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バルジの戦い

ばるじのたたかい

第二次世界大戦にてドイツ軍がアルデンヌにて行った西部戦線最後の攻勢による戦い。 ルントシュテット攻勢とも呼ばれる。
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戦闘序列(1944年12月16日の時点での参加部隊)

ドイツ軍

西方総軍(司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥)

ルントシュテット元帥


B軍集団(司令官ヴァルター・モーデル元帥)

第6SS装甲軍(司令官ヨーゼフ・ディートリヒSS上級大将)

パパゼップ


第1SS装甲軍団(司令官ヘルマン・プリースSS中将) 第1SS装甲師団、第12SS装甲師団、第3降下猟兵師団、第12国民擲弾兵師団、第277国民擲弾兵師団
第67軍団(司令官オットー・ヒッツフェルト中将) 第272国民擲弾兵師団、第326国民擲弾兵師団

第5装甲軍(司令官ハッソ・フォン・マントイフェル大将)

ハッソー・フォン・マントイフェル


第47装甲軍団(司令官ハインリヒ・リュトヴィッツ大将) 第2装甲師団、第130装甲教導師団、第26国民擲弾兵師団
第58装甲軍団(司令官ヴァルター・クリューガー大将) 第116装甲師団、第560国民擲弾兵師団
第66軍団(司令官ヴァルター・リュヒト大将)

ヴァルター・ルフト陸軍中将


 第18国民擲弾兵師団、第62国民擲弾兵師団

第7軍(司令官エーリヒ・ブランデンべルガー大将)

第80軍団(司令官フランツ・バイヤー大将) 第212国民擲弾兵師団 第276国民擲弾兵師団
第85軍団(司令官バプティスト・クニース大将) 第5降下猟兵師団、第352国民擲弾兵師団

兵力 

約20万名。稼動戦車757両。

アメリカ軍

連合国遠征軍最高司令部(司令官ドワイト・アイゼンハワー大将)

第12軍集団(司令官オマール・ブラッドレー中将)

第1軍(司令官コートニー・ホッジス中将)

第5軍団(司令官レオナルド・ジロー少将) 第1歩兵師団(16日に第7軍団より配置換え)、第2歩兵師団、第99歩兵師団、第78歩兵師団
第8軍団(司令官トロイ・ミドルトン少将) 第9機甲師団、第4歩兵師団、第28歩兵師団、第106歩兵師団

兵力

約8万名。稼動戦車440両。

戦い前の状況

ドイツ側

1944年末のドイツの状況は絶望的であった。
東部戦線ではソ連軍は6月からのバグラチオン作戦でドイツ中央軍集団を壊滅させポーランド東部にまで進出し、クールラントでかっての北方軍集団は孤立し、南ではハンガリーへの侵攻も進んでいた。
イタリア戦線でも着実にドイツ軍は押されており、西部戦線では6月にノルマンディーに上陸した英米連合軍はファレーズでドイツ第7軍を壊滅させて破竹の進撃を続け、その後のマーケット・ガーデン作戦でのオランダからのルール工業地帯への侵攻は阻止し戦線を安定させたものの、ドイツ軍は国境に押し込まれ、ドイツの都市であるアーヘンも占領されていた。
同盟国もフィンランド、ルーマニア、ブルガリアが脱落し、そればかりかドイツに宣戦を布告していた。
だがこのような事態に至ってもドイツ総統アドルフ・ヒトラーは降伏を選択しないばかりか、未だに戦争での勝利を諦めてはいなかった。
反撃場所の案にはドイツ東部の穀倉・工業地帯をソ連軍が脅かす東部戦線があったが、ヒトラーは広大すぎて成功しても敵兵力をある程度削り、僅かに失地回復するのみで決定的な勝利とはならないと却下し、またイタリア戦線は制空権が握られているうえに晴天続く乾季がある為に適さないとし、反撃場所は西部戦線に絞られた。
ヒトラーの見解では西部戦線の英米軍は制空権を握った空軍と物量によって小規模な軍隊で勝利を収めており、現在の50個師団あまりでは明らかに進撃で長大となった補給線を守備し維持するのは困難であり、敵航空戦力が動けない天候が悪化する時期に少なくとも20個師団によって反撃すれば大打撃を与えられると考えた。
そして場所は英米軍兵力が手薄となっているアルデンヌ地区とし、此処を突破して北上してアントワープを占領してイギリス第21軍集団を孤立させ、アメリカ軍が対応する前に包囲殲滅すれば英米連合国では戦争の優勢を信じていた国民が騙されたとして政府を攻撃する世論が生まれ、講和する機会も生じ、そうなれば東部戦線に全兵力を転用することも可能となるとした。
戦局を一変させる決定的な一撃ともなりえると夢想したのだった。
この作戦は「ラインの守り」と名づけられ10月半ばに西方総軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥とB軍集団司令官ヴァルター・モーデル元帥に参謀を通じて通知されたが、積極果敢なモーデルですら「この作戦には立つ為の一本の脚すらないではないか」と述べる程で、ルントシュテットに至っては後に「ミューズ河まで辿り着くだけでも跪いて神に感謝するべきだ」と述べ、ルントシュテットはアーヘン周辺のアメリカ軍を、モーデルはミューズ河前面でアメリカ第1軍を包囲殲滅する現実的な代案を出したが、決定的な勝利を望むヒトラーは認めなかった。
この作戦の為に老人・少年、更には内臓に障害がある為に兵役をこれまで免除されていた者も動員され、また作戦に使用する部隊を戦闘に用いることは禁じられた。だが、多くの作戦参加予定部隊は定員割れを起しているものも多く、また急遽新設された部隊が何処まで役に立つのかは疑問であった。
計画の秘密保持は徹底され、作戦計画は慎重に選ばれた少数の将校に秘密保持誓約の後に通知され、ケルンからボンでのアメリカ軍の攻勢を予想しているとの噂を立て、部隊集結を怪しまれないようにしたり、無線封止は勿論、偵察活動さへもその為に捕虜となった兵士から作戦が漏れることを恐れ11月10日以降は禁止される程であった。
攻勢の為に燃料も集まりつつあったが、運搬できた量では攻勢を維持するのは不十分であることは明白であり、モーデルは敵の燃料を奪い使用する事や燃料節約を部隊に指示するほどであった。
それでもヒトラーの予想を下回るとはいえ、将軍達の予想よりは多い部隊が集結し始めていたが、最初の攻勢期日である11月30日はアーヘン・メッツでのアメリカ軍の攻勢に対処する為に「ラインの守り」作戦の部隊を後退させるどころか、対処する為に戦線に投入しなければならない状況に延期とされた。
次の予定日の12月10日は準備不足の為に15日に延期となり、最終的には16日と決まった。

