概要
Санкт-Петербург〈St. Petersburg〉
サンクト・ペテルブルク
ロシア西部、バルト海のフィンランド湾最東端、ネヴァ川河口デルタに位置する、モスクワに次ぐロシア第二の都市である。行政上はモスクワとともに単独で連邦市を形成しており、ロシア連邦を構成する83連邦構成主体のひとつである。人口が100万を超える都市としては世界で最も北に位置する。
港湾都市として知られ、現在もロシア海軍の拠点である。劇場や美術館ほか文化財が多く、モスクワに比べてヨーロッパ色が色濃い。
表記ゆれ「サンクトぺテルブルグ」と本記事「サンクトペテルブルク」の違いだが、前者は文字通りに読んだときの表記であるのに対し、後者は通常のロシア語の発音に則した表記である。具体的には、Санкт-Петербург をラテン文字表記すると Sankt-Peterburg なのだが、ロシア語の発音では語末のgはkになるのである。どちらか一方が間違っているという訳ではない。
- 【Walking Streets: Saint Petersburg, Russia. September 24, 2021】
歴史
グレゴリオ暦1703年5月27日(当時のロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)に築かれた。
都市の名は「聖ペテロの街」を意味する。建都を命じたピョートル大帝が自分と同名の聖人ペテロにちなんでドイツ語風に名付けたもの。ロシア帝国の首都として長く定着していたが、第一次世界大戦でロシアがドイツと戦争状態に入ってからロシア語風にペトログラードと改められた。
さらにソビエト連邦時代にはレーニンにちなんでレニングラードと改称され半世紀この名で呼ばれた。ソ連崩壊を受け、1991年の住民投票によって現在の名称に再び戻った。
ソ連の成立とほぼ同時に首都はモスクワに戻っているが、これは西の諸外国に近すぎる=戦時に不利な立地であることなどをソ連政府が懸念したためで、実際、第二次世界大戦ではナチスドイツ軍に包囲されてしまい、陥落こそしなかったが、市内は悲惨な飢餓状態に陥り、多くの死者を出している。
表彰
- 英雄都市の称号が、1945年5月1日、最高司令官И・В・スターリンの1945年5月1日の命令第20号によって授与された。1965年5月8日、「金星記章」が「母国の前の突出した功績、長期に及ぶ敵の包囲の中、レニングラードの勤労者が困難な状況下でファシスト・ドイツ侵略者との戦いにおいて発揮した勇敢さとヒロイズム、そして1941年から1945年の大祖国戦争におけるソヴェト人民の勝利20周年のために」授与された(※1)。
- レーニン勲章(1945年1月26日)が「母国の前のレニングラードの勤労者の突出した功績のために、敵の包囲という困難な状況下、ドイツ侵略者との闘争で発揮された勇敢さ、ヒロイズム、規律、不屈のために」授与された(※2)。
- レーニン勲章(1957年6月21日)が「母国の前のレニングラードの勤労者の突出した功績、十月社会主義大革命の日々に、そして大祖国戦争においてファシスト・ドイツ侵略者との闘争に発揮された勇敢さとヒロイズムのために、産業と文化の発展で達成した成功のために、新たな技術の進歩と発展、レニングラード設立250周年のために」授与された(※3)。
- 十月革命勲章(1967年11月4日)「十月社会主義大革命での革命運動におけるレニングラードの勤労者の突出した功績、ソヴェト権力の形成と強化への多大な貢献、ソヴェト国家の敵に対する闘争で発揮された勇敢さとヒロイズムのために、共産主義建設における成功ゆえに」授与された(※4)。
- ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国赤旗勲章(1919年12月5日)が「ペトログラードのプロレタリアートのヒロイズムと自己犠牲ゆえに、内戦におけるペトログラード防衛ゆえに」授与された(※5)。
※1 Памятные даты Петербурга. Май. Мир Петербурга. Дата обращения: 9 ноября 2012.
※2 Памятные даты Петербурга. Январь. Мир Петербурга. Дата обращения: 9 ноября 2012.
※3 Памятные даты Петербурга. Июнь. Мир Петербурга. Дата обращения: 9 ноября 2012.
※4 Памятные даты Петербурга. Ноябрь. Мир Петербурга. Дата обращения: 9 ноября 2012.
※5 Памятные даты Петербурга. Декабрь. Мир Петербурга. Дата обращения: 9 ноября 2012.
