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ノルマンディー上陸作戦

のるまんでぃーじょうりくさくせん

ノルマンディー上陸作戦とは、1944年6月6日に連合軍によって行われた大規模なノルマンディー海岸への上陸作戦。
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概要編集

ネプチューン作戦のこと。

1944年6月6日に英米軍を主力とする連合軍によって行われた、英仏海峡に面したノルマンディー海岸(フランス)への上陸作戦。決行日は「D-デイ」と呼ばれ、入念な準備が進められた。

北西ヨーロッパへの侵攻作戦(オーバーロード作戦)の最初を飾り、艦艇5,300隻、航空機14,000機、兵員176,000人が投入され、第二次世界大戦の転機の一つとなった。

上陸作戦としてはシチリア島上陸(ハスキー作戦)の方が大規模だが、拠点確保後の20日間で300万人近くの兵員が送り込まれた。この作戦を扱った映画「The Longest Day」が日本上映時に「史上最大の作戦」と命名され有名となった為に一般的にそう呼ばれている。


第2戦線編集

1941年6月22日のバルバロッサ作戦開始以来、ドイツ軍の攻撃を一手に引き受けてきたソ連は、英米に対し西ヨーロッパに第2戦線を開くことを要請した。英米もその必要は認めていたが、それぞれの思惑や戦況により早急には実現できなかった。

ディエップ上陸編集

1942年8月19日、カナダ軍を主体とする6,086人の兵員が英仏海峡に面したディエップ(フランス)への奇襲上陸作戦を行った(ジュビリー作戦)。

しかし、イギリス軍将校がパーティーで作戦について口外してしまったため、ドイツ側は十分な準備を整えて待ち構えており、4,000人近い被害を出して1日で撤退する結果になった。この時の戦訓はノルマンディー上陸作戦に活かされた。

テヘラン会談編集

1943年11月28日、英米ソ首脳が一堂に会したテヘラン会談で、北フランスへの上陸作戦を1944年5月に開始することが決定された。

候補地編集

上陸地点の条件は、イギリス国内から発進した戦闘機が制空権を確保できる範囲内にある平坦で広い海岸線であり、候補地はドーバー海峡に面したパ・ド・カレー海岸、コタンタン半島東側のノルマンディー海岸の2箇所に絞られた。

パ・ド・カレーはドイツ国境に近く、ここから進撃すれば容易にフランスとドイツの連絡線を断つことができる。しかし、ドイツ側が防備を固めており、補給の拠点とできる大規模な港もない。

ノルマンディーはパリから西に外れているが、イギリス南岸のポーツマスサウサンプトンプリマスなどの大規模な港から近く、半島先端にシェルブール港がある。

検討の結果、上陸地点はノルマンディーに決定した。


作戦準備編集

総司令官は侵攻軍の主力となるアメリカ軍から出すこととなり、有能な陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将であろうとのイギリス側の予測を覆し、イタリア侵攻で司令官を務めた調整型のドワイト・アイゼンハワー米陸軍大将がその役に決定した。

また上陸部隊である第21軍集団司令官には、北アフリカでエルヴィン・ロンメルと激戦を繰り広げたバーナード・モントゴメリー英陸軍大将が就き、米第1軍(司令官オマー・ブラットレー中将)と英第2軍(司令官マイルズ・テンプシー中将)を指揮下に収めた。

