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バルジの戦い

ばるじのたたかい

第二次世界大戦にてドイツ軍がアルデンヌにて行った西部戦線最後の攻勢による戦い。 ルントシュテット攻勢とも呼ばれる。
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戦闘序列(1944年12月16日の時点での参加部隊)編集

ドイツ軍編集

西方総軍(司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥)

ルントシュテット元帥

B軍集団(司令官ヴァルター・モーデル元帥)

「大いなる守り人」ヴァルター・モーデル

第6SS装甲軍(司令官ヨーゼフ・ディートリヒSS上級大将)

ゼップ

第1SS装甲軍団(司令官ヘルマン・プリースSS中将) 第1SS装甲師団、第12SS装甲師団、第3降下猟兵師団、第12国民擲弾兵師団、第277国民擲弾兵師団

第67軍団(司令官オットー・ヒッツフェルト中将) 第272国民擲弾兵師団、第326国民擲弾兵師団

第5装甲軍(司令官ハッソ・フォン・マントイフェル大将)

ハッソー・フォン・マントイフェル

第47装甲軍団(司令官ハインリヒ・リュトヴィッツ大将) 第2装甲師団、第130装甲教導師団、第26国民擲弾兵師団

第58装甲軍団(司令官ヴァルター・クリューガー大将) 第116装甲師団、第560国民擲弾兵師団

第66軍団(司令官ヴァルター・リュヒト大将)

ヴァルター・ルフト陸軍中将

 第18国民擲弾兵師団、第62国民擲弾兵師団

第7軍(司令官エーリヒ・ブランデンベルガー大将)

第80軍団(司令官フランツ・バイヤー大将) 第212国民擲弾兵師団 第276国民擲弾兵師団

第85軍団(司令官バプティスト・クニース大将) 第5降下猟兵師団、第352国民擲弾兵師団


兵力

約20万名。稼動戦車757両。


アメリカ軍編集

連合国遠征軍最高司令部(司令官ドワイト・アイゼンハワー大将)

ドワイト・D・アイゼンアワー

第12軍集団(司令官オマール・ブラッドレー大将)

第1軍(司令官コートニー・ホッジス中将)

第5軍団(司令官レオナルド・ジロー少将) 第1歩兵師団(16日に第7軍団より配置換え)、第2歩兵師団、第99歩兵師団、第78歩兵師団

第8軍団(司令官トロイ・ミドルトン少将) 第9機甲師団、第4歩兵師団、第28歩兵師団、第106歩兵師団


兵力

約8万名。稼動戦車440両。


戦い前の状況編集

ドイツ側編集

1944年末のドイツの状況は絶望的であった。

東部戦線ではソ連軍は6月からのバグラチオン作戦でドイツ中央軍集団を壊滅させポーランド東部にまで進出し、クールラントでかっての北方軍集団は孤立し、南ではハンガリーへの侵攻も進んでいた。

イタリア戦線でも着実にドイツ軍は押されており、西部戦線では6月にノルマンディーに上陸した英米連合軍はファレーズでドイツ第7軍を壊滅させて破竹の進撃を続け、その後のマーケット・ガーデン作戦でのオランダからのルール工業地帯への侵攻は阻止し戦線を安定させたものの、ドイツ軍は国境に押し込まれ、ドイツの都市であるアーヘンも占領されていた。

同盟国もフィンランド、ルーマニア、ブルガリアが脱落し、そればかりかドイツに宣戦を布告していた。

だがこのような事態に至ってもドイツ総統アドルフ・ヒトラーは降伏を選択しないばかりか、未だに戦争での勝利を諦めてはいなかった。

反撃場所の案にはドイツ東部の穀倉・工業地帯をソ連軍が脅かす東部戦線があったが、ヒトラーは広大すぎて成功しても敵兵力をある程度削り、僅かに失地回復するのみで決定的な勝利とはならないと却下し、またイタリア戦線は補給が困難で制空権が握られているうえに晴天続く乾季がある為に適さないとし、反撃場所は西部戦線に絞られた。

ヒトラーの見解では西部戦線の英米軍は制空権を握った空軍と物量によって50個師団ほどの小規模な軍隊で勝利を収めているが、未だに英仏海峡・大西洋の港を未だドイツ軍が確保し、アントワープは落ちたがシェルト河口はまだ封鎖している状況ではその補給事情はノルマンディーの人工港と占領した数少ない港からのものだけとなり、その為に進撃で長大となった補給線で補給を維持するのは困難であり、更に敵航空戦力が動けない天候が悪化する時期が到来すればこれまで英米軍を利していた空軍と物量の優位が失われ、そこに少なくとも20個師団以上によって反撃すれば大打撃を与えられると考えた。

そして選ばれた場所は奇しくも四年前のフランス屈服の幕開けとしてドイツ装甲軍団が雪崩れ込んだアルデンヌ地区であり、その折と同様に配置された連合軍兵力は非常に手薄となっており、此処を突破して北上してアントワープを占領してイギリス第21軍集団を孤立させ、アメリカ軍が対応する前に包囲殲滅すれば英米連合国では戦争の優勢を信じていた国民が騙されたとして政府を攻撃する世論が生まれ、講和する機会も生じ、そうなれば東部戦線に全兵力を転用することも可能となるとした。

戦局を一変させる決定的な一撃ともなりえると夢想したのだった。

この作戦は「ラインの守り」と名づけられ10月半ばに西方総軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥とB軍集団司令官ヴァルター・モーデル元帥に参謀を通じて通知されたが、積極果敢なモーデルですら「この作戦という椅子には立つ為の一本の脚すらないではないか」と述べる程で、ルントシュテットに至っては後に「ミューズ河まで辿り着くだけでも跪いて神に感謝するべきだ」と述べ、ルントシュテットはアーヘン周辺のアメリカ軍の包囲殲滅、そしてモーデルはミューズ河前面でアメリカ第1軍を包囲殲滅する現実的な代案を出したが、決定的な勝利を望むヒトラーは認めなかった。

この作戦の為に老人・少年、更には内臓に障害がある為に兵役をこれまで免除されていた者も動員され、また作戦に使用する部隊を戦闘に用いることは禁じられた。だが、多くの作戦参加予定部隊は定員割れを起しているものも多く、また急遽新設された部隊が何処まで役に立つのかは疑問であった。

計画の秘密保持は徹底され、作戦計画は慎重に選ばれた少数の将校に秘密保持誓約の後に通知され、ケルンからボンでのアメリカ軍の攻勢を予想しているとの噂を立て、部隊集結を怪しまれないようにしたり、無線封止は勿論、偵察活動さへもその為に捕虜となった兵士から作戦が漏れることを恐れ11月10日以降は禁止される程であった。

攻勢の為に燃料も集まりつつあったが、運搬できた量では兵站担当官が算出した全軍の1日に必要な消費量から計算すると攻勢を維持できるのは5日間程で不十分であることは明白であり、モーデルは敵の燃料を奪い使用する事や燃料節約を部隊に指示するほどであった。またアメリカ軍の反撃を受けて奪われる事を怖れてライン川東方への燃料集積所配置を主とした為にその分伸びた補給線も前線の燃料不足に輪をかける事となった。

それでもヒトラーの予想を下回るとはいえ、将軍達の予想よりは多い部隊が集結し始めていたが、最初の攻勢期日である11月30日はアーヘン・メッツ方面でのアメリカ軍の攻勢で「ラインの守り」作戦の部隊を後退させるどころか、対処する為に戦線に投入しなければならない状況に延期とされた。

次の予定日の12月10日は準備不足の為に15日に延期となり、最終的には16日と決まった。

攻撃は三個軍からなり、北方の第6SS装甲軍を主攻、中央の第5装甲軍はその助攻とし、南方の第7軍は前述の二個軍の側面を守る役割を与えられていた。


英米側編集

この時期、英米側は勝利を確信しており、連合国遠征軍最高司令官ドワイト・アイゼンハワー大将が第一次世界大戦のミハエル作戦のようにドイツが敗北を認める前に一大攻勢を仕掛けてくる可能性を考えていたぐらいで、将軍達の中にはクリスマスまでに戦争が終わるか否かで賭けをしていた者もいたという。

この為に殆どの者がこれまでの戦闘での損失でドイツ側にはもはや攻勢に出るだけの力は無く、乏しい予備戦力もアーヘン・メッツ方面の防衛の為に割くと考えており、その中間地点で地形が複雑で森が茂り機動戦に不向きなアルデンヌ地区で大規模な攻勢に出ようとしているとは予想していなかった。それどころかこの地区は保養地のように考えられており、第28歩兵師団のように大損害を受けた部隊の戦力回復、もしくは戦争経験の無い師団が経験を積む為の駐屯地となり、最前線とは思えない静寂さから幽霊戦線と呼ばれていた。

またドイツの意図を探る英米連合軍情報部はこの頃にはウルトラによる暗号解読に依存しており、それ以外からの情報はそれを立証の為の補強材料に過ぎないものとなっていた。この為に秘密保持の為に無線を使用せず電話・電報での通信手段をとるドイツの策は功を奏していた。

それでもドイツ軍の攻勢を示す兆候はウルトラでも解読されていたが、それをドイツ軍攻勢に結びつけたものは従来の情報分析をするアメリカ第1軍情報部長兼連合軍最高司令部情報部将校ケネス・ストロング准将とアメリカ第3軍情報部長オスカー・コック大佐ぐらいであり、ストロングはブラッドレー中将にその旨を伝えたものの彼の反応は「奴等に来させよう」という小馬鹿にしたような冷淡なものであったという。

一方、藁を道に敷いて車両の音を消そうとするドイツ軍の努力にもかかわらず、アルデンヌ地区の前線兵士から夜間にドイツ軍陣営から車両が動く音がひっきりなしに聞こえるという情報が入り始めたが、情報部は当初はそれを未経験の兵士の誤認とし、また第18国民擲弾兵師団などから脱走したドイツ軍兵士が何度も延期されているので半信半疑ながらも攻勢があると捕らえた第106歩兵師団、第4歩兵師団の尋問者に証言した事などから7回もドイツ軍襲撃の警報が前線からなされていたにもかかわらずそれも無視していたが、夜間の車両の音については歴戦の第28、第4歩兵師団からも同様の報告が入り(もっとも第28歩兵師団では部隊交代の為の音と考察していた)、更に第28歩兵師団を訪れたベルギー人の女性が森でドイツ軍の大部隊が集結しているのを見たと証言した為にこの女性をスパの第1軍司令部に送る事となったが、その日は既に16日を迎えていた。



経過編集

16日編集

05時30分、雪のアルデンヌで、航空機が活動できない悪天候のなか1300門あまりの砲による準備射撃が行われ、その後に未だ辺りが暗いなかサーチライトの照射を受けてドイツ軍は攻撃を開始した。

