戦争犯罪
せんそうはんざい
本来、戦争にもルールが存在する。これらは近代法以降に発達した考えであり戦時国際法に定められており、例えば陸戦法規や海戦法規といった交戦法規、非戦闘員及び降伏者および捕獲者の保護、中立国の義務および権利、これらのルールや他の条約等を用いた背信行為の禁止、これらを侵害したものへの処罰が定められている。
また、第一次世界大戦以後、戦争自体が違法とみなされる考えが主流となったこと、また内戦や戦争中の混乱などにより自国内や占領地などで行われるジェノサイドや奴隷化、追放行為などの非人道的行為などを取り締まるため、第二次世界大戦中に、前者を平和に対する罪、後者を人道に対する罪として戦争犯罪とみなすようになった。これにより、この犯罪の性質は国際人道法として扱われるようになっており、平和に対する罪は国際連合の安全保障のシステムとなっている。
現状では、これらの行為を裁く裁判は戦勝国が敗戦国に対し行う事例が多くあり、この場合戦勝国( あるいは団体 )が行ったこの種の行為は見逃される傾向にあること、あるいは休戦となