曖昧さ回避
ロシア人の姓
モロトフ(Молотов)はロシア語で「槌」を意味する単語Молотに由来する姓。
ソ連の政治家
ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ
Вячеслав Михайлович Молотов(1890年3月9日~1986年11月8日)
本名はヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービン。
有名な作曲家アレクサンドル・スクリャービンと同姓だが縁戚関係はない。兄弟のニコライは作曲家で、アレクサンドル・スクリャービンとの混同を避けるため筆名「ノリンスキー(ニコラーイ・ミハーイロヴィチ・ノリーンスキィ)」を使用した。
ボリシェヴィキに創成期から属していた古参の革命家であり、スターリンに忠実な政治局員として活動し、第二次世界大戦中のソ連の外交を担った。
終生スターリンに忠実な姿勢を崩さなかった。
1930年から1941年までソ連人民委員会議議長(首相)、1939年から1949年の間、また1953年から1956年の間、外務人民委員(外務大臣)を務め、1957年の失脚までソ連共産党指導部の一員。
社会主義労働英雄。1期から4期まで、ソ連最高会議幹部会代議員。
略歴
1890年3月9日(ユリウス暦の2月25日)、ロシア帝国のヴャートカ県ヤラーンスク郡クカールカ村に生まれる。
1906年、ロシア社会民主労働党に入党。職業革命家として数年を過ごした。
第一次世界大戦中に流刑先のシベリアから脱走し、 ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で地下活動に携わる。
1917年の十月革命ではペトログラード軍事委員会委員となり、以後は北ロシア、ヴォルガ、ドネツ地方で活動。
1921年、ロシア共産党中央委員兼書記、1926年に政治局員に昇格。
コミンテルンにおいては、1927年に執行委員会幹部会の一員となり、1929年、ブハーリン失脚後、事実上のコミンテルン指導者となる。
1939年5月以降は外務人民委員(外務大臣)を兼ね、「モロトフ・リッベントロップ条約」として知られるナチス・ドイツとの独ソ不可侵条約の締結における署名者となった。
1940年のカティンの森事件にはモロトフも関与している。
1941年、スターリンに人民委員会議議長の職を譲り、外交部門の指導にあたる。独ソ戦の開戦後は国家防衛委員会副議長としてスターリンを補佐し、アメリカ・イギリス相手の外交で成果を上げソ連の国益を守った。
しかし戦後はスターリンに警戒心を抱かれて権限を縮小され、妻のポリーナが流刑に処されるなどした。
スターリン歿後はフルシチョフとの権力争いに敗れて共産党を除名され、年金生活を送った。
ブレジネフ時代になってもモロトフは無視されていたが、ゴルバチョフにより名誉回復が図られ、1984年、共産党に復党し、元首相としての年金がさかのぼって支給された。
1986年、96歳で没。
モロトフ・カクテル
火炎瓶(ガラス瓶にガソリンなどを充填した簡易な焼夷弾)の俗称。
→ モロトフカクテル
「宇宙の騎士テッカマンブレード」のキャラ
タツノコプロのアニメ「宇宙の騎士テッカマンブレード」に登場するキャラクター。
テッカマンランスが人間の時の名前。→ テッカマンランス