上陸に備え、各種航空機12,000機によるフランスへの空襲が強化される一方、人工埠頭「マルベリー」や水陸両用戦車、架橋戦車などの特殊装備も開発された。

おびただしい量の物資がイギリス国内に集積され、アメリカ兵約150万人が駐留した。

また航空偵察からドイツ側が満潮時の上陸を前提とした防御施設を海岸線に構築している事が判明し、今回の上陸作戦は干潮時に行われる事が決定した。


欺瞞作戦編集

上陸作戦の準備が進んでいることは見え見えだったが、ドイツ側に上陸地点を絞らせないよう欺瞞作戦が行われた。

特に上陸地点をパ・ド・カレーに欺瞞する作戦は入念で、実在するアメリカ第9軍の他に10個以上の書類上にだけ存在する架空の師団を持つイギリス第4軍・アメリカ第14軍の三個軍からなるアメリカ第1軍集団がジョージ・パットン中将を司令官として編成され、モントゴメリー大将のイギリス第21軍集団と共にフランス侵攻を担う片翼として公表された。またイギリス第4軍はノルウェーへの侵攻も担うとの情報も流され、その他にも南仏、デンマーク等を上陸地点とする偽情報が流された。

そしてB軍集団のうちパ・ド・カレー方面担当の第15軍戦域は猛爆撃を受けたにもかかわらず、本命のノルマンディー方面担当の第7軍戦域は殆ど爆撃は行われなかった。


担当地域編集

上陸地点は5つの管区に分けられ、コードネームが付けられた。

ソード・ビーチ

オルヌ川からサントーバン・シュル・メールまでの区間。

一番東側で、イギリス第3歩兵師団、イギリス第27機甲旅団が担当。

ジュノー・ビーチ

サントーバン・シュル・メールからクルル・シュル・メールまでの区間。

カナダ第3歩兵師団、カナダ第2機甲旅団が担当。

ゴールド・ビーチ

ヴェール・シュル・メールからアロマンシュ・レ・バンまでの区間。

イギリス第50歩兵師団、イギリス第8機甲旅団、イギリス第2機甲旅団が担当。

オマハ・ビーチ

サントノリーヌ・デ・ペルテからヴィエルヴィル・シュル・メールまでの区間。

アメリカ第1歩兵師団、アメリカ第29歩兵師団、アメリカ第2レンジャー大隊、アメリカ第5レンジャー大隊が担当。

ユタ・ビーチ

プップヴィルからラ・マドレーヌまでの区間。

一番西側で、アメリカ第4歩兵師団が担当。


ドイツ側の対応編集

陸軍編集

英米が侵攻の準備を進めているのは明らかで、ドイツ軍は東部戦線から兵力を抜き出し、二線級の部隊しかいない北フランスへの配備を進めた。

国防軍最高司令部(OKW)は連合軍の上陸地点を、パ・ド・カレー、ノルマンディー、ブルターニュのいずれかと推定したが、次第にパ・ド・カレーを中心とした同時多発上陸と考えるようになった。


ヒトラーの命令により、1941年秋よりノルウェーからスペインに至る、2,685kmに及ぶ海岸防衛線「大西洋の壁」の構築が強力に推進されていた。

1943年11月、エルヴィン・ロンメル元帥の指揮するドイツB軍集団は、北イタリアから北フランスに配置換えされ、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥率いるドイツ西方総軍の指揮下に入った。ロンメルは着任早々「大西洋の壁」を視察し、愕然とする。

連合軍の侵攻を弾き返す強力な防御施設であることが内外にプロパガンダされていたが、実際は資材が足りず、パ・ド・カレーにはかなり充実した防御施設が出来ていたが、1944年の時点でノルマンディーでは20%程度の進捗率だった。


「大西洋の壁」がこけおどしという点でロンメルとルントシュテットは意見の一致を見たが、戦車部隊の配置については意見が対立した。ロンメルは水際に配置し上陸してくる敵を叩くことを主張したが、ルントシュテットは艦砲射撃の届かない内陸部に誘い込み、橋頭堡が固まらない内に撃滅することを主張した。ドイツ西方装甲集団のレオ・ガイヤー・フォン・シュヴェッペンブルク大将もルントシュテットと同意見であった。

また、ロンメルは連合軍の上陸地点をノルマンディーと考えたが、ルントシュテット等はパ・ド・カレーと考えていた。

ヒトラーが仲裁に当たり、北フランスの装甲師団のうちロンメルに3個師団を与え、残りの3個師団はシュヴェッペンブルクに与えて温存し、ヒトラーの承認無しでは動かさないという折衷案の形を取って決着する。