語源
サンクトペテルブルク、当初のオランダ語の形の公式名称では「サン(ク)トピテルブルフ(Sankt Pieter Burch)」は、1703年5月16(27)日から1914年8月18(31)日まで継続し、ピョートル1世の守護聖人である首座使徒ペトルに由来する。当初、1703年の5月半ばに兎島に築かれたペトロ・パウロ要塞がそう呼ばれ、すぐに町全体にその呼び名が広まった。町の公式の名についての特別な布告が存在せず、ドイツ語、スウェーデン語、オランダ語、英語(それらの言語に一定程度堪能なロシア人も側近に存在した)を用いたピョートルという環境の中で、18世紀の最初の25年間の資料では、名前のヴァリアントは30以上にも及んでいる。こうして、名前のすべての構成要素に関連する不一致が生じた。「サンクト(Санкт)」、「サント(Сант)」、「サン(Сан)」。「ピーチェル(Питер)」、「ペーチェル(Петер)」(しばしば生格の形で用いられた)。「ブルグ(бург)」、「ブルク(бурк)」、「ブルフ(бурх)」。地名自体は、一、二、もしくは三単語で区切って書かれることもあった。ピョートル1世自身の書簡の中に見出される類例では、次のものを含んでいる。「サンクトペテルスブルク(Санктъпетерсъбурк)」(1703年7月20日)、「サンクトピーチェルブルフ(Сантпитербурх)」(1703年9月20日)、「ピーチェルブルフ(Питербурх)」(1706年5月17日)、「サンクトペテルズブルク(Санктпетерзбурк)」(1710年9月20日)、「サンクト=ピテル=ブルク(Санкт-Питер-Бург)」(1714年4月28日)、「サンクト・ピテルブルフ(Санктъ Питербурх)」(1720年1月13日)など。雑誌『ヴェドモスチ(Ведомости、「通報」)』は「サンクトピテルブルフ(Санктъпитербурх)」(1703年12月号)、「サントピテルブルク(Сантъпитербург)」(1704年1月号)、「サンクトピテルズブルク(Санктпитерзбурк)」や「サンクトペテルズブルク(Санктъпетерзбурк)」を用いたが、より頻繁には「サンクトピーテルブルフ」を使い、1724年7月から、雑誌『通報』は「ピーチェル(-Питер)」の代わりに「ペーチェル(-Петер)」を使い始めている。このことは、「ピーチェル」という今日にも用いられる非公式の呼び名が、1724年に広まったと考えることを可能にしている。ピョートル1世の死後、ドイツ語風の表記「サンクトペテルブルク」が広まり、1914年まで用いられることになった(※1)。非公式には、ペテルブルク、俗語ではピーチェルと呼ばれている(※2)。
1914年8月18(31)日、ロシアの第一次世界大戦の参戦後、皇帝ニコライ2世により、異国風の「サンクトペテルブルク」を、より愛国的(ロシア語風)で、なんらかの「好ましからざる結びつき」を避けるべく、「ペトログラード(Петроград)」へ改める旨の勅令が出された。こうして、市名はもはや使徒の聖ペトロではなく、単に建設者のピョートル1世にのみ関連づけられることになった(※3)。以前に文学作品(たとえばА・С・プーシキンの)中に見られたように、いくつかの機関がその名に倣った(ペトログラード古儀式派教区)。にもかかわらず、「ペトログラード」という名はあまり根づかず、日常生活の会話の中では「ペテルブルク」の名が使われ続けていた(※4)。
1924年1月26日、ソヴェト同盟第二全ソヴェト大会は、ペトログラード・ソヴェト(グリゴーリイ・ジノーヴィエフの主導による)の請願を受け、その決議に基づき、その五日前に逝去した、1917年十月革命の主導者の一人であり、ソヴェト国家(ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国、ソヴェト同盟)の創建者にして指導者であったВ・И・レーニンを記念し、「レニングラード(Ленинград)」へと改称した(※5)。
1991年6月12日に行われたアンケート結果では、市民の54.86パーセント(※6)が、最初の名称への復帰について賛成だった。1991年9月6日、ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国の最高会議幹部会の布告第1643-1号により、市名は「サンクトペテルブルク」に戻されることになった。しかし1992年2月まで、「レニングラードの(ленинградский)」という呼称が多くの教育機関では続いていた(※7)。1992年2月21日、ロシア連邦人民議員大会はロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国憲法第71条において、市名の復帰を提議した(※8)。都市の名称の復帰において決定的な役割を演じた主要な発起人として、市長のА・А・ソブチャークが挙げられる。彼は以後、この改称を自らのもっとも重要で政治的な功績とみなしており、2006年にはソブチャークの記念碑が建立され不朽のものとなった。ソブチャークは、彼の町が新たな銀行の、商業の、観光の、文化的なバルト海沿岸地方の中心地となり、楽天的に、新たなロシアの首都がサンクトペテルブルクへ遷都する可能性も考えていた(※9)。