英米側

この時期、英米側は勝利を確信しており、連合国遠征軍最高司令官ドワイト・アイゼンハワー大将が第一次世界大戦のミハエル作戦のようにドイツが敗北を認める前に一大攻勢を仕掛けてくる可能性を考えていたぐらいで、将軍達の中にはクリスマスまでに戦争が終わるか否かで賭けをしていた者もいたという。
この為に殆どの者がドイツ側はアーヘン・メッツの防衛の為に予備戦力を割くと考えており、その中間地点で地形が複雑で森が茂り機動戦に不向きなアルデンヌ地区で攻勢に出ようとしているとは予想していなかった。それどころかこの地区は保養地のように考えられており、第28歩兵師団のように大損害を受けた部隊の戦力回復、もしくは戦争経験の無い師団の為の駐屯地となり、最前線とは思えない静寂さから幽霊戦線と呼ばれていた。
またドイツの意図を探る英米連合軍情報部はこの頃にはウルトラによる暗号解読に依存しており、それ以外からの情報はそれを立証の為の補強材料に過ぎないものとなっていた。この為に秘密保持の為に無線を使用せず電話・電報での通信手段をとるドイツの策は功を奏していた。
それでもドイツ軍の攻勢を示す兆候はウルトラでも解読されていたが、それをドイツ軍攻勢に結びつけたものは従来の情報分析をする者一人で、変人扱いをされていた為に受け入れられなかった。
一方、藁を道に敷いて車両の音を消そうとするドイツ軍の努力にも関らず、アルデンヌ地区の前線兵士から夜間にドイツ軍陣営から車両が動く音がひっきりなしに聞こえるという情報が入り始め、当初は未経験の兵士の誤認としていた情報部だが、やがて歴戦の第28、第4歩兵師団からも同様の報告が入り、更にベルギー人の女性が森でドイツ軍の大部隊が集結しているのを見たと証言した為にこの女性をスパの第1軍司令部に送る事となったが、その日は既に16日を迎えていた。
また脱走兵のドイツ軍兵士も攻勢があると半信半疑ながら捕らえたアメリカ軍に証言している。

経過

16日

05時30分、雪が降り積もり、航空機が活動できない悪天候のなか1300門あまりの砲による準備射撃が行われ、その後に未だ辺りが暗いなかサーチライトの照射を受けてドイツ軍は攻撃を開始した。
ドイツ軍は奇襲に成功し、その報告にヒトラーは狂喜したというが、その成果はドイツ軍を満足させるには程遠かった。

準備射撃は偵察活動が限定されていた事もあり、電話線を切断して連合軍部隊相互の連絡網の妨害に成功したものの全体的には効果的なものとはならなかった。

ドイツ側の主攻を担うとされていた第6SS装甲軍の戦区では戦車の機動に適さない地形にまずは歩兵師団を投入して突破口を開き、その後に戦車などの機械化部隊による突破を図ったが第12国民擲弾兵師団がロスハイムを陥としたもののアメリカ第99歩兵師団の新米ながらの頑強な抵抗で迅速な突破に失敗した。しかし第3降猟兵師団と隣接する第5装甲軍の第18国民投擲弾兵師団の戦区ではアメリカ第14騎兵グループの突破に成功しようとしていた。

その南の第5装甲軍戦区では第6SS装甲軍とは違い、司令官のハッソ・フォン・マントイフェル大将風に言えば「10軒の戸を叩けば1軒の戸ぐらいは開くだろう」と当初から装甲部隊も温存せずに投入されていた。また砲撃時間をヒトラーに直訴して当初の予定から繰り上げたのもマントイフェル大将であり、準備砲撃の前からウール河を渡河した第26国民擲弾兵師団の兵士達を既に敵陣に浸透させていた。だが、第58装甲軍団、第66軍団は停滞。第47装甲軍団も圧倒はしたものの全体を見ればアメリカ第28歩兵師団の執拗な抵抗で前進は微々たるものだったが、夜にダスブルグで架橋に成功し戦車の投入が可能となっていた。

更にその南の第7軍戦区では第85軍団の第5降下猟兵師団がアメリカ第28歩兵師団の第110連隊、第352歩兵師団が第109連隊を相手に前進したものの、第80軍団は歴戦のアメリカ第4師団と新米の第9機甲師団に前途を阻まれていた。

奇襲をうけ電話連絡手段を失い孤立した連合軍前線兵士は、皆がたまたま運悪く自分達だけがドイツ軍の限定的な攻撃に晒されたのだろうと考えていた。

17日

武装親衛隊 ヨアヒム・パイパー

(ヨアヒム・パイパーSS中佐)
第6SS装甲軍戦区では第1SS装甲軍団の第12国民擲弾兵師団はミュリンゲンを陥落させ昨日よりは前進をする事が出来た。その一方で突出していた歴戦のアメリカ第2歩兵師団はようやく第1軍の許可を得てドライボルンへの攻撃を中止して後退し、残されたアメリカ軍部隊を後退させる為に必要なエルゼンボルン峠周辺のクリンケルトとロッヒュラート方面を固め、第277国民擲弾兵師団及びその支援に投入された第12SS装甲師団と激戦を始めていた。
一方、同じ第1SS装甲軍団の第1SS装甲師団はアメリカ第14騎兵グループの戦区を突破し、第1SS装甲擲弾兵連隊長マックス・ハンセンSS大佐率いる戦闘団はレフトでアメリカ第7機甲師団に阻止されたものの、第1SS装甲連隊長ヨアヒム・パイパーSS中佐率いる戦闘団は第3降下猟兵師団第9降下猟兵連隊の支援を受けてホンスフェルトを奪取したのを皮切りにビュリンゲン、リニュービルと快調に進軍を続けて夜にはスタブロー付近にまで進出した。
夜に第12、第277国民擲弾兵師団、第3降下猟兵師団は第1SS装甲軍団から外され、第2SS装甲軍団へ配属される事となった。
また午前の夜のうちにフリードリヒ・フォン・デア・ハイテ大佐による戦線後方に第6SS装甲軍の進撃路を確保する為の空挺降下作戦「シュテッサー」が実施されたが悪天候とパイロット未熟の為に失敗に終わった。