しかし、ロンメルも連合軍の上陸地点をノルマンディーと絞り切れず、パ・ド・カレーに2個師団、ノルマンディーに1個師団(第21)を配備した。最初に上陸して来る地点はセーヌ川ソンム川の河口と考えていた。


ノルマンディー海岸の要所には地雷機雷、上陸を妨害する障害物が設置され、その地区を担当する第7軍所属のエーリヒ・マルクス大将を長とする第84軍団はコタンタン半島に第709歩兵師団第243歩兵師団第91空輸歩兵師団を、その付け根からカーン北方の海岸までには第716歩兵師団、そして大損害を受け解体された第321歩兵師団の東部戦線での戦歴ある経験豊かな生き残りを基礎に新設された第352歩兵師団を配置していた。またカーン南方には前述のB軍集団の予備兵力である第21装甲師団が布陣していた。更に空挺部隊の着地を妨害するため川を堰き止めて方々に沼地を作っていた。


海軍編集

イギリス軍の空襲からの損耗を避けるため、1942年2月12日のツェルベルス作戦で北フランスにいた大型艦は北海へ移動され、小艦艇がわずかに残存するのみであった。

海軍総司令官カール・デーニッツ元帥は、敵上陸に備え「大西洋の壁」の各地にUボートを配備した。


空軍編集

ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)の戦闘機は、フランス北部沿岸全体で183機しかなく、OKWはイギリス軍の空襲からの損耗を避けるために内陸に移動させる事とした。


ノルマンディー上陸編集

対独レジスタンスへの通知編集

1944年6月1日、BBC放送は「個人的なおたより」のコーナーで「秋の歌」(ヴェルレーヌ)第一節の前半「秋の日の ヴィオロンの ためいきの」を読上げた。これは、フランス国内の対独レジスタンスに連合軍上陸を知らせる暗号だった。

情報をつかんでいたドイツ国防軍情報部(アプヴェーア)はOKWとドイツ西方総軍司令部、ドイツ第15軍司令部、ドイツB軍集団司令部に警告を発する。パ・ド・カレー方面を守備するドイツ第15軍は警戒態勢に入ったが、ノルマンディー方面を守備するドイツ第7軍には何の連絡もなかった。

6月に入って英仏海峡付近は激しい暴風雨に見舞われ、ドイツ軍は6月9日まで天候は回復しないと判断し、ロンメルやデーニッツなど軍幹部の休暇要請を許可した。


しかし、連合軍側の天気予報では6月6日より回復と判断されていた。

連合軍側は、D-デイを5日から6日へずらすことにした。

6月5日、BBC放送は「秋の歌」第一節の後半「身にしみて ひたぶるに うら悲し」を読上げた。これは、フランス国内の対独レジスタンスに48時間以内の上陸作戦開始を知らせる暗号だった。

アプヴェーアは各部隊へ警報を発したが、信用して警戒態勢に入ったのはドイツ第15軍のみであった。


ロンメル元帥が妻の誕生日祝いと総統に増援依頼の為に4日に前線を離れる一方、ノルマンディー地区担当のドイツ第7軍司令官フリードリヒ・ドルマン大将はこの悪天候を良い機会として6日に各軍団長・師団長をレンヌに集めて図上演習を計画していた。

前線の司令官達が一斉に不在になることを危惧した参謀が夜明けまで待機するように通知したが、レンヌから司令部が遠い師団長は既にレンヌに向けて出発していた。そのうちの一人の第91空輸歩兵師団長ヴィルヘルム・ファレィ少将は不穏な空気に途中で引き返すもアメリカ軍空挺兵に射殺された。


空挺部隊の奇襲編集

6月5日深夜、上陸開始に先立ち、イギリス第6空挺師団、アメリカ第82空挺師団、アメリカ第101空挺師団が戦線後背の要衝へ降下し、ドイツ軍を混乱させることに成功した。

