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ハインリヒ・ヒムラー

はいんりひひむらー

ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler)とはナチスの政治家。親衛隊全国指導者。
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概要編集

1900年生まれ。


父親は税務官、ギムナジウム(ドイツの中高一貫校)教職員、バイエルン王国王子(ハインリヒ・フォン・バイエルン)の家庭教師という人物であった。「ハインリヒ」の名は、王子が直々に自分の名を与えたもので、当時大変名誉あることとしてみなされていた。


このように、ヒムラー家は王室への忠誠心が厚く、保守的で、庶民としては比較的、裕福な家庭であった。ハインリヒも、恵まれた環境で平穏な少年時代を過ごすが、体は弱く病気がちの少年だった。そのため、学校も休みがちであったが、家庭教師がつけられており、優秀な成績で小学校を卒業している。当時の同級生は、ヒムラーについて「体は弱いが、ひたむきな努力家で、虫一匹殺せないような心優しい少年であった」との証言を残している。そんな彼が、どうして後年、ユダヤ人の虐殺に手を染めるほど、ユダヤ人を憎むようになったのかについては、未だに詳しい経緯が分かっていない。


ギムナジウムに進学後、在学中に第一次世界大戦が勃発。ヒムラーは従軍することを熱望し、父に頼み込んで、歩兵の士官候補生として、学校で訓練を受けるようになった。しかし、訓練が終了する前に、戦争は終わってしまう。ちなみに、彼に名を与えたハインリヒ王子は、この戦争で戦死している。


戦後、ギムナジウムを優秀な成績で卒業した後は、ドイツという国が困窮し始めたため、農場にて働き始める。しかし、体の弱い彼にとって、農場の仕事は合わなかったらしく、寝込んでしまう。結局、療養を兼ねてミュンヘンの大学に進学して農学を専攻した。卒業後は農薬や肥料を取り扱う会社の研究員となった。社会人になったこの辺りから、彼の日記にはユダヤに反発する記述が増えてくる。


革命が起き、左傾化するドイツの状況に反発するかのように、ヒムラーは保守的な政治思想を強めるようになった。ヒムラーは、やがて仕事よりも、政治活動を優先するようになり、バイエルンの保守政党であるバイエルン人民党に入党する事となる。ここでは、後に敵対することになるエルンスト・レームの下で働いた。ヒムラーが反ユダヤ思想に傾倒するようになったのは、この時期から灯されるが、はっきりしない。いずれにせよ、ヒムラーはレームとともに、人民党を離れ、さらに過激な主張をして注目を集めていたナチスに入党する。入党後も、突撃隊の長官となったレームの元で働いていたが、1925年に親衛隊SS)というヒトラーボディーガード部隊に移転し、すぐに全体的な指導者、長官となる。


ヒムラーは親衛隊を党内全体の警察組織とするために親衛隊の人員を拡大させる。さらに、党内や国内の情報をよく仕入れるための情報部を作るため、元海軍で冷酷で謀略に長けた軍人ラインハルト・ハイドリヒを重用した。

隠密な政治活動を上手く行うラインハルトの活躍は親衛隊を、何よりナチスをより良く発展させる一因となりナチスが権力を掌握すると秘密警察・ゲシュタポの長官に任命され、対立関係にあった突撃隊の幹部を斃し、全ドイツ警察長官にも任命される。

そして強制収容所の支配権を手にし、親衛隊に武装親衛隊という戦闘部隊を成立させる。これがホロコーストにつながる。


1939年から第二次世界大戦がはじまるが、1942年に部下のハイドリヒとアドルフ・アイヒマンが「ヴァンゼー会議」という高級の政治家・軍人を集めてユダヤ人の対処を語り合い、方針が決定された。戦争が始まるまでは、ユダヤ人は確かに迫害を受けてはいたが、強制収容まではされていなかった。しかし、この会議以降、ユダヤ人の強制収容が増えていった。


戦争中、ヒムラーは武装親衛隊の増強に力を入れており、ユダヤ人政策については、部下のラインハルト・ハイドリヒに任せることが多かった。ラインハルトがイギリスの暗殺部隊に爆殺された後、ヒムラーは彼が掌握していた警察組織を引き継ぎ、その権力は非常に大きな物となった。


敗北寸前の1945年、ヒトラーの誕生日にベルリンへ赴くが、すぐさまヒトラーの元を離れてしまう。負けて滅びそうなので連合国と和平交渉しようとしていたのである。スウェーデンなどを仲介役に、和平交渉を勧めていたが、アメリカトルーマン大統領が拒否したため、この和平案は消えた。さらに、この和平を求めるヒムラーの行動を、イギリスの放送局が掴み、放映したため、彼の行動はヒトラーも知ることとなった。