第5装甲軍戦区では第58装甲軍団が前進を遂げ、アメリカ第28歩兵師団第112連隊は後退し19日にサン・ヴィット防衛線に組み込まれた。
第47装甲軍団は夜にクレルヴォーを陥落させ、それまで頑強な抵抗を示していたアメリカ第28歩兵師団第110連隊を壊滅させた。また第130装甲教導師団も道路状態の悪さなどから苦闘したもののクレルヴェ河を越え、前進できる状態となっていた。
第66軍団はシェネー・アイフェルでアメリカ第106歩兵師団の二個連隊を包囲する事に成功した。
一方、これらを救うべく派遣されたアメリカ第7機甲師団がサン・ヴィットに到着していた。

第7軍戦区では第80軍団の第276国民擲弾兵師団は前進は捗々しくなく師団長も戦死を遂げたが、それでも戦線に浸透し、第9機甲師団の反撃を粉砕していた。

一方、連合国遠征軍最高司令部では今回の攻撃が限定的なものではなく、それ以上の目的を持った大規模なものと判断し、最高司令部唯一の予備である第82、第101空挺師団を含む予備部隊をアルデンヌに派遣する事に決定して素早く対応し、ヒトラーの予測を覆していた。

18日

アルデンヌ攻勢
サン・ヴィット

(左はハンセン戦闘団兵士。右は現在ではパイパー似のSS伍長と言われる。)
第6SS装甲軍戦区ではクリンケルトとロッヒュラートを巡りアメリカ第2、99歩兵師団と第1SS装甲軍団の第12SS装甲師団と第2SS装甲軍団となった第277国民擲弾兵師団が依然として激闘を続けたが、ドイツ側はアメリカ軍の戦車・対戦車砲により戦車に多大な損害を出し両村を陥落させる事は出来なかった。
第1SS装甲軍団のパイパー戦闘団はスタブローを占拠し、トロワ・ポンを目指すがアンブレーブ河とサルム河の橋を爆破され占拠できず、その後も橋の爆破に妨害されながらもラ・グレースとストゥーモンの中間点の森まで進出した。また第1SS装甲偵察大隊長グスタフ・クニッテルSS少佐の戦闘団も増強に派遣されてきた。その一方でスタブローではアメリカ軍の反撃が始まっていた。

第5装甲軍戦区では第2装甲師団は道路封鎖のアメリカ第9機甲師団R戦闘団(ローズ隊、ハーパー隊)を次々と撃破してバストーニュに近づきつつあったが、ロンビリーを目指さずに北進し、無防備に近いバストーニュ攻略の機会を逃す事となった。またウィルツを最初に装甲教導師団が、その後は第26国民擲弾兵師団が攻撃を加えていた。
だが、午後にはバストーニュにアメリカ第10機甲師団B戦闘部隊、深夜には第101空挺師団が到着していた。
サン・ヴィットではハンセン戦闘団の攻撃で第7機甲師団はレフトとポトーを失ったが反撃してポトーを奪還した。

第7軍戦区では第80軍団は、第276国民擲弾兵師団が第9機甲師団の、第212国民擲弾兵師団が第10機甲師団のドイツ軍兵力を過小評価しての反撃を阻止していた。

19日

第6SS装甲軍戦区では第1SS装甲軍団のパイパー戦闘団はストゥーモンを攻略したもののその進撃はアメリカ第740戦車大隊・第30歩兵師団第119連隊により遂に阻止された。またスタブローも第30歩兵師団第117連隊に占拠され、その奪還の為に新たに派遣された第2SS装甲擲弾兵連隊長ルドルフ・サンディッヒSS大佐の戦闘団とクニッテル戦闘団が攻撃するも阻止され、ストゥーモンのパイパー戦闘団は孤立する事となった。
また第2SS装甲軍団の戦区ではクリンケルトとロッヒュラートからアメリカ軍が後退をはじめ防禦ラインを整理していた。

第5装甲軍戦区では第116装甲師団がウーファリーズを占領し、ウールト川の橋は爆破されていたもののベイリー橋はまだ無傷でありこれの占拠を図るも、行動を起せば破壊されると予測したクリューガー大将の命で第58軍団はウーファリーズへ引き上げてのちに西進せよと命じられ、速やかに西進する機会を逃していた。
第66軍団では第18国民投擲弾兵師団が包囲したシェネー・アイフェルのアメリカ第106歩兵師団の二個連隊が降伏した。
第47装甲軍団では第2装甲師団はバストーニュ北方のアメリカ第10機甲師団B戦闘団(デソブリー隊)、第101空挺師団第506空挺連隊第1大隊の部隊が守備するノービル攻略にかかっており、一方、ロンビリーではネッフェを陥落させた装甲教導師団と第26国民擲弾兵師団が第2装甲師団の一部と共に猛砲撃を行い第9機甲師団R戦闘団と第10機甲師団B戦闘部隊(チェリー隊)を撃破した。また装甲教導師団はアメリカ第101空挺師団第506空挺連隊第3大隊を撃破しワルダンを占拠した。
サン・ヴィット方面では第2SS装甲軍団から第1SS装甲軍団に配置換えとなった第9SS装甲師団も攻撃に加わった。また第66軍団の第62国民擲弾兵師団はロメルスワイラーを占領して第18国民擲弾兵師団と連絡をつけサン・ヴィット攻略の準備を着々と進めていた。