1990年代を通して、そして21世紀の初頭、旧世代の人々の会話には「レニングラード」という名前が見出された(※2)。同時に、この名前は共産主義的な、あるいは親ソヴェトの若年層の意見の中にも見出され、文化の中でも言及される(たとえば、音楽グループ『レニングラード』)。以前には、この呼び方はいくつかの組織の名称の中に保たれていた(レニングラード動物園、企業のレネネルゴなど)。
非公式な市の名称には、次のものがある。
呼称 | ロシア語 | |
---|---|---|
北の首都(またはロシア第二の首都) | Северная столица (или Вторая столица России) | 革命前の地位と連邦的な重要性の今日の地位を考慮して、しばしばそう呼ばれている。 |
文化的な首都 | Культурная столица | |
ネヴァ河畔の都 | Город на Неве | |
白夜の都 | Город белых ночей | |
ピーチェル | Питер | 「サンクトペテルブルク」からの略称。都市の非公式な呼び名では最古の一つ。 |
北のヴェネツィア | Северная Венеция | 多くの川と運河、また建築物があることからヴェネツィアに由来する比較。 |
北のパルミラ(※10) | Северная Пальмира | 伝説的な景勝地パルミラとの詩的な比較。 |
レーニンの都 | Город Ленина | ソヴェト時代の半公式的な呼称、特に大祖国戦争中のポスターにしばしば見受けられた。 |
三革命の発祥地(たる都市) | Колыбель (город) трёх революций | 1905年から1907年にかけて、そして1917年の革命的事件の重要な役割からの半公式な呼び名。 |
ペトロポリ | Петрополь | ペテルブルクのギリシア風の形の詩的な比喩、М・В・ロモノーソフによってはじめて用いられた(※11)。 |
ネヴォグラード | Невоград | 古儀式派の媒体におけるこの町の呼び名で、17世紀の古儀式派のサンクトペテルブルクへの居住以来用いられている。今日も、いくつかの出版物ではサンクトペテルブルクではなくネヴォグラードが使われる(※12)。1991年、この名称が市の改称計画に際し、アレクサーンドル・ソルジェニーツィンにより提起されている。 |
ヨーロッパへの窓 | Окно в Европу | プーシキンにより、詩『青銅の騎士』(1883年)の序文に用いられて以来人気になった形容詞。しかしプーシキン自身は、イタリアの哲学者で批評家、フランチェスコ・アルガロッティから借用したという(※13)。 |
都市の名前と関係して、この町の住民の呼称には五つのヴァリアントが存在する。
名称 | 複数形 | 男性形 | 女性形 |
---|---|---|---|
ペトログラード(※14) | петрогра́дцы | петрогра́дец | петрогра́дка |
レニングラード(※15) | ленингра́дцы | ленингра́дец | ленингра́дка |
ペテルブルク(※16) | петербу́ржцы | петербу́ржец | петербу́ржка |
サンクトペテルブルク(※17) | санктпетербу́ржцы | санктпетербу́ржец | санктпетербу́рженка |
ピーチェル(※18) | пи́терцы | пи́терец | питерца |
住民へのアンケートによれば、現在の住民は自らを「レニングラード人」とする意見が36パーセント、「ペテルブルク人」が32パーセント、その他が21パーセントであるという(※19、※20)。
※1 Поспелов Е. М. Географические названия мира. Топонимический словарь / отв. ред. Р. А. Агеева. — 2-е изд., стереотип. — М.: Русские словари, Астрель, АСТ, 2002, с. 365—366.
