高の政治教育機関であり、ソ連共産党及び政府の主要幹部、及びラジオ、印刷物、テレビを含めたプロパガンダ・メディア方面の幹部の教育を行った。

入学資格は年齢40歳以下、党歴5年以上の党員であって、高等教育、つまり大学・専門学校の終了者に限られ、地方・州党委員会あるいは共和国党中央委員会の推薦を必要としている。

また修業年限は4年、入学の際には、マルクス・レーニン主義の基礎についての面接試験を受けなければならない。

多くの党及び政府の幹部がこの高等党学校を卒業したが、1978年、高等党学校は社会科学アカデミー及び通信高等党学校と統合される。


・ソ連共産党中央委員会附属通信高等党学校

国土の広いソ連では、通信教育が盛んであったが、それは党幹部養成機関でも同様であった。

ソ連共産党中央委員会附属通信高等党学校は、遠くの地方の党員も党幹部として養成できるように作られた機関である。

入学資格は、年齢40歳以下、党歴3年以上の党員であって、中等教育の終了者に限られる。

修業年限は4年、入学試験も存在する。


・ソ連共産党中央委員会附属組織者高等党学校


・Ya・M・スヴェルドロフ名称全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会附属高等宣伝学校

ソ連初期の幹部養成機関であったYa・M・スヴェルドロフ名称共産大学が、共産党中央委員会直属となった時の名前で、これは1935年から1938年までのもの。

名称は、1918年7月開設当時の「全ロシア中央執行委員会附属煽動・宣伝コース」、1919年1月の「ソビエト・党務中央学校」など、しばしば変更されている。



【3年制・4年制中央委員会附属各地方高等党学校】

ソ連共産党中央委員会附属だが、直属という訳ではなく、各地方や共和国の大きな都市におかれている高等党学校。ランクは直属校よりは少し下がる。なお、いずれもソ連共産党中央委員会付属高等党学校と同様の推薦条件を必要としている。

詳細は以下の通り。


…3年制高等党学校

入学資格は、年齢40歳以下、党歴3年以上の党員であって、高等教育の終了者である。

入学に際しては、中等党教育機関のプログラムで定められた程度のマルクス・レーニン主義の基礎、ロシア語、中等教育程度の地理学を試験課目とした入学試験が課せられている。

…4年制高等党学校

入学資格は、年齢35歳以下、党歴3年以上の党員であって、中等教育の終了者である。

入学に際しては、連邦党中央委員会付属の高等党学校の場合と同様の面接試験が要求されている。


《4年制ソ連共産党中央委員会附属高等党学校》

・モスクワ高等党学校

・レニングラード高等党学校

・アルマアタ高等党学校

・ハバロフスク高等党学校

・ノボシビルスク高等党学校

・ヴォログダ高等党学校

・ゴーリキー高等党学校

・クイビシェフ高等党学校

・サラトフ高等党学校

・スターリングラード高等党学校

・ヴォロネジ高等党学校

・ロストフ高等党学校

・カザン高等党学校

・スヴェルドロフスク高等党学校

・ペルミ高等党学校

・バルナウル高等党学校

・クラスノヤルスク高等党学校

・イルクーツク高等党学校

・ヤロスラヴリ高等党学校

・ウファ高等党学校

・ハリコフ高等党学校

・リボフ高等党学校

・オデッサ高等党学校

・ドネプロペトロフスク高等党学校

・スタリノ高等党学校

・ミンスク高等党学校

・ビリニュス高等党学校

・キシナウ高等党学校

・タシケント高等党学校

・バクー高等党学校


《3年制ソ連共産党中央委員会附属高等党学校》

・クルスク高等党学校

・ペンザ高等党学校

・スモレンスク高等党学校

・タンボフ高等党学校

・サランスク高等党学校

・マハチカラ高等党学校

・チカロフ高等党学校

・クルガン高等党学校

・オムスク高等党学校

・ウラジオストク高等党学校

…ウラジオストク校は日本の高校と年齢構成がほぼ同じであり、1991年に廃止されている事が確認されている。

・エレバン高等党学校

・フルンゼ高等党学校

・スターリナバード高等党学校



【3年制・4年制 各共和国共産党中央委員会附属高等党学校】

ソ連共産党中央委員会附属では無く、各共和国共産党中央委員会附属の高等党学校。共和国共産党直属の幹部養成機関である。


《3年制・4年制 各共和国共産党中央委員会附属高等党学校》

ウクライナ共産党中央委員会附属高等党学校

カザフスタン共産党中央委員会附属高等党学校

…など


ソ連共産党の青少年教育機関

ソ連の子供達は、まずオクチャブリャータに入団し、ピオネールへと進む。ここまでは多くの子供たちが経験するが、ピオネールを終えた子どもは、更にコムソモールに加入することを期待された。ここから先は狭き門。選抜された優秀なピオネールがコムソモールに加入し、更にそのコムソモール中のエリートが共産党員となって、ソ連の特権階級を構成した。つまりピオネール⇒コムソモール⇒共産党というのは、普通の学校教育と並行して共産党の直接指導のもとに敷かれたもう一つのレールだった。

  • 全連邦レーニン共産主義青年同盟(通称:コムソモール)

愛唱歌:そして闘争は続く(1974年、バイカル・アムール鉄道建設突撃工事が宣言されたコムソモール第17回大会に合わせて作られた。現在でも広く人気を集める名曲。)

朝の空に翻る旗!人生の重要なる第一歩!