ドイツ軍は奇襲に成功し、その報告にヒトラーは狂喜したというが、その成果はドイツ軍を満足させるには程遠かった。


準備射撃は偵察活動が限定されていた事もあり、電話線を切断して連合軍部隊相互の連絡網の妨害(特に砲兵支援要請の妨害など)に成功したものの全体的には効果的なものとはならなかった。


ドイツ側の主攻を担うとされていた第6SS装甲軍の戦区では第67軍団ではモンシャウへの攻撃もヒトラーが美しいこの街を傷つける事を恐れ砲撃を禁止した事から電話線を切断される事もなかったアメリカ軍は砲撃支援も受け、更に様々な事情で第326国民擲弾兵師団の攻撃は一個連隊ほどとなり撃退された。

この攻勢の為に第15軍から転属していた第272国民擲弾兵師団はアメリカ軍第78歩兵師団とのこれまでの戦闘で既に消耗し、もはや攻勢に参加出来る状態ではなかったが、それでもケステルニッヒを奪取すべく攻撃し撃退され、消耗しきった師団は第15軍に戻された。

第1ss装甲軍団では戦車の機動に適さない地形にまずは歩兵師団を投入して突破口を開き、その後に戦車などの機械化部隊による突破を図ったが、第1SS装甲師団の前進路をこじ開ける第12国民擲弾兵師団がロスハイムを陥としたものの、第12SS装甲師団の露払いである第277国民擲弾兵師団共々、夕刻までには予備部隊全てを投入してきたアメリカ第99歩兵師団の新米ながらの頑強な抵抗で迅速な突破に失敗した。

しかし第3降下猟兵師団と隣接する第5装甲軍の第18国民投擲弾兵師団の戦区では、指揮系統の違いから防禦に不利になりやすいアメリカ第5軍団・第8軍団の境界線に位置するアメリカ第14騎兵グループの突破に成功しようとしていた。


その南の第5装甲軍戦区では第6SS装甲軍とは違い、司令官のハッソ・フォン・マントイフェル大将が「10軒の戸を叩けば1軒の戸ぐらいは開くだろう」とばかりに当初から装甲部隊も温存せずに幅広い戦線で投入していた。また砲撃時間をヒトラーに直訴して最初の予定から繰り上げたのもマントイフェル大将であり、長時間の準備射撃は相手に充分な防禦態勢を取らせるだけとして30分間の砲撃に留め、精鋭打撃中隊を砲撃の前から敵主抵抗線に進出させ準備砲撃後に間髪入れず強襲しての突破を図り、ウール河では渡河した第2装甲師団、第26国民擲弾兵師団の兵士達を準備砲撃前から既に敵陣に浸透させていた。

だが、アメリカ第106歩兵師団に対する第66軍団の攻撃は第18国民擲弾兵師団は右翼の前進は順調だったものの、左翼は撃退され、第62国民擲弾兵師団は第116装甲師団の第60装甲擲弾兵連隊の支援を受けての攻撃も参加した第60装甲擲弾兵連隊の部隊は壊滅的打撃を受け撃退されていた。

第58装甲軍団の第116装甲師団はアメリカ第28歩兵師団第112連隊をウール河から後退させたものの、アメリカ軍が占領時に放置したままの竜の歯に妨げられて戦車の支援が充分でなかった事から進撃は捗々しくなく、第560国民擲弾兵師団も身動きが取れない状態であった。

そして第5装甲軍最強の兵力を擁する第47装甲軍団でも戦車にウール河を渡らせる為に工兵がダスブルグで架橋中の為、戦車の支援がない第2装甲師団の装甲擲弾兵はマールナハで撃退され迂回を余儀なくされたうえに第707戦車大隊の反撃で第304装甲擲弾兵連隊長クリスティアン・キュブラー大佐が負傷。第130装甲教導師団の露払いを任された第26国民投擲弾兵師団は苦戦しながらもホージンゲンなどの集落のアメリカ第28師団第110連隊を圧倒はしたものの全体を見ればその頑強な抵抗で前進は微々たるものだったが、夜にダスブルグで架橋に成功した軍団は戦車の投入が可能となり、第2装甲師団では第3装甲連隊第2大隊のⅣ号戦車の支援のもと装甲擲弾兵達がマールナハを陥落させ、クレルヴォ―へと進んでいた。軍団予備であった第130装甲教導師団は地形・道路事情やホージンゲンが未だ陥落していない事から前進に苦労し、第130装甲偵察大隊長ゲルト・フォン・ファロイス中佐率いるフォン・ファロイス戦闘団がなんとかウール河を渡河していた。


更にその南の第7軍戦区では第85軍団の第5降下猟兵師団と第352歩兵師団がアメリカ第28歩兵師団の第110連隊と第109連隊の境界線で戦果をあげ、第5降下猟兵師団が前進したものの、第80軍団は、ドイツ軍の攻勢があるとの情報に戦闘準備して待機していた歴戦のアメリカ第4歩兵師団と新米の第9機甲師団に前途を阻まれて第一日の目標であるエヘテルナッハを占拠出来ずにいた。


奇襲をうけ電話連絡手段を失い孤立した連合軍前線兵士は、皆がたまたま運悪く自分達だけがドイツ軍の限定的な攻撃に晒されたのだろうと考えていた。


17日編集

武装親衛隊 ヨアヒム・パイパー(ヨアヒム・パイパーSS中佐)

第6SS装甲軍戦区では第1SS装甲軍団の第277国民擲弾兵師団が第12SS装甲師団のミュラー戦闘団の支援を受けてクリンケルト方面への攻撃を再開し、第99歩兵師団をクリンケルトに押し込んでいた。その一方で突出していた歴戦のアメリカ第2歩兵師団はようやく第1軍の許可を得てドライボルンへの攻撃を中止して後退し、第2、第99歩兵師団を後退させる為に必要なエルゼンボルン峠周辺のクリンケルト方面を確保し、第12SS装甲師団第12SS駆逐装甲大隊第1中隊長ヘルムート・ツァイナーSS中尉率いるの一部隊が浸透したロッヒェラート、そしてクリンケルトでは戦闘が始まり、特に後者は夜が明けるまでの激戦となっていた。

一方、第12国民擲弾兵師団はヒュニンゲン、ミュリンゲンを陥落させ昨日よりは前進をする事が出来、第1SS装甲師団ではアメリカ第14騎兵グループの戦区を突破し、第1SS装甲擲弾兵連隊長マックス・ハンセンSS大佐率いる戦闘団はレフトでアメリカ第7機甲師団に阻止されたものの、第1SS装甲連隊長ヨアヒム・パイパーSS中佐率いる戦闘団は第3降下猟兵師団第9降下猟兵連隊の支援を受けてホンスフェルトを奪取したのを皮切りにビュリンゲン、リニュービルと快調に進軍を続けて夜にはスタブロー付近にまで進出した。

夜に第12、第277国民擲弾兵師団、第3降下猟兵師団は第1SS装甲軍団から外され、第2SS装甲軍団へ配属される事となった。

また午前の夜のうちにフリードリヒ・フォン・デア・ハイテ大佐による戦線後方に第6SS装甲軍の進撃路を確保する為の空挺降下作戦「シュテッサー」が実施されたが悪天候とパイロット未熟の為に失敗に終わった。


第5装甲軍戦区では第58装甲軍団がウーランで一時阻止されるも昼には橋を占拠したが、戦車の重量に耐ええるものではなく、工兵による補強も半日以上かかる為に第116装甲師団の戦車は当面はダスベルクで渡河する事となり、予備の第116装甲偵察大隊長エーベルハルト・ステファン大尉率いるステファン戦闘団がハイナーシャイトでアメリカ軍を撃破し、クレルヴェ河を渡河し、アッセルボルンに進出、第560国民擲弾兵師団はウーラン、ハイナーシャフトの橋頭堡を広げた。この状況に第28歩兵師団長ノーマン・コータ少将より許可を得た第112連隊長ガスティン・ネルソン大佐は後退するも、その後は友軍との連絡を断たれ五里霧中となり、19日に連隊はサン・ヴィット防衛線に組み込まれた。

第47装甲軍団ではマールナハ救援の為のアメリカ第28歩兵師団第110連隊の反撃を第2装甲師団は粉砕。更に第3装甲連隊第2大隊を纏めてクレルヴォー攻略に投入し、夜にはクララバリス・ホテルにあった第110連隊戦闘指揮所を占拠し、ミドルトン第8軍団司令官の死守命令で部隊の後退を許されず柔軟な防衛戦が出来なかった連隊長のハーレー・フラー大佐と幕僚は脱出したものの二日後にはドイツ軍の捕虜となった。それでも猶、クレルヴォ―では古城の連隊本部中隊が抵抗を続けていたが相手の進撃を阻めるものではなく、戦線突破を果たした第2装甲師団はクレルヴォーに拘るなとの命を受け西進を続けた。

また第130装甲教導師団も第26国民擲弾兵師団がクレルヴェ河にかかるドラウフェルトの橋を占拠し、ワイラーなどを占拠した事で、コンストゥムで阻止された第901戦闘団以外はクレルヴェ河を越えてエルエルヴィング、エシュワイラーに進出していた。

第66軍団はシェネー・アイフェルでアメリカ第106歩兵師団の二個連隊を包囲する事に成功した。一方、これらを救うべく派遣されたアメリカ第7機甲師団がサン・ヴィットに到着していた。


第7軍戦区では第80軍団の第276国民擲弾兵師団は劣悪な装備ながらも戦線に浸透し、第9機甲師団の反撃を粉砕していたが、支援火器を得る事無く前進は捗々しくなかった。


一方、連合国遠征軍最高司令部では今回の攻撃が限定的なものではなく、それ以上の目的を持った大規模なものと判断し、最高司令部唯一の予備である第18空挺軍団の第82、第101空挺師団、第17空挺師団を含む予備部隊をアルデンヌに派遣する事に決定して素早く対応し、ヒトラーの予測を覆していた。

当初、フランスで戦力回復の為に休養中であった第82、第101空挺師団は纏めてバストーニュ方面に派遣される予定であったが、北方でのパイパー戦闘団の急進撃を受け、第82空挺師団はそちらに派遣される事となった。


18日編集

アルデンヌ攻勢サン・ヴィット(左はハンセン戦闘団兵士。右は現在ではパイパー似のSS伍長と言われる。)

