概要
ニコライ・イヴァノヴィチ・エジョフ(1895年5月1日~1940年2月4日)
生誕からボリシェヴィキ入党まで
1895年5月1日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで生まれる。初等教育だけを卒業し洋服屋の助手や工場労働者として働いていた。
1914年、第一次世界大戦が起きると彼はロシア帝国軍に入隊する。
ソ連共産党での活動
ロシア内戦後、共産党各級地方委員会書記を務めた。
1927年、共産党の農産物徴発部門の指導者となり特別部門、人事、産業などの部門の長に就任した。
1934年、党中央委員に選出される。
1935年、党中央委員会書記に就任。1939年まで党中央委員会で党員への統制を行った。
スターリンの大粛清(大テロル)
エジョフはスターリンの支持者であり、政治的反対勢力が暴力とテロリズムと結合して反国家・反革命に結合しかねないという論文を発表し、これは粛清の根拠とされた。
1936年、ゲンリフ・ヤゴーダの後任として内務人民委員(内務大臣、NKVDの長官)、中央執行委員に任命される。翌年には党中央委員会政治局員候補に選ばれた。エジョフはヤゴーダ派の粛清に取り掛かり、粛清から生き延びたヤゴーダ派のメンバーは自身の配下に組み入れ、権力を固めていった。
1937年、ヤゴーダが「ファシストのスパイ」として逮捕された。エジョフはスターリンの忠実な執行者として大粛清を行う事となった。ヤゴーダや、その前任のメンジンスキーが任命した人員の多くが解任および処刑された。さらに彼はレーニンの同志トロツキーを支持していた一派も裁判にかけ、処刑または追放した。エジョフ自身が任命した人員までもが粛清の対象となる事もあった。
エジョフはスターリンから粛清の命令を受けた際にはその一字一句をメモに書き残していたとされ、NKVDの部署内にも監視が徹底化されていた。
エジョフ体制下では粛清が度重なり、党指導者や官僚、軍人や反革命の容疑をかけられた市民などが粛清の対象とされ、次々に逮捕された。拷問や処刑、追放や収容所送りなどで、多くの人々が粛清された。
失脚・最期
多くの人民を粛清してきたエジョフにも失脚の時がきた。大量の粛清によって国家の内政や経済が混乱に堕ち入り、スターリンの不興を買ったのであった。
1938年からエジョフの権威は次第に弱体となり、ラヴレンチー・ベリヤがNKVDで己の権力を固めていった。エジョフはこの頃、不仲となった妻エフゲジーナを逮捕、粛清している。
エジョフはアル中となり、最終業務の月は起きている時間ほぼ全て飲酒して過ごし、ほとんど出勤しなかった。
スターリンはベリヤに年次最高会議常任幹部会でエジョフを非難させ、11月11日、スターリンとモロトフがエジョフ体制下のNKVDを激しく批判した。エジョフが自発的に求めたという形で全官職を解任された。11月25日にはベリヤが内務人民委員に就任した。
1939年、エジョフが逮捕され、拷問により「ドイツの諜報機関と内通してクーデターを計画した」と自白させられた。
1940年2月3日、死刑判決が言い渡される。エジョフはその場で泣き崩れ、部屋から抱えられて運び出された。翌日、エジョフは銃殺刑に処された。
人物とエピソード
- 身長150cmとかなりの小柄で、残忍な性格と結びついた「血まみれの小人」「毒入りの小人」などの異名で呼ばれた。
- エジョフによる大粛清の時代は「エジョフシチナ(エジョフ時代)」と呼ばれた。
- 党幹部でエジョフによって逮捕、処刑されたニコライ・ブハーリンの「古参ボリシェビキの書簡」には「エジョフ以上に嫌悪を抱いた人物に会った事はない。公園にいる悪ガキどもはパラフィン油に浸した紙を猫の尻尾に結びつける。そして火をつけ、何と彼らは恐怖に陥った猫が火から逃れようと必死に引っ掻き回す姿を見て喜ぶのである。エジョフが少年時代からこんなふうに楽しんでいたであろうということ、そして今も形は違っていても同じことをし続けていることを私は疑わない」とある。現代でいうところの「DQN」である。
- スターリンが部下からエジョフの生死を尋ねられた時、「外国のスパイだったので粛清した。」と答えた。その部下はエジョフがスターリンの命令に忠実に従っていただけなのを知っていたが何も言わず受け流した。
- エジョフの死は1948年になってようやく国民に公表された。