第7軍戦区では第85軍団の第5降下猟兵師団が第26国民擲弾兵師団と共にウィルツを陥落させ、第352国民擲弾兵師団はディーキルヒ攻略にかかっていた。

20日

バーナード・ロー・モントゴメリー

(イギリス第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー元帥)
第6SS装甲軍戦区の第2SS装甲軍団では新たに加わった第3装甲擲弾兵師団と第277国民擲弾兵師団がエルゼンボルン峠西方に新たに構築されたアメリカ第9、第99、第2歩兵師団の防衛ラインにこの日以降何度か攻勢をかけるも失敗。第12国民擲弾兵師団、第12SS装甲師団(第9SS装甲師団と交換で第2SS装甲軍団所属となった)のアメリカ第1歩兵師団が守備するヴィルツフェルトとドム・ビュットゲンバッハへの攻撃も阻止された。
一方、第1SS装甲軍団では、ストゥーモンとラ・グレースのパイパー戦闘団にアメリカ第3機甲師団の攻撃が始まり、スタブローを巡る戦いも補給路の橋を爆破されたドイツ側は後退した。

第5装甲軍戦区では第58装甲軍団はラ・ロッシュ方面は戦車での行動は不可能と見て、ドシャン攻略に切り替えた。そしてその占拠の折にサムレーも占領したが此処はアメリカ軍補給所であり、燃料が欠乏していた第116装甲師団は一息つくことが出来た。
第47装甲軍団では第2装甲師団が多大な損失を受けながらもノービルを占領し、バストーニュに構わず西進を続けた。そして先日、第116装甲師団が逃したベイリー橋に達し、その守備が強力と見るや一旦後退して態勢を立て直し夜に本格的な攻撃を開始しこれを奪取した。装甲教導師団はマルビー奪取に失敗した為にリュトルボワを占領してバストーニュとアルロンの連絡線を断ち、第26国民擲弾兵師団はアセノワ方面を占領しバストーニュは包囲された。
サン・ヴィット方面では総統護衛旅団も戦闘に参加した。またこの日に連合国側の指揮系統が整理され、北部戦線のアメリカ軍はイギリス第21軍集団の、南部戦線はアメリカ第12軍集団の指揮下となりアメリカ第1軍所属だった第8軍団は第3軍の所属となった。

第7軍戦区では第85軍団の第352国民擲弾兵師団が昨夜のうちにアメリカ軍が後退したディーキルヒを占領した。第80軍団では第276国民擲弾兵師団がワルトビリングを占領、第212国民擲弾兵師団はエヘテルナッハを占領したが、両師団とももはやそれ以上は前進することは出来なくなっていた。

21日

第6SS装甲軍戦区では再び第2SS装甲軍団の第12SS装甲師団と第12国民擲弾兵師団によるドム・ビュットゲンバッハへの攻撃が行われたがアメリカ軍の猛砲撃で歩兵が戦車に追随できず、歩兵の支援の無い戦車は対戦車砲・バズーカの好餌となり攻略は失敗した。
第1SS装甲軍団では、パイパー戦闘団は戦線を整理する為にストゥーモンとシャヌーの部隊をラ・グレースに後退させていた。その一方でアメリカ第82空挺師団第504空挺連隊がジェヌーを奪取し、パイパー戦闘団の包囲網を狭めていた。
戦闘団救出を図る第1SS装甲師団はアンプレーヴ川の橋を戦車の自重で潰した後は渡河の為に架橋してトロワ・ポンへの進出を図るもアメリカ軍の砲撃で失敗しザムル川に架かるトロワ・ポンの橋もアメリカ第82空挺師団に爆破された。

第5装甲軍戦区では第58装甲軍団は第560国民擲弾兵師団がラ・ロッシュを占領して橋を確保したもののオットンを目指す第116装甲師団は消極的ではあったがアメリカ第3機甲師団の反撃により阻止されていた。
第47装甲軍団では第2装甲師団が燃料不足によりテンタヴィル付近で補給を一日待って貴重な時間を潰し、バストーニュ方面では装甲教導師団は隷下の第901装甲擲弾兵連隊をバストーニュ攻略を進める第26国民擲弾兵師団に支援の為に配置換えとし、残りの部隊で西進を図っていた。
第66軍団はサン・ヴィットに総攻撃をかけ、守備隊を後退させ占拠する事に成功した。

第7軍では第5降下猟兵師団がマルトランジュに到着し、またバストーニュ方面ではシブレを陥落させていた。

22日

第6SS装甲軍戦区では第1SS装甲軍団のパイパー戦闘団は未だにラ・グレースを保持していたが燃料・弾薬を使い果たし、空中からの補給も戦闘団に落下したのは一割余りでその程度の補給では焼け石に水であった。ブティ・スペーではハンセン戦闘団がアメリカ軍部隊と後方の連絡線を断つ事に成功したが、ラ・グレースに近づく事は出来なかった。
第2SS装甲軍団では再び第12SS装甲師団と第12国民擲弾兵師団によりドム・ビュットゲンバッハへの攻撃が行われたが激戦の末にドイツ軍は第12SS装甲連隊第1大隊長ダーノルト・ユルゲンセン少佐をはじめとする多くの犠牲を出して撃退された。
この後、第12、第277国民擲弾兵師団、第3降下猟兵師団は第2SS装甲軍団から第67軍団の所属としてこの戦区の担当となり、第2SS装甲軍団は第6SS装甲軍の左翼へと移動することなる。

第5装甲軍戦区では第58装甲軍団の第116装甲師団にウールト川西岸からマルシェへの突破を図る為に移動するよに命令が下された。あとを託される事となる第560国民擲弾兵師団はドシャンへのアメリカ第3機甲師団の攻撃を撃退していた。
第47装甲軍団ではバストーニュ攻略にあたるのは今や第26国民擲弾兵師団のみで、包囲されている側よりも劣勢となった包囲部隊の窮状を隠す為か、バストーニュのアメリカ軍に対して降伏勧告がなされたがアメリカ第101空挺師団長代理のアンソニー・マッコーリフ准将は「ナッツ(馬鹿たれ)」と返答して兵士達の士気を高めた。
その一方で西進する装甲教導師団はサン・ユベールを、第2装甲師団は燃料不足で遅れ気味ではあったがアルジモンを占拠した。
サン・ヴィット方面では第2SS装甲師団も姿を見せ、その状況に守備隊の撤退が承認されたが、殿の第9機甲師団B戦闘団が戦闘に巻き込まれたためにこの日は撤退する事が出来なかった。

