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大祖国戦争

だいそこくせんそう

W.W.IIにおける独ソ戦の、ソ連・露側の呼称。仏のナポレオンに国土蹂躙された先の戦いを「祖国戦争」と呼び、独が露に侵攻した際の戦いを「大祖国戦争」と呼んだ。欧州を短期間で支配したナチス・ドイツを瓦解させ、欧州を圧政から解放した。
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ドイツ側は「東部戦線(Ostfront)」「ロシア遠征(Russlandfeldzug)」「東部遠征(Ostfeldzug)」と呼んだ。 ソ連側から見ると「祖国防衛のための戦争」であり、1812年のナポレオンのロシア戦役のロシア側の呼び名「祖国戦争」を踏まえている。

ソ連側の立場から描かれた絵にタグ付けされることが多い。

名称編集

 「大祖国戦争(Великая Отечественная война)」という呼び名は、開戦当日の1941年6月22日、ソ連のリポーター、ユーリィ・レヴィターンの呼びかけの中に現れた。


«Внимание, говорит Москва. Передаем важное правительственное сообщение. Граждане и гражданки Советского Союза! Сегодня в 4 часа утра без всякого объявления войны германские вооруженные силы атаковали границы Советского Союза. Началась Великая Отечественная война советского народа против немецко-фашистских захватчиков. Наше дело правое, враг будет разбит. Победа будет за нами!»

(お伝えします、モスクワがお話しします。我々は重要な政府発表をお伝えします。ソ連の男女市民の皆様! 本日の朝4時、何の宣戦布告もなしに、ドイツ軍はソ連の国境線を攻撃しました。ドイツファシスト侵略者たちに対するソヴィエト人民の大祖国戦争が始められました。我々の行いは正しい、敵は打ち砕かれるでしょう。勝利は我々に!)

(Сообщение Левитана о начале Великой Отечественной войны)


 『プラヴダ』も翌23日、24日に「大祖国戦争」の語を組み込んだ記事を掲載し、スターリンも7月3日のラジオ演説や11月7日の革命記念日の演説で「偉大な(великий)」「祖国の(отечественный)」の形容詞を用いているが、この時は別個に「戦争(война)」と組み合わせて使っている。


«Войну с фашистской Германией нельзя считать войной обычной. Она является не только войной между двумя армиями. Она является вместе с тем великой войной всего советского народа против немецко-фашистских войск. Целью этой всенародной Отечественной войны против фашистских угнетателей является не только ликвидация опасности, нависшей над нашей страной, но и помощь всем народам Европы, стонущим под игом германского фашизма.»

(ファシスト・ドイツとの戦争を、通常の戦争と考えてはならない。この戦争は、単に二つの軍隊間の戦争ではない。それは同時に、ドイツ・ファシスト軍に対する全ソヴェト国民の偉大な戦争である。ファシスト圧迫者に対するこの全国民的祖国戦争の目的は、我が国に襲いかかった危険を一掃することだけでなく、ドイツ・ファシズムのくびきの下に喘いでいるヨーロッパのすべての国民を援助することでもある)

(Выступление И. В. Сталина по радио 3 июля 1941 г)

(訳文はスターリン著『ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争』国民文庫社、清水邦生訳、1953年、16ページを参照)


«Дух великого Ленина и его победоносное знамя вдохновляют нас теперь на Отечественную войну так же, как 23 года назад»

(偉大なレーニンの精神とその勝利の旗は、23年前と同じように、いまわれわれを祖国戦争へと鼓舞している)

(Речь на Красной площади 7 ноября 1941 года)

(日本語訳は同上、40ページを参照、一部改訂)


 1914-1917年、ロシア帝国が第一次世界大戦に参戦している間にも、ロシア側では非公式に「大祖国戦争」の言葉が用いられていた。

 ソ連解体後、ウズベキスタンでは「大祖国戦争」の表記は「第二次世界大戦」に取り換えられた。2015年、ロシアとの関係悪化を受け、ウクライナ最高議会は、公式の場では「大祖国戦争」を「第二次世界大戦」に書き換えること、また戦争の記憶の象徴「ゲオルギーのリボン」を、イギリスの第一次世界大戦時の戦死者を悼む象徴であるポピーに取り換えることを発表した。