第6SS装甲軍戦区ではクリンケルトとロッヒェラートを巡りアメリカ第2、99歩兵師団と第1SS装甲軍団の第12SS装甲師団と第2SS装甲軍団となった第277国民擲弾兵師団が依然として激闘を続けたが、アメリカ側には戦車に対抗すべく第741戦車大隊、第644駆逐戦車大隊なども配備され、戦車・対戦車砲、バズーカによりドイツ側は新たに投入された第12SS装甲連隊第1大隊のパンター装備の第1、第3中隊が大損害を受け、第3中隊長クルト・ブレ―デルSS大尉が戦死する事態となり両村を陥落させる事は出来なかった。

夕刻には第5軍団司令官ジロー少将は第99歩兵師団を第2歩兵師団の指揮下に置いた。そして夜遅くには第99歩兵師団の組織的な形を成して留まっていた最後の部隊がエルゼンボルンへと後退していた。

第1SS装甲軍団のパイパー戦闘団はスタブローを占拠し、トロワ・ポンを目指すがアンブレーブ河とサルム河の橋を爆破され占拠できず、その後も橋の爆破に妨害されながらもラ・グレースとストゥーモンの中間点の森まで進出した。また第1SS装甲偵察大隊長グスタフ・クニッテルSS少佐の戦闘団も増強に派遣されてきた。その一方でスタブローではアメリカ軍の反撃が始まっていた。


第5装甲軍戦区の第47装甲軍団では第26国民擲弾兵師団がミュンスハウゼン、コンストゥムを陥落させ、ホージンゲンは降伏、クレルヴォーでは第2装甲師団が最後まで抵抗した古城を陥落させて完全に占拠し、ようやく頑強な抵抗を続けていたアメリカ第28歩兵師団第110連隊を壊滅させていた。一方、突破を果たして前進する第2装甲師団先鋒は道路封鎖のアメリカ第9機甲師団R戦闘団(ローズ隊、ハーパー隊)を次々と撃破してバストーニュに近づきつつあったが、ロンビリーを目指さずに北進し、無防備に近いバストーニュ攻略の機会を逃す事となった。また第8軍団最後の予備である第44工兵大隊が守るウィルツを最初に装甲教導師団のフォン・ファロイス戦闘団が、その後は進撃してきた第26国民擲弾兵師団が攻撃を加えていた。

予想だにしなかったドイツ軍の攻勢を受け、敗走するアメリカ軍の中には精神的に打ちのめされた者も見られたと言う。

だが、午後にはバストーニュにアメリカ第10機甲師団B戦闘部隊、深夜には第101空挺師団が到着していた。

サン・ヴィットではハンセン戦闘団の攻撃で第7機甲師団はレフトとポトーを失ったが反撃してポトーを奪還した。


第7軍戦区では第85軍団ではアメリカ第28歩兵師団第109連隊がディーキルヒに後退した間隙を突いて第5降下猟兵師団がウィルツに前進していた。

第80軍団では、第276国民擲弾兵師団長クルト・メーリンク少将が戦死を遂げ(ヒューゴー・デンプヴォルフ大佐に師団指揮権を渡す直前。既に師団長職を解かれていたと言われる。また友軍の誤射による戦死説もあり)たが第9機甲師団のドイツ軍を過小評価しての反撃を食い止め、第212国民擲弾兵師団も第10機甲師団のこれもドイツ軍兵力を過小評価しての反撃を阻止していた。


19日編集

第6SS装甲軍戦区では第1SS装甲軍団のパイパー戦闘団はストゥーモンを攻略したもののその進撃はアメリカ第740戦車大隊・第30歩兵師団第119連隊により遂に阻止された。またスタブローも第30歩兵師団第117連隊に占拠され、その奪還の為に新たに派遣された第2SS装甲擲弾兵連隊長ルドルフ・サンディッヒSS大佐の戦闘団とクニッテル戦闘団が攻撃するも阻止され、ラ・グレースのパイパー戦闘団は孤立する事となった。

また第2SS装甲軍団の戦区では、第99歩兵師団の後退をこれまで援護してきた第2歩兵師団が任務を終え、クリンケルトとロッヒュラート、ヴィルッツフェルトから後退をはじめエルゼンボルン峠の優位な位置に布陣し、アメリカ軍は防禦ラインを整理することに成功していた。

ヘッペンバッハからヘーレスバッハに至る道は一本しかなく道路状況も劣悪である事から第2SS軍団はビュリュンゲンからマルメディに至る道路を確保すべく第12SS装甲師団(第9SS装甲師団と交換で第2SS装甲軍団所属となった)によるビュットゲンバッハの攻撃を始め、その為にクリンケルトとロッヒュラートから呼び戻された師団の第12SS装甲連隊を中核として新たなるキュールマン戦闘団に再編していた。


第5装甲軍戦区では第116装甲師団がウーファリーズを占領し、ウールト川の橋は爆破されていたもののベイリー橋はまだ無傷でありこれの占拠を図るも、行動を起せば破壊されると予測したクリューガー大将の命で第58軍団はウーファリーズへ引き上げてのちに西進せよと命じられ、速やかに西進する機会を逃していた。

第66軍団では第18国民投擲弾兵師団が包囲したシェネー・アイフェルのアメリカ第106歩兵師団の二個連隊が降伏した。

第47装甲軍団では第2装甲師団はバストーニュ北方のアメリカ第10機甲師団B戦闘団(デソブリー隊)とその増援の第101空挺師団第506空挺連隊第1大隊の部隊が守備するノービル攻略にかかっており、一方、アメリカ軍の後退する車両で交通渋滞を起こしていたロンビリーではネッフェを陥落させた装甲教導師団と第26国民擲弾兵師団が第2装甲師団の一部と共に猛砲撃を行い第9機甲師団R戦闘団と第10機甲師団B戦闘部隊(チェリー隊)などの多数の車両を撃破した。また装甲教導師団はアメリカ第101空挺師団第506空挺連隊第3大隊を撃破しワルダンを占拠した。

サン・ヴィット方面では第2SS装甲軍団から第1SS装甲軍団に配置換えとなった第9SS装甲師団も攻撃に加わった。また第66軍団の第62国民擲弾兵師団はロメルスワイラーを占領して第18国民擲弾兵師団と連絡をつけサン・ヴィット攻略の準備を着々と進めていた。


第7軍戦区では第85軍団の第5降下猟兵師団が第26国民擲弾兵師団と共にウィルツを陥落させ、第352国民擲弾兵師団は師団長エーリヒ・シュミット大佐も負傷する激戦を行いながらディーキルヒ攻略にかかっていた。


20日編集

バーナード・ロー・モントゴメリー(イギリス第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー元帥)

第6SS装甲軍戦区の第2SS装甲軍団では新たに加わった第3装甲擲弾兵師団と第277国民擲弾兵師団がエルゼンボルン峠に新たに構築されたアメリカ第9、第99、第2歩兵師団の防衛ラインにこの日以降何度か攻勢をかけるも失敗。第12SS装甲師団、第12国民擲弾兵師団とアメリカ軍第1歩兵師団によるビュットゲンバッハ村の広い農場であるドン・ビュットゲンバッハを中心とする戦闘もアメリカ軍によるエルゼンボルン峠からの濃密な支援砲撃で歩兵が四散し撃退された。

一方、第1SS装甲軍団では、ストゥーモンとラ・グレースのパイパー戦闘団にアメリカ第3機甲師団B戦闘団の攻撃が始まり、スタブローを巡る戦いも補給路の橋を爆破されたドイツ側は後退した。


第5装甲軍戦区では第58装甲軍団はラ・ロッシュ方面は戦車での行動は不可能と見て、ドシャン攻略に切り替えた。その折にサムレーも占領したが此処は第7機甲師団の主補給所であり、燃料が欠乏していた第116装甲師団は一息つくことが出来、その勢いでドシャンを占拠し、第16装甲連隊長ヨハンネス・バイエル大佐率いるバイエル戦闘団はオットンとソイの中間地点に進出した。

第47装甲軍団では第2装甲師団が多大な損失を受けて48時間を浪費したうえ、デソブリー隊と第506空挺連隊第1大隊のバストーニュへの撤退を許したもののこれに壊滅的な損害を与えてノービルを占領し、バストーニュに構わず西進を続けた。そして先日、第116装甲師団が逃したベイリー橋に達し、その守備が強力と見るや一旦後退して態勢を立て直し夜に本格的な攻撃を開始しこれを奪取した。装甲教導師団はマルビー奪取に失敗した為にリュトルボワを占領してバストーニュとアルロンの連絡線を断ち、第26国民擲弾兵師団はアセノワ方面を占領しバストーニュは包囲された。

サン・ヴィット方面では総統護衛旅団も戦闘に参加した。またこの日に連合国側の指揮系統が整理され、北部戦線のアメリカ軍はイギリス第21軍集団の、南部戦線はアメリカ第12軍集団の指揮下となりアメリカ第1軍所属だった第8軍団は第3軍の所属となった。


第7軍戦区では第85軍団の第352国民擲弾兵師団が昨夜のうちにアメリカ軍が後退したディーキルヒを占領した。第80軍団では第276国民擲弾兵師団がワルトビリングを占領、第212国民擲弾兵師団は漸くエヘテルナッハを占領したが、両師団とももはやそれ以上は前進することは出来なくなっていた。


21日編集

第6SS装甲軍戦区では再び第2SS装甲軍団の第12SS装甲師団と第12国民擲弾兵師団によるビュットゲンバッハへの攻撃が行われ、第12SS装甲師団は第12SS装甲連隊第1大隊のⅣ号戦車装備の2個中隊のみならず、大損害を受けたパンター配備第1、第3中隊も第1中隊に纏め、稼働戦車全てを投入する並々ならぬ決意で攻撃を行うが、アメリカ軍の猛烈な支援砲撃で歩兵が戦車に追随できず、アメリカ軍を圧倒こそしたものの歩兵の支援の無い戦車では限界があり、対戦車砲・バズーカの好餌となり、第1中隊長ヴァルター・エリック・ヒルズSS大尉が戦死するなど大損害を受けて攻略は失敗した。

第1SS装甲軍団では、パイパー戦闘団は戦線を整理する為にストゥーモンとシャヌーの部隊をラ・グレースに後退させていた。その一方でアメリカ第82空挺師団第504空挺連隊がジェヌーを奪取し、パイパー戦闘団の包囲網を狭めていた。

戦闘団救出を図る第1SS装甲師団はアンプレーヴ川の橋を戦車の自重で潰した後は渡河の為に架橋してトロワ・ポンへの進出を図るもアメリカ軍の砲撃で失敗しザムル川に架かるトロワ・ポンの橋もアメリカ第82空挺師団に爆破された。