これを知ったヒトラーは激怒して彼を全官職から解任して逮捕命令を出したが、警察組織を掌握していたヒムラーを捕まえることは困難であり、結局、この命令が実行されることはなかった。ヒトラー死後、成立した降伏政府・フレンスブルク政府へ返り咲く。


しかし、ヒムラーは連合国でも「ユダヤ人の虐殺者」として有名な存在であり、このため終戦工作において邪魔と考えたフレンスブルク政府は、ヒムラーを放逐した。その後、戦犯として追いかけられる事となる。


最期は一般兵として隠れ、連合軍の検問所を抜ける際に律義に新品の身分証明書を見せたことから怪しまれ捕縛された。ヒムラーであるとバレはしなかったが、イギリスの捕虜の扱いは酷く、このため捕虜としての扱いに我慢できなくなったヒムラーは身分を明かしたが、それでも担当官の態度が変わらなかったことに絶望し、服毒自殺してこの世を去る。


逸話編集

  • 残虐行為に対して全く免疫がなかった。東欧でのユダヤ人処刑現場でフリードリヒ・イェッケルンが考案・実行した「イェッケルン方式(別名イワシ缶方式)」による虐殺を視察した際には余りの凄惨さに卒倒してしまった逸話がある。この方式は指揮官や兵士への精神的な負担が多いとして、ガス室を導入を推進させた。しかし、今度は強制収容所に見学しに行った際にガス処刑も視察したが、被害者達が一斉に苦しみの声を漏らしながら絶命していく姿に耐え切れず嘔吐を催して倒れそうになってしまった。それを見ていた親衛隊員が隠蔽のために最前線へ送られてしまったという。その狼狽ぶりを見た強制収容所の責任者から、処刑は職員にも精神的負担が高過ぎると非難された際、その妥当性を素直に認めたうえで、それでも任務を遂行せねばならないと語ったという。
  • 友人が付けた綽名は「秘密の無いスフィンクス」。
  • ヒトラーは『我が闘争』にて日本蔑視を記述していたが、日独同盟を結ぶと日本礼賛に転び、発言に矛盾が生じた。これを受けてヒムラーは「日本人はアーリア人である」という詭弁を弄し、文化人類学を改変しようとした。
  • これだけの権力を握っていたにも係わらず、蓄財には興味がなく、自らの給与は低く抑え、非常に質素な生活を送った。死後の財産もほどんど残していない。本来なら、数少ない美点と言えるかもしれない。しかしそのために、子供まで産ませた愛人の生活費も工面できなかった事実もあり、微妙なところである。

人物像編集

  • 政治家として非人道的な事をしてきたが、一個人としては思いやりのある好人物であったという。しかし、女性と家族に対しては冷たい態度で接し、離婚したことがある。
  • 貧弱で小柄な体格、東洋人を思わせる顔つきにメガネという小役人風の風貌で、一般的なドイツ軍人のイメージからはかけ離れている(上記のとおり、実際に軍人出身ではないが)。「内向的な小心者で心優しいところもあるが劣等感が強い」という人柄も軍人というより小役人的なものであった。別名「第三帝国ののび太」。
  • その容姿からラヴレンチー・ベリヤ東條英機と比べられることがあるが、似ているのは外見だけで、性格面ではまるで似ていない。
  • ヒトラーの熱狂的な信奉者として知られる。軍人上がりで金髪長身、スポーツマンで個人としても冷徹極まりなく、上司のヒムラーはおろか総統ヒトラーも軽んじていたと言われる部下のハイドリヒとは、よく対照的な存在として扱われる。
  • ナチスがよくオカルトもので絡まされるのは大体こいつのせい。例を挙げればきりがないがガチでオカルトにはまっており、当初はネタ感覚で面白がっていたヒトラーも呆れ、彼のオカルト趣味を軽蔑するようになった。
  • ヒトラー以上に気合の入った菜食主義だった。ヒトラーのそれは、姪の自殺がトラウマになって死体を連想させるものを忌避するようになったためで、肉食文化までは否定しなかった。対してヒムラーは、そのオカルト趣味と動物愛護の観点から、あらゆる肉食を全面否定していた。このため、狩猟好きなゲーリングとの仲は険悪であったという。

関連イラスト編集

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アドルフ・ヒトラーとその側近たち、ハインリヒ・ヒムラー編集

その1編集

その2編集

その3編集


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ヒムラーナチス第三帝国

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