第6空挺師団は降下予定地に大体降下でき主要な橋や施設の確保に成功していたが、アメリカ空挺師団は輸送機パイロットが経験不足だったため広い範囲に分散してしまい、少なからぬ兵が海やドイツ軍が作った沼地に降下して溺死し大損害を受けた。一方で広範囲に降下したことからドイツ側を混乱させる事となった。


敵前上陸編集

戦艦7隻、巡洋艦22隻、駆逐艦139隻に護衛された4126隻の各種上陸用舟艇を含む5700隻以上の大船団は6月6日早朝にノルマンディーの海上に姿を見せ、空襲、艦砲射撃に続き、5つの管区で一斉に上陸用舟艇による敵前上陸が決行され、連合軍はノルマンディーに橋頭保を築く事に成功した。

この日、上陸地点に出撃して来たドイツの航空機は第26戦闘航空団司令ヨーゼフ・プリラー中佐と僚機のFW190が2機、他には第4地上攻撃航空団が13機、第10航空兵団が約40機、第9航空兵団が約130機を出撃させるも上陸地点で爆撃を行えたものは少なく、上空は常に連合軍が制空権を確保していた。

またドイツ海軍水雷艇による反撃も行われたが、駆逐艦1隻を沈めただけに終わった。

そして上陸作戦は存在を知られていなかったドイツ第352歩兵師団の抵抗を受け上陸部隊に50%近い3000名余りの死傷者を出したオマハ・ビーチ以外の損害は少なく、ジュノーで900名、ソードで630名、ゴールドで400名、ユタで200名ほどの死傷者を出したが、1~2万人の戦死を覚悟していた英米首脳を安堵させた。


午後4時になって、イギリス第6空挺師団への対応に向かっていたドイツ第21装甲師団が引き返しようやくソード・ビーチとジュノー・ビーチの間に反撃を仕掛け、装甲擲弾兵連隊は浸透して海岸付近まで進出したが、肝心の装甲連隊の反撃はイギリス軍の対戦車砲陣にまともにぶつかり戦車の半分を失い阻止された。しかし、この反撃により進撃が停止し、イギリス軍は初日に占領する予定だったカーンに到達することができなかった。カーンを巡るイギリス軍とドイツ軍の戦いは7月18日まで続くことになる。


当日のドイツ軍の対応編集

連合軍のノルマンディー上陸が6時過ぎに総統大本営に報告された時、ヒトラーは就寝中であり、寝起きの悪いヒトラーを起こしてはならないという命令により、彼が起こされたのは連合軍が公式に上陸発表を行った9時33分より後となり、作戦会議は正午になってようやく始まった。

上陸前には、空挺降下などのノルマンディーでの不穏な情報を検討して西方総軍ではルントシュテットが独断でOKW直属であるシュヴェッペンブルク指揮下の第130装甲教導師団第12SS装甲師団に集結しての沿岸への急行を命じ、同時にOKWにそれらの出動要請をおこなっていた。だがヒトラーはその決定を支持するだろうとのルントシュテットの予想に反し、要請はOKW総長アルフレート・ヨードル上級大将が就寝中であった為に彼が起きるまでは伝わらなかった上に、6時過ぎにそれを受け取った後も牽制上陸と考え、事態が定かでないとの理由でその要請を拒否した為に、上陸があれば自動的にこれら装甲部隊は待機状態を解除されると認識していたルントシュテットを激怒させた。

残された手段はルントシュテットによる電話でのヒトラーへの直接出動要請であったが、ヒトラーに頭を下げるのを嫌ったのか、彼自身も陽動と判断していたからか、それが行われる事は無かった。

そして総統大本営での会議は数分で終わり、ヒトラーはあらゆる情報からこれは主力の上陸では無いと繰り返し、最後に「これは主力による上陸なのか? そうではないのか?」と言い放ち唐突に会議を打ち切り、西方総軍の装甲部隊出動要請が取り上げられる事も無かったという。