聞けよ、祖国の上に 激しき突撃の風が吹く!

そして闘争は続く!胸の内で、心が騒ぐ!

かくも若かりしレーニンが、若き革命戦士が先頭だ!

スローガン:「コムソモールー党の戦闘予備軍」


共産党中央委員会の直接の指導のもとに活動する14歳から28歳までの青年男女の政治組織で、ボーイスカウト的な側面を持つ青年団。機関誌は『コムソモリスカヤ・プラウダ』。コムソモール員(コムソモーレツ)は14〜15歳から28歳までの青年達で構成される。代表者は全連邦レーニン共産主義青年同盟中央委員会第一書記、最高機関は全連邦コムソモール大会。史料は青年同盟中央委員会附属文書館(ЦА ВЛКСМ)を経て、ロシア国立社会政治史文書館(ロシア語:Российский государственный архив социально-политической истории/略称:РГАСПИ[ルガスピ])に保存されている。コムソモールは、ソ連において、常に青年たちが直面する問題に対処していた。非識字との戦いから全国規模の建設事業への派遣に至るまで。始まりは1917年で、革命当時に団結した青年の組織として、1918年10月29日にロシア青年共産同盟として正式に発足。当初は約2万2000の団員であったが、1920年には40万に達して赤軍に参加し戦闘に従事した。革命の終結により、1922年に団員の健康、スポーツ、教育、出版物発行を目的として再建された後、1926年に全連邦レーニン共産主義青年同盟へと改称し、1977年時点の組織人員は約3600万人、1983年時点の組織人員は約4200万人、1987年時点での組織人員は4085万人である。彼らは党に直属するボランティア組織でありながら、汚職を告発するスパイと密告者の養成機関でもあった。これによって1930年代のスターリンによるクラーク撲滅運動ではクラーク(富農)の逮捕などの活動を行い、多くの農民を強制収容所へ送った。この組織は、党の「弟」、党の「予備軍」としばしば呼ばれる青少年政治団体であった為、コムソモールに入ることは既に重大な事である事を意味していた。何故なら、コムソモールへの加盟を申請するには、共産党員または経験を積んだコムソモール員からの推薦を提出する必要があり、その後、共産主義の同志からなる委員会の前で試験に合格しなければならなかったからである。それ故にこのステップまで来ると審査基準はかなり厳しく、学校での勉学、日常の行動、社会的労働への参加度といった面から厳密な審査が行われ、彼らは若き党員候補として自己を律する事が求められる。これは、少しでも“共産主義者の名誉に反すること”、即ち“党”の不興を買うような事をすると容赦なく除名される事を意味しており、家族への愛情よりも、共産主義革命への忠誠心を優先しなければならなかった。除名理由は素行や学校の成績が悪くなった事、等の様な基礎的な事情や、体制批判をした、等のような大袈裟なものに限らず、性的、或いは暴力を扱った音楽や詩、絵画なども規制対象で、年頃の若者達にとっては、かなり窮屈な世界であったとされる。なお、スターリン時代には、これら「不品行」のなかには、家族の誰かが告発されて強制収容所送りになった場合も含まれていた。無論、コムソモールから除名されたら、共産党に入党できる可能性は皆無である。そしてその後、優秀なピオネールの中から厳しい審査を潜り抜けて、最も旺盛な活動を示した若者である、として承認されて入団しコムソモール員となった優秀な青年達には、晴れて新たに赤いネクタイと赤い旗とレーニンの肖像が描かれているコムソモール団員のバッジが授与されたのである。そして少額の会費を払う事を義務付けられた。ソ連においてこの資格は通常、中学、高校、更にその後の就職活動に役立った。当時のソ連の若者にとってコムソモールの任務は輝かしく魅力的な仕事であり、社会に貢献する手段はコムソモールになる以外なかったのである。コムソモール員は活動として、党の青年教育活動を援助して、労働を愛し高い教養を身につけた共産主義者を育成すること、プロレタリア国際主義に基づく国際協調の精神を育成すること、と定義され、共産主義の学習と共産主義社会の具体的建設を目標として、青年男女の健康、スポーツ、教育、出版物発行を目的に運営された。彼らは党の路線の学習、学園や労働組合青年部での党の路線の宣伝、ピオネールの活動を指導し援助する活動等、共産党を支援する活動の他、自由時間には労働現場などでの奉仕活動が求められることもあった。彼らは、ソ連の青年達の模範となる事が期待され、公共工事の建設現場で働いたり、集団農場で収穫したり、また軍やその予備教育の場に赴いたりするなどして様々な活動を手伝った。モスクワの地下鉄工事などの建設事業にも参加した他、1950年代の処女地開拓と経済復興に特に意欲的に取り組んだのも、若いコムソモール員達であった。僻地で建設が難航したシベリアのバイカル・アムール鉄道(略称BAM)の現場の例では、1970年代にコムソモールを中心とした「BAM突撃隊」が編成され、全国から夏休みなど長期休暇中の学生が集められて労働に従事している(もっともこれは、ある程度のお金を稼ぐチャンスでもあったのだが。 )。又、親や教師のなかに紛れ込む「階級の敵」を摘発することが義務とされ、大学や学校では、「反革命派」を裁く模擬裁判が開かれた。こうした活動はプラウダの1面などで取り上げられるなど、PRが盛んに行われた。各種の企業や機関のほか、各高校や大学にも学校コムソモール、学年コムソモールとしてコムソモール支部があり、会合を組織し、クラブ、公開講座、政治討論会などの政治活動や社会奉仕活動を自主的に計画・実行し、生徒の活動を組織・運営した。彼らは一種の公聴会を開くことさえあった。そこでは、成績不良の生徒や、共産主義にもとる行動をした生徒が、大勢の聴衆の前で非難された。そして逆に、何によらず積極的で、成績が良く、スポーツもやり、他者の模範と認められれば、コムソモール支部の書記(つまりトップ)に推薦された。この役職は、特別な敬意(とお金)をもたらし、もちろん責任も増えたのである。このようなコムソモールの幹部を務めた者は、将来の党の幹部候補となる場合が多かった。なお、共産党員は18歳以上ということになっており、23歳までの青年はコムソモールを経てしか入党できなかった。その為、コムソモールから共産党に入党した党員は、エリート党員とみなされる。23歳になったコムソモール員の中でソ連共産党に入党を希望する場合、要求されるコムソモール員としての入党の条件(在籍期間、等)は以下の通り。『ソ連共産党の組織と規約、間答集』によると、「党規約はこの期間を定めてはいないが、党員は一年以上にわたる共同の生産活動及び社会活動によって被推薦者を熟知している場合に推薦することが出来ると規定している。したがってコムソモール機関は、入党を希望するコムソモール員に推薦状を与える際にはこの規定に準拠する。」とされている。この規定がコムソモールの対象年齢と重なっているのは、大きな功績をあげた者をすぐさま党員に抜擢する為であり、こうした“飛び級”を考慮してのものなのである。1991年のソ連崩壊に伴い、全連邦コムソモールは中央委員会の活動停止を決議。これにより各共和国はそれぞれ独自に青年組織を改編することになり、ロシアでは共産党色を払拭したロシア連邦青年同盟が組織された。

