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戦闘序列編集

ドイツ中央軍集団編集

(司令官エルンスト・ブッシュ元帥、参謀長ハンス・クレープス中将)

第3装甲軍編集

(司令官ゲオルク=ハンス・ラインハルト上級大将)

軍予備

  • 第95歩兵師団(師団長ミハエリス中将)
  • 第201保安師団(師団長ヤコービ中将)
  • 「フォン・ゴットベルク」戦闘団(クルト・フォン・ゴットベルクSS大将)

第9軍団(軍団長ヴートマン砲兵大将)

  • 第252歩兵師団(師団長メルツァー中将)
  • D戦闘団(パンベルク中将)
  • 第245突撃砲旅団(旅団長クニュプリンク大尉)

第53軍団(軍団長ゴルヴィッツァー歩兵大将)

  • 第246歩兵師団(師団長ミュラー=ビューロウ中将)
  • 第206歩兵師団(師団長ヒッター中将)
  • 第4空軍野戦師団(師団長ピストリウス中将)
  • 第6空軍野戦師団(師団長ペッシェル中将)

第6軍団(軍団長プファイファー砲兵大将)

  • 第197歩兵師団(師団長ハーネ少将)
  • 第299歩兵師団(師団長ユンク少将)
  • 第14歩兵師団(師団長フレールケ中将)
  • 第256歩兵師団(師団長ヴュステンハーゲン中将)
  • 第667突撃砲旅団(旅団長ウルマン大尉)
  • 第281突撃砲旅団(旅団長フェンケルト大尉)

第4軍編集

(司令官クルト・フォン・ティッペルスキルヒ歩兵大将)

軍予備

  • 装甲擲弾兵師団「フェルトヘルン・ハレ」(師団長フォン・シュタインケラー少将)

第27軍団(軍団長フェルケルス歩兵大将)

  • 第78突撃師団(師団長トラウト中将)
  • 第25装甲擲弾兵師団(師団長シュルマン少将)
  • 第260歩兵師団(師団長クラムト少将)
  • 第501重戦車大隊(大隊長フォン・レガート少佐)

第39装甲軍団(軍団長マルティネク砲兵大将)

  • 第110歩兵師団(師団長クロウスキ中将)
  • 第337歩兵師団(師団長シューネマン中将)
  • 第12歩兵師団(師団長バムラー中将)
  • 第31歩兵師団(師団長オクスナー中将)
  • 第185突撃砲旅団(旅団長グロスナー少佐)

第12軍団(軍団長ヴィンツェンツ・ミュラー中将)

  • 第18装甲擲弾兵師団(師団長ツータヴェルン中将)
  • 第267歩兵師団(師団長ドレッシャー中将)
  • 第57歩兵師団(師団長トロヴィッツ少将)

第9軍編集

(司令官ハンス・ヨルダン歩兵大将)

軍予備

  • 第20装甲師団(師団長フォン・ケッセル中将)
  • 第707歩兵師団(師団長ギール少将)

第35軍団(軍団長フォン・リュッツォウ中将)

  • 第134歩兵師団(師団長フィリップ中将)
  • 第296歩兵師団(師団長クルマー中将)
  • 第6歩兵師団(師団長ハイネ中将)
  • 第383歩兵師団(師団長ハーマン中将)
  • 第45歩兵師団(師団長エンゲル少将)

第41装甲軍団(軍団長ホーフマイスター中将)

  • 第36歩兵師団(師団長コンラーディ少将)
  • 第35歩兵師団(師団長リヒェルト中将)
  • 第129歩兵師団(師団長フォン・ラリッシュ少将)

第55軍団(軍団長ヘアライン歩兵大将)

  • 第292歩兵師団(師団長ヨーン中将)
  • 第102歩兵師団(師団長フォン・ベルケン中将)

第2軍編集

(司令官ヴァルター・ヴァイス上級大将)

軍予備

  • 第4騎兵旅団(旅団長ホルステ少将)

第8軍団(軍団長ヘーネ歩兵大将)

  • 第211歩兵師団(師団長エックハルト少将)
  • 第5猟兵師団(師団長トゥム中将)

第23軍団(軍団長ティーマン工兵大将)

  • 第203保安師団(師団長ピルツ少将)
  • 第17装甲擲弾兵旅団(旅団長ケルナー大佐)
  • 第7歩兵師団(師団長フォン・ラッパルト中将)

第20軍団(軍団長フォン・ローマン砲兵大将)

  • E軍団支隊(支隊長フェルツマン中将)
  • 第3騎兵旅団(旅団長ベーゼラーガー男爵ゲオルク大佐)