こうしてドイツ軍はこの時点でも、パ・ド・カレー上陸の陽動作戦ではないかと疑い、第二の上陸作戦を警戒しドイツ第15軍を動かすことができなかった。

またOKWではロンメルの休暇を知らず彼が前線で指揮を執っていると考え、彼がドイツにいると知るのはロンメルの友人でヒトラーの副官であるルドルフ・シュムント少将がヒトラーとの面会の計画を彼から事前に聞かされ知っていた以外は誰も居なかったという。



ノルマンディー上陸作戦後の戦況編集

ドイツ空軍は数で連合軍側に遥かに劣り、爆撃隊は上陸船団を通常爆撃の他にも誘導ミサイル、ミステル、感圧機雷投下などで攻撃するも戦果は上がらず、戦闘機隊はそれでも勇戦して当初は絶対数では自軍とほぼ互角以上の損失を与えるなどの奮闘をしたが制空権を奪い取る事にはまるで至らず、更にその善戦も連合軍側が制圧範囲を広げてフランス側にも飛行場を得るに至り、英本土からだけでなくそこからも連合軍空軍が作戦行動を行うようになると完全に圧倒されるようになっていった。

またドイツ海軍は駆逐艦、水雷艇、Eボート、Uボート、特殊潜水艦なども投入して船団を攻撃したが防波堤として自沈した連合軍艦艇を誤認して攻撃する事もあるなど戦果は微々たるもので焼け石に水であり、連合軍護衛艦隊との戦闘や空襲により徒に犠牲を重ねるだけであった。

海上から続々と敵が増加していき、制空権を連合軍に握られ、悪天候か夜間でしかもっぱら活動出来ない状況のなか、ドイツ軍はこの地方独特の畑を囲む生垣(ボカージュ)を利用して防禦に努めた。

制空権を握られての困難な行軍を経て7日に第12SS装甲師団、8日に装甲教導師団が前線に到着するも、第12SS装甲師団の反撃はカナダ第3歩兵師団に阻止され、装甲教導師団のバイユー奪還作戦は折から始まったカーン方面への連合軍の攻勢に中止となり、10日にはウルトラの暗号解読により所在を知られたラ・ケインの西方装甲集団本部が爆撃を受け司令部員18名が戦死、シュヴェッペンブルクも負傷してパリに後退し、司令部機能を6月後半まで喪失。更に東部戦線から引き抜かれた第2SS装甲軍団の増援を得てのイギリス軍担当戦域での反撃計画も26日より始まったイギリス軍の攻勢「エプソム」作戦に機先を制され、イニシアティブは完全に連合軍に握られていた。


もっともイギリス側も装甲教導・第21・第12SS各装甲師団と更なる援軍の第2装甲師団の強力なドイツ防衛ラインに阻まれ、特に第12SS装甲師団とカナダ第3歩兵師団との死闘は両者とも捕虜を取らない事もある情け容赦のない苛烈なものとなっていた。

そのような膠着状態の中、間隙となった装甲教導師団の側面を突き、背後のカーン占領を図ることでその防衛ラインを根底から覆そうとしたイギリス第7機甲師団による6月13日の「パーチ」作戦も第101SS重装甲大隊ミハエル・ヴィットマンSS中尉のティーガー重戦車にヴィレル・ボカージュで出鼻を挫かれたうえに、その危険に気づき第101SS重装甲大隊・装甲教導師団・第2装甲師団より送られた援軍により完全に阻止され、その間隙を埋められる事となった。

その失敗により正面攻撃をせざるを得なくなったイギリス・カナダ軍による「エプソム」作戦もドイツ軍戦線に喰い込んだものの、第2SS装甲軍団を中心とした反撃で要衛112高地を再び奪い返される結果に終わっていた。