団歌/愛唱歌:焚き火を起こせ(ロシア語:Взвейтесь кострами。1922年に作られたピオネールの愛唱歌で、クルプスカヤの着想のもと、2人の若きコムソモール団員、詩人のアレクサンドル・ジャロフの作詞、ピアニストのセルゲイ・カイダン=ジョーシキンの作曲によって作られた。)。

たき火を起こせ、群青の夜!

僕らはピオネール、労働者の子!

明るい時代が近づいている!

ピオネールの合言葉は「常に備えあり!」

スローガン:「常に備えあり!」


ソ連の9歳から14歳の児童の自主的な参加に基づく共産主義教育の組織で、ソ連版のボーイ・スカウト/ガール・スカウトと言える(ソ連のピオネールは男女の区別をしなかった)。スカウト運動の創始者であるイギリスの軍人、ロバート・ベーデン=パウエル卿による創成期のボーイスカウト運動が旧ソ連に伝わった後、国策・党策に合わせてその方針、形態が変化したもので、1922年5月1日のコムソモール第5回大会で、レーニンの妻であり、教育人民委員であったナデジダ・クループスカヤの指導の下、その設立が決定された。彼女はピオネールに対して、「形はボーイスカウトで、中身は共産主義」であると述べている。ピオネールは、児童にさまざまな社会的活動を遂行させることによって共産主義を学び、祖国愛、労働愛、友情、協力、忍耐、平和、国際連帯などの精神を育成することを目的としており形式的にはスカウトに似たものだったが、政治に関する特別な授業が行われることもある等、前述の通り非常にイデオロギー的色彩が強いのが特徴で、児童に共産主義の教育を浸透させることが主眼だった。しかし、あくまでも子供達がすぐ共産党員になるわけではなく、特に冷戦期以降は、集団行動など共同で何かをするということを学ぶ場所という意味合いが強かった。活動は、上部組織であるコムソモールの指導のもとに、自らが選出した会議(ソビエト)の決定に基づいて自主的に運営されていた。組織の基本単位は、学校や「子供の家」に設けられるピオネール団であり、団は隊に分けられ、隊はさらに班に分けられていた。そして彼らは彼らはソ連社会において役に立ち貢献するように育てられたのである。活動内容としては、まず代表的事例としては、紙くずや金属くずを集めてリサイクルセンターに持ち込んだ事が挙げられる。

戦時中に金属を回収して武器製造に充てようとしたのは日本も同じことだが、ソ連では戦後も長い間、資源不足に悩まされ、金属屑や古紙の回収が盛んに行われていた。

宇宙にロケットを飛ばす一方で、基本的な物資が不足しているという、矛盾に満ちた社会だったのだ。アニメの中に出てくる「全ての不要なものをスクラップに!金属屑を集めよう!」という言葉は、当時のソ連で実際によく聞かれたスローガンである。