第6航空艦隊(司令官ローベルト・フォン・グライム上級大将)


ソ連軍編集

第1沿バルト方面軍編集

(司令官イワン・バグラミャン上級大将)

第4攻撃軍(司令官ピョートル・マールイシェフ中将)

  • 第83歩兵軍団(軍団長ソルダートフ少将)

第6親衛軍(司令官イワン・チスチャコーフ中将)

  • 第2親衛歩兵軍団(軍団長クセノフォーントフ中将)
  • 第22親衛歩兵軍団(軍団長ルーチキン少将)
  • 第23親衛歩兵軍団(軍団長エルマコーフ中将)
  • 第103歩兵軍団(軍団長フェヂューニキン少将)
  • 第8榴弾砲師団
  • 第21突破砲兵師団

第43軍(司令官アナファシー・ビェロボロードフ中将)

  • 第1歩兵軍団(軍団長ヴァシーリエフ中将)
  • 第60歩兵軍団(軍団長リュフチコフ少将)
  • 第92歩兵軍団(軍団長イビャンスキイ中将)
  • 第1戦車軍団(軍団長ブトコーフ中将)

第3航空軍(司令官ニコライ・パリーヴィン中将)


第3白ロシア方面軍編集

(司令官イワン・チェルニャホフスキー大将)

  • 第5砲兵軍団(軍団長クチェーイニコフ砲兵少将)

第11親衛軍(司令官クズマ・ガーリツキイ中将)

  • 第8親衛歩兵軍団(軍団長ザヴァドーフスキイ少将)
  • 第16親衛歩兵軍団(軍団長ヴォロビヨーフ少将)
  • 第36親衛歩兵軍団(軍団長シャフラーノフ少将)
  • 第2親衛戦車軍団(軍団長ブルヂェーイヌイ少将)
  • 第7親衛自動車化師団(ロケット砲)(師団長カルサーノフ砲兵少将)

第5軍(司令官ニコライ・クルイローフ中将)

  • 第45歩兵軍団(軍団長ゴーロホフ少将)
  • 第65歩兵軍団(軍団長ペレクレストフ少将)
  • 第72歩兵軍団(軍団長カザルツェフ少将)
  • 第3親衛突破砲兵師団(師団長ロジャノヴィチ砲兵少将)

第31軍(司令官ヴァシリー・グラゴーレフ中将)

  • 第36歩兵軍団(軍団長オレシェフ少将)
  • 第71歩兵軍団(軍団長コシェヴォーイ中将)
  • 第113歩兵軍団(軍団長プロヴァロフ少将)

第39軍(司令官イワン・リュードニコフ中将)

  • 第5親衛歩兵軍団(軍団長ビェズーグルイ少将)
  • 第84歩兵軍団(プロコフィエフ少将)

第5親衛戦車軍(司令官パーヴェル・ロトミストロフ戦車兵元帥)

  • 第3親衛戦車軍団(軍団長ヴォーフチェンコ少将)、
  • 第29戦車軍団(軍団長フォミヌイーフ少将)

機械化騎兵集団(司令官オシリコーフスキイ中将)

  • 第3騎兵軍団(軍団長オシリコーフスキイ中将)、
  • 第3親衛自動車化軍団(軍団長オブホフ中将)

第1航空軍(司令官ミハイル・グローモフ中将)


第2白ロシア方面軍編集

(司令官ゲオルギー・ザハロフ大将)

第33軍(司令官ヴァシリ―・クリュチョーンキン中将)

  • 第70歩兵師団(師団長コレースニコフ大佐)
  • 第157歩兵師団(師団長カテューシン大佐)
  • 第344歩兵師団(師団長ドルジーニン大佐)

第49軍(司令官イワン・グリーシン中将)

  • 第62歩兵軍団(軍団長ナウーモフ少将)
  • 第69歩兵軍団(軍団長ムリタン少将)
  • 第76歩兵軍団(軍団長グルーホフ少将)
  • 第81歩兵軍団(軍団長パニュホーフ少将)

第50軍(司令官イワン・ボールヂン中将)

  • 第19歩兵軍団(軍団長サマールスキイ少将)
  • 第38歩兵軍団(軍団長テレシコーフ少将)
  • 第121歩兵軍団(軍団長スミルノーフ少将)

第4航空軍(司令官コンスタンチン・ヴェルシーニン大将)


第1白ロシア方面軍編集

(司令官コンスタンチン・ロコソフスキー上級大将)