ドイツ側は東部戦線から部隊を引き抜いてまで増援しながらも、第15軍は待機したままであった。ヒトラーは依然としてパ・ド・カレーが本命で第二の上陸があると考え、「ノルマンディーこそ本命」という現場からの声を無視していた。また、上陸2日後、破壊された上陸艇から攻撃目標を記した書類が見つかったが、ヒトラーは連合軍の欺瞞工作と判断して取り合わなかった。


イギリス軍が上陸当日に占拠する予定だったカーンは激戦の末、7月9日に限界に達した第12SS装甲師団の撤退を受けてイギリス第2軍が北部市街地を占領するまでドイツ側が確保し、その後もオルヌ河南の市街地で防禦戦線を構築したドイツ側の執拗な抵抗で進撃ペースは鈍かった。


アメリカ軍担当戦域では6月12日にコタンタン半島の付け根であるカランタンが陥落しユタとオマハの米軍を結ぶ事ができた。またこの時点でこの戦域南方のドイツ軍は手薄であり、アメリカ側には突破のチャンスであったが、事情を知らず当初の計画のシェルブール攻略を優先した。

コタンタン半島の根元を確保しようとするアメリカ第7軍団によって半島に展開するドイツ軍は包囲される危機が生じたがヒトラーは包囲網からの脱出を許可せず、半島のドイツ軍は包囲される事となった。

ドイツ軍は頑強に抵抗したが、シェルブールなどの要塞施設は資材不足の為に砲塔は固定式で海に向いているものも多く陸地からの攻撃には無力で、26日にシェルブール要塞司令官カール=ヴィルヘルム・フォン・シュリーベン中将は降伏し、27日には徹底的に破壊した後にシェルブール港湾施設・兵器庫が降伏。その他の抵抗も7月1日までには終息した。

これによりアメリカ軍は本格的な南進を開始した。


ドイツ軍では上層部に変更があり7月2日、(戦争を止める様に進言した為と言われる)西方総軍司令官ルントシュテット元帥、西方装甲集団司令官シュヴェッペンブルク大将は解任され、後任にはそれぞれギュンター・フォン・クルーゲ元帥、ハインツ・エーバーバッハ大将が就任した。

また6月29日に死亡したドルマン大将(公式には心臓発作であるが、第7軍参謀長マックス=ヨーゼフ・ペムゼル中将によれば28日に自決)の後任には以前第2SS装甲軍団長であったパウル・ハウサーSS大将が第7軍司令官に就任した。

この折にロンメルも解任しようという動きもあったと言われるが、前線兵士の士気を考慮して取り止めとなったという。

ドイツ軍主力がイギリス軍・カナダ軍に拘束されている間にアメリカ軍はボカージュでの戦闘に苦戦しながらも前進を続け、7日にはイギリス軍を相手にティリーで激闘を続ける装甲教導師団が部隊の一部を残しアメリカ軍戦線へ異動となるなどドイツ軍の脅威となりはじめ、17日にはサン・ローを占拠するまでに至っていた。

この日、前線を視察中のロンメル元帥が空襲で重傷を負い、クルーゲ元帥がB軍集団司令官を兼任する事となった。


18日、猛爆撃の後にイギリス第2軍によるグッドウッド作戦、カナダ第2軍団によるアトランティック作戦という大規模な攻勢が開始され、カーンを完全に占領する事に成功したものの、ドイツ軍側の予備戦線に配備された対戦車砲により戦車部隊が大損害を受け、攻勢の勢いが弱まった後に第1SS装甲師団などのドイツ軍予備兵力が投入されて完全に阻止され20日には作戦中止となった。


25日、アメリカ軍戦区のドイツ軍に対してアメリカ第1軍により悪天候で1日延期されていた一大攻勢であるコブラ作戦が開始されたが、晴天で、更に誤爆されない為に部隊は後退していたにも関らず前日と同様の空軍の誤爆で大損害を受ける幸先の悪いものであった。