第5装甲軍戦区では第58装甲軍団は第560国民擲弾兵師団がラ・ロッシュを占領して橋を確保したもののオットン占拠をはかるバイエル戦闘団の攻撃は午後にはアメリカ軍の反撃で頓挫し、アメリカ第3機甲師団R戦闘団のサムレー奪還を第560国民擲弾兵師団が阻止するも、第156装甲擲弾兵連隊からの援軍を得ての夕方のバイエル戦闘団のオットンへの再攻撃はアメリカ軍の支援砲撃の激しさもあり阻止されていた。

第47装甲軍団では第2装甲師団が燃料不足によりテンタヴィル付近で補給を一日待って貴重な時間を潰し、バストーニュ方面では装甲教導師団は隷下の第901装甲擲弾兵連隊をバストーニュ攻略を進める第26国民擲弾兵師団に支援の為に配置換えとし、残りの部隊で西進を図っていた。

第66軍団はサン・ヴィットに総攻撃をかけ、守備隊を後退させ占拠する事に成功した。


第7軍では第5降下猟兵師団がマルトランジュに到着し、またバストーニュ方面ではシブレを陥落させていた。


22日編集

第6SS装甲軍戦区では第1SS装甲軍団のパイパー戦闘団は未だにラ・グレースを保持していたが燃料・弾薬を使い果たし、空中からの補給も戦闘団に落下したのは一割余りでその程度の補給では焼け石に水であった。ブティ・スペーではハンセン戦闘団がアメリカ軍部隊と後方の連絡線を断つ事に成功したが、ラ・グレースに近づく事は出来なかった。

第2SS装甲軍団では再び第12SS装甲師団と第12国民擲弾兵師団によりビュットゲンバッハへの攻撃が行われたが、例によって濃密なアメリカ軍の支援砲火のなか激戦の末にドイツ軍は第12SS装甲連隊第1大隊長ダーノルト・ユルゲンセン少佐が重傷を負い(後日死亡)、昨日と合わせると44両の戦車喪失とアメリカ側に記録される程の多くの犠牲を出して撃退され、突破の道は閉ざされた。

この後、第12、第277国民擲弾兵師団、第3降下猟兵師団は第2SS装甲軍団から第67軍団の所属としてこの戦区の担当となり、第2SS装甲軍団は第6SS装甲軍の左翼へと移動することなる。


第5装甲軍戦区では第58装甲軍団の第116装甲師団にウールト川西岸からマルシェへの突破を図る為に移動するよに命令が下された。あとを託される事となる第560国民擲弾兵師団はドシャンへのアメリカ第3機甲師団の攻撃を撃退していた。

第47装甲軍団ではバストーニュ攻略にあたるのは今や第26国民擲弾兵師団のみで、包囲されている側よりも劣勢となった包囲部隊の窮状を隠す為か、バストーニュのアメリカ軍に対して降伏勧告がなされたがアメリカ第101空挺師団長代理のアンソニー・マッコーリフ准将は「ナッツ(馬鹿たれ)」と返答して兵士達の士気を高めた。

その一方で西進する装甲教導師団はサン・ユベールを、第2装甲師団は燃料不足で遅れ気味ではあったがアルジモンを占拠した。

サン・ヴィット方面では第2SS装甲師団も姿を見せ、その状況に守備隊の撤退が承認されたが、殿の第9機甲師団B戦闘団が戦闘に巻き込まれたためにこの日は撤退する事が出来なかった。


23日編集

バルジの結末(破棄されたケーニヒスティーガー)

第6SS装甲軍戦区では第12SS装甲師団が再編の為に後退し、再び第9SS装甲師団を麾下に復帰させたヴィルヘルム・ビットリヒSS中将の第2SS装甲軍団がパイパー戦闘団を包囲され衝撃力を喪失した第1SS装甲軍団に代わり第6SS装甲軍の攻撃の主力となった。第2SS装甲師団は第82空挺師団と第3機甲師団との境界線に楔を打ち込むことに成功していた。

ラ・グレースでは圧迫されたパイパー戦闘団のパイパー中佐は第1SS装甲軍団に撤退の許可を求めたが、軍団司令部は重火器所持の撤退に拘り、パイパーは無線機を破壊し夜になってからの撤退を決意する。

一方、パイパー戦闘団と連絡をつけるべく第3機甲師団B戦闘団と激闘を演じたハンセン戦闘団も再び占拠地をアメリカ軍に奪取され、橋も爆破され万策尽きようとしていた。


第5装甲軍戦区では第58装甲軍団では第116装甲師団が第560国民擲弾兵師団に後を託して前進し、ヴェルダンヌ付近で遅くにアメリカ第84歩兵師団の部隊を撃破していた。

第47装甲軍団ではアメリカ第84歩兵師団が固めるマルシェ攻略を第2装甲師団は単独では無理として第116装甲師団との協同攻略を図りながらも、第2装甲偵察大隊を中核としたフォン・べーム戦闘団を送り込みミューズ河まで7㎞の地点にまで進出し、更に第304装甲擲弾兵連隊長代理エルンスト・フォン・コヒェンハウゼン中佐の戦闘団がその増援として出されていた。

バストーニュでは晴天となったのを利用してアメリカは空軍を投入して救援物資を投下し、護衛の戦闘機はドイツ軍を銃撃した。第39擲弾兵連隊がフラミエルジュを突破し、第902装甲擲弾兵連隊はマルビーを攻撃し食い込んだものの防衛ラインは未だ強固だった。

サン・ヴィットではアメリカ軍の後退が行われ、次の日の朝までに全部隊が後退し、損失もジョーンズ任務部隊が大損害を受けた以外は軽微な損失ですんでいた。


第7軍戦区では第85軍団の第352国民擲弾兵師団がブラッツを奪取したが進撃はそこまでであり、以後はアメリカ第3軍に備えて防禦態勢に移行する事となる。

その頃、バストーニュ救出を目指すアメリカ第3軍の第4機甲師団B戦闘団は準備爆撃・砲撃の後に第5降下猟兵師団が守るショーモンを攻撃するも降下猟兵師団の突撃砲の逆襲を受け撃退され、A戦闘部隊はワールナハで第5降下猟兵師団と激戦を繰り広げていた。


24日編集

エルンスト・バルクマン(マンエーで戦功を上げたエルンスト・バルクマンSS上級軍曹)

第6SS装甲軍戦区ではラ・グレースのパイパー中佐が重火器、負傷者、捕虜を置いて千名以下のパイパー戦闘団の兵を率いて02時頃に徒歩で脱出を開始し、敵との遭遇や橋が爆破されていたなどのアクシデントを経ながらも第1SS装甲師団と合流する事に成功した。

この為に目的が消えたハンセン戦闘団も午後に後退を始めた。

第2SS装甲軍団はマンエー攻略を目指したが、偶然にもイギリス第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー元帥は戦線整理の為に更に部隊の後退を命じており、その為にマンエーの部隊も後退準備にかかっていたところを第2SS装甲師団の攻撃を受けパニックのうちに敗走しマンエーは陥落した。


第5装甲軍戦区では第58装甲軍団の第116装甲師団がヴェルダンヌを陥落させた。

第47装甲軍団ではアメリカ第2機甲師団によりビュイッソンビル、ユマンが占領され、補給が欠乏した第2装甲師団前衛を本隊から分断した。

装甲教導師団はロシュフォールを占拠したが、損失が酷く後退したアメリカ第84歩兵師団の部隊を追撃は出来なかった。

バストーニュ方面では第26国民擲弾兵師団に増援として与えられたのは第15装甲擲弾兵師団の第115装甲擲弾兵連隊長ヴォルフガング・マウケ大佐率いる戦闘団だけに過ぎなかった。だが、それを加え25日の攻撃が計画されていた。


アメリカ第4機甲師団A戦闘部隊はワールナハを陥落させ、更に師団は予備のR戦闘団も投入した。


25日編集

第6SS装甲軍戦区では第2SS装甲軍団の第9SS装甲師団がアルブルファンテーヌを陥落させ、第2SS装甲師団はグランメニルを占拠し更に進軍したがアメリカ第75歩兵師団の部隊により阻止された。またマンエーへのアメリカ第7機甲部隊などによる攻撃が行われたが撃退した。


第5装甲軍戦区では第58装甲軍団の第116装甲師団に対してアメリカ第84歩兵師団が反撃を開始し、ヴェルダンヌを奪取し、師団の主力たるバイエル戦闘団の一部を包囲する事に成功していた。

第47装甲軍団では第2装甲師団に対してアメリカ第2機甲師団とイギリス第29機甲旅団による総攻撃が始まり、最も進出していたフォン・べーム戦闘団は壊滅した。

装甲教導師団は苦戦する第2装甲師団救援の為にユマンとアヴレンヌを占領するもビュイッソンヴィルは陥せず、またアメリカ第2機甲師団の反撃をアヴレンヌとユマンで受け、アヴレンヌを奪取されたがユマンでは撃退した。だが航空兵力と砲兵の支援を受けた相手に損失も多く、第9装甲師団にあとを託してロシュフォールに後退した。

またバストーニュ方面では03時までには第26国民擲弾兵師団はマウケ戦闘団と共に攻撃を始め、マウケ戦闘団は一時は防衛ラインを突破したものの激しい抵抗を受け甚大な損害を受けて敗退した。


アメリカ第4機甲師団はA戦闘団がティンタンジュを占拠したがオランジュで阻止され、B戦闘団はショーモンをようやく攻略、R戦闘団はルモワビルを占拠したが未だに三部隊ともバストーニュから10㎞以上の地点で手間取っていた。


26日編集

第6SS装甲軍戦区では第2SS装甲師団はエルゼー占領を目標としたが、部隊は第3機甲師団に阻止されたばかりか、逆にアメリカ軍から午後にマンエーとグランメニルで攻撃を受けたが依然として保持していた。しかし右翼側面の第4SS装甲擲弾兵連隊が第82空挺師団の攻撃に圧迫され、その為に先鋒が包囲される危険を生じ始めた為に第2SS装甲師団は両村から撤退した。こうして第2SS装甲軍団の西進の夢は潰えた。


第5装甲軍戦区では第116装甲師団が孤立したバイエル戦闘団を救出すべくアメリカ第84師団と激突を交えていたが解囲はならず、戦闘団には自力での脱出が命じられ、バイエル戦闘団は夜間に脱出に成功した。しかし師団右に展開していた総統護衛旅団がバストーニュ攻撃に転用される事となり、もはや第116装甲師団に前進する力は無く守勢に廻る事となった。また左に展開する第560国民擲弾兵師団も損耗しきっていた。

