概要
国家保安本部第六局、SD(親衛隊情報部)国外諜報局の局長を務めた人物。
1910年1月16日、当時のドイツ帝国プロイセン王国ライン州ザールブリュッケン生まれ。父親がピアノ製造業者という家庭で、7人いた子供の末っ子だった。
1929年にマールブルク大学に入学するが、1931年にボン大学に移った。大学でははじめ医学を学んだ後法律学に転じ、決闘の学生クラブにも参加していた。
司法修習生として研修中の1933年4月1日にナチスに入党し、同日親衛隊にも入党した。ちなみに入党した理由は「家からの仕送りが不足しており、給付を受けやすくするため」だったという。親衛隊員としても、はじめはパートタイムとして勤務していた。
親衛隊では少年兵の歴史教育を行う職に就いていたが、講義の中で反カトリックの講演をしたことで、カトリック嫌いだったラインハルト・ハイドリヒ(当時SD長官)に注目される。1934年にSDに参加し、1936年12月に司法試験に合格してデュッセルドルフからベルリンのSD本部へ異動。SDのI局(人事・財政部)に勤務した。
1939年9月にハイドリヒを長官とする国家保安本部が創設されると、その傘下のゲシュタポのE部(防諜部)部長に就任する。この頃に国防軍防諜部のヴィルヘルム・カナリスと親しくなったことで、後にハイドリヒとカナリスの仲介役として重宝された。
ハイドリヒとカナリスはハイドリヒが海軍に所属していた頃からの仲で家族ぐるみの付き合いをしていたが、目的の為に手段を選らばなさすぎるハイドリヒの姿勢が原因で互いに親交的に振る舞いながら内心不信感を抱いていたそうで、シェレンベルクが二人の交渉の場から立ち去ると、必ずハイドリヒかカナリスのどちらかが慌てて自分を捜しに来て連れ戻したという。
1942年にはSD(親衛隊情報部)国外諜報局の局長に就任。1944年に情報提供者の寝返りに遭ってヒトラーの信用を失った国防軍防諜部がSD傘下に組み入れられたことで、ドイツの全ての情報機関を統括する。
大戦末期には上官のハインリヒ・ヒムラーにスウェーデンを通じて連合国と講和するように説得し、秘密裏の交渉にまで漕ぎつけるが失敗した。
1945年6月にデンマークで連合軍に逮捕され、ニュルンベルク裁判で禁固6年を言い渡される。服役中は回想録を執筆していたが、肝臓を患い1951年に釈放される。釈放後はスイス、続いてイタリアで暮らし、1952年にイタリア・トリノで癌のため死去した。
回想録の編集補助者によると、晩年はカトリック教会に戻り、毎週ミサにあずかる敬虔なカトリック教徒であったという。
また戦争中期からドイツの敗北は避けられないと悟り、上官のハインリヒ・ヒムラーに講和で事態を解決させるよう急き立てていたと、戦後に執筆した回想録で述べている。
余談
ハイドリヒの妻リナと不倫関係にあったことがあった。
実際どうだったのかは不明だが、本人が述べるところによると二人で散歩したり、ドライブしたり、コーヒーを飲んだりするだけの関係でしかなかった。
リナの方も女遊びが激しい夫に対するささやかな報復程度のものでしかなかったそうである。
しかしハイドリヒはそうは思わなかったらしく、嫉妬に狂った激情の命ずるままにゲシュタポ長官ミュラーと手を組んでシェレンベルクに毒を盛り、解毒剤と引き換えに何があったか話すよう脅迫され、さらに二度とリナとは無断で遊び歩かないことを誓わされたという。