だがドイツ軍はアメリカ軍が後退していた事から連合軍主攻は此処ではなくイギリス軍戦区で行われると判断しており、部隊をそちらに抽出して防衛ラインを弱体化させる思わぬ結果をもたらしていた。

幸先は悪かったものの事前の入念な準備爆撃でドイツ軍の防衛ラインは麻痺し、進撃を開始したアメリカ軍が27日にル・メニル=エルマンに達するとドイツ軍の組織的抵抗は排除され、28日までには矢面に立っていた装甲教導師団が壊滅。アメリカ軍は戦線を突破する事に成功した。

コブラ作戦に呼応して行われたイギリス軍戦域でのカナダ第2軍団によるスプリング作戦もドイツ軍戦力を拘束し、コブラ作戦の成功に寄与した。

30日、アメリカ第3軍(司令官は架空のアメリカ第1軍集団司令官から、1944年1月26日に就任したジョージ・パットン中将)は一気にアヴランシュまで達した。


ドイツ軍の西部戦線戦力が乏しいため、クルーゲ元帥はヒトラーに退却を要請したが却下された。

ヒトラーはアヴランシュを奪回しアメリカ第3軍補給路を寸断する為のリュティヒ作戦を命じ、ドイツ軍は第47装甲軍団の元に装甲部隊を集結させ、8月6日深夜に作戦を開始するが、夜が明けると連合軍機の大部隊が襲来して爆撃を加え、作戦は頓挫し、13日までにアメリカ第1軍によって撃破された。


7日、リュティヒ作戦に兵力を抽出して手薄になったカーン南方のドイツ軍に対し、カナダ第1軍によるトータライズ作戦が実施されたが、第12SS装甲師団などが張ったドイツ側の防衛線に阻止され、10日、ファレーズの北の丘まで進撃したところで作戦は終了した。

消耗した部隊によるドイツ側の薄氷の勝利であったがヒトラーはこれを過大評価し、反撃命令を拒むクルーゲ元帥を17日に更迭し、ヴァルター・モーデル元帥が後任となった。(解任後、ヒトラー暗殺未遂事件の関与を疑われていたクルーゲは、ヒトラーに戦争を止める事を求めた遺書を残して自殺した)

しかし事態は好転せず、今やアメリカ第3軍はブルターニュを席捲した後に南進し、そこから急速に東進して9日にル・マンを占領し、次には北上して12日にはアランソンを占領した。13日にはアメリカ第1軍はアルジャンタンを占領し、イギリス・カナダ軍もドイツ側の激しい抵抗にあいながらも着実に前進を果たしつつあり、ファレーズのドイツ軍に対する包囲網は完成しつつあった。

16日、ファレーズのドイツ軍にようやく撤退命令が発せられた。


17日、ファレーズが解放され、戦線北東にあったカナダ第1軍が、南東のアメリカ軍と合流させるためポーランド第1機甲師団を進出させ、19日に師団はシャンボワに達して包囲が達成された。

21日の夕方までにカナダ第3、第4歩兵師団が主要な道路を確保し、ポーランド第1機甲師団と合流し、強固な包囲網が敷かれた。

22日までにドイツ軍は1万人以上が戦死、5万人が捕虜となり、多数の重火器・車両を放棄して2万人が脱出に成功したと言われる。

北フランスのドイツ軍は壊滅し、国境へ向けての敗走が始まった。ドイツ軍にとって西部戦線での終わりの始まりであった。


余談編集

パンジャンドラムは「大西洋の壁」爆破のために考案された自走爆雷だったが、不採用となった。もっともイギリス側もこの兵器に期待はしておらず、それでも試作開発を命じたのはドイツ側に防禦が強固なカレーへの上陸を計画しているとミスリードさせる為だったという。