そこでピオネールではこの活動を率先垂範して実行した。そして誰がより多く持ってくるかを競い合うこともよくあったと言われる。

又、ピオネール宮殿でのサークル活動も行われた。合唱や楽器、バレエにダンスなどのサークルがあり、普段の活動を指導する女性教員のほか、これらの活動には専門的な国で雇われた人が指導していた。その他には、家のない子供達を援助したりする社会奉仕活動の他、集会、討論会、展覧会などの日常活動、そして最大の定期的行事として夏季にはピオネール・キャンプが各地で催された。模範的ピオネールと認められた者は、このサマーキャンプに参加できるバウチャーを無料で獲得する事が出来たのである。更にその中で最も幸運な者は、黒海へ行き、クリミアの伝説的で象徴的なサマーキャンプ「アルテク」に参加できた。ピオネールの80年時点の組織人員は約2000万人であり、2年後の82年時点の組織人員は約2500万人であった。スローガンはボーイスカウト(Be prepared、備えよ常に)を真似てВсегда готов![フシグダー・ガトーフ/“常に備えあり![直訳:(何時でも)全ての準備よし!]”]であり、団員のシンボルは赤いネッカチーフである。建前上、参加は自由意志とされていたが、ソ連の場合は後述の通り段階を踏んだ上で入団希望者を少しずつ受け入れ、最終的に所属できるのは全児童の二割程であった。つまり、ピオネールの組織には、独自の規則と「法律」があったのである。ピオネールは、プロレタリアート出身で、健康、学力優秀、品行方正な青少年の中から選抜され、性別による区分はない。この頃から既に体制に忠実であることが求められ、ピオネール団員たる者は、すべての子どもの模範となること、コムソモール(全連邦レーニン共産主義青年同盟)に入る準備をすることが掲げられていた。彼らは祖国に忠実でなければならず、行儀がよく、チームワークに優れ、党の理想の為に勤勉でなければならず、学校の成績や素行が審査される事になる。もっとも、「嘘つき、怠け者、遊んでばかりいる子、非行少年の入団は認めない。」と、あるだけなので、実際の基準はかなり曖昧であった。しかも、多少の成績の悪化には救済措置が取られるなど、そこまで成績は問題とは看做されていなかったようである。つまり、当初こそは、言わば共産主義社会における将来の幹部候補としてのエリート的な存在として設計されたようではあるが、冷戦期の実態としては、エリート集団というよりは、準イデオロギー的な大衆組織としての側面が強かったのである。ただし、ある程度の憧れとしての存在というイメージは依然としてあり、チェブラーシカのアニメの中でも「ピオネールにはいりたい!」という話がある程であった。この話の中でも赤いスカーフをつけて行進している子どもたちの姿が描かれ、そしてその行進している姿に憧れるチェブラーシカがいる。このイメージは結局、ソ連崩壊まで維持された。

そうして、実際に3年生になると入団が認められるが、最初に入団できるのは「優秀な」子どもたちのみとされる。数週間後に「次に『行いの良い』」子どもたちの入団が認められ、「出来が悪い」とされた子どもたちでも入団選抜の対象とされるのは4年生以降とされていた。自由意志による入団を原則としながらも、共産党の意を汲んだ学校教員による優等生への勧誘に対し、当該児童に入団意思が無い場合であっても(児童の家族共々)疑念の目が向けられる事となった為、結局は児童自身が忖度して入団する流れが一般的であった。入団式にはピオネール宮殿においてレーニン像の前で「偉大なるレーニンの遺訓にしたがって生きる。そして祖国を愛すること。」、とする宣誓文を読む儀礼があった。その後、子供達の憧れの象徴となっていた、前述の赤いネッカチーフと、炎とレーニンをあしらった赤い星のバッジをつけることになる(そのレーニン像は既に大人であり、“党”に一人前と認められた事になる)。旧ソ連の教員養成制度では、教育実習は1年間となっており、うち9ヶ月は学校における実習、3ヶ月はピオネールにおける実習に充てられた。

  • 十月の子(通称:オクチャブリャータ。)

7歳から11歳までの低学年の全児童が加入する児童組織。ピオネールの下位組織であり、子供たちが上位組織のピオネールに入る準備段階である。この団会で入団を断られる事はまず有り得ない。

入団した子供達は「オクチャブリョーノク」と呼ばれる。「オクチャブリャータ」、「オクチャブリョーノク」は、10月を意味するロシア語「オクチャーブリ」に因む造語で、ロシア十月革命に由来する称号である。「オクチャブリョーノク」が初めて登場したのは1924年で、第一期生の彼らは当時7歳だった事から革命と同じ「年齢」と受け取られ、その事からこの名前が付けられたのである。入団した子供は、赤い星の形をしており、子供の頃のウラジーミル・レーニンが描かれている名誉バッジを受け取ることができる。その後はいくつかのグループに分けられ、14~16歳の年長の子供達とペアにされた。オクチャブリョーノクとなった子供達は、学校の成績が良く、模範的に振舞い、大人や高齢者を尊重し、概して清潔できちんとしていなければならなかった。彼らは、そうした共産主義の児童組織に所属することで課せられる倫理規定を守らなければならないのである。そして同じグループの生徒は、いつもお互いに友好的に行動し、共同の活動を組織して歌ったり絵を描いたりして楽しんだという。