第47装甲軍団では第2装甲師団が第9装甲師団の応援も得て、孤立したフォン・コヒェンハウゼン戦闘団の救出を図ったが砲兵と航空兵力の支援を受けた相手に包囲網を突き破る事無く消耗し、また包囲内の戦闘団も補給が欠乏しており効果的にその動きに応じる事が出来なかった。第47装甲軍団からは後方から敵に断たれる恐れが出たことから師団に撤退命令が下され、コヒェンハウゼン戦闘団には全ての兵器を破壊しての自力脱出命令が出された。こうして最もミューズ河に近づいたドイツ軍部隊の前進は止まった。

第9装甲師団はユマンを防衛する一方でアヴレンヌ攻略を図ったが阻止され、ユマンも27日にアメリカ軍に占拠される事となり第47装甲軍団の前進も止まった。

そしてバストーニュ方面では第26国民擲弾兵師団の最後の力を振り絞った攻撃が行われたが撃退され、更に第39擲弾兵連隊は第5降下猟兵師団の抵抗を打ち破り11kmを猛進してきたアメリカ第4機甲師団R戦闘団に突破され、バストーニュ守備隊と第4機甲師団は手を繋ぐ事に成功していた。


その後編集

輸送車列(戦いの後のバストーニュ)

もはや作戦が失敗に終わった事は明白であったが、それでもヒトラーは突破が失敗したとしても今度は消耗戦で相手に出血を強いる事を狙いバストーニュ制圧をメインとして、第6SS装甲軍、第15軍から兵力を抽出して第5装甲軍に兵力を送り込み作戦を続行した。

バストーニュにはドイツ側には第1SS、第9SS、第12SS装甲師団、第3装甲擲弾兵師団、第167、第340国民擲弾兵師団、アメリカ側には第6、第11機甲師団、第35、第87歩兵師団、第17空挺師団などが増援として送り込まれ両軍に多大な犠牲を出したが、1945年1月5日までにバストーニュでのドイツ軍の攻勢は潰えた。

12月31日には北アルザスでG軍集団の装甲擲弾兵2個師団、山岳兵1個師団、国民擲弾兵5個師団による牽制攻撃ノルトヴィント作戦がアメリカ第6軍集団の3個歩兵師団に行われ、ある程度の前進を果たして阻止された末に1月25日に作戦は中止となった。

1月12日には東部戦線でソ連軍が冬季攻勢をはじめ、既に8日にラ・ロッシュ北東約10㎞の前線からバストーニュ西方約5㎞の戦線に後退する許可を与えていたヒトラーは東部戦線に部隊を引く抜く為に更に戦線を整理する必要があり、14日にはウーファリーズ東方からロンビリーまでの戦線に後退する事も追認されていた。

1月16日にはウーファリーズ付近で北からのアメリカ第1軍と南からのアメリカ第3軍が連結し、17日にはアメリカ第1軍はイギリス第21軍集団からアメリカ第12軍集団の指揮下に再び戻された。もっともその頃にはドイツ軍の殆どは撤退して包囲を免れていた。

20日にはドイツ第6SS装甲軍に第5装甲軍に任務を引き継ぎ後退するように命令が出され、その後に同軍は東部戦線へと引き抜かれていった。

その間にも19日にはサン・ヴィット、ディーキルヒが陥落し、23日にはウールー河は渡河され、25日にはクレルヴォーが陥落、2月7日までに損耗したドイツ軍部隊は希望に満ちて開始した攻勢発起地点に戻っていた。

ただ連合軍側は当初は突出部の根元の弱体化していたドイツ軍に攻勢をかけてそのまま一気に刈り取るように包囲殲滅を行う事は無く、突出部に対する平押しの消極的な反撃であった事はドイツ軍にとっては幸いであり、幾度かの包囲の危機を免れて主力は後退出来たことは僅かな慰めであった。

こうして多くの犠牲者と共にヒトラーの最後の野望はアルデンヌに潰えたのだった。


ドイツ空軍編集

ヨゼフ・プリラ―(作戦に参加した第26戦闘航空団(JG26)司令ヨーゼフ・プリラー中佐)
Fw 190 D-9 (JV44)(作戦で使用されたFW190D-9)

ドイツ空軍は「ラインの守り」作戦の支援の為に12個航空団、単発戦闘機1770機、双発戦闘機140機、爆撃機55機、ジェット爆撃機40機、地上攻撃機390機、偵察機65機を動員して地上支援にあてる事となった。また攻勢開始日には連合軍飛行場への攻撃が計画され、作戦名は「ボーデンプラッテ」とされた。

戦闘機予備兵力も動員されるこの決定は11月半ばに戦闘機総監アドルフ・ガーランド中将にも知らされた。

連合軍の爆撃にドイツが晒されるなか、爆撃機生産はアラドAr234、ユンカースJu388などに絞り、残りは単発戦闘機を主とする戦闘機生産の合理化で得た大量の戦闘機を温存し、パイロットの育成に努め、其の予備兵力のドイツ空軍としては未曽有の2000機を連合軍爆撃隊迎撃にあて、そのうち400機と100~150名の犠牲を織り込み済みの上で敵爆撃機400~500機を撃墜して連合軍爆撃隊に痛打を与えようとする「デル・グロス・シュラーク」作戦を決行しようとしていたガーランドには、其の作戦の為の戦闘機予備兵力がアルデンヌ攻勢の地上支援に使われようとしている事は寝耳に水であり、補充パイロットへの迎撃速成訓練は地上支援のものではないと反対し、空軍内にも多くの賛同を得たが受け入れられる事は無く、第1戦闘機軍団の戦闘航空団の多くは爆撃隊総監でもある第2戦闘機軍団司令官ディートリヒ・ぺルツ少将の指揮下に移され、ドイツ本土防空に残されたのは第300、第301戦闘航空団のみとなった。

この決定には11月2日に1100機の重爆撃機と873機の護衛戦闘機からなる連合軍爆撃隊を490機で迎撃し40機の重爆(うち26機が戦闘機によるもの)と16機の戦闘機を撃墜したものの、自らは98~120機を失い、70名の戦死者と28名の負傷を出したドイツ空軍に対して不信の念を強めたヒトラーが防空に役にたたないなら、彼にとっては戦局を一変させるかも知れないアルデンヌでの陸軍攻勢の支援に戦闘機を使用した方が良いとの意向が強く影響していたという。

16日の攻勢開始日には悪天候の為に「ボーデンプラッテ」作戦は発動されなかった。

空軍は夜間戦闘の要領で第1、第2夜間戦闘航空団から各3個飛行中隊、第101夜間戦闘航空団から1個飛行中隊のJu88夜間戦闘機を誘導機として各部隊に割り当てて悪天候の中でも陸軍を支援させたが、パイロットの技量低下や悪天候でも出撃させた事もあってか、17日には55名の戦死・行方不明、24名の負傷、18日は21名の戦死・行方不明、12名の負傷者をだしていた。

そして天候が回復した23日は戦死・行方不明63名、負傷35名、24日は戦死・行方不明85名、負傷21名、25日は戦死・行方不明49名、負傷13名、26日は戦死・行方不明9名、負傷1名、27日は戦死・行方不明36名、負傷14名、29日は戦死・行方不明17名、負傷3名、31日は戦死・行方不明37名、負傷12名と損害も急増し、攻勢開始からのパイロットの戦死・行方不明は371名、負傷者は135名にも及んでいた。

そしてこれだけの犠牲を払ったにもかかわらず、全体的にドイツ空軍は多くは地上支援に到達しないうちに連合軍側に迎撃され、鉄道・交通路などを目標とする敵爆撃撃迎撃で精一杯の状況であり、23日にはアメリカ第9空軍に軽・中爆撃機42機の損失を与える事もあったが、アメリカ第8空軍の重爆撃機には護衛に阻まれ与えた損失は少なかった。

この状況下で現場指揮官達には既に破棄されたと認識されていた「ボーデンプラッテ」作戦が発動され、1945年1月1日に行われたほぼ単発戦闘機からなる10個航空団およそ900機によるイギリス第2戦術空軍を主とする連合軍飛行場に対する襲撃は早朝での奇襲となり、殆どが地上にいる状態の連合軍機144機を破壊、62機が修理不能とも、一説では500機程とも言われる戦果を挙げ、連合軍側には既にその力は無いと思われていたドイツ空軍がこのような作戦を遂行した事は驚嘆の念をもって受け止められた。だがドイツ側にとっては第3戦闘航空団によるアイントホーフェンへの攻撃で80機以上のスピットファイアタイフーン戦闘機を破壊・損傷させたものの、他の攻撃は目標の飛行場を発見できなかった、敵の主力が既に飛行場を移動していた、誤情報で有力な敵部隊は存在しなかった等の理由で効果的なものとは言えず、自らは300機あまりもの貴重な機体を失う事となった。

だが機体以上に致命的だったのは人命の損失で、連合軍側の40名の戦死者と145名の負傷者(うちパイロットの戦死・行方不明は13名)に対し、ドイツ側はパイロットに169名の戦死・行方不明者、29名の負傷者、69名の捕虜を出し、その中には航空団司令3名、大隊長6名が含まれていた。

こうしてドイツ空軍が温存してきたなけなしの予備兵力とパイロット、そして備蓄されてきた貴重な燃料は「ラインの守り」作戦で消耗され尽くす事となった。

そして1月14日に700機以上の護衛つきの900機以上の連合軍爆撃機の空襲に対して、189機が迎撃した防空戦で140機以上の戦闘機を失い、107名の戦死者、32名の負傷者を出した戦闘機隊はもはや大規模な作戦行動は出来ない状態となり、ドイツ空軍は止めを刺された形となった。

ドイツ空軍上層部としては天候回復は12月後半、恐らく1月1日と見てあらかじめ計画されていたものではあったが、一週間以上も前に「ラインの守り」作戦は失敗に終わった事は明らかであり、ノルトヴィント作戦の支援の為かも知れないが、既に500名以上のパイロットの損失を出しながらも今更ながらこのような作戦を決行した事には、作戦秘匿の為もあってブリーフィングは直前までなされず殆んどの隊員が作戦の意図を充分に把握しきれないまま出撃した事、作戦秘匿の為に第16高射砲師団を中心とする高射砲隊には極少数にしか高射砲陣地上空を通過する時間が通知されず、悪天候で出撃が遅れた部隊もあった為に発生した同士討ちで一説では80~100機を損失した事などと共に批判に上げられる。

もっともこの損害で一週間ほど上空に連合軍機が見えない状態も続き、そのお陰で撤退するドイツ軍主力の損失を防げたという意見もある。


グライフ作戦編集

オットー・スコルツェニーたまにはアメリカーナ・・・(左はオットー・スコルツェニーSS中佐。右はM10風パンター)