交戦勢力編集

陣営同盟国ソ連もしくはドイツの衛星国
ソ連ポーランド亡命政府(1945年1月19日まで)、チェコスロヴァキア亡命政府、フィンランド(1944年9月19日以降)、ルーマニア王国(1944年8月23日以降)、ブルガリア王国(1944年10月28日以降)、自由フランス(1942年11月25日以降)、ユーゴスラヴィア人民解放軍、アルバニア国民解放委員会モンゴル、トゥヴァ人民共和国(1944年10月にソ連邦へ編入)、ポーランド国民解放委員会(1944年6月21日以降)
ドイツ第三帝国イタリア王国(1943年2月まで)、フィンランド(1944年9月19日まで)、ルーマニア王国(1944年8月23日まで)、ハンガリー王国(1944年10月15日まで)、ブルガリア王国(1944年9月5日から10月28日まで)スロヴァキア共和国(1945年4月4日まで)、ハンガリー王国国民統一政府(1944年10月16日以降)、クロアチア独立国

また、ソ連には国家として宣戦を布告していないが、ドイツ軍の麾下にあって独ソ戦に従軍したフランコ政権スペインの義勇兵「青師団」、反ボリシェヴィズム・フランス軍団、国防軍第369歩兵連隊(クロアチア軍団)、デンマーク義勇軍、ノルウェー義勇軍団などの外国人部隊。

ポーランド国内軍(AK)、ウクライナ蜂起軍(UPA)、「森の兄弟」(バルト三国のパルチザン)などは、時としてドイツ軍とも、またソ連軍とも対立した。

指揮官編集

連合国編集

ソ連イオーシフ・スターリン、ゲオールギイ・ジューコフ、ボリース・シャーポシニコフ(病死)、アレクサーンドル・ヴァシレーフスキイ、コンスタンチーン・ロコソーフスキイ、イヴァーン・コーニェフ、アレクセーイ・アントーノフ、イヴァーン・バグラミャーン、セミョーン・ブジョーンヌイ、ニコラーイ・ヴァトゥーチン(死亡)、クリミェント・ヴォロシーロフ、レオニート・ゴヴォロフ、アンドレーイ・イェリョーメンコ、ミハイール・キルポノース(戦死)、ロジオーン・マリノーフスキイ、キリール・メレツコーフ、イヴァーン・ペトローフ、ミハイール・エフレーモフ、マルキアーン・ポポーフ、セミョーン・チモシェーンコ、イヴァーン・テュレーネフ、フョードル・トルブーヒン、イヴァーン・チェルニャホーフスキイ(戦死)
ポーランド人民軍ミハウ・ロラ=ジミェルスキ
アルバニア民主運動エンヴェル・ホジャ
チェコスロヴァキア亡命政府ルドヴィーク・スヴォーボダ
ユーゴスラヴィア人民解放軍チトー、ミロヴァン・ジラス、ペコ・ダプチェヴィッチ
ルーマニア王国(1944年以降)ミハイ1世、コンスタンティン・ヴァシリウ=ラシュカヌ、エンマヌイル・イオネスク、ニコラエ・カンブリャ
ブルガリア王国(1944年以降)ダミャン・ヴェルチェフ、ヴラディミル・ストイチェフ

枢軸国編集

ドイツ第三帝国アドルフ・ヒトラー自殺)、フェードア・フォン・ボック(死亡)、エルンスト・ブッシュ、ハインツ・グデーリアンヘルマン・ゲーリング(自殺)、エヴァルト・フォン・クライスト、ギュンター・フォン・クルーゲ、ゲオルク・フォン・キュヒラー、ヴィルヘルム・フォン・レープ、ヴィルヘルム・リスト、エーリヒ・フォン・マンシュタイン、ヴァルター・モーデル(自殺)、フリードリヒ・パウルス(降伏)、ヴァルター・フォン・ライヒェナウ(死亡)、ゲルト・フォン・ルントシュテット、フェルディナント・シェルナー、エアハルト・ラウス
スロヴァキア共和国ヨゼフ・ティソ
イタリア王国ベニート・ムッソリーニ(死亡)、ジオヴァンニ・メッセ、イタロ・ガリボルディ
フィンランドカール・マンネルヘイム、レンナルト・オシュ
ルーマニア王国イオン・アントネスク、ペトレ・ドゥミトレスク、コンスタンティン・コンスタンティネスク
ハンガリー王国ホルティ・ミクローシュ、サーラシ・フェレンツ、ヤーニ・グスターフ、ソンバトヘイ・フェレンツ
スペイン王国アグスティン・ムニョス・グランデス
クロアチア独立国アンテ・パヴェリッチ、マルコ・メシッチ(後にチトーへ合流)、ヴィクトル・パヴィチッチ(戦死)