党財政

ソ連共産党は党の財政を一度も公表しなかったが、ソ連崩壊後にその実態が明らかになった。

党財政で党員が収める党費が占める比率は僅かであり、党が使う建物も党幹部の人件費、住宅、別荘も国費で賄われ、最高幹部の家事使用人は国家保安委員会(KGB)より派遣されていた。

党が経営する出版社は国有だったが、ソ連末期に所有名義が共産党にかえられた。

しかし、1991年のクーデター後、党の全財産は国有化された。

また、ソ連共産党は政権獲得後から、国が保有する外貨を使って同党が影響力を持つ国際組織と各国共産党に多額の資金援助を行ってきたことも判明した。


加盟した国際組織

別名:第3インターナショナル[第3インター]、コミンテルン、国際共産党。レーニンらロシア共産党ボリシェヴィキが主導して、モスクワで結成。

別名:コミンフォルム、共産党国際情報局。第二次世界大戦後にスターリンチトーが提唱。全連邦共産党ボリシェヴィキが主導して結成。


党史

ソビエト連邦共産党は、ロシア・ナロードニキ運動の流れを汲む労働解放団とペトログラードの工場労働者によるマルクス主義サークルのペトログラード社会民主党などが合同して誕生した、労働者解放闘争同盟を源流に持ち、これが発展したロシア社会民主労働党を前身政党として、その分派となったロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ[多数]派)を直接の母体とする。

直接の源流となったロシア社会民主労働党が成立したのは、1898年3月13日の事。当時ロシア帝国領であったベラルーシのミンスクで、前述の労働者解放闘争同盟を改組して結成された。そしてこれは、ロシア帝国で最初のマルクス主義政党の誕生でもあった。

しかし、1903年7月30日にベルギーのブリュッセルで開かれ、途中でイギリスのロンドンに渡って継続されたロシア社会民主労働党の第2回大会では、既にボリシェヴィキ[多数]派及びメンシェヴィキ[少数]派に分裂する予兆となる亀裂が生じており、後に1912年1月5日のプラハ協議会で正式に社会民主労働党(ボリシェヴィキ[多数]派)が成立する事になる。

その後の1917年2月に、ロシア帝国皇帝ニコライ二世が退位したのを期に活動を活発化させたボリシェヴィキは、1917年10月25日、遂に帝都ペトログラードにて十月革命を引き起こして政権を奪取、ロシア・ソビエト社会主義連邦共和国を成立させる。ここに、世界初の社会主義革命が成功した。

革命直後の選挙での同党の得票率は24%であったが、憲法制定会議を解散後、同党以外の政党は反革命政党として次々に非合法となり、22年に共産党だけの一党制が確立。しかし、同党が確立したプロレタリアート独裁は、実は共産党中央委員会の独裁であり、正確には少人数の政治局による寡頭支配であった。

1924年に党中央委員兼政治局員で人民委員会議議長(首相職)を務めていた初代最高指導者のレーニンが死去すると、指導部のなかに対立が起き、事務方トップの党書記長であったヨシフ・スターリンが実権を握り、独裁政治を確立。この年スターリンを「偉大な指導者」とする個人崇拝が確立された。以後30年以上に渡るスターリン時代が始まる。憲法によって明記されていた社会・国における指導的立場が完成したのはこの時代である。

このスターリンが完成させた書記長を頂点とした一糸乱れぬガチガチの共産党員のピラミッド体制スターリン主義(共産党の無制限独裁体制)の完成の一つとされ、共産党綱領『鉄の規律』・共産党の無制限独裁体制を明記したソ連憲法『スターリン憲法』もスターリンの治世中に実現し、強固な一党独裁支配のシステムを構築した。

これにより『ソビエト社会主義共和国連邦』は世界で一番恐い国というイメージが完成し、党も世界で一番恐いプロレタリア政党・悪魔のように強い政党というイメージが定着した。

1925年12月にはロシアの名を捨てて、全連邦共産党(ボリシェヴィキ)と党名を変更。

共産党はスターリンの指導のもとに、1920年代末から30年代初め頃までにソビエト連邦全土を一挙に工業国に変える為の社会主義の建設に乗り出した。スターリンは、一国社会主義建設の路線に沿って、1928年10月から重工業優先の第一次五ヶ年計画を発動。これは、1920年作成の電化に基づく長期発展計画(ゴエルロ計画)、1921年設置のソ連計画委員会(ゴスプラン)によって作成され、1920年代後半に実施された単年度計画等の経験と、大部分の工業企業の国有化を基礎としている。


農民をコルホーズ(集団農場)に加入させて穀物の大増産を図る路線を強行したが、飢饉による大量の餓死者の発生という結果に終わった。

この時期に「人民の敵」を収容所に入れて、僻地開発の過酷な労働に従事させる体制が作られた。

30年代半ばからスターリンは、自分に反対した者、反対する疑いのある者への弾圧を始め、古い党幹部をはじめとする多数の党員を「人民の敵」として銃殺の刑に処した。そのために生じた党幹部の空席は、革命後に入党し、スターリンにより育てられた者で埋められた。

更に1933年に第二次世界大戦が勃発すると、西には国家社会主義ドイツ労働者党とヒトラー総統率いるドイツ第三帝国、東には全連邦共産党(ボリシェヴィキ)とスターリン書記長率いるソビエト連邦という、絶対的独裁者の恐怖政治によって支配される一党独裁国家同士による史上最大と称される陸戦、独ソ戦が展開されるという、人類史上類を見ない最悪の状況をこの地上に現出させるに至る。