23日

バルジの結末

(破棄されたケーニヒスティーガー)
第6SS装甲軍戦区では第12SS装甲師団が再編の為に後退し、再び第9SS装甲師団を麾下に復帰させたヴィルヘルム・ビットリヒSS中将の第2SS装甲軍団がパイパー戦闘団を包囲され衝撃力を喪失した第1SS装甲軍団に代わり第6SS装甲軍の攻撃の主力となった。第2SS装甲師団は第82空挺師団と第3機甲師団との境界線に楔を打ち込むことに成功していた。
ラ・グレースでは圧迫されたパイパー戦闘団のパイパー中佐は第1SS装甲軍団に撤退の許可を求めたが、軍団司令部は重火器所持の撤退に拘り、パイパーは無線機を破壊し夜になってからの撤退を決意する。
一方、パイパー戦闘団と連絡をつけるべく第3機甲師団B戦闘団と激闘を演じたハンセン戦闘団も再び占拠地をアメリカ軍に奪取され、橋も爆破され万策尽きようとしていた。

第5装甲軍戦区では第58装甲軍団では第116装甲師団が第560国民擲弾兵師団に後を託して前進し、ヴェルダンヌ付近で遅くにアメリカ第84歩兵師団の部隊を撃破していた。
第47装甲軍団ではアメリカ第84歩兵師団が固めるマルシェ攻略を第116装甲師団との協同で図りながらも第2装甲師団は第2装甲偵察大隊を中核としたフォン・べーム戦闘団を送り込みミューズ河まで7㎞の地点にまで進出し、更に第304装甲擲弾兵連隊長代理エルンスト・フォン・コヒェンハウゼン中佐の戦闘団がその増援として出されていた。
バストーニュでは晴天となったのを利用してアメリカは空軍を投入して救援物資を投下し、護衛の戦闘機はドイツ軍を銃撃した。第39擲弾兵連隊がフラミエルジュを突破し、第902装甲擲弾兵連隊はマルビーを攻撃し食い込んだものの防衛ラインは未だ強固だった。
サン・ヴィットではアメリカ軍の後退が行われ、次の日の朝までに全部隊が後退し、損失もジョーンズ任務部隊が大損害を受けた以外は軽微な損失ですんでいた。

第7軍戦区では第85軍団の第352国民擲弾兵師団がブラッツを奪取したが進撃はそこまでであり、以後はアメリカ第3軍に備えて防禦態勢に移行する事となる。
その頃、バストーニュ救出を目指すアメリカ第3軍の第4機甲師団B戦闘団は準備爆撃・砲撃の後に第5降下猟兵師団が守るショーモンを攻撃するも降下猟兵師団の突撃砲の逆襲を受け撃退され、A戦闘部隊はワールナハで第5降下猟兵師団と激戦を繰り広げていた。

24日

エルンスト・バルクマン

(マンエーで戦功を上げたエルンスト・バルクマンSS上級軍曹)
第6SS装甲軍戦区ではラ・グレースのパイパー中佐が重火器、負傷者、捕虜を置いて千名以下のパイパー戦闘団の兵を率いて02時頃に徒歩で脱出を開始し、敵との遭遇や橋が爆破されていたなどのアクシデントを経ながらも第1SS装甲師団と合流する事に成功した。
この為に目的が消えたハンセン戦闘団も午後に後退を始めた。
第2SS装甲軍団はマンエー攻略を目指したが、偶然にもイギリス第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー元帥は戦線整理の為に更に部隊の後退を命じており、その為にマンエーの部隊も後退準備にかかっていたところを第2SS装甲師団の攻撃を受けパニックのうちに敗走しマンエーは陥落した。

第5装甲軍戦区では第58装甲軍団の第116装甲師団がヴェルダンヌを陥落させた。
第47装甲軍団ではアメリカ第2機甲師団によりビュイッソンビル、ユマンが占領され、補給が欠乏した第2装甲師団前衛を本隊から分断した。
装甲教導師団はロシュフォールを占拠したが、損失が酷く後退したアメリカ第84歩兵師団の部隊を追撃は出来なかった。
バストーニュ方面では第26国民擲弾兵師団に増援として与えられたのは第15装甲擲弾兵師団の第115装甲擲弾兵連隊長ヴォルフガング・マウケ大佐率いる戦闘団だけに過ぎなかった。だが、それを加え25日の攻撃が計画されていた。

アメリカ第4機甲師団A戦闘部隊はワールナハを陥落させ、更に師団は予備のR戦闘団も投入した。

25日

第6SS装甲軍戦区では第2SS装甲軍団の第9SS装甲師団がアルブルファンテーヌを陥落させ、第2SS装甲師団はグランメニルを占拠し更に進軍したがアメリカ第75歩兵師団の部隊により阻止された。またマンエーへのアメリカ第7機甲部隊などによる攻撃が行われたが撃退した。

第5装甲軍戦区では第58装甲軍団の第116装甲師団に対してアメリカ第84歩兵師団が反撃を開始し、ヴェルダンヌを奪取し、第16装甲連隊長ヨハンネス・バイエル大佐率いる師団の主力たる戦闘団の一部を包囲する事に成功していた。
第47装甲軍団では第2装甲師団に対してアメリカ第2機甲師団とイギリス第29機甲旅団による総攻撃が始まり、最も進出していたフォン・べーム戦闘団は壊滅した。
装甲教導師団は苦戦する第2装甲師団救援の為にユマンとアヴレンヌを占領するもビュイッソンヴィルは陥せず、またアメリカ第2機甲師団の反撃をアヴレンヌとユマンで受け、アヴレンヌを奪取されたがユマンでは撃退した。だが航空兵力と砲兵の支援を受けた相手に損失も多く、第9装甲師団にあとを託してロシュフォールに後退した。
またバストーニュ方面では03時までには第26国民擲弾兵師団はマウケ戦闘団と共に攻撃を始め、マウケ戦闘団は一時は防衛ラインを突破したものの激しい抵抗を受け甚大な損害を受けて敗退した。