レジスタンス編集

ポーランド国内軍タデウシュ・コモロフスキ、レオポルト・オクリツキ
ウクライナ人民共和国アンドリーイ・リヴィーツキイ、フシェーヴォロト・ペートリウ
ウクライナ蜂起軍ヤロスラーフ・ステツコー、ロマーン・シュヘーヴィチ、ステパーン・バンデーラ、タラース・ブーリバ=ボロヴェーツ
森の兄弟(リトアニア)ヨナス・ジェマイティス=ヴィタウタス
チェチェンハサン・イスライロフ(死亡)

 ウクライナ蜂起軍、「森の兄弟」は50年代初頭まで活動が確認されたという。

戦闘が行われた地域編集

ソ連編集

構成共和国

 白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国(占領)、カレロ=フィン・ソヴィエト社会主義共和国(占領)、モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国(占領)、ラトヴィア・ソヴィエト社会主義共和国(占領)、リトアニア・ソヴィエト社会主義共和国(占領)、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国(占領)、エストニア・ソヴィエト社会主義共和国(占領)

ロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国の「州(Область)」

 アルハンゲリスク州(空襲)、アストラハン州(空襲)、ブリャンスク州、ヴォログダ州、ゴーリキー州(空襲)、カリーニン州、カルーガ州、クルスク州、レニングラード州(包囲戦)、リペツク州、モスクワ州(会戦)、ムルマンスク州、ノヴゴロド州(会戦)、オリョール州、プスコフ州、ロストフ州、リャザン州、サラトフ州(空襲)、スモレンスク州、スターリングラード州(会戦)、タンボフ州(空襲)、トゥーラ州、ヤロスラフ州(空襲)

ロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国の「地方(Край)」

クラスノダール地方、クラスノヤルスク地方(海戦)、スタヴロポリ地方

ソ連自治共和国

 アブハジア自治ソヴィエト社会主義共和国(グルジア・ソヴィエト社会主義共和国)、カバルディノ=バルカル自治ソヴィエト社会主義共和国、カザフ・ソヴィエト社会主義共和国(グリエフ市への空襲)、カルムイク自治ソヴィエト社会主義共和国、クリミア自治ソヴィエト社会主義共和国、マリ自治ソヴィエト社会主義共和国(空襲)、北オセチア自治ソヴィエト社会主義共和国、チェチェン=イングーシ自治ソヴィエト社会主義共和国、チュヴァシ自治ソヴィエト社会主義共和国(空襲)

他の国々編集

 ドイツ東部、ポーランドフィンランドノルウェールーマニアブルガリアセルビアチェコハンガリー、またドイツの構成に組み込まれたオーストリア、また第三帝国によって作り出されたクロアチア独立国、およびスロヴァキア

大祖国戦争の主な期間編集

 ソ連の歴史研究は、大祖国戦争を三つの主な期間に区分した。

第一期(1941年6月22日~1942年11月)

 ドイツのソ連に対する攻撃。戦争の最初の時期。「電撃戦」の破綻。モスクワの戦い。1942年の夏の失敗と敗北。

T-34

第二期(1942年11月~1943年12月)

 戦争の過程の根本的な転換点。スターリングラードの勝利と、クルスクの戦い、ドニエプルの戦い。

第三期(1944年1月~1945年5月)

 ソ連の国境線外への敵の追逐。ヨーロッパの国々の占領からの解放。ファシスト・ブロックの崩壊。ベルリン作戦。ドイツの無条件降伏。

 ソヴィエト・日本戦争は、大祖国戦争の論理上の継続とみなされる。

戦闘、作戦、会戦編集

 北極圏防衛(1941年6月29日~1944年11月1日)

 モスクワの戦い(1941年9月30日~1942年4月20日)

 レニングラード包囲戦(1941年9月8日~1944年1月27日)

 ルジェフの戦い(1942年1月8日~1943年3月31日)

 スターリングラードの戦い(1942年7月17日~1943年2月2日)

T-34中戦車1942年9月 勝利か、死か

 カフカースの戦い(1942年7月25日~1943年10月9日)

 クルスクの戦い(1943年7月5日~1943年8月23日)

 ウクライナ右岸の戦い(1943年12月24日~1944年4月17日)

 ベラルーシ作戦(1944年6月23日~1944年8月29日)

ツァーリを冠した戦車

 沿バルト作戦(1944年9月14日~1944年11月24日)

 ブダペスト作戦(1944年10月29日~1945年2月13日)

 ヴィスワ=オーデル作戦(1945年1月12日~1945年2月3日)

 東プロイセン作戦(1945年1月13日~1945年4月25日)

 ベルリンの戦い(1945年4月16日~1945年5月8日)

ベルリン攻略ベルリンへ!