ヒトラーはアメリカ軍に扮してミューズ河の橋を制圧する為のグライフ作戦を立案しオットー・スコルツェニー中佐をその第150SS装甲旅団の指揮官に任じた。

アメリカ軍の戦車、車両、武器、服装などの供出を各部隊に要請したがその数は少なく、中には何を勘違いしたのかソ連軍の物を供出する部隊もあったという。その為に部隊はパンターをアメリカ軍のM10GMC風に偽装させる等の処置を取ることとなった。

また流暢に英語を話せる者も少なく、スコルツェニー自身も英語はあまり上手くはなかったと述懐している。

作戦は旅団が所属する第6SS装甲軍が迅速な突破に失敗して膠着状態となった為に中止となり、旅団の兵士の大部分はアメリカ軍の服を棄てドイツ軍として12月21日~22日とアメリカ第30歩兵師団が守るマルメディー攻略を図ったが撃退され、スコツルツェニーも負傷している。

アメリカ軍の扮装をしたのは少数の斥候部隊であり、道路標識を変える、通信線を分断する、アメリカ軍から情報収集するなどを行い、特にアメリカ第12軍集団と第1軍を結ぶ地下ケーブルを発掘して切断たのは大きな成果であった。

だが真の成果はアメリカ軍に扮した彼等の存在自体であり、捕虜となった彼等の一人が尋問で部隊の目的はパリの連合国遠征軍最高司令部を占領し、アイゼンハワー大将を暗殺する事にあると答えた為にパニックを引き起こした事であった。この為にアイゼンハワー大将は外出を控えるように求められたばかりか過度な護衛が付いた。更に外見が似ているボールドウィン・スミス中佐が囮として用意された。(過度な警備には「諸君は他にもっとやる事があるのではないのかね?」という皮肉に留めたアイゼンハワーも囮の件には激怒したという)

またMP達はこの事態に対処する為にアメリカの地名や野球、漫画などアメリカ人でなければ知らない事を質問して検問し、部隊移動などに余計な時間をかける事となった。(もっともこれを機会に本人と分かっているにもかかわらず普段話しかけられない将軍連中に声をかけようという者もいたという)

この為にブラッドレーはイリノイ州の州都を正確にスプリングフィールドと答えたにもかかわらずMPはシカゴと誤認していた為にひと悶着を起こした。また、この折にサン・ヴィットの第7機甲師団B戦闘団のブルース・クラーク准将がシカゴ・カブスの所属チームを間違えて逮捕されサン・ヴィット防衛に重大な支障を与えたといわれるが、実際は10分程のことだったという。

もっともこのせいで迷惑を被ったのはアメリカ軍だけでなく、スパイ容疑で捕まり軍事裁判後に銃殺された者以外でもスコルツェニー中佐が把握していた以上の数のドイツ兵がグライフ作戦に関わったとして死亡している事から、自国の物に比べ暖かい捕獲したアメリカ軍のコートなどを着用していたり、捕獲したジープに乗っていたドイツ兵がグライフ作戦の兵と誤解されたケースも多くあるのではないかと言われる。


シュテッサー作戦編集

シュテッサー作戦は戦線後方に第6SS装甲軍の進撃路を確保する為、ホーヘーヴェンの道路の打通、オイベン・ヴェルヴィル間の拠点の確保を目的とした空挺作戦であったが、隊長に任じられたフリードリヒ・フォン・デア・ハイテ大佐の元には第2降下猟兵軍団より800名の精鋭が集められるとの事だったが、実際はそのような優秀な人物を部隊が離す筈はなく、集まってきたのは失望する人員ばかりで、結果的に降下経験も無い者が大半だったという。大佐は以前指揮官を務めていた第6降下猟兵連隊を使いたいと要請したが、部隊移動で作戦が露呈するとの理由で却下された。

17日の降下の折は気象庁の予想は実際の風速より小さいものを予想し、それに予想を覆されたパイロットにより隊員の25%はドイツ国内に降下させられ、正しい場所に降下したものは13%未満に過ぎず、当初集まってきたのは25名ほどで後に増えても150名程で偵察活動ぐらいしか出来ず後に少数に分散してドイツ軍前線に向かえと命令し、腕を骨折していた大佐はモンシャウでアメリカ軍の捕虜となっている。

しかしこの作戦は副次効果があり、これがグライフ作戦と結び付けられ多数のアメリカ兵の扮装をしたドイツ兵が降下したとデマが流れ、その探索を命じられた第5機甲師団R戦闘団を迷走させるという効果も生んだ。


結果編集

ドイツ軍は7万名から一説には12万名に及ぶ死傷者を出し、600両とも言われる戦車など多数の重火器、車両を失うと共に今後行われるであろう連合国の攻勢に対して必要であった予備戦力を失うこととなった。

対してアメリカ軍を中心に連合国側は8万名余りの死傷者を出し、700両以上の戦車を喪ったとも言われるが、戦力差を見ればこの損失がどちらに致命的なものとなったかは明らかであり、連合国側は相手が攻勢に出たおかげで苦戦はしたものの相手に十二分に出血を強いて以後の戦闘を楽にすることが出来たばかりか戦争終結を早める事も出来た。

それはもはやドイツ第三帝国を救う手段は失われた事を示していた。

もっともこの戦いはドイツ軍にもう攻勢を行うだけの力は残されていないと考えていた英米連合軍首脳を驚嘆させ、アメリカ側は本土へ大損害を受けた歩兵の補充の為に増援と補充兵を要請し、その中には対日戦に送られる予定であった部隊も含まれており、イギリス首相ウィンストン・チャーチルはソ連書記長ヨゼフ・スターリンに援助を求め、それに応じて1945年1月12日に攻勢を行ったスターリンに大きな貸しを作ってしまうという失策を犯している。


余談編集

●バルジの戦いというがバルジは地名ではなく、膨れるなどの意味であり、ドイツ軍の両翼の第6SS装甲軍と第7軍の前進が芳しくないなか中央の第5装甲軍は快調に前進を続け進出図が中央が膨れているように見えることからバルジの戦いと名づけられたという。


●アメリカ第3軍司令官ジョージ・パットンは当初はこの攻勢をザール地方の自分の部隊の攻勢に対する牽制と考えており、第10機甲師団を第8軍団への援軍として派遣せよとの上司のブラッドレーの命令には渋々従ったものの、それこそドイツ軍の思う壺だと猛反対していたし、予備の第4機甲師団を戦闘配置につかせてこれを取り上げられないようにしていた程だった。

だが、その後に考えを改め、19日のヴェルダンでのアイゼンハワー達との会議ではアイゼンハワーのどのくらいの猶予があれば部隊を北に回せるかの質問に「48時間以内に」と答えた。既に会議の前から彼はその準備を整えていた。


●ヒトラーは連合軍側は迅速に軍が行動する事や、他国の軍との協調活動などは出来ないと見ていたが、実際は17日には第7、第10機甲師団、最高司令部唯一の予備の第18空挺軍団の投入が決定され、イギリス軍とも20日にはイギリス第21軍集団が戦場北側、アメリカ第12軍集団が戦場南側を分担して指揮をとる事が決定され、ヒトラーの予測を裏切った。

もっともこの決定はモントゴメリーの指揮下となったアメリカ側には不満を抱かせ、サン・ヴィット方面からの後退や、消極的な戦いぶり、更には戦後に自分の指揮でこの戦いに勝ったと取れる発言をモントゴメリーがしたことで大いに彼等は不満・抗議の声をあげた。


●アメリカ第106歩兵師団は所属部隊のうち第422、第423連隊のおよそ9000名が12月19日に降伏したが、これは第二次世界大戦では太平洋戦域のフィリピンはバターン半島で降伏した規模に次ぐアメリカ陸軍が体験した大量降伏であった。

勿論、師団長アラン・ジョーンズ少将は突出していた両連隊の事は気にかけており、17日には上官の第8軍団長ミドルトン少将にそれらを後退させることを提案した。ミドルトン少将はその決断を現場の指揮官に委ねた事で後退の許可を与えたものと認識していたが、ジョーンズ少将はその処置を逆に捉え後退命令を出さず、両連隊は包囲されてしまう事となった。

両連隊を包囲したドイツ第18国民擲弾兵師団では、薄い包囲網が何時敵の反撃に晒されるのか不安であったが、相手が戦争未経験からかそういったものが一切無い事に当惑していたという。

因みにこの折に捕虜となったジョン・ウォータース中佐はアメリカ第3軍司令官パットン中将の娘婿であり、後にパットンが彼を捕虜収容所から救出しようという私的な目的で部隊を使用したといわれる(その部隊は壊滅)ハンメルブルク事件の原因ともなった。


●ドイツ軍の包囲と攻撃に持ち堪えたバストーニュは「ナッツ」の言葉と共に有名となった。第8軍団司令官ミドルトン少将は「如何なる犠牲を払っても陣地を堅持せよ」との命令を発し、その為に第28歩兵師団第110連隊長フラー大佐はクレルフ川の橋を爆破してクレルボー西方の高地に後退させてのより有効な防禦を行えず連隊はほぼ全滅し、第9機甲師団R戦闘部隊は分割されて路上封鎖に使用されて八割の損害を出し、増援の第10機甲師団B戦闘部隊は司令官ウィリアム・ロバーツ大佐の不満にかかわらず三分割されて戦線に投入されたが、何れもバストーニュ防衛の為の時間を稼ぐことに貢献した。

だが、一部ではバストーニュを占拠されてもドイツ軍を更に突出させ、味方部隊を温存して後退させて後の反撃時に有効に使うべきであったとの意見もある。


●アルデンヌに駐屯していたアメリカ軍は戦闘でうけた大損害を回復中の部隊と新兵からなる部隊が殆どであった。

  • 第28歩兵師団

フランス戦、ヒュルトゲン森と戦った歴戦の部隊であるが、11月初めのヒュルトゲンの森での戦闘でおよそ6000名の死傷者を出す大損害を受け、11月半ばにアルデンヌに移動し、12月16日までにはほぼ戦力を回復していたが、補充に当てられた戦闘未経験の兵を多く抱えていた。

25両ぐらいの戦車を持つ第707戦車大隊が配属されていた。

  • 第4歩兵師団

ノルマンディー上陸作戦でDデイでユタに上陸しフランス戦を戦った歴戦の部隊だが、11月のヒュルトゲンの森の戦いで5000名ほどの死傷者を出し、12月初めにアルデンヌに移動して戦力回復を図っていたが、補充兵は戦闘未経験のうえ、16日の時点では未だに各連隊で500~600の兵員の不足が見られたという。

M10GMCを装備する第803戦車駆逐大隊、戦車11両の第70戦車大隊を配属されていた。

  • 第99歩兵師団

11月3日にフランスはル・アーブルに到着し、経験を積む為にアルデンヌに送られ、モンシャウ~ロスハイムという20㎞にわたる戦線を任されていた。12月16日の時点で戦闘を経験していたのは第395連隊のみであった。戦車大隊は配属されていなかった。

