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実際、悪はつねにただ極限的であることはあっても、決して根源的なものではなく、深さもデーモニッシュなものも持ち合わせていないというのが、現在の私の考えです。

悪はまさに表面に広がるカビのように繁茂するからこそ、全世界を荒廃させうるのです。

アドルフ・アイヒマンに関する哲学者ハンナ・アーレントの論評


アドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann、1906年3月19日~1962年6月1日)

概要編集

ドイツ帝国ラインラントのゾーリンゲンで生まれたアイヒマンは1913年にオーストリア=ハンガリー帝国のリンツに引っ越したものの、友人は少なく、実科学校での成績も悪く留年を余儀なくされ、とうとう弟と同じ学年にまで落ちぶれるなど暗い幼少時代を送った。ちなみにこの実科学校はヒトラーがかつて通っていたところであり、奇しくも二人は同じくこの学校を中退して学歴を終えている。


実科学校を退学後もパッとせず、成人後は職を転々とした。この時の彼を例えるならば、何をやっても成功しないのび太くんと言えばわかりやすいだろうか。だが1932年にナチスに入党、ほどなくして親衛隊に所属。


入党後は練兵場で訓練を受けるも、そこでの生活に嫌気が差しSD(親衛隊保安部)に志願。当時はノウハウ不足だったためスパイ未経験のアイヒマンでも異動を認められる。


その後フリーメーソンの調査活動を経てユダヤ人対応に従事。ろくに本を読んだことがなかったアイヒマンだが、資料として渡されたテオドール・ヘルツルの『ユダヤ人国家』にハマり、ユダヤ人をドイツから追放することと、パレスチナにユダヤ人国家を建設することはどちらにとっても好都合であると考えるに至る。

以降アイヒマンはそれまでのさえない人生が嘘のようにヘブライ語イディッシュ語を独学し、ユダヤ人向けの新聞に目を通すことを日課とするなど熱心な職員として頭角を現し、ユダヤ人の専門家として局内で重用されるようになった。その後ユダヤ人の追放やゲットー移住などで業績を上げ、第二次世界大戦の開戦後はユダヤ人移住局に所属。(ただし、あくまでも「知識が有るフリをする」のが上手かっただけで、ヘブライ語・イディッシュ語に関しては全く出来なかった訳ではないにせよ、かなりお粗末なもの、とする説も有る。と言うか、欧米のナチス関係史の専門家の中には、はっきりと「ヘブライ語・イディッシュ語その他ユダヤ関係の知識はお粗末なものだった」と断言する者も居る)

当時フランス領であったマダガスカル島にユダヤ人を移住させるマダガスカル島移住計画(といっても人道的な理由などこれっぽちもなく、マダガスカルでユダヤ人を奴隷化して搾取するのが主眼であった)を構想したが、大量移送が可能な船舶が皆無で、かつ同島周辺の制海権は敵対国のイギリスが握っていたため、非現実的として却下された。それでも移住によるユダヤ人移住計画を唱えるも運は味方せず、ついに、党上層部はユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)を決定する。


当初は罪悪感に苛まれ、党での仕事を続けるか思慮するも、「ヴァンゼー会議」で自分よりも偉い人間がユダヤ人虐殺において討論しているのを見る内に、ユダヤ人虐殺が正しい事であると錯覚。以後はユダヤ人虐殺を推奨し、絶滅収容所への移送で指揮を執り、約600万人を虐殺に追い込んだ。


敗戦後、一時アメリカ軍に拘束されるが脱走し、ドイツ国内で潜伏した後にイタリアからアルゼンチンへ亡命。


その後も同地に潜り続けたが、このころのアイヒマンは往時の緻密さ、勤勉さを失っており低賃金の職を転々としていた。その後ドイツ系住民の紹介で自動車関連の職を得てからはようやく安定し(のちに課長にまで昇進)、家族も呼び寄せたがこれが命取りとなった。1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)により拘束され、イスラエルへ超法規的措置で送られた。1961年から裁判が始まり同年12月に死刑判決が下された。

1962年6月1日に死刑が執行され、遺骨は地中海に散骨された。戦争犯罪人のみ死刑が適用されるイスラエルにおいて、アイヒマンは現在でもたった死刑に処された2人のうちの1人である。


ある意味では時代に翻弄されたとはいえ、何百万ものユダヤ人を絶滅収容所に送り込んだ責任者であり、戦後逃亡したナチス戦犯としてはかなりの大物であったことから、ふてぶてしい悪人か狂信的なナチ信奉者と想像されていた。