占領体制編集

 ヒトラーは自らのソ連攻撃を、恐怖政治の諸手段に依拠する「十字軍」とみなした。戦争の過程でドイツの占領を受けたのは、白ロシア、ウクライナ、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、およびロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の13の州。モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国といくつかのウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国南部の地区(沿ドニエストル)はルーマニアの管理下に、カレロ=フィン・ソヴィエト社会主義共和国はフィンランド軍の占領下に置かれた。

Blitzkrieg1941

 州は「県」と呼ばれ、郡や郷が設立され(1943年1月以降は「地区」)、住民の記録が取られた。ドイツの軍・行政の権力機関(衛戍司令部、軍管区・地区管理局、農業管理局、ゲシュタポ)の命令で、警察を伴う地区自治体制が設置された。市・郡の先頭には市長が指名され、郷の監理局は郷の長たちが主導し、村落では村長たちが指名された。ドイツ軍の利害に触れない刑事・民事の事件を解決するため、治安裁判所が運営された。地区の制度の運営は、ドイツ人の司令部の命令と指示の実行、占領下の住民に関するヒトラーの政策・計画の実現へと方向づけられていた。

労働能力のある住人全員が、ドイツ人によって開始された事業、ドイツ軍の増強、道路・線路の工事、それらの途上の雪や障害物の清掃、村落における農業運営などの労働を義務づけられた。「土地利用の新秩序」に基づき、コルホーズは解体され、自治体の農園が形成され、ソフホーズの代わりに、ドイツ権力による国家農場である「国営農場」が設立された。住民はドイツ人に設置された、ドイツ軍のための肉、牛乳、穀物、糧秣その他の収奪ノルマを従うことを余儀なくされた。

ドイツ人に設置された政治学校は、プロパガンダと煽動の特殊設備だった。政治テーマに関する公開講義は、定期的に市の組織や村落で行われた。地区のラジオ放送を通じて講義と講演は読み上げられた。

 ナチのイデオロギーに合致しない部分をすべて削除したソ連の教科書を使った学校教育も行われた。学校に自分の子供を送らない親は罰金を強いられた。教師たちとゲシュタポが会合を持ち、隔週の政治講習が行われた。

 占領を受けた地域の大部分で、この状態は2~3年は続いた。侵略者たちは18~45歳のソヴィエト市民(ユダヤ人は18~60歳)に厳しい賦役を導入した。これによって労務者は一日に有害な工場でさえ14~16時間の労働を継続させられた。労働の拒絶・忌避、命令の不履行、あらゆる類の不服従、収奪・圧政への反抗、パルチザンへの援助、共産党やコムソモール組織の所属員、ユダヤ人やジプシーの出自を持つ人間に対し、理由のない銃殺、絞首刑、打擲、死に至る拷問が実行された。

ジプシーダンサージプシー

 罰金、強制収容所への投獄、家畜の徴発その他が応用された。そうして、ベラルーシでは戦争の経過において住人の4分の1が落命した(付与すると、この数字には非戦闘員のみならず、パルチザン、手持ち武器によって斃れた者、また戦前のベラルーシの前線へ召集された住民も含まれている。「死者」にはドイツ人の退却とともに西方へ逃走していった、反ソヴィエト武装組織の参加者、占領行政の協力者、ナチ迎合者、その他運命を受け容れることを拒み、ソヴィエト軍の進出を逃れていったものも含まれるとみられる)。

 占領された領土では絶滅収容所が設置され、そこでは全体の計算から、500万人前後が死亡したと思われる。占領下の領土すべてでは、非戦闘員の740万人が死亡した。

占領下の領土でソヴィエト住民に甚大な被害をもたらしたのは、ドイツや占領された工業・先進国における強制労働への、労働人口の暴力的な抽出だった。そこでソヴィエト捕虜は「東方労働者(Ostarberiter)」と称された。