  • 第106歩兵師団

12月6日にフランスに到着したばかりの戦闘未経験部隊であり、経験を積むためにアルデンヌに送られ、第2歩兵師団からシュネー・アイフェル高地の防御陣を引き継いでいた。戦車大隊は配属されていなかった。

  • 第9機甲師団

実戦経験は無かったが装備は完全に備わり、よく訓練されていた。12月16日の時点ではアルデンヌにあったものの師団は三つの戦闘団に分割されて、それぞれが遠く離れて配備されており、バルジの戦いでは師団として纏まって戦う事は出来なかった。

  • 第2歩兵師団

フランス戦を戦い抜いた歴戦の部隊で、その後はアルデンヌのアイフェル高地で休養し、12月11日に第5軍団の配下としてヴァーレルシャイト十字路攻略の為に移動し13日からの戦闘で1200名ほどの死傷者を出していた。機甲部隊としてはM10GMCを擁する第644戦車駆逐大隊、47両の戦車を擁する第741戦車大隊が配属されていた。ドイツ側が、18日から第99歩兵師団を配下に加えて奮戦する事になる歴戦の当師団がロッヒュラート、クリンケルト方面にいる事を察知していなかった事がバルジの戦いでのドイツ軍敗北の原因の一つとされている。


●アメリカ軍では後述するように巧みに臨時編成されるドイツの戦闘団の影響を受け、機甲師団に1942年に2個、1943年からは3個の戦闘団(コンバット・コマンド)司令部を置き、この司令部には固定の所属部隊を付けず、状況に応じて所属部隊から戦闘団(コンバット・コマンド)を編成するものとした。

もっとも実際は指揮官の階級に応じて配属される部隊が決まっている傾向が強かったと言われる。

機甲師団の兵力は1942年型編成の基幹が2個戦車連隊(6個戦車大隊)、1個機甲歩兵連隊(3個機甲歩兵大隊)、3個機甲砲兵大隊で戦車偏重気味であった事から、1943年編制からは3個戦車大隊、3個機甲歩兵大隊、3個機甲砲兵大隊となり、より各戦闘団による臨時編成を行ないやすくするためか連隊制が廃止され、大隊編成とされた。

しかし戦車兵力の減少が考慮され第2、第3機甲師団は1942年型編成のままとされた。両師団はバルジの戦いにも参加し、特に第3機甲師団はA戦闘団は予備とされたもののB戦闘団はパイパー戦闘団、R戦闘団は第116装甲師団などと交戦し、125両の戦車と1473名の犠牲を出している。


●アメリカ軍空挺師団はバルジの戦いでは第18空挺軍団所属の第82、第101、第17空挺師団の3個師団が参加。第82、第101空挺師団は3個落下傘歩兵連隊、1個グライダー歩兵連隊、2個グライダー野戦砲兵大隊、2個落下傘野戦砲兵大隊を、第17空挺師団は2個落下傘歩兵連隊、2個グライダー歩兵連隊、2個グライダー野戦砲兵大隊を基幹としていた。

歴戦の第82空挺師団と第101空挺師団は前者はパイパー戦闘団を含む第1SS装甲師団と交戦し、後者はバストーニュ包囲戦に貢献した。

第17空挺師団は戦闘未経験の部隊で戦線投入は躊躇されていたが、バルジの戦いの逼迫した状況から戦線投入が決定し、悪天候で飛行機が遅れながらもイギリス本土からフランスに空輸されてシャルルヴィルの防衛の後に包囲解囲後のバルト―ニュ攻防戦にも参加し、そこで大損害を受けている。

また火器類が軽装備のこれら師団には第82空挺師団には第551落下傘歩兵大隊、第101空挺師団には第10機甲師団B戦闘団、第705駆逐戦車大隊、第755野戦砲兵大隊、第17空挺師団には第155空挺高射自動火器大隊が一時配属され増強されている。


●ドイツ軍では度重なる戦闘で補充を受けても作戦開始時に戦力を完全に回復していない部隊も多かった。

攻撃先鋒となった部隊でも以下のようになっていた。

  • 第1SS装甲師団

減少した第1SS装甲連隊のパンター装備の第1大隊、Ⅳ号戦車装備の第2大隊をパンター装備の第1、第2中隊、Ⅳ号戦車装備の第7、第8中隊の4個中隊に再編して第1大隊に統合。ケーニヒスティーガー装備の第501SS重装甲大隊を臨時に第2大隊とした。兵員9割、装備8割の回復と見なされていた。

パンター38両、Ⅳ号戦車34両、ケーニヒスティガー45両、Ⅳ号駆逐戦車22両

  • 第12SS装甲師団

減少した第12SS装甲連隊の第1、第2大隊を第1SS装甲師団と同じように4個中隊に再編して第1大隊に統合。ヤークトパンター装備の第560重駆逐装甲大隊を臨時に第2大隊。第1SS装甲師団と同様に兵員の9割、装備の8割を回復したと見られていたが、同時に未だに実戦投入の状態ではないともされていた。

パンター41両、Ⅳ号戦車42両、Ⅳ号駆逐戦車53両、ヤークトパンター13両

  • 第130装甲教導師団

減少した第130装甲連隊の第1、第2大隊を第2大隊に統合。ヤークトパンター装備の第599重駆逐装甲大隊を臨時に第1大隊にしており8割の回復と見なされていた。装甲擲弾兵は六割ほどの兵員であった。(もっとも先のノルマンディー戦で壊滅したこの部隊は優先的に補充がなされ、またこの作戦の為に温存されていたエリート部隊でもあったが、11月21日にザール地方での戦闘にルントシュテットがそれに反して投入し大損害を受けていた)

パンター29両、Ⅳ号戦車34両、Ⅲ号突撃砲22両、Ⅳ号駆逐戦車30両、ヤークトパンター5両、

  • 第2装甲師団

回復は8割程で、トラックを大量に失ったために輸送力に不足をきたし所属の二個装甲擲弾兵連隊を構成する四個装甲擲弾兵大隊のうちの一個大隊は自転車装備の部隊であった。師団長のマインラート・フォン・ラウヘェルト大佐は作戦開始間際に着任したばかりで、連隊長との顔合わせも充分では無い状態で作戦を迎えていた。

パンター58両(赤外線暗視装置付車体あり)、Ⅳ号戦車28両、Ⅲ号突撃砲28両、Ⅳ号駆逐戦車12両

  • 第116装甲師団

11月にヒュルトゲンの森の戦いに参加し、その後にこの攻勢に備えて再編された。人員、装備はほぼ定数を満たすも、第2装甲師団同様に輸送車両、整備車両の四割を失い、大量のトラック不足で輸送力が不足していた。

パンター45両、Ⅳ号戦車26両、Ⅳ号駆逐戦車25両


●ドイツ軍はこれまでの戦いで用途に応じて所属部隊に囚われないバランスよい臨時編成の戦闘団(カンプグルッペ)を形成してきたが、バルジの戦いでも例外なく編成し、当然、ドイツ軍先鋒装甲師団も同じであった。

全体的に第6SS装甲軍は戦車を一つの戦闘団に集中する方針を、第5装甲軍は戦車を各戦闘団に分散して配備する方針を取ったが、第116装甲師団は後に戦車部隊を集結させたバイエル戦闘団を形成した。

  • 第1SS装甲師団

パイパー戦闘団(指揮官:第1SS装甲連隊長ヨアヒム・パイパー中佐)

第1SS装甲連隊第1大隊、第501SS重装甲大隊(第1SS装甲連隊第2大隊の代わり)、第2SS装甲擲弾兵連隊第3大隊と第2SS装甲擲弾兵連隊の自走砲装備の第13中隊、第1装甲砲兵連隊第2大隊、第1装甲工兵大隊第3中隊、第84対空突撃大隊により構成されていた。

配備戦車はパンター37両、Ⅳ号戦車34両、ケーニヒスティーガー20両とされる。

ハンセン戦闘団(指揮官:第1SS装甲擲弾兵連隊長マックス・ハンセンSS中佐)

第1SS装甲擲弾兵連隊、第1SS駆逐装甲大隊、第1SS装甲砲兵連隊第1大隊、第1装甲工兵大隊の1個工兵中隊で編制。

サンディヒ戦闘団(指揮官:第2SS装甲擲弾兵連隊長ルドルフ・サンディヒSS中佐)

第2SS装甲擲弾兵連隊(第3大隊欠)、第1SS装甲砲兵連隊第3大隊、第1SS対空砲大隊・第1SS装甲工兵大隊の主力により編成。

クニッテル戦闘団(指揮官:第1SS装甲偵察大隊長グスタフ・クニッテルSS少佐)

第1SS装甲偵察大隊に第501SS重装甲大隊より15両のケーニヒスティーゲルを配備されるなど強化されていた。

  • 第12SS装甲師団

キュールマン戦闘団(指揮官:第12SS装甲連隊長ヘルベルト・キュールマンSS少佐)

第12SS装甲連隊第1大隊、第506駆逐重装甲大隊(第1SS装甲連隊第2大隊の代わり)、第26装甲擲弾兵連隊第3大隊、第12SS装甲砲兵連隊第1大隊、1個工兵中隊で編制。

ミュラー戦闘団(指揮官:第25SS装甲擲弾兵連隊長ジークフリート・ミュラーSS少佐)

第25SS装甲擲弾兵連隊(第1大隊欠-モン・リギ附近の森の交差点を確保しフォン・デア・ハイテ隊と連携する為)、第12SS駆逐装甲大隊、第12SS砲兵連隊第2大隊、1個工兵中隊により編成。

クラウゼ戦闘団(指揮官:第26SS装甲擲弾兵連隊長ベルンハルト・クラウゼSS少佐)

第26SS装甲擲弾兵連隊(第3大隊欠)、第12SS砲兵連隊第3大隊、1個ネーベルヴェルファー大隊、第12SS対空砲大隊・第12SS工兵大隊主力により編成。

ブレーマー戦闘団(指揮官:第12SS装甲偵察大隊長ゲルハルト・ブレーマーSS少佐)

第12SS装甲偵察大隊を強化。

  • 第130装甲教導師団

ファロイス戦闘団(指揮官:第130装甲偵察大隊長ゲルト・フォン・ファロイス少佐)

第130装甲偵察大隊、第130装甲連隊第2大隊第8中隊、第130駆逐装甲大隊第3中隊、第130装甲砲兵連隊第2大隊第4中隊、1個工兵中隊で編制。

第901戦闘団(指揮官:第901装甲擲弾兵連隊長パウル・フォン・ハウザー大佐)