アメリカ第4機甲師団はA戦闘団がティンタンジュを占拠したがオランジュで阻止され、B戦闘団はショーモンをようやく攻略、R戦闘団はルモワビルを占拠したが未だに三部隊ともバストーニュから10㎞以上の地点で手間取っていた。

26日

第6SS装甲軍戦区では第2SS装甲師団はエルゼー占領を目標としたが、部隊は第3機甲師団に阻止されたばかりか、逆にアメリカ軍から午後にマンエーとグランメニルで攻撃を受けたが依然として保持していた。しかし右翼側面の第4SS装甲擲弾兵連隊が第82空挺師団の攻撃に圧迫され、その為に先鋒が包囲される危険を生じ始めた為に第2SS装甲師団は両村から撤退した。こうして第2SS装甲軍団の西進の夢は潰えた。

第5装甲軍戦区では第116装甲師団が孤立したバイエル戦闘団を救出すべくアメリカ第84師団と激突を交えていたが解囲はならず、戦闘団には自力での脱出が命じられ、バイエル戦闘団は夜間に脱出に成功した。しかし師団右に展開していた総統護衛旅団がバストーニュ攻撃に転用される事となり、もはや第116装甲師団に前進する力は無く守勢に廻る事となった。また左に展開する第560国民擲弾兵師団も損耗しきっていた。
第47装甲軍団では第2装甲師団が第9装甲師団の応援も得て、孤立したフォン・コヒェンハウゼン戦闘団の救出を図ったが砲兵と航空兵力の支援を受けた相手に包囲網を突き破る事無く消耗し、また包囲内の戦闘団も補給が欠乏しており効果的にその動きに応じる事が出来なかった。第47装甲軍団からは後方から敵に断たれる恐れが出たことから師団に撤退命令が下され、コヒェンハウゼン戦闘団には全ての兵器を破壊しての自力脱出命令が出された。こうして最もミューズ河に近づいたドイツ軍部隊の前進は止まった。
第9装甲師団はユマンを防衛する一方でアヴレンヌ攻略を図ったが阻止され、ユマンも27日にアメリカ軍に占拠される事となり第47装甲軍団の前進も止まった。
そしてバストーニュ方面では第26国民擲弾兵師団の最後の力を振り絞った攻撃が行われたが撃退され、更に第39擲弾兵連隊は第5降下猟兵師団の抵抗を打ち破り11kmを猛進してきたアメリカ第4機甲師団R戦闘団に突破され、バストーニュ守備隊と第4機甲師団は手を繋ぐ事に成功していた。

その後

輸送車列

(戦いの後のバストーニュ)
もはや作戦が失敗に終わった事は明白であったが、それでもヒトラーは突破が失敗したとしても今度は消耗戦で相手に出血を強いる事を狙いバストーニュ制圧をメインとして、第6SS装甲軍、第15軍から兵力を抽出して第5装甲軍に兵力を送り込み作戦を続行した。
バストーニュにはドイツ側には第1SS、第9SS、第12SS装甲師団、第3装甲擲弾兵師団、第167、第340国民擲弾兵師団、アメリカ側には第6、第11機甲師団、第35、第87歩兵師団、第17空挺師団などが増援として送り込まれ両軍に多大な犠牲を出したが、1945年1月5日までにバストーニュでのドイツ軍の攻勢は潰えた。
12月31日には北アルザスでG軍集団の装甲擲弾兵2個師団、山岳兵1個師団、国民擲弾兵5個師団による牽制攻撃ノルトヴィント作戦がアメリカ第6軍集団の3個歩兵師団に行われ、ある程度の前進を果たして阻止された末に1月25日に作戦は中止となった。
1月12日には東部戦線でソ連軍が冬季攻勢をはじめ、既に8日にラ・ロッシュ北東約10㎞の前線からバストーニュ西方約5㎞の戦線に後退する許可を与えていたヒトラーは東部戦線に部隊を引く抜く為に更に戦線を整理する必要があり、14日にはウーファリーズ東方からロンビリーまでの戦線に後退する事も追認されていた。
1月16日にはウーファリーズ付近で北からのアメリカ第1軍と南からのアメリカ第3軍が連結し、17日にはアメリカ第1軍はイギリス第21軍集団からアメリカ第12軍集団の指揮下に再び戻された。もっともその頃にはドイツ軍の殆どは撤退して包囲を免れていた。
20日にはドイツ第6SS装甲軍に第5装甲軍に任務を引き継ぎ後退するように命令が出され、その後に同軍は東部戦線へと引き抜かれていった。
その間にも19日にはサン・ヴィット、ディーキルヒが陥落し、23日にはウールー河は渡河され、25日にはクレルヴォーが陥落、2月7日までに損耗したドイツ軍部隊は希望に満ちて開始した攻勢発起地点に戻っていた。
ただ連合軍側は当初は突出部の根元の弱体化していたドイツ軍に攻勢をかけてそのまま一気に刈り取るように包囲殲滅を行う事は無く、突出部に対する平押しの消極的な反撃であった事はドイツ軍にとっては幸いであり、幾度かの包囲の危機を免れて主力は後退出来たことは僅かな慰めであった。
こうして多くの犠牲者と共にヒトラーの最後の野望はアルデンヌに潰えたのだった。

