武装親衛隊
ぶそうしんえいたいわっふぇんえすえす
全盛期の総兵力は約90万人。
ナチス・ドイツの総統であるアドルフ・ヒトラーが、陸軍のクーデターから自らの身を守る為に作った、言わばヒトラーの私兵である。
指揮命令系統も国防省の管轄下にある正規軍のドイツ国防軍ではなく、ナチスという党の直接指揮下にあった。
設立
1933年、ヒトラーの命により「パパ・ゼップ」ことヨーゼフ・ディートリッヒによって創設された親衛隊から選抜されたヒトラーの護衛部隊(後に第1SS装甲師団へと繋がる)に端を発する。1934年、SA(突撃隊)幹部を「クーデターを計画した」として粛清した所謂「長いナイフの夜」を起こし、「内部によるクーデター防止のための武装組織の必要性」を正規軍である国防軍に認識させると、翌年の1935年、パウル・ハウサーによって「親衛隊特務部隊」へと再編された。
ナチズムを武装組織として具現化した存在であり、金髪長身等アーリア人種の条件を満たす者が入隊条件であった。
一部の例外を除いて基本的に志願制であり、国防軍と兵員の取り合いになったため、後に入隊条件は外国人にまで拡大されている。(末期には志願兵だけでなく、強制入隊(徴兵)させられた場合もあった。)
構成
当初は上述のように、出身階層や学歴を考慮せず、見た目と血統を優先して人員を採用していったため、小学校レベルの学校教育しか受けていない士官候補生がいた他、素行が悪かったりする者も多く、ドイツ市民からは「パレードするだけのアスファルト兵士」と小馬鹿にされていた。
しかし、党の理念を体現する存在として、常に優先して最新兵器を与え、採用基準も変え、元陸軍中将であったパウル・ハウサーの尽力によって、正規の陸軍並みの厳しい訓練を施した結果、高い練度を誇る軍事組織として成長していった。
武装親衛隊の一番の目的は、ユダヤ人やナチスのイデオロギー上劣っていると見なされていた人種との武力的闘争であったのだが、上記の通り徐々に入隊条件が拡大(反共主義等)された結果、最終的には隊員の6割近くが外国人という人種の坩堝的な部隊となり、目的と大いに矛盾した組織となった。
この矛盾については公式な整合性がつけられる前に第三帝国が崩壊したため、唯一の指導者や長官殿がどのような理屈で正当化したのかは永遠の謎となった。
もっとも、武装親衛隊の目的は劣等人種の抗争よりは、かつてエルンスト・レームが突撃隊をそうしようと考えていたように国防軍から軍の実権を奪う為のナチス党の組織と言う面も強く、枯渇していく軍隊の補充源を国防軍から奪うのも目的の為の手段ともいえる。
活動
1939年のポーランド侵攻やマジノ線突破において少数部隊ながら大いに奮戦し、彼らが「武装組織」であることを見せ付けた。
1940年12月、晴れて「武装親衛隊」として出発。やがてヒムラーの手によりその勢力は拡大され、陸海空の国防軍に次ぐ「第4の軍隊」として認知されるようになった。
武装親衛隊が「エリート部隊」であるかのように認識されているが、全体的にはそれほどではなかった。なのにそう認識されているのは、極めて政治色が強く、それゆえに装甲師団は戦争後半に陸軍は装甲師団の装甲投擲弾兵連隊が二個大隊編成となっても武装親衛隊は依然として三個大隊編成であるなど装備・人員が優先的に与えられ、それに見合う結果が隊員に要求された。
そのためか敢闘精神旺盛な連中が多く、精強な一握りの「エリート部隊」が超人的といっても過言ではない戦いぶりを示した故である。
ベルリンの戦いの時、最後まで降伏せずに戦ったのは北欧人部隊、フランス人部隊などで、ドイツ人ではなかった。
戦後
戦後、ニュルンベルク裁判において、母体の親衛隊同様、武装親衛隊も犯罪組織として認定され、国防軍の退役者には認められた軍人年金の受給権も剥奪された。
だが、自らの過去を隠し続けた元一般親衛隊員たちとは対照的に、元武装親衛隊の隊員たちは「自分たちは、国防軍と同じく軍人として行動し、祖国のために戦ったのだ」と積極的に主張し、今なお名誉回復を求め続けている。
東部戦線
その義勇兵のみならず、武装親衛隊のほぼ全部隊が、ドイツ帝国に侵略され占領されたすべての国々で、特に民間人に対する様々な規模の戦争犯罪に携わっている。
西欧諸国におけるそういった事件は、一つの現場で100名以上の死者を出すことが稀ではなかったとはいえ、散発的なものに留まっていたが、彼らは東ヨーロッパ諸国家の領内では、特に1941年以降、ソ連において、これまで起こした出来事をはるかに凌駕する規模に膨れ上がった。
これらの殺人に向かった心情は決して、しばしばそう解釈されるように、上層部や責任ある部隊長のイデオロギー的な方針に制限されるものではまったくない。多くの研究は、SS構成員の下級兵士たちが、急進的な目的設定と、その指揮官の命令に喜んで従い、実行していたのみならず、彼ら自身のイニシアティヴがそれを上回っていたことを確証している。
たとえばSS全国指導者に従属していた武装親衛隊の3つの旅団(第1、第2親衛隊旅団、SS騎兵旅団)は、対ソ戦の勃発と同時にもっぱら後方へと投入されており、これらの隊はドイツ占領下のソ連領内における全ユダヤ人老若男女の無差別殺戮へと最終的につながる、行動の急進化に極めて大きく関わっている。
東方における戦争が始まった最初の6か月間で、SS騎兵旅団および第1SS旅団は少なくとも5万7000人のユダヤ人の男性、女性、子供を殺害した。その圧倒的大部分はヘルマン・フェーゲラインの指揮下にあるSS騎兵旅団によるもので、およそ4万人を殺している(※1)。
付け加えて、戦線の背後で大規模なユダヤ人虐殺に着手していたSS師団の野戦軍やSS行動部隊(アインザッツグルッペン)、そして武装親衛隊に属する強制収容所の警備兵の間では、しばしばその人員の交換が行われていた。キーウ郊外のバービイ・ヤールでは武装親衛隊およびSSの行動部隊が1941年9月29日・30日のキーウ入城後、およそ3万3000人を殺害している。