しかし裁判中での彼はどこの国でもに居そうな小役人的人物に過ぎず、ひたすら自分の無罪を訴え続ける小物ぶりと、組織の一員(それも管理職)としては極めて有能だったにもかかわらず紋切り型の台詞でしか自分の思想や信念やホロコーストに加担した理由を語れない人間としての薄っぺらさ(現代で喩えるなら、ネットミーム化している画像やキャッチーなパワーワードネットスラングでしか、自分の考えや行動の理由を説明出来ないようなもの)は世界中の人間を戸惑わせた。

まぁ、そもそも、大量のユダヤ人の死は遺憾だが、私は更に上層部の道具であり、ユダヤ人を絶滅収容所に送る命令書にサインしたのは事実だが、私もまた軍人としての服従の誓いに縛られ、どうしようもなかった人道的・道徳的には有罪だろうが、法的には無罪であるというアイヒマンの主張はテンプレ通りの浅薄で凡庸な言い訳と言わざるを得ないだろう


一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない。"アドルフ・アイヒマン"

かつての敵と和解できればと思う。"アドルフ・アイヒマン" エルサレムでの裁判にて

なお、哲学者ハンナ・アーレントによるアイヒマンの裁判の傍聴記録のタイトルは「エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告」である。

※なお、ここで言う「悪の陳腐さ」という表現についての解釈は様々なものがあり「悪の凡庸さ」「悪の陳腐さ」よりも「悪の浅薄さ」と訳すべきだったのではないか?という意見も有る。また、ハンナ・アーレントは「エルサレムのアイヒマン」の前年に出した著書「革命について」で、法律の根拠となりえる正義である「徳」やその反対概念である「罪」と、それを超えたあまりに正し過ぎるが故に逆に「法律と全ての永続的な制度」を破壊しかねない正義である「絶対的潔白」やその反対概念である「根源悪」を区別しており、アイヒマンのやった事は結果こそ重大であったが、法律で対処困難な「絶対悪」「根源悪」「非人間的でデーモニッシュな悪」などではなく、アイヒマンの「悪の陳腐さ」はあくまでも「人間の社会で機能している法や倫理で裁き得る人間的な悪」にすぎない、とする解釈も有る。


そもそも、ナチスにおけるユダヤ人虐殺の方針は「ユダヤ人は労働力としてコキ使おう。ユダヤ人を絶滅させるなら労働力としてコキ使った上での『結果的な絶滅』の方が望ましい」派と「ユダヤ人を積極的に殺していこう」派の2派の間で中々妥協点を見出せなかったのだが、アイヒマンは後者の派閥に属していた。

そして、アイヒマンはナチス上層部の意志を忖度して、ガンガン、積極的にユダヤ人虐殺に関与していった事も明らかになっている。(と言うか、アイヒマン裁判の時点で明らかになっていた)

アイヒマンの「凡庸さ」とは喩えるなら、明らかに自分の意志と考えで綿密な計画を立てた上で連続猟奇殺人をやらかした奴を捕まえて、そんな真似をやった理由を問い詰めてみたら、「犯行理由」が存在したとしても極めて浅薄なモノで、深く考えず、自分がやった事の結果も何も想像せずに、とんだ犯罪をやらかした、という結論を出さざるを得なかったようなモノである。

犯罪に喩えるなら(いや、犯罪的にも程が有る真似を実際にしでかしたのだが)、計画は綿密、結果は大成功かつ残虐無比、動機は余りに浅薄、と言うようなものである。


議論を進めるために、君が大量虐殺の従順な道具となったのはひとえに君の逆境のためだったと仮定してみよう。

その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それ故積極的に支持したという事実は変らない。

というのは、政治は子供の遊び場ではないからだ。

政治において服従と支持は同じものなのだ。

そしてまさに、ユダヤ民族および他のいくつかの国民たちともにこの地球上に生きることを拒む──あたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように──政治を君が支持し実行したからこそ、何人からも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上で生きたいと願うことは期待し得ないと思う。

これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。

ハンナ・アレント「エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」の末尾より


後日談編集

処刑後、アイヒマンはいかなる服従の心理に基づいて動いたのかそれが学者の研究対象となり、役者の演技によって擬似的に作り出された権威の下にどれ程の服従を人間は見せるのかが実験で試され、「アイヒマンテスト」と呼ばれる事に話が繋がって行くことになった。