ドイツ空軍

ヨゼフ・プリラ―

(作戦に参加したJG26司令ヨーゼフ・プリラー中佐)
ドイツ空軍はこの作戦に12個航空団総計3000機程の兵力を動員し、夜間戦闘の要領でJu88夜間戦闘機を誘導機として各部隊に割り当て悪天候の中でも陸軍を支援したが、パイロットの技量低下や悪天候でも出撃させた事もあってか多数の犠牲をだしていた。
そして1945年1月1日に行われたおよそ1000機によるイギリス第2戦術空軍を主とする基地に対する襲撃ボーデンプラッテ作戦は早朝での奇襲となり連合軍300から500機程を地上で破壊したものの自らも300機あまりを失った。
だが機体以上に致命的だったのは人命の損失で、連合軍側の40名の戦死者と145名の負傷者(うちパイロットの戦死・行方不明は13名)に対し、ドイツ側はパイロットに169名の戦死・行方不明者、29名の負傷者、69名の捕虜を出し、その中には航空団司令3名、大隊長6名が含まれドイツ空軍は止めを刺された形となった。
既に「ラインの守り」作戦は失敗に終わっており、ノルトヴィント作戦の支援の為かも知れないが、今更ながらこのような作戦を決行した事には、事前に高射砲隊にこの作戦の通知が行われず、その為による同士討ちで一説では80機以上を損失した事などと共に批判に上げられる。
もっともこの損害で一週間ほど上空に連合軍機が見えない状態も続き、そのお陰で撤退するドイツ軍の損失を防げたという意見もある。

グライフ作戦

オットー・スコルツェニー
たまにはアメリカーナ・・・

(左はオットー・スコルツェニーSS中佐。右はM10風パンター)
ヒトラーはアメリカ軍に扮してミューズ河の橋を制圧する為のグライフ作戦を立案しオットー・スコルツェニー中佐をその第150SS装甲旅団の指揮官に任じた。
アメリカ軍の戦車、車両、武器、服装などの供出を各部隊に要請したがその数は少なく、中には何を勘違いしたのかソ連軍の物を供出する部隊もあったという。その為に部隊はパンターをアメリカ軍のM10GMC風に偽装させる等の処置を取ることとなった。
作戦は旅団が所属する第6SS装甲軍が迅速な突破に失敗して膠着状態となった為に中止となり、旅団の兵士の大部分はアメリカ軍の服を棄てドイツ軍として12月21日~22日とアメリカ第30歩兵師団が魔守るマルメディー攻略を図ったが撃退され、スコツルツェニーも負傷している。
アメリカ軍の扮装をしたのは少数の斥候部隊であったが、捕虜となった彼等の一人が尋問で部隊の目的はパリの連合国遠征軍最高司令部を占領し、アイゼンハワー大将を暗殺する事にあると答えた為にパニックを引き起こし、アイゼンハワー大将は外出を控えるように求められたばかりか過度な護衛が付いた。更には影武者までもが囮として用意された。(これだけはアイゼンハワーも激怒したという)
またMP達はこの事態に対処する為にアメリカの地名や野球、漫画などアメリカ人でなければ知らない事を質問して検問し、部隊移動などに余計な時間をかける事となった。(もっともこれを機会に本人と分かっているにも関らず普段話しかけられない将軍連中に声をかけようという者もいたという)
またこの折りにサン・ヴィットの第7機甲師団B戦闘団のブルース・クラーク准将がシカゴ・カブスの所属チームを間違えて逮捕されサン・ヴィット防衛に重大な支障を与えたといわれるが、実際は10分程のことだったという。
もっともこのせいで迷惑を被ったのはアメリカ軍だけでなく、スコルツェニー中佐が把握していた以上のドイツ兵がグライフ作戦に関ったスパイ容疑で銃殺されている事から、自国の物に比べ暖かい捕獲したアメリカ軍のコートなどを着用していたり、捕獲したジープに乗っていたドイツ兵がグライフ作戦の兵と誤解されたケースも多くあるのではないかと言われる。

シュテッサー作戦

シュテッサー作戦は戦線後方に第6SS装甲軍の進撃路を確保する為の空挺作戦であったが、隊長に任じられたフリードリヒ・フォン・デア・ハイテ大佐の元には第2降下猟兵軍団より800名の精鋭が集められるとの事だったが、実際はそのような優秀な人物を部隊が離す筈はなく、集まってきたのは失望する人員ばかりで、結果的に降下経験も無い者が大半だったという。大佐は以前指揮官を務めていた第6降下猟兵連隊を使いたいと要請したが、部隊移動で作戦が露呈するとの理由で却下された。
17日の降下の折は気象庁の予想は実際の風速より小さいものを予想し、それに予想を覆されたパイロットにより隊員の25%はドイツ国内に降下させられ、正しい場所に降下したものは13%未満に過ぎず、当初集まってきたのは25名ほどで後に増えても150名程で偵察活動ぐらいしか出来ず後に少数に分散してドイツ軍前線に向かえと命令し、大佐はモンシャウでアメリカ軍の捕虜となっている。
しかしこの作戦は副次効果があり、これがグライフ作戦と結び付けられ多数のアメリカ兵の扮装をしたドイツ兵が降下したとデマが流れ、その探索を命じられた第5機甲師団R戦闘団を迷走させるという効果も生んだ。

結果

ドイツ軍は7万名から一説には12万名に及ぶ死傷者を出し、多数の重火器、車両を失うと共に今後行われるであろう連合国の攻勢に必要であった戦力を失うこととなった。
対してアメリカ軍を中心に連合国側は8万名余りの死傷者を出したと言われるが、戦力差を見ればこの損失がどちらに致命的なものとなったかは明らかであり、連合国側は相手が攻勢に出たおかげで苦戦はしたものの以後の戦闘を楽にすることが出来たばかりか戦争終結を早める事も出来た。
そしてもはやドイツ第三帝国を救う手段は失われた事を示していた。
もっともこの戦いの折にイギリス首相ウィンストン・チャーチルはソ連書記長ヨゼフ・スターリンに援助を求め、それに応じたスターリンに貸しを作ってしまうという失策を犯している。

余談

●バルジの戦いというがバルジは地名ではなく、膨れるなどの意味であり、ドイツ軍の両翼の第6SS装甲軍と第7軍の前進が芳しくないなか中央の第5装甲軍は快調に前進を続け進出図が中央が膨れているように見えることからバルジの戦いと名づけられたという。

