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概要編集

ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ(ロシア語:Лавре́нтий Па́влович Бе́рия、グルジア語:ლავრენტი ბერია、ラテン文字表記:Lavrentij Pavlovich Berija、1899年3月29日 – 1953年12月23日)は、ソビエト連邦の政治家。閣僚会議副議長(副首相)、内務大臣、閣僚会議第一副議長(第一副首相)などを歴任した。


1936年8月から1938年11月までヨシフ・スターリンによる赤軍大粛清を執行していた人物の1人であり、1939年のポーランド侵攻の際にカティンの森事件を引き起こし、ソ連版ハインリヒ・ヒムラーとも言われる。上司のスターリンも1945年2月に開催されたヤルタ会談でアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領に彼を「うちのヒムラーです」と紹介している。


経歴編集

1899年3月29日にロシア帝国グルジアのミヘウリに誕生する。スフミの工業学校を卒業し、1917年3月にボリシェヴィキ(ソビエト連邦共産党の前身)に入党する。


1919年にアゼルバイジャンにて保安業務の仕事に就き、1920年にレーニンが創設した秘密警察のチェーカーに加わる。


1922年11月にチェーカーから改組したGPU(国家政治保安部)のグルジア支部長代理に就任し、1926年12月に正式に支部長となった。1924年8月のグルジアでの民族主義者による暴動においては最大で1万人の人々を処刑し、反乱を鎮圧させた。

1931年11月にグルジア共産党第一書記となり、さらに1934年1月の第17回党大会にて党中央委員に就任して中央政治に転じた。


1938年11月に内務人民委員となり、大粛清の総仕上げに当たった。

1939年3月に政治局員候補となり、最高指導者の1人となっていた。1940年2月に人民委員会議副議長となり、同年6月にナチス・ドイツがソ連に侵入すると、連邦国防委員となった。

第2次世界大戦中は主に国内問題に当たり、NKVDの労働キャンプに収容されていた大勢の人々を戦時生産活動に使役した。1941年2月には人民委員会議副議長(副首相)に就任し、独ソ戦中もこの職にあった。


1945年7月にソ連邦元帥の階級を得て、1946年3月に党政治局員となる。1944年12月にソ連の原子爆弾開発プロジェクトの監督に当たった。この関係でアメリカの核兵器プログラムへの諜報活動を開始し、その結果ソ連は核兵器開発の技術を得て、1949年8月に核兵器の開発と実験を行った。


1953年3月のスターリンの死後は第一副首相に任命され、実質的な最高指導者として経済の自由化を推進しようとするが、フルシチョフとの政争に敗北した挙句、国家反逆罪容疑で逮捕されて失脚した(フルシチョフの大赦により治安悪化を危惧したベリヤはモスクワ郊外に内務省軍を配備しようとしたところ、フルシチョフにクーデターと捉えらた)。弁護人・弁明権無しで裁判にかけられ、12月23日に銃殺刑によって54歳で死去した。遺体はモスクワの森の周辺にて火葬・埋葬された。


ちなみにソ連内の政権の対立で政敵を逮捕・粛清されたのはベリヤが最後となっている。

女性に対する悪行編集

女性に対する強姦性的虐待を頻繁に行っており、暇さえあれば彼とその部下はモスクワ市内を車で廻り、気に入った女性をNKVD本部に拉致・強姦していたとまで言われている。まさに人類史上最低・最悪・最凶のロリコン野郎である


特に犠牲になったのは10代の少女で、自分の事務室に隣接した特別室を独占したり、「ベリヤのフラワーゲーム」と言う遊びのような形で凌辱し、中には殺害された少女もいた。


ベリヤの死後、しばらくの間、これらの悪行はあまりにも荒唐無稽だったためか「ベリヤを処刑する口実として、でっち上げられた事件」と考えられていた。しかし、様々な証言や、トルコ大使館(旧ベリヤ邸)では人骨が何体か発見されていることなどから、現代ではほぼ事実と考えられている。


あまりの所業にスターリンも呆れていたとされるが、この時既にベリヤは政権の維持運営における最重要幹部の1人となっていたこともあり、このことを黙認せざるを得なかった。ベリヤ失脚後の裁判において事態はついに明るみとなった。また、フルシチョフは回顧録の中で、その被害者の数はリストに書かれてあっただけでも100人以上に上ると書き残している。


現在でもベリヤの親族が名誉回復を主張しているが、ソ連崩壊後も新しい証言や上述の通り被害者の遺骨が発見されているため、覆ることは絶望的と推測されている。

ヒムラーハイドリヒは仕事では残忍非道だったが、私生活では精々浮気くらいしかしていないことを考えると、そりゃそうだろう



家族編集

1921年4月にニノ・ゲゲチコリと結婚し、1人の子女が誕生した。


関連タグ編集

ソビエト連邦共産党 NKVD ソ連の不思議な武器

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