方面軍予備

  • 第2親衛騎兵軍団(軍団長クリューコフ中将)
  • 第4親衛騎兵軍団(軍団長プリーエフ中将)
  • 第7親衛騎兵軍団(軍団長コンスタンチーノフ少将)

第3軍(司令官アレクサンドル・ゴルバートフ中将)

  • 第35歩兵軍団(軍団長ジョールヂェフ少将)
  • 第40歩兵軍団(軍団長クズネツォーフ少将)
  • 第41歩兵軍団(軍団長ウルバノヴィチ少将)
  • 第46歩兵軍団(軍団長ボルシチョーフ少将)
  • 第80歩兵軍団(軍団長ラグリャ少将)
  • 第9戦車軍団(軍団長バハロフ少将)
  • 第5親衛自動車化師団(師団長ゲンナーヂイ・ファンタロフ大佐)

第28軍(司令官アレクサンドル・ルチーンスキイ中将)

  • 第3親衛歩兵軍団(軍団長ペルホローヴィチ少将)
  • 第20歩兵軍団(軍団長シュヴァレフ少将)
  • 第128歩兵軍団(軍団長バチーツキイ少将)
  • 第46歩兵軍団(軍団長エラストフ中将)
  • 第5突破砲兵師団(師団長スネグロフ大佐)
  • 第12突破砲兵師団(師団長クルコフスキイ砲兵少将)

第48軍(司令官ピロコフィ・ロマネーンコ中将)

  • 第29歩兵軍団(軍団長アンドレーエフ少将)
  • 第42歩兵軍団(軍団長コルガーノフ中将)
  • 第53歩兵軍団(軍団長スレズニョーフ少将)、
  • 第22突破砲兵師団(師団長ズラジェーフスキイ大佐)

第61軍(司令官ベローフ中将)

  • 第9親衛歩兵軍団(軍団長ポポーフ少将)
  • 第89歩兵軍団(軍団長ヤノーフスキイ少将)

第65軍(司令官パーヴェル・バートフ中将)

  • 第18歩兵軍団(軍団長イヴァノフ少将)
  • 第105歩兵軍団(軍団長アレクセーエフ少将)
  • 第1親衛戦車軍団(軍団長パノーフ少将)
  • 第1自動車化軍団(軍団長クリヴォシェーイン中将)
  • 第26砲兵師団

ドニエプル河川艦隊(司令グリゴーリエフ一等艦長)

第6航空軍(司令官ポルィーニン中将)

第16航空軍(司令官セルヒー・ルデーンコ上級大将)


ソ連軍の1943年後期・44年前期攻勢編集

1943年7月にクルスクで行われた一大決戦の後、ソ連軍は10カ月にわたって攻勢を続けた。その結果北部では包囲下にあったレニングラードを解放してフィンランド軍を国境まで押し戻してエストニアにも迫り、南部ではクリミア半島を奪還し、ガリツィア地方までドイツ軍を押し戻し、その間1月のコルスン包囲戦で2個軍団を包囲して大損害を与え、3月のカメネツ=ポドリスキー包囲戦ではドイツ第1装甲軍を取り逃したが、何れもドイツ軍の装甲車両多数を破壊するなど多大な戦果を挙げた後、戦線の大部分は春の泥濘期で小康状態となった。

一方のドイツはアメリカ・イギリスなどの西側連合国軍によるフランスへの上陸作戦が間近に迫っていることを察知しており、東部戦線への増援どころか部隊の引き抜きを行わなければならない状況に追い込まれていた。さらにアドルフ・ヒトラー総統が装甲部隊による機動防御戦術でソ連軍に出血を強いてきた南方軍集団司令官エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥や、装甲戦術の大家であるA軍集団司令官エヴァルト・フォン・クライスト元帥を休養という名の解任に追い込み、これまでソ連軍相手に粘り強い防御戦を指揮してきた第4軍司令官ゴットハルト・ハインリーチ上級大将を彼が突出した中央軍集団の危険性を鑑みて後退して戦線を整理する事を主張してきた事に不快を感じて解任するなど、人材面でも問題が起きていた。(南方軍集団は北ウクライナ軍集団に改名され、後任にはヴァルター・モーデル元帥が、A軍集団は南ウクライナ軍集団に改名され、後任にはヨハネス・フリースナー上級大将が、第4軍の後任にはクルト・フォン・ティッペルスキルヒ大将が就任)


ソ連軍首脳部は泥濘期が終わっての次の夏季攻勢時期を、米英のフランス上陸に合わせて行うことを決め目標をベラルーシに定めた。ベラルーシにはエルンスト・ブッシュ元帥指揮下の中央軍集団が展開していた。北方・北ウクライナ・南ウクライナ各軍集団がソ連軍の攻勢で戦力を消耗した中では唯一といっていい大兵力であるが、その作戦地域は皮肉にも側面に位置する他の軍集団が攻勢で抑え込まれた為に当然ながら前年のクルスクと同じように突出する形となっていた。ソ連軍は損害の増大によるデメリットよりもポーランドやドイツ本土への最短路となるベラルーシの奪還によるメリットが大きいと判断した。また得意とする偵察活動で南部方面が強化されているのに対して中央軍集団の兵力が弱体化している事も確認され、この判断の正しさを補強していた。

このドイツ軍側の南部戦線への兵力増強は、ヒトラーをはじめドイツ軍首脳部がソ連軍はベラルーシよりも先の攻勢で進出した西ウクライナ方面で攻勢に出る事で、450㎞に過ぎないさして地形的困難もつき纏わない距離を走破してバルト海に面したケーニヒスベルクまで突進して占拠し、中央軍集団及び北方軍集団の後方を遮断する事で一挙に2個軍集団を包囲殲滅しようとしていると判断した為であった。またソ連側による目標がベラルーシと悟らせない為の欺瞞活動もその判断を裏付けしていた。

その為に防衛には4個軍40個師団は必要であるとのブッシュ元帥の増援要請を無視し、更に6月10日以降には中央軍集団前面でソ連軍が攻勢準備をしているとの報告が多数あったにもかかわらず、それはソ連軍の欺瞞作戦であると取り合わず、引き抜かれた8個装甲師団、2個装甲擲弾兵師団という強力な予備戦力がソ連軍の攻勢を真っ向から打ち砕くべくモーデル元帥の北ウクライナ軍集団へ配属されていた。


攻勢開始編集

1944年6月20日、パルチザンにより15000ヶ所が爆破されドニエプルからミンスク西部の鉄道網は麻痺し、そして独ソ開戦から3年目となる1944年6月22日より、第1(コンスタンチン・ロコソフスキー上級大将)・2(ゲオルギー・ザハロフ大将)・3(イワン・チェルニャホフスキー大将)白ロシア方面軍と第1(イワン・バグラミャン大将)・2(アンドレイ・エリョーメンコ上級大将)バルト方面軍の189個師団242万人の大戦力がベラルーシからバルト海沿岸の約1000キロに及ぶ戦線で攻勢に出た。そのうちの3分の1に当たる82万人と戦車5,200両、大砲31,000門、航空機6,000機最大の目標であるドイツ中央軍集団に襲い掛かった。

攻勢は22日に第1バルト方面軍と第2バルト方面軍の一部により第3装甲軍を、23日に第2白ロシア方面軍により第4軍を、24日に第1白ロシア方面軍により第9軍を攻撃する時間差をもって行われた。この為にドイツ軍首脳部は23日まで、これはウクライナでの攻勢から目を逸らす為の陽動であると高を括っており、対応が遅れる事となった。

圧倒的な火力と兵力での第一波で数カ所で突破口が開かれ、第二波は突破部隊ではなく突破口を拡大する事に用いられて相手予備兵力も拘束し、広大な突破口が穿たれた。その後、航空隊を含む全兵科が参加し、正面のドイツ軍前線から後背の予備軍までの全縦深を同時に攻撃する攻勢が行われた。

弱体化していたドイツ中央軍集団の予備兵力は第3装甲軍に第95歩兵師団、第4軍に第14歩兵師団、第9軍に第20装甲師団、第707歩兵師団、他は再編休養中のフェルトヘルン・ハレ装甲擲弾兵師団のみであった。

この事態にヒトラーは重要拠点を確保要域と指定して死守命令を出し、この地域攻略の為にソ連軍に多くの兵力を割かせる事で攻勢の勢いを削ぎ、攻勢を食い止めようとしたが、ソ連軍に少数で包囲され迂回される、もしくはドイツ軍をその地に縛り付け、後退しながらの柔軟な防禦態勢をとる妨げとなるばかりで、例として第3装甲軍の第53軍団はヴィステブスクで迂回され、孤立する危険から1個師団を残し脱出を謀るも壊滅している。

26日に第9軍司令官ハンス・ヨルダン大将が第20装甲師団の運用をめぐり解任され、28日には部隊を固定しての硬直した防御でなく後退しての柔軟な防御戦の為に撤退をヒトラーに上申したブッシュ中央軍集団司令官が解任され、後任にモーデルが北ウクライナ軍集団司令官のまま兼任として就任し、その為に北ウクライナ軍集団の兵力をスムーズに中央軍集団へ移送する事が可能となったが、重要な状況下で指導部を混乱させ、それは7月10日に参謀総長クルト・ツァイツラー上級大将もブッシュと同じ上申を行ったために「病気療養」の為解任される事(後任はハインツ・グデーリアン上級大将)で頂点に達した。


このソ連軍の独ソ戦初期のドイツ軍の快進撃を思わせるような圧倒的優勢な状況はソ連軍の武官筆頭である最高総司令官代理ゲオルギー・ジューコフ元帥と参謀総長アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥の戦略指揮もさることながら、特筆すべきは各級の前線指揮官たちも3年に及んだ独ソ戦で経験を積んだことから、各兵科を臨機応変に使用した戦術の冴えを見せるようになった。一方でドイツ軍はヒトラーからの死守命令や司令官の交代による混乱などで硬直化が進んでおり、局所的に有利な戦いを見せることはあっても兵器量の劣勢もあって全般的にソ連軍の優勢で推移していった。


モーデルはウクライナより呼び戻された3個装甲師団を投入しての機動戦を行うもソ連軍の進撃を阻むことは出来ず、7月3日にはソ連軍は白ロシアの首都たるミンスクを解放しベラルーシを奪還。それにより第4軍主力と第9軍の一部が包囲される事態となり、モーデルは反撃を行い、その後退路を確保し保持しようとするも、鉄道の要衛バラノウィチを占拠され包囲網は閉じられた。

これらミンスク、チェルウェン、ボリソフを結ぶ線内で包囲された中央軍集団を構成する3個軍主力を救出するだけの力はモーデルには無く、もはや西方に新たに防衛ラインを構築するだけで精一杯であり、こうして包囲された中央軍集団主力は壊滅し、脱出を成功させた部隊も少なかった。

また戦略を成功させる為に複数の作戦を行うソ連軍の作戦術に則り、大勢が決した後にもバグラチオン作戦を幹とする中でソ連軍は様々な作戦を行い戦果を拡大し、またバグラチオン作戦だけでなくそれに呼応させて元々ウクライナからドイツ軍を駆逐すべく計画されていたリヴォフ=サンドミエシュ作戦を7月14日に発動して第1ウクライナ方面軍(イワン・コーネフ元帥)が手薄となっていた北ウクライナ軍集団に攻勢を開始し、更に17日には第2、第3バルト方面軍が北方軍集団に対してブスコフ・オストロフ作戦を発動して攻勢を始めラトビアに進軍した事により、南北から中央軍集団を脅かすソ連軍側面を衝く事も、中央軍集団にこれまでのように増援を送る事も出来なくなり、破竹の勢いのソ連軍は18日には開戦時の国境線であったブレスト・リトフスクを占領し、第1ウクライナ方面軍はブロディでドイツ軍6個師団を包囲殲滅し、27日にはプシェミルを占領し、8月1にはヴィスワ河を渡り、7月末には第1、第2、第3バルト方面軍はラトビアを再奪取したことで北方軍集団(フェルディナント・シェルナー上級大将)を孤立化させた。

8月初旬、ソ連軍はポーランドの首都ワルシャワの東方20キロに達したが、補給が限界を迎えたことで漸く攻勢を終了することとなった。


作戦後編集

バグラチオン作戦は東部戦線の、そして同じ時期のノルマンディー上陸作戦と同じく第二次世界大戦の趨勢を決定づけた戦いであった。

ソ連軍は5週間で700㎞も進撃する事に成功した。その代償として約77万の戦死傷者を出したが、目標達成のための必要経費と割り切られていた。

一方のドイツ軍は中央軍集団が38個師団中28個師団が壊滅して軍集団自体も壊滅し、死傷者・捕虜56万、将官47名のうち戦死・行方不明・降伏者31名という致命的な損害を被ることになった。さらに北方軍集団も8月16日に発動した「ドッペルコップ作戦」でソ連軍の包囲網を一度は破ったものの、10月にふたたび包囲下におかれそのまま翌年5月の敗戦まで20万に及ぶ兵力が拘束されることになった。

この後ソ連軍は8月下旬からバルカン半島で攻勢に転じ、ルーマニアブルガリア枢軸国側からの離脱と対独宣戦布告を行い、東部戦線のドイツ軍は破局へひた走ることになる。


関連タグ編集

ソ連 ナチス・ドイツ ベラルーシ リトアニア ラトビア エストニア

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