 強制的にドイツにおける強制労働へ連れ出されたソヴィエト市民の総数(526万9513人)から、戦後に本国へ送還されたのは265万4100人だった。様々な理由から帰国しなかったか、亡命者になったのは45万1100人だった。残りの216万4313人は、捕虜になっている間に死亡した。

損害編集

故も知らぬ

 1941年~1945年の間の、ソ連とドイツ2国の損失には様々な評価がある。それらの違いは、いくつかの損失のグループの初期の数値を集める方法によるものと、損失を算出する方法の両方に関係する。

 ロシアでは、大祖国戦争における損失(軍)については、1993年にロシア連邦最高会議軍事記念センター顧問グリゴーリイ・クリヴォシェーエフ指導下の研究チームによってデータが公表されている。しかし、ロシア国防省の、祖国防衛における戦死者の記憶の顕彰を担当するヴラジーミル・ポポーフは、2015年11月13日、より正確な数字を新たに提出した。2017年2月のデータによれば、戦死者の総数は――4197万9000人だという。

 ソ連の人的被害は、軍勤務者が1200万人(戦死、負傷による死、捕虜になったことによる死、戦病死者、事故死、軍法裁判による死)、そして捕虜になったことによる、また消息を絶ったことによる440万人。公式の人口学的損失(非戦闘員も含めると)は、2660万人。

 ドイツの人的被害は、戦死もしくは死亡した軍勤務者が404万7000名(その中では、360万5000人が戦死、負傷による死、前線で消息不明。44万2000人が捕虜になっている間に死亡)、291万人が戦後の捕虜から帰還した。

 ドイツの同盟国の人的被害は、戦死した軍勤務者が80万6000人(13万7800人が捕虜になっている間に死亡)、66万2200人が戦後の捕虜から帰還。

 ソ連と、ドイツおよび衛星諸国の戦力は、ともに回復不能の被害を受け(戦時捕虜を含めて)、しかしドイツの準軍事組織や対ナチ協力者たちの覆らない損失を考慮に入れずとも、それぞれ1150万および860万人と思われる。衛星諸国とドイツ軍、そしてソ連の軍の損失の比率は、1:1,3。

もう一人の、わたし。大切なひと

 第二次世界大戦期にナチス・ドイツの占領下に置かれた東欧は、西欧や北欧と比べて甚大な被害を蒙った。それはナチ党の占領政策が「西欧」と東欧では異なっていたことに由来する。ナチ党は東欧では独立国家の破壊のみならず、民族そのものに対する絶滅政策を実行した。

 ソ連の戦死者数が2000万人超、ポーランドが約600万人、ユーゴスラヴィアは170万人、ギリシアが16万人に対し、フランスは81万、イギリスが39万、フィンランドは8万人。

 スターリンは言っている。

Первая мировая война разыгралась на спинах славянских народов. Мы видим, что и вторая мировая война – идет на спинах славянских народов. Англия и Германия дерутся, а славянские народы проливают свою кровь.

(第一次世界大戦はスラヴ諸国民に背負わされて発生した。我々が見て取っているのは、第二次世界大戦も、スラヴ諸国民に背負わされて行われているということだ。イギリスとドイツは殴り合い、一方、スラヴ諸国民は、自らの血を流したのである)

Франция не воевала, она впустила немцев в свои пределы, и можно сказать, что она не подверглась оккупации. Бельгия и Голландия не воевали – они покорно легли перед немцами и подняли лапки кверху. Англия? Англия – на островах, и ее положение особое. Кто пострадал от немецкого разбоя, от немецкой оккупации? Чехословакия, Польша, Югославия, Советский Союз.

(フランスは戦わなかった、その境界の中にドイツ人たちを入れ、言うなれば、彼らは占領されなかったのだ。ベルギーとオランダも戦わなかった――彼らは大人しくドイツ人たちの前に横たわり、お手々を上にあげていた。イギリス? イギリスは――島国で、その位置は特殊だ。ドイツ人の掠奪、ドイツ人の占領に苦しんだのは誰か? チェコスロヴァキア、ポーランド、ユーゴスラヴィア、ソ連だ)

(И. Сталин, «Речи на обеде в честь Э. Бенеша», 28 марта 1945 года)

関連タグ編集

ソ連軍 ドイツ軍 第二次世界大戦 東部戦線 枢軸国 連合国 スターリン ヒトラー

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