アイヒマンは裁判において「命令だからしかたなく」と繰り返していたが、逃亡先のアルゼンチンで「ユダヤ人を殺し尽くせたらなぁ」と興奮気味に語る様子がこっそり録音されていたり、虐殺の停止命令を無視してまで自分の身の安全のため(武装親衛隊の予備役に登録されており、必要とあれば前線に送られる可能性があったので、それを回避するため)にユダヤ人狩りを継続するなど、実際は能動的に行っていた。命令以上に過激な行動をするのは、アイヒマンテストでもよく見られる光景だった。


なお、アイヒマンを「陳腐な悪」と評した哲学者ハンナ・アーレントはミルグラム実験などのいわゆる「アイヒマンテスト」をアイヒマンがやった事に結び付けて解釈する事には否定的であり、アイヒマンは自分のやった事に責任を取るべきであり、当然裁かれるべきだとの立場だった。


2016年に開かれた「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」で、アイヒマンが死刑前に当時のイスラエル大統領に宛てられた無罪を求める恩赦請願書が公表された。


ドラ息子クラウス編集

アイヒマンかモサドに見つかった致命的要因を作ったのが息子のクラウス・アイヒマンである。

腑抜けな小役人と語られる父親と違い、かなり濃ゆいキャラの持ち主である。


父の呼び寄せに応じてアルゼンチン移住後、クラウスにもドイツをルーツに持つガールフレンドができた。同じドイツ人であるということで気が緩んだのか、クラウスは彼女の家に招かれた際に自分の父、アドルフがしでかしたことや自身のネオナチ思想を誇らしく語りまくった。


しかし、このへルマン一家はドイツをルーツに持つと言えどナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人だった。この後、彼女の家族がこれを西ドイツ大使館に告げたことでアイヒマン発見の糸口がつかめ、御用へと繋がることになる。


父の逮捕後、クラウスは自分が墓穴を掘ったとは気づかず激怒し、ユダヤ人商店の襲撃やイスラエル大使の暗殺、同大使館の爆破などを計画するが結局不発に終わっている。


その後クラウスはアルゼンチンで極右の新聞を主宰するなどしていたが、妻と離婚した後はドイツに戻りほどなくして死去した。


余談編集

  • 実は、アルゼンチンに居た頃にナチスのシンパによりインタビューを受けている。
    • 実はこれに限らず戦後のアイヒマンには迂闊な行動が色々とあり(職を得る為にアルゼンチンに亡命した元ナチス関係者に身元を明かしてしまう、など)、イスラエルがアイヒマンを見付けるのに何年もかかった事が不思議など、アイヒマン逮捕についてのイスラエル当局の不手際を批判する意見もある。
    • なお、この際のインタビューでは、インタビュアーはアイヒマンより「ナチスは組織的なユダヤ人虐殺などしておらず、ナチスに殺されたユダヤ人が居たとしても、当時の通説より1桁以上少ない、単なるアクシデントによる殺害に過ぎなかった」という証言を引き出そうとしたが……なんと、アイヒマンは空気を読まずに、自分が如何にユダヤ人を組織的・効率的に殺害するシステムを作り上げるのに尽力したか、そして、殺害されたユダヤ人は当時の通説よりも遥かに多い筈だ、正直に言えば、もっと殺したかった、などの事を自慢気に滔々としゃべり続けたのであった。
    • ある意味で、アドルフ・アイヒマンは「相手に話を合せようとするお調子者なのに、決定的に相手の気持ちを読めない」「ウケを狙おうとするのに、その場で何がウケるかを推測するのが下手」という意味でも「凡庸な悪」だったのかも知れない。
  • 近年の日本ではアイヒマンの行動原理と日本の官僚機構における忖度との関連や類似点・相違点に着目する考えもある。(言わば、巨大な官僚機構の一員である人物が「こうすれば上位の者に認めてもらえる筈だ」「上位の者は誰かがこうする事を望んでいる筈だ」と考えて不正や問題が有る選択・行動を行なった場合、果たして、その人物には主体性が有ると言えるのか?など)
    • また、ナチス関係の歴史研究でも「日本の官僚機構における忖度」のような「こうすれば上位の者に認めてもらえる筈だ」「上位の者は誰かがこうする事を望んでいる筈だ」と考えて行動する事がナチスの組織においては重要な役割を果たしたのでは?という説も有る。

関連タグ編集

ドイツ ナチス 親衛隊 ホロコースト

汚濁の御子ゲイビデオ。「今日はアドルフ・アイヒマンが逮捕された日」というセリフが登場する。おそらくは1960年5月11日の身柄拘束を指していると思われる。

北村滋:反権力勢力から「官邸のアイヒマン」と呼ばれる。

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