※2 Санкт-Петербург : энциклопедия / Междунар. благотвор. фонд им. Д. С. Лихачёва ; ред. Б. В. Ананьич и др. — 2-е изд., испр. и доп. — М. : РОССПЭН ; СПб. : ИД «Бизнес-пресса», 2006, с. 632.
※3 Хеллберг-Хирн, Елена. Печать империи. Постсоветский Петербург / пер. с англ. Д. Д. Невельской. — СПб: Европейский Дом, 2008. — С. 119. — 414 с.
※4 Санкт-Петербург: энциклопедия, 2006, с. 662.
※5 Санкт-Петербург: энциклопедия, 2006, с. 449.
※6 Вишневский: Не слышал, чтобы Собчак поддерживал переименование Ленинграда. Нормативная база Росбалт. Дата обращения: 24 ноября 2011. Архивировано 24 января 2012 года.
※7 25 лет назад Ленинград переименовали в Санкт-Петербург — Газета.Ru
※9 Хеллберг-Хирн, Елена. Печать империи. Постсоветский Петербург / пер. с англ. Д. Д. Невельской. — СПб: Европейский Дом, 2008. — С. 126, 146—147. — 414 с.
※10 Добро пожаловать на сайт о Санкт-Петербурге!. Дата обращения: 21 октября 2011. Архивировано 24 января 2012 года.
※11 ОДА на прибытие Ея Величества великия Государыни Императрицы Елисаветы Петровны из Москвы в Санктпетербург 1742 года по коронации. Lib.ru. Дата обращения: 21 октября 2011.
※12 История Невской общины (недоступная ссылка). Дата обращения: 21 октября 2011. Архивировано 9 апреля 2009 года.
※13 См. «Lettere sulla Russia» Франческо Альгаротти (1759)
※14 Левашов Е. А. Географические названия. Прилагательные, образованные от них названия жителей. Словарь-справочник. — СПб.: Дмитрий Буланин, 2000. — С. 401.
※15 Левашов Е. А. Географические названия. Прилагательные, образованные от них названия жителей. Словарь-справочник. — СПб.: Дмитрий Буланин, 2000. — С. 296.
※16 Левашов Е. А. Географические названия. Прилагательные, образованные от них названия жителей. Словарь-справочник. — СПб.: Дмитрий Буланин, 2000. — С. 400.
※17 Левашов Е. А. Географические названия. Прилагательные, образованные от них названия жителей. Словарь-справочник. — СПб.: Дмитрий Буланин, 2000. — С. 446.
※18 Левашов Е. А. Географические названия. Прилагательные, образованные от них названия жителей. Словарь-справочник. — СПб.: Дмитрий Буланин, 2000. — С. 404.
※19 «Петербуржцы» и «ленинградцы» в культурном пространстве города. “Телескоп”: наблюдения за повседневной жизнью петербуржцев. Дата обращения: 26 июля 2019.
※20 Ленинградцы или петербуржцы?. Еженедельник "Аргументы и Факты" № 16 17/04/2002. Дата обращения: 25 июля 2019.
交通
交通移動手段として、路面電車とサンクトペテルブルク・メトロ(地下鉄)が存在する。地下鉄は5路線存在し、全て東西南北の方向へと進んでいく。
主な施設
- ビブリアチェーカ
- チェスメンスカヤ教会
- ガレーリヤ
- ルビンシテイン通り
- マリインスキー劇場
- プールコヴォ航空
- サンクトペテルブルク港
- サンクトペテルブルク地下鉄
- 砲兵博物館
- ペテロヴロフスク
- ウラジーミル聖公聖堂
- スポーツ宮殿
- ゴーリキー像
- ロシア文学博物館
- ロストラの燈台柱
- 大理石宮殿
- 巡洋艦オーロラ
- レーニン像
- レーニン広場
- 夏の庭園
- メンデレーエフ博物館
- エルミタージュ美術館
- ストロガノフ宮殿
- イサク聖堂
- カザン聖堂
- プーシキンの家博物館
- アレクサンドルの円柱
- ロシア美術館
- ロシア民族学博物館
- 工芸博物館
- ミハイロフ城
- ロシア国立図書館
- 演劇と音楽の博物館
- シェレメチェフ宮殿
- アンナ・アフマートワ博物館
- マリインスキー劇場
- ユスポフ宮殿
- サンクトペテルブルク音楽院
- ユズポフ庭園
- アレクサンドル・ネフスキー大修道院
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