●アメリカ第3軍司令官ジョージ・パットンは当初はこの攻勢をメッツへの自分の部隊の攻勢に対する牽制と考えており、第10機甲師団を第8軍団への援軍として派遣せよとののブラッドレー命令には渋々従ったものの、それこそドイツ軍の思う壺だと猛反対していたし、予備の第4機甲師団を戦闘配置につかせてこれを取り上げられないようにしていた程だった。
だが、その後に考えを改め、19日のヴェルダンでのアイゼンハワー達との会議ではアイゼンハワーのどのくらいの猶予があれば部隊を北に回せるかの質問に「48時間以内に」と答えた。既に会議の前から彼はその準備を整えていた。

●ヒトラーは連合軍側はお役所手続きのように迅速に軍や外国の軍との協調活動などは出来ないと見ていたが、実際は17日には第7、第10機甲師団、最高司令部唯一の予備の第18空挺軍団の投入が決定され、イギリス軍とも20日にはイギリス第21軍集団が戦場北側、アメリカ第12軍集団が戦場南側を分担して指揮をとる事が決定され、ヒトラーの予測を裏切った。
もっともこの決定はモントゴメリーの指揮下となったアメリカ側には不満を抱かせ、サン・ヴィット方面からの後退や、消極的な戦いぶり、更には戦後に自分の指揮でこの戦いに勝ったと取れる発言をモントゴメリーがしたことで大いに彼等は不満・抗議の声をあげた。

●アメリカ第106歩兵師団は所属部隊のうち第422、第423連隊のおよそ9000名が12月19日に降伏したが、これは第二次世界大戦では太平洋戦域のフィリピンはバターン半島で降伏した規模に次ぐアメリカ陸軍が体験した大量降伏であった。
勿論、師団長アラン・ジョーンズ少将は突出していた両連隊の事は気にかけており、17日には上官の第8軍団長ミドルトン少将にそれらを後退させることを提案した。ミドルトン少将はその決断を現場の指揮官に委ねた事で後退の許可を与えたものと認識していたが、ジョーンズ少将はその処置を逆に捉え後退命令を出さず、両連隊は包囲されてしまう事となった。
両連隊を包囲したドイツ第18国民擲弾兵師団では、薄い包囲網が何時敵の反撃に晒されるのか不安であったが、相手が戦争未経験からかそういったものが一切無い事に当惑していたという。
因みにこの折に捕虜となったジョン・ウォータース中佐はアメリカ第3軍司令官パットン中将の娘婿であり、後にパットンが彼を捕虜収容所から救出しようという私的な目的で部隊を使用したといわれる(その部隊は壊滅)ハンメルブルク事件の原因ともなった。

●ドイツ軍では度重なる戦闘で補充を受けても作戦開始時に戦力を完全に回復していない部隊も多かった。
攻撃先鋒となった部隊でも以下のようになっていた。

  • 第1SS装甲師団 
減少した第1SS装甲連隊の第1、第2装甲大隊を第1装甲大隊に統合。ケーニヒスティーガー装備の第501重装甲大隊を臨時に第2装甲大隊。兵員9割、装備8割の回復と見なされていた。
  • 第12SS装甲師団 
減少した第12SS装甲連隊の第1、第2装甲大隊を第1装甲大隊に統合。ヤークトパンター装備の第560重駆逐装甲大隊を臨時に第2装甲大隊。第1SS装甲師団と同様に兵員の9割、装備の8割を回復したと見られていたが、同時に未だに実戦投入の状態ではないともされていた。
  • 第130装甲教導師団 
減少した第130装甲連隊の第1、第2装甲大隊を第2装甲大隊に統合。ヤークトパンター装備の第599重駆逐装甲大隊を臨時に第1装甲大隊。8割の回復と見なされていた。(もっとも先のノルマンディー戦で壊滅したこの部隊は優先的に補充がなされ、またこの作戦の為に温存されていたエリート部隊でもあったが、メッツでの戦闘にルントシュテットがそれに反して投入し大損害を受けていた)

  • 第2装甲師団
回復は8割程で所属の二個装甲擲弾兵連隊を構成する四個装甲擲弾兵大隊のうちの一個大隊は自転車装備の部隊であった。師団長のマインラート・フォン・ラウヘェルト大佐は作戦開始間際に着任したばかりで、連隊長との顔合わせも充分では無い状態で作戦を迎えていた。

  • 国民擲弾兵師団の多くは疲弊した訓練不足の老人、少年からなる部隊であった。
尤もそれとは対照的に第26国民擲弾兵師団は6個大隊編成ながらも、この作戦の為に異例の補充がなされ定数を越えた17000名以上の兵を持つ部隊であった。また第12国民擲弾兵師団もアーヘンの戦闘で感状を受けた歴戦の部隊であった。

●パイパー戦闘団がマルメディーとリヌーヴィルの間で米第285砲兵観測大隊の捕虜80名以上を虐殺した。このニュースにアメリカ側は怒りで戦意を掻き立てられ、中には報復としてドイツ兵捕虜を認めずに射殺した部隊もあったと言われる。戦後、この事件で裁判が行われたが、パイパー達の虐殺命令を立証できず、最終的には死刑判決を受けた者も含め全員が釈放された。(マルメディー虐殺事件
戦闘中の混乱で真相は定かではないが、最初にアメリカ兵を捕虜とした部隊が、ただ武装解除しただけで彼等を放置して前進してしまい、次に遭遇したドイツ軍部隊が、武装解除を掻い潜り未だに武器を所持していた者もいた捕虜達を戦闘部隊と誤認して攻撃したとも言われる。
またマルメディーは連合軍が保持していたにも関らずドイツ軍に占領されたとの誤報で空軍の爆撃を受け市民を含む多数の犠牲を出している。

●バストーニュ救出の一番槍となった第9機甲師団R戦闘部隊の第37機甲大隊の指揮官は後にベトナム戦争で大将としてベトナム派遣軍最高司令官となるクレイトン・エイブラムス中佐であった。

●映画「バルジ大作戦」で描かれた為に一般的にも比較的有名な戦いでもある。
また他にも映画「大反撃」、「ジャスティス」などで描かれ、アメリカ第101空挺師団を扱ったTVドラマ「バンド・オブ・ブラザース」の第6話「衛生兵(Bastogne)」第7話「雪原の死闘(The Breaking Point)」でも描かれている。

【落書き】バルジ大作戦【ログ】
バルジの戦い



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