南欧・西部戦線において武装親衛隊の行った虐殺
- フランス侵攻中、SS自動車化歩兵師団(当時)「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」が、1940年5月、北フランスの小村ヴォルムーを占領した。少なくとも45人のイギリス兵の捕虜が「ライプシュタンダルテ」所属者により射殺された(ヴォルムーの虐殺)。
- 1940年5月27日、SS髑髏師団に属する隊が99人のイギリス兵捕虜を射殺した(ルパラディーの虐殺)。
- ノルマンディーへの連合軍上陸後の1944年6月7日、SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」がおよそ100名のカナダ兵捕虜を射殺し、彼らの死体を戦車で踏み潰していった。
- 1944年6月10日のオラドゥールの虐殺(「ダス・ライヒ」の項目で上述)では、第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」に属する中隊が642名の住民を245名の女性と207名の子供を含めて射殺、もしくは家屋の中で生きたまま焼き殺した。
- 1944年8月25日のマイユの虐殺。フランス西部の住民500人ほどの村落マイユで、シャテルロー近郊に配属されていた武装親衛隊の大隊がレジスタンス活動の報復として124人を殺害し、そのうち44人が子供だった(※2)。
- 2004年4月20日、イタリアのラ・スペツィアで武装親衛隊の士官だったゲルハルト・ゾンマー、ルートヴィヒ・ゾンターク、そしてアルフレート・シェーネベルクが1944年8月12日にトスカーナのルッカ近郊、サンタンナ・ディ・スタッツェーマにおける、142人の子供を含む、およそ560名の民間人虐殺の咎で裁判にかけられた。2005年6月、ゾンマーと9名の彼の隊の兵士たちが不在裁判で終身刑の判決が下された。シュトゥットガルト検事局はドイツ国内における告訴を受けて身元を特定した。
- 2004年7月8日、イタリアのラ・スペツィアにおいて、武装親衛隊士官ヘルマン・ランガーに対し、トスカーナのファルネータ修道院において1944年9月2日に60名の民間人が虐殺された事件の裁判が行われた。しかし2004年12月10日、証拠不十分から無罪判決が下されている。
武装親衛隊の戦闘員は戦争の終盤に、多くのドイツ兵および民間人を「国防におけるサボタージュ」もしくは脱走の罪で処刑している。
1942年、武装親衛隊の財源で、アーネンエルベの傘下に「防衛学研究所(Institut für wehrwissenschaftliche Forschung)」が設立された。特にこの研究所の下で、強制収容所の収容者に対する致死的な人体実験が行われた。3000人以上の強制収容所の医師たちの内20人、そして別に3名の責任者が、戦後にニュルンベルクにおいて医者裁判で責任を問われた。2,3の関与した学者は、武装親衛隊の構成員だった。
※1 Vgl. dazu Martin Cüppers: Wegbereiter der Shoah. Die Waffen-SS, der Kommandostab Reichsführer SS und die Judenvernichtung 1939–1945. (Veröffentlichungen der Forschungsstelle Ludwigsburg der Universität Stuttgart, Bd. 4). 2., unveränderte Auflage. Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt 2011, ISBN 978-3-89678-758-3, S. 189–214, hier S. 203 und S. 213. Die Angaben beziehen sich ausschließlich auf getötete Juden, zusätzlich noch ermordete russische Kriegsgefangene und nichtjüdische Zivilisten sind darin nicht enthalten.
※2 Waffen-SS als Verantwortliche des Massakers von Maillé identifiziert. In: Der Standard. 11. Oktober 2008.
目印として二の腕の内側に血液型の刺青をすることが、武装親衛隊の構成員に規則として定められていた。これは連合国に、戦時中、そして戦後に国防軍の所属や民間人であることを装った武装親衛隊員たちを見分けることを容易にした。しばしば武装親衛隊の隊員たちは逮捕される前に別の制服や衣服で偽装していた。
ナショジオチャンネル(National Geographic)のドキュメンタリー番組『The SS:ナチス親衛隊』(原題:Inside The SS)では、「親衛隊」の正確な実態に迫るため、時代背景や元隊員数名へのインタビューを行ったものがあり、出演者全員が顔出しで実名出演をしている。
若き日に受けた「洗脳」が解けぬ者、
二つの視点から親衛隊の実像を浮き彫りにしていく。
「屈辱に負けまいとする反骨心、救済者への憧れと忠誠、激しい復讐心、
優位性への信念から生まれた20世紀の新たな人種差別論」
大人から子どもまで、800万人の巨大政党が生み出した狂気は、
人間の普遍的な感情から生み出され、暴走していったものだと。
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