これによって第三次五か年計画は中断されてしまう。更に翌34年党大会での中央委員会選挙では、スターリンへの反対票が4分の1にも上ったが、スターリンはこれら幾つもの危機を同時に乗り越える事に成功する。

辛くもナチスに勝利したソ連だったが、その直後からアメリカとの冷戦に突入。

スターリンの治世末期のソ連邦公式設定として、1951年よりソ連は『社会主義(ソーシャリズム)国』から『共産主義(コミュニズム)国』に移行したとされたので、共産主義国の共産党として、ソ連共産党は他のソーシャリズム国の一段上の存在として振舞った。

1952年には書記長の座を廃すると共にソビエト連邦共産党に党名を再変更。

以降、ソ連共産党として活動する事になり、スターリンは筆頭書記として党に君臨した。

その一年後の1953年3月にスターリンが没すると、後継の党筆頭書記には、スターリンの最側近にして補佐役であったゲオルギー・マレンコフが就任する。

マレンコフはスターリンの反省点から権力集中を防ぐ目的で、約9日後には自らは閣僚会議議長(首相)に、フルシチョフに党首たる筆頭書記の座を明け渡すも、後に完全失脚。

跡を継いだフルシチョフは、集団指導体制を取り入れて、第一書記に就任。1953年の第20回党大会の秘密報告で第一次スターリン批判を展開し、「個人崇拝の否定的結果の克服」と「党内民主主義」の強化を決議、多数の者を収容所から釈放し、弾圧の犠牲者の名誉を回復した。旧日本軍のシベリア抑留の生存者が帰還したのもこの時である。

その後のフルシチョフ政権は宇宙開発事業などでソビエト経済成長の黄金期を記録する。

この時期、フルシチョフ指導部はガチガチの『鉄の規律』と『スターリン憲法』に穏健な改良を加えようと試み、61年の第22回大会は共産主義の全面的建設を課題とする党綱領を採択した。

しかし、『世界で一番恐い帝国・ソ連共産党も世界で一番恐い独裁政党・悪魔のように強い政党ブランド』を崩すことをおののいた共産党員の妨害と、書記長自身に新共産党構想が生まれなかったこと、実際問題として変わりたかったのか・変わらなかったのかが問題となった。更に、党の民主化のために幹部の任期を制限し、彼らの特権も制限しようとしたことでフルシチョフは党幹部らの怒りを買う。そして1962年のキューバ危機を乗り越えた後の64年、ある意味で言う最大の協力者であったアメリカ合衆国ケネディ大統領の不慮の暗殺事件や農業政策の失敗によって足場が崩れ、ブレジネフらによって解任されてしまう。

その後フルシチョフの跡を継ぎ、1964年10月に書記長に就任したブレジネフは、保守派筆頭のような人物で、一転、フルシチョフによる党綱領の課題は時期尚早であるとして棚上げされ、66年の第23回大会では中央委員会幹部会を政治局に、第一書記の名をスターリン時代の書記長に戻し、スターリン時代の名称を復活させた。

スターリン批判が停止され、政治局員の入れ替えがほとんどないために、指導部は高齢化してすべてに対し保守的政策を展開する。

内政では1977年10月に実施した憲法改正で制定されたブレジネフ憲法ではソ連邦と同盟国の維持のためには社会主義的自由意思を奪うのが当然という立場を明確にしたので、一気にソーシャリズム諸国の中では失望が広がった。

更に官僚の人事異動が少なく、そのため停滞と腐敗が進行し、党外から現状を批判する者は弾圧されたが、改革が必要であると考える者は党内に増えていった。

そして外交ではこのブレジネフ憲法に基づいたブレジネフ・ドクトリンを掲げて衛星国の民主化を弾圧したり、アフガニスタン侵攻を実行に移すなど、強気の外交が目立った。

しかし、一口に保守派と言えど、党内では一転、調整型の政治家であり、国内統制もそこまで厳しいものとはしなかった。そのためブレジネフは今でもロシア人の中で評判が良い事で知られる。

そして、このブレジネフ期にソビエト経済はゆっくりと停滞を始め、アメリカともなんだかんだ対立しながらも共存している関係に落ち着くなど、よくも悪くも、穏健的な長期停滞を象徴する政権であった。

その後の1982年、ブレジネフの死によって彼の18年と言う長きに渡る支配が終了すると、後任の書記長には改革派にしてシロヴィキ(諜報機関「KGB」出身・チェキスト)のユーリ・アンドロポフが就任。この時期に若手改革派筆頭のゴルバチョフを同郷のよしみであり、同じ改革派という事からアンドロポフが党書記に抜擢している。そして改革政策を開始させ、その道筋を付けた。

2年後にアンドロポフが急死すると、既に病気を患って瀕死であった保守派のチェルネンコが書記長に就任する。チェルネンコは宣伝扇動部(アギト・プロップ)で長年働いた宣伝畑の人物である。

