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概要編集

ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ブルガーニン(ロシア語:Николай Александрович Булганин、ラテン文字転写:Nikolai Aleksandrovich Bulganin、1895年6月11日 – 1975年2月24日)は、ソビエト連邦の政治家。第3代ソビエト連邦閣僚会議議長。政治局員、軍事人民委員、第一副首相、国防大臣を歴任した。


経歴編集

1895年6月11日にロシア帝国のニジニ・ノヴゴロドに誕生する。実科中学校に学び、1917年3月にロシア共産党(ボリシェビキ)に入党した。


1918年にチェーカー(KGBの前身)に入り、その後は1931年からモスクワ市ソビエト議長となり、1937年7月にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民委員会議議長(首相)、1938年9月に人民委員会議副議長(副首相)兼ゴスバンク総裁となる。1939年に党中央委員に選出された。


1944年12月に国防人民委員代理(国防次官)となり、国家防衛委員会の委員となった。


1946年3月に政治局員候補に抜擢される。1947年3月に副首相兼軍事大臣に就任し、元帥号を授与された。1948年2月に政治局員となる。


1953年3月5日のスターリンの死後、閣僚会議議長に就任したゲオルギー・マレンコフの新政権ではヴャチェスラフ・モロトフ、ラヴレンチー・ベリヤ、ラーザリ・カガノーヴィチと共に閣僚会議第一副議長に就任して国防大臣を兼務した。同年9月にフルシチョフが党第一書記に就任して実権を掌握する。


閣僚会議議長編集

1955年2月に閣僚会議議長に就任し、フルシチョフと「B・Kコンビ」を組んだ。1956年の党大会で非スターリン化を推進し、スエズ危機ではイギリスフランスへの武力行使を示唆した。


1957年6月にモロトフ、マレンコフ、カガノーヴィチらがフルシチョフの解任を要求した。フルシチョフは党中央委員会を招集し、グループの打倒に辛くも成功した。なお、この頃既にフルシチョフと確執を持っていた事もあってこの事件に積極的に関与し、彼の解任に賛同している。これが後に祟り、1958年3月に閣僚会議議長を解任され、同年9月に幹部会員を解任・失脚した(元帥号も剥奪)。1960年2月から年金生活に入り、1961年に中央委員を解任された。1975年2月24日にモスクワにて、79歳で死去した。


その他編集

1956年10月に日本の鳩山一郎首相と日ソ共同宣言を締結した。


家族編集

英語教師のエレナ・ミハイロフナと結婚し、息子と娘が誕生した。なお、娘はクズネツォフ提督の息子と結婚した。


外部リンク編集

ニコライ・ブルガーニン - Wikipedia

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