第901装甲擲弾兵連隊、第130装甲連隊第2大隊第6中隊、第130装甲砲兵連隊第2大隊(第4中隊欠)により編成。

第902戦闘団(後にフォン・ボンジャー戦闘団)(指揮官:第902装甲擲弾兵連隊長ヨアヒム・フォン・ボンジャー中佐)

第902装甲擲弾兵連隊、第130装甲連隊第2大隊第7中隊、第130装甲砲兵連隊第1大隊により編成。後に第559重駆逐装甲大隊も加わる。

  • 第2装甲師団

フォン・コヒェンハウゼン戦闘団(指揮官:第304装甲擲弾兵連隊長代理エルンスト・フォン・コヒェンハウゼン中佐)

第3装甲連隊第1大隊(2個中隊欠)、第304装甲擲弾兵連隊(第1大隊欠)、第74装甲砲兵連隊第1大隊、第38装甲工兵大隊の1個工兵中隊などから編成された。

グットマン戦闘団(指揮官:第2装甲擲弾兵連隊長ヨアヒム・グットマン大佐)

第2装甲擲弾兵連隊(後に第2大隊欠)、第3装甲連隊第1大隊第1中隊、第38駆逐装甲大隊の1個中隊、第74装甲砲兵連隊第2大隊、第38装甲工兵大隊の1個中隊などから編成。

ホルトマイヤー戦闘団(指揮官:第38駆逐装甲大隊長フリードリヒ・ホルトマイヤー大尉)

第38駆逐装甲大隊、第3装甲連隊第2大隊、第2装甲擲弾兵連隊第2大隊、第304装甲擲弾兵連隊第1大隊、第74装甲砲兵連隊第3大隊などから編成された。(フォン・コヒェンハウゼン戦闘団救出の折に編成)

その他に第2装甲偵察大隊を中核とし、第3装甲連隊第1大隊からパンター装備の1個中隊などで増強されたフォン・ベーム戦闘団が編成された。

  • 第116装甲師団

バイエル戦闘団(指揮官:第16装甲連隊長ヨハンネス・バイエル大佐)

第16装甲連隊、第60装甲擲弾兵連隊の1個大隊、第146装甲砲兵連隊の1個大隊、第645装甲工兵隊大隊の1個中隊により編成。

また他には第156装甲擲弾兵連隊を中核としたグロルマン戦闘団、第60装甲擲弾兵連隊を中核としたツァンダー戦闘団、第116装甲偵察大隊を中核としたステファン戦闘団が編成されている。


●アメリカ側の報告では随所で目撃されているティーガーであるが、バルジの戦いに参加した部隊は第6SS装甲軍直轄の第506重装甲大隊(30両)、戦力強化の為に第1SS装甲師団に一時配備された第501SS装甲大隊(45両)、同様に第9装甲師団に配備された第301無線操縦重装甲大隊(14両)の3個大隊みであり、第501SS重装甲大隊はケーニヒスティーガー、第506重装甲大隊はケーニヒスティーガー、及び同大隊に編入されたフンメル中隊のティーガーⅠ、第301無線操縦重装甲大隊はティーガーⅠを装備していた。

第301無線操縦重装甲大隊は、目標の近くまでは乗員が運転し、乗員の脱出後はティーガーからの無線操縦で爆薬を目標に投棄後に安全圏まで戻らせ、爆薬を起爆させる操縦式爆薬運搬車輌であるボルクヴァルトIVを運用する部隊であるが、バルジの戦いではボルクヴァルトIVは到着していなかった。


●ドイツ軍装甲師団の装甲擲弾兵は国防軍は装甲擲弾兵連隊は2個大隊で編制され、2個装甲擲弾兵連隊4個大隊の構成であったるのに対して、武装SSは装甲擲弾兵連隊は3個大隊で編制され、2個装甲擲弾兵連隊6個大隊の構成であった。もっとも半装軌式の装甲兵員輸送車を配備できたのはどちらも1個大隊のみであった。残りはトラックだがそれも不足から第2装甲師団のように1個大隊は自転車装備のような部隊もあった。


●ドイツ軍の歩兵部隊は人員の枯渇から、師団の数を揃える為に9個大隊編成から6個大隊編成と師団の人員を減らし、突撃銃、軽機関銃の配備割合が高かったものの重火器と重砲などの支援兵器といった武装は不足気味で、攻撃よりは防禦向きの部隊であり定員1万名強の兵士からなる国民擲弾兵師団が1944年7月に国内予備軍司令官に就任したハインリヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者のもと編成された。彼等は装備は劣悪で疲弊した訓練不足の老人、少年からなる部隊も多く、内臓に障害がある為に徴兵を免れていた者も動員された為に、その為に必要な調理メニューや調理道具が彼等には用意されていた。

バルジの戦いに参加した部隊では第276国民擲弾兵師団は練度・戦意共に低く、突撃砲も持たず(20日に4両到着)、パンツァーファウスト頼みの状態で第7軍からはダミー扱いされ、第560国民擲弾兵師団は完全兵力を満たすも22日まで第1129連隊が到着せず、第62国民投擲弾兵師団に至っては自身の砲兵連隊が戦場に到着する事は無かった。また支援機械化兵力として第276国民擲弾兵師団を除く残りの師団には14~4両のヘッツァーからなる突撃砲中隊が配備されていた。だが、この車両は防禦戦闘用であり攻撃向きではないとの説明にもかかわらず、攻撃支援に使用され大損害を受けたという。

尤もそれとは対照的に第26国民擲弾兵師団は6個大隊編成ながらも、大損害を受け再編中の第26歩兵師団の戦闘経験豊かな人員にこの作戦の為に編成中の582国民擲弾兵師団を加えるなどの異例の補充がなされ、大規模な補充大隊と充分な重火器を備えた突撃中隊を擁し、定数を越えた17000名以上の兵を持つ部隊であり、14両からなる第1026突撃砲中隊も優秀とされていた。(17000名は同師団を含む師団の付属部隊をも含む配給兵力で、実際は1万弱との説あり。もっとも付属部隊は小規模で師団長ハインツ・ココット少将も師団の増強を記している事から反論もある)

また12000名弱を有する第12国民擲弾兵師団もアーヘン方面の戦闘で感状を受けた歴戦の部隊であり、攻撃当初は6両のヘッツァーのみであったが後に補充車両を受け、更にブルムベアを擁する第217突撃重装甲大隊を配属されている。

第212国民擲弾兵師団は突撃砲は4両だけで、無線装備も不足していたが、熟練兵が多く、補充兵の質も平均以上であった為にブランデンブルガー第7軍司令官は第7軍最良の部隊と評していた。


●バルジの戦いにはドイツ軍降下猟兵師団は第3降下猟兵師団と第5降下猟兵師団が参加しており、従来の歩兵師団と同じ9個大隊編成で兵力は国民擲弾兵師団より多く、更に第5降下猟兵師団は2個補充大隊も持ち16000名の兵力と突撃砲30両を擁し、重火器も豊富だった。だが第3降下猟兵師団は攻勢開始時には2個連隊だけで第8降下猟兵連隊が到着しておらず、突撃砲中隊も持たなかったが、後にヤークトパンターも含まれる第519重駆逐装甲大隊を配備されていた。そして両降下猟兵師団共々一度壊滅しており、再編された両師団の兵は元空軍地上要員が大部分を占めて陸軍部隊としての訓練は充分では無く、第3降下猟兵師団は師団長ヴァルター・ヴァーデン少将は新任で地上戦闘の知識を欠いており、熟練兵がほとんどおらず師団全体の訓練不足は著しく、第5降下猟兵師団の方は兵士の士気は盛んであったが、師団長ルードヴィヒ・ハイルマン大佐は「四流の部隊」と評していた。


●総統護衛旅団はヒトラー暗殺未遂事件の折に活躍したオットー・レーマー大佐を旅団長とする総統総司令部の護衛部隊を中核として編成された部隊であり、20両の突撃砲からなる駆逐大隊、28両の突撃砲の第200突撃砲大隊、二個大隊からなる一個装甲擲弾兵連隊、自転車装備の司令部護衛たる第828投擲弾兵大隊、30門以上の88㎜高射砲、24門の105㎜高射砲を備えた高射砲大隊を持ち、戦車大隊は23両のⅣ号戦車であったが、これはグロス・ドイッチュラント装甲師団の装甲連隊第1大隊から駆り出されたものであった。

旅団全体での訓練不足の面はあったが、装備・補充兵とも優秀で、第5装甲軍司令官マントイフェル大将はこの部隊をバルジの戦いにおけるドイツ軍最優秀部隊と評していた。

旅団は17日には国防軍最高司令部予備から解除されたが、マントイフェル自身は第5装甲軍が充分に進出してからの戦線投入を望んでいた。

だが燃料不足でさほどの活躍は出来なかった。


●パイパー戦闘団がマルメディーとリヌーヴィルの間で米第285砲兵観測大隊の捕虜80名以上を虐殺した。このニュースにアメリカ側は怒りで戦意を掻き立てられ、中には報復としてドイツ兵捕虜を認めずに射殺した部隊もあったと言われる。戦後、この事件で裁判が行われたが、パイパー達の虐殺命令を立証できず、最終的には死刑判決を受けた者も含め全員が釈放された。(マルメディー虐殺事件

戦闘中の混乱で真相は定かではないが、最初にアメリカ兵を捕虜とした部隊が、ただ武装解除しただけで彼等を放置して前進してしまい、次に遭遇したドイツ軍部隊が、武装解除を掻い潜り未だに武器を所持していた者もいた捕虜達を戦闘部隊と誤認して攻撃したとも言われる。

またマルメディーは連合軍が保持していたにもかかわらずドイツ軍に占領されたとの誤報で空軍の爆撃を受け市民を含む多数の犠牲を出している。


●バストーニュ救出の一番槍となった第4機甲師団R戦闘部隊の第37機甲大隊の指揮官は後にベトナム戦争で大将としてベトナム派遣軍最高司令官となるクレイトン・エイブラムス中佐であった。


●映画「バルジ大作戦」で描かれた為に一般的にも比較的有名な戦いでもある。

また他にも映画「大反撃」、「ジャスティス」などで描かれ、アメリカ第101空挺師団を扱ったTVドラマ「バンド・オブ・ブラザース」の第6話「衛生兵(Bastogne)」第7話「雪原の死闘(The Breaking Point)」でも描かれている。

【落書き】バルジ大作戦【ログ】バルジの戦い

またバルジ大作戦、ジャスティスなどのようにグライフ作戦の偽アメリカ軍は史実以上に強力で活躍をしている傾向にある。


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