こちらも保守派ながらにある程度は改革への軌道転換を用意したが、約1年後の1985年2月に急死すると、若手改革派のミハイル・ゴルバチョフが党書記長に就任。

この時代にソ連の改革は一気に進んだ。

ゴルバチョフはあの性格が歪まざるを得ない共産党内にいながら奇跡的な善良な性格を保持していたのでスターリンが完成した書記長を頂点とした一糸乱れぬガチガチの共産党員のピラミッド体制の場合には効力を持った、つまりいい人が独裁者になれば一糸乱れぬいい政党になる原理なので、ゴルバチョフ書記長時代の共産党はかなり、既存の共産党員には不本意ながら最高の能力を発揮していたと思われる。

しかし、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコと、長年の老人支配で硬直したソ連は既に限界を超えており、ゴルバチョフの改革でどうこうできるものでは無くなっていた。

しかし彼は、その再建と停滞打破の為に、翌1986年のソ連共産党第27回党大会でソ連経済の抜本的改革戦略として「社会・経済発展の加速化(ウスカレーニエ/英:escalation)戦略」と呼ばれる経済再建戦略を提示し、これの実現の為に、政策の中心に添えられた目玉政策である「ペレストロイカ(再構築)政策」と称する改革プログラムを施行させ、機械工業の質と効率の向上を目的とする「国家品質管理証明制度(ガスプリヨームカ)」を導入する等改革を開始。

その矢先に発生したチェルノブイリ原発事故を機にソ連官僚機構の隠蔽体質の問題を突き付けられたゴルバチョフは、そこにもメスを入れ、「グラスノスチ(情報公開)政策」も断行。​

最終的に加速化(ウスカレーニエ)戦略の下に、①再構築(ペレストロイカ)②情報公開(グラスノスチ)③国家品質管理証明制度(ガスプリヨームカ)の三本柱を基軸とする三位一体の改革を前進させてゆく。​

外交では「新思考外交」を掲げて西側との協調を軸とした外交を実施。米ソ冷戦を終結させ、ノーベル平和賞まで受賞するが、彼の改革虚しく、ソ連は解体への道を突き進む。

そして1989年ゴルバチョフが党の書記長と最高会議議長(元首)を兼任、さらに1990年2月の憲法改正によってソ連の政治に複数政党制・大統領制が導入され、党の一党独裁に終止符が打たれた事で、その指導的役割はほぼ消滅した。

しかし、ソ連全土地域で共産党員に対する批判が集中(特に構成国ロシア・ソ連邦社会主義共和国(後のロシア)が急先鋒にたった)、複数政党制に入った瞬間から共産党はただの与党になったということを、ゴルバチョフも共産党員もあまり理解していなかったように思われる。まあ党利党略というものが存在しなかったのだから(はむかう者は始末してきた性分の政党なので、他党との議論というものが存在しなかった)仕方が無い側面もあるのではあるが。この頃になると、党内部でも党の改革が不徹底であるとする党員の脱退が続き、党の解体が始まった。

それでも尚、ゴルバチョフは最後の力を振り絞って、地方分権を強め、ソ連を中央集権体制からEU的な緩やかな国家連合に再編しようと模索、その条約である「新連邦条約」締結を翌日に控えた1991年8月19日、ゴルバチョフのペレストロイカ政策、特に新連邦条約の締結に反発した、ゲンナジー・ヤナーエフ副大統領やウラジーミル・クリュチコフ国家保安委員会(KGB)議長を始めとする保守派グループは「国家非常事態委員会」を称してクーデター未遂事件を勃発させる。

急進改革派で知られたボリス・エリツィンロシア・ソビエト連邦社会主義共和国大統領らの尽力で、クーデターそのものは未遂に終わったものの、これを機に共産党の権威は失墜し、求心力は急激に低下。

代わりにこの時鎮圧に当たったボリス・エリツィンロシア共和国大統領の影響力が拡大した。

保守派に監禁されたゴルバチョフに対し、党中央委員会はこのクーデターを傍観したところから、ゴルバチョフ本人も、そして党そのものも政治的な影響力を失い、ロシア共和国主導の『ソ連下ろし』によって、党の維持すら困難な状況になったソ連共産党は1991年8月24日、ゴルバチョフ書記長による書記長職辞任、及び党中央委員会自主解散の勧告を受けてそれを承諾。

書記長辞任後に副書記長ウラジーミル・イワシコが書記長代行として5日間業務を継承し、1991年8月29日、党中央委員会自主解散。ロシア連邦最高会議も共産党の活動停止を追認。

地方組織も、1991年11月6日にロシア大統領ボリス・エリツィンによる解散及び党財産の接収を命じる大統領令の発令を受けて順次解散された。

その後ゴルバチョフがソ連大統領を辞職しクレムリンを去り、入れ替わるように新生ロシア連邦政府ボリス・エリツィン大統領がクレムリンに入った事で、共産党の長き歴史も完全に幕を下ろした…

かに思われたが、直後の1992年、新生ロシア連邦下で、9結社の自由が認められたのを契機に、主にソ連共産党構成組織の1つで1990年に新設された保守派の牙城、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党(ロシア語:Коммунистическая партия Российской Советской Федеративной Социалистической Республики/通称:ロシア共産党)の元党員らを中心として、ソ連共産党の元保守派幹部らが集結して

「ロシア共和国共産党再建の為の組織委員会」

が設立されると、ソ連共産党中央委員会イデオロギー部副部長にしてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党中央委員会政治局員兼書記でもあった、ソ連共産党宣伝扇動部(アギト・プロップ)元幹部のゲンナジー・ジュガーノフを党中央執行委員長(党首)として、1993年に

ロシア連邦共産党(Коммунистическая Партия Российской Федерации、КПРФ/カムニスチーチェスカヤ・パールチヤ・ラッシースコイ・フェデラーツィ、カー・ペー・ラー・エフ)」

としてまさかの再建が果たされた。

即座に地方組織も再建され、ロシア連邦最大の全国政党となる。

しかし支持者は、92年からの経済改革に適応できない元ソビエト共産党の活動家が中心で高齢者が多く、その他、年金生活者や地方の農民が支持者の一部にはいるものの、資本主義社会の下で育ってきた若者の支持はあまり得られていない。

党の基本政策は、複数政党制、市場経済を認める一方で、国有企業の民営化の停止、一部企業の再国有化、計画経済の復活、外国資本による経済支配の排除と外国への譲歩の拒否による国益の保護などである。

純粋なマルクス・レーニン主義と言うよりは、スターリニズムを大元としたナショナリズム的傾向が強い。

現在もロシア連邦議会の野党第一党として、与党の保守系最大政党である、統一ロシアと対峙し続けている。


【追記1】

  • 『書記長』ではスターリン路線、『第一書記』では大衆路線的意味合いが多少あった。

関連動画

・【ソ連共産党第26回大会(Съезд КПСС XXVI)】

・会期:1981年2月23日ー2月25日

・書記長:レオニード・ブレジネフ

YouTubeにおいて、最初から最後までほぼ通して見る事の出来る数少ないソ連共産党大会である。いわゆる冷戦時代の最も典型的なソ連共産党大会の1つである。


・【全連邦共産党(ボリシェヴィキ)第19回大会(Съезд ВКП(Б)XIX)】

・会期:1952年10月5日ー1952年10月14日

・書記長:ヨシフ・スターリン

スターリン体制下で行われた最後の党大会。党大会においてスターリンが書記長として行った最後の演説が収められている。この大会で全連邦共産党ボリシェヴィキからソビエト連邦共産党へと改称される。


・【ソ連共産党第20回大会(Съезд КПСС XX)】

・会期:1956年2月14日ー1956年2月25日

・第一書記:ニキータ・フルシチョフ

恐らくは、世界で最も有名なソ連共産党大会。日本においても、高校の世界史で必ず覚えさせられる事でその知名度は抜群に高い。あるいは、正式名称を言えずとも、「スターリン批判」の通称を聞けば意味は何となく分かる、という人は相当に多いと思われる。

この大会は、ソ連の内外政策を、180度大転換させた画期的な党大会として知られる。

雪解けの機運が高まりつつあったこの時、フルシチョフは、アナスタス・ミコヤン閣僚会議第一副議長(第一副首相)らの主張を受けいれ、1916年来の古参ボリシェヴィキにして、ソ連共産党を代表する理論家であり、当時、マルクス・レーニン主義研究所の所長を務めていたピョートル・ポスペーロフを筆頭とするポスペーロフ委員会によって、スターリンの大粛清に対する調査が行われる事となった。その結果はフルシチョフらの想像を遥かに上回る悲惨なもので、衝撃を受けたフルシチョフやミコヤンは即座に党大会への報告を決める。こうして、大会前日の2月13日に開かれた幹部会で、この問題についての報告をフルシチョフが行うこと、この報告を大会の秘密会議で行うことを決定した。同日に行われた中央委員会総会は、内容が伏せられたうえでフルシチョフ報告が行われることを承認した。

大会11日目に当たる2月25日、外国の共産党・労働者党の代表には公開されない、国内の代議員だけに向けた秘密会議において、特別報告「個人崇拝とその結果について」が発表された。後に言う「スターリン批判」である。

動画の内容は、外に向けて公開されている普通の中央委員会報告(一般基調報告)の様子であり、スターリン批判直接のシーンでは無い。(本来、門外不出の最重要機密レベルの話をしている“秘密報告”の為、もちろん撮影なんかされていない。なので、そもそも動画として残っていない。)


関連タグ

ソ連 共産党

ソ連共産党(略称) センター


参照

  • 参考文献

・『ソ連共産党書記長』著:木村明生/講談社現代新書

・『ソビエト連邦史』著:下斗米伸夫/講談社学術文庫

・『日本共産党の研究〔一〕』著:立花隆/講談社文庫

・『いまさらですがソ連邦』著:速水螺旋人、津久田重吾/三才ブックス

・『ソ連の新聞制作の実際』(ソ連報道出版界代表団報告)著:ソ連報道出版界代表団、編:人民日報総編集室、訳:古沢周一/NBS出版社/1958年発行

・『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』(1938年版)著:ソ連共産党 (ボリシェビキ) 中央委員会特別委員会、訳:東方書店出版部/東方書店/1971年発行

…その他


  • 参考ページ

・『pixiv ソビエト連邦』

・『wikipedia(日本語・ロシア語・英語版)』

・『コトバンク』

・『ロシアビヨンド』

・『ソビエト連邦共産党党綱領』

・『広辞苑』

・『マイペディア辞典』


…その他

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