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フェリクス・ジェルジンスキー

てつのふぇりくす

フェリクス・ジェルジンスキーは、ポーランド人の出自を持つロシア帝国の革命家、ソ連の政治家、人民委員の一人で、のちのKGBの前身「反革命およびサボタージュとの闘争のための全ロシア非常委員会(チェカー)」の創設者で初代長官

※現時点で「ジェルジンスキー」のタグの方が多いですが、「レーニン」とか「スターリン」と違ってペンネームじゃないので、ファーストネーム込みで作成しました。


 ジェルジーンスキイ、フェーリクス・エドムーンドヴィチ(Дзержинский, Феликс Эдмундович)。ポーランド語ではFeliks Dzierżyński。「鉄のフェリクス(Железный Феликс)」などと呼ばれた。

 ジェルジンスキーは1877年に現ベラルーシ首都ミンスク近郊、現リトアニアとの国境にある町で、ポーランド人士族(シュラフタ)の地主の8人の子供の一人として生まれた。両親に先立たれたのち、ヴィリニュスにあるカトリックの神学校に進学、しかしマルクス主義への傾斜によってギムナジウムを卒業2か月前に放校処分となる。以後7年間、ツァーリの監獄、国内流刑、懲罰植民地における重労働などの日々を経て、肺病を患うようになる。この間ポーランド・リトアニア王国社会民主党を指導し、1906年に同党代表として、ロシア社会民主労働党の中央委員になった。ボリシェヴィキ派に加わったのは1917年の2月革命の後で、レーニンに幾度か公然と反対するなど、政治的に脆弱な面を抱えていた。しかし十月武装蜂起の後、ヴャチェスラフ・メンジンスキー、ゲンリフ・ヤゴーダなどとともに「反革命およびサボタージュとの闘争のための全ロシア非常委員会(Всероссийская чрезвычайная комиссия по борьбе с контрреволюцией и саботажем)」通称「チェカー(Чека)」を設立し、その初代長官に就任する(後にGPUに改組されたのちも長官を務める)。チェカーの指導者として「反革命」勢力に対し辣腕を振るい、ボリシェヴィキの間で評価を得た。内務、運輸の人民委員(大臣)、国民経済会議の議長などを務め、非党員の専門家も尊重した。1926年、大クレムリン宮殿における党大会でトロツキーカーメネフを批判する報告を終えたのち、49歳で病死。

 葬儀ではスターリンが弔辞を述べた。


После Фрунзе – Дзержинский.

Старая ленинская гвардия потеряла еще одного из лучших руководителей и бойцов. Партия понесла еще одну незаменимую потерю.

Когда теперь, у раскрытого гроба, вспоминаешь весь пройденный путь тов. Дзержинского – тюрьмы, каторгу, ссылку, Чрезвычайную Комиссию по борьбе с контрреволюцией, восстановление разрушенного транспорта, строительство молодой социалистической промышленности, – хочется одним словом охарактеризовать эту кипучую жизнь: ГОРЕНИЕ.

Октябрьская революция поставила его на тяжелый пост, – на пост руководителя Чрезвычайной Комиссии по борьбе с контрреволюцией. Буржуазия не знала более ненавистного имени, чем имя Дзержинского, отражавшего стальной рукой удары врагов пролетарской революции. “Гроза буржуазии” – так звали тогда тов. Феликса Дзержинского.

(フルンゼの後を――ジェルジンスキーが追った。

 古いレーニンの親衛隊は、再び、一人の優れた指導者であり、闘士であるものを失った。党は、さらにもう一つ、償いがたい損失を被った。

 今、開かれた棺の傍らで、同志ジェルジンスキーの通ってきた全過程を――牢獄、懲役、流刑、反革命との闘争のための非常委員会、破壊された運輸の復興、若い社会主義工業の建設を――思い起こすと、私はこの緊張した生涯を燃焼という一語で特徴づけたい。

 十月革命は、彼を困難な部署に――反革命との闘争のための非常委員会の指導者の部署につけた。プロレタリア革命の敵どもの打撃を鋼鉄の手で撃退したジェルジンスキーの名より憎むべき名を、ブルジョワジーは知らなかった。「ブルジョワジーにとっての雷鳴」――同志フェリクス・ジェルジンスキーは、当時、このように呼ばれていた)

(И. Сталин, «Ф. Дзержинский {На смерть Ф. Дзержинского}», 22 июля 1926 г.)

※訳文は日本語版スターリン全集第8巻収録の「エフ・ジェルジンスキー」を一部変更。


 ソ連時代、モスクワのKGB本部の現ルビャンカ広場はジェルジンスキー広場と名付けられ、銅像が設置されていたが、ソ連解体時に銅像は引き倒された。

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