●ノルマンディー上陸作戦の秘匿に連合軍は神経をすり減らしたが、イギリスのデイリー・テレグラフ紙のクロスワードパズルに答えとしてたまたまオーバーロード、ネプチューンなどの作戦、オマハなどの上陸ポイントのコードネームが1944年5月から短期間に出されたため、英情報機関は出題者のレナード・ドー氏をスパイ容疑で尋問した。

またアメリカ軍将官がイギリスでのカクテル・パーティーで6月15日以前に上陸があると同僚に話して、本国に送還され、大佐の肩書で退役となり、イギリス軍大佐が民間の友人に部下が襲撃訓練をしている目標はノルマンディーと仄めかし、降格の上に解任されている。

またロンドンのアメリカ軍司令部勤務の軍曹が妹宛ての包装と間違えてオーバーロード作戦の文書を送ってしまいシカゴの郵便局でなんとか止められ、関わった者達には緘口令がしかれた事もあったという。


●AP通信のテレタイピストが練習で架空の至急報を打っている折に、それが作戦広報要約に紛れ込み、直ぐに取り消されたものの間に合わず、アイゼンハワーの司令部がフランス上陸を発表したとの電報が6月4日にアメリカに送られてしまい、これはドイツ軍諜報部にも受信されている。


●フランス国内のレジスタンスは伝書鳩で連合軍に情報を送っており、ドイツ軍では鳩を撃つことが前線兵士の日課になっていた。オマハ海岸に第352歩兵師団が展開した情報も2羽の鳩に託して送られたが、2羽とも撃ち落とされてしまったという。だが、それらを含め、様々な手段で連合軍に送られたレジスタンスの情報は有用で、コタンタン半島の戦いでは降伏勧告に現れた連合軍の軍使がドイツ軍の部隊・指揮官名など詳細な配備状況を記した地図を持っていた事にドイツ側は驚いたという。


●ディエップでの戦訓からイギリス軍は水陸両用、架橋、地雷除去などを目的とした様々な特殊戦車を第79機甲師団と言う形で大規模に編成しており、イギリス・カナダ軍担当上陸地点が損害軽微で済んだ理由の一つに挙げられる。


●ユタ・ビーチではアメリカ上陸部隊は誤って上陸地点から東2㎞離れた浜辺に誘導され上陸したが、怪我の功名でそれはドイツ軍も予想していなかった地点で防御も手薄であり損害は軽微であった。


●オマハ・ビーチでアメリカ軍が苦戦した理由として、「作戦当時、上陸地点に展開していたのが元から居た第716歩兵師団の一部だけでなく、ドイツ第352歩兵師団も配置されていた」、「目標上空に雲が立ち込め、誤爆を恐れた爆撃隊指揮官が爆弾投下を遅らせたため、殆どの爆弾がドイツ軍の防御施設後方に落ちてしまい、損害を与える事ができなかった」、「上陸用舟艇の指揮官がドイツ軍の砲撃に怯え、上陸部隊を支援するDDシャーマン(水陸両用)を沖合いで降ろしてしまい、殆どが水没した」、「射程が短いロケット中型揚陸艦はドイツ軍の砲撃で海岸に近づけず、遠距離からロケット弾を発射して海岸の友軍を誤射した」、「アメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー中将はオマハ・ビーチでのアメリカ軍の苦戦を知り、友軍が上陸しているにもかかわらず、再度の艦砲射撃を命じた」などが理由として挙げられている。


●ドイツ軍第352歩兵師団長ディートリッヒ・クライス中将は担当する海岸が長過ぎて水際撃滅は不可能と判断して海岸には一個連隊だけを配置し、残りの二個連隊と弾薬の多くを予備として後方に配置していた。その為、増援や補給が空襲と艦砲射撃に阻まれたオマハビーチの部隊は弾薬不足などで後退に追い込まれた。尤も当初オマハ・ビーチからの報告は敵上陸部隊を撃退したという楽観的なものであり、その報を受けてクライス師団長は予備部隊をより危険と思われるカーン方面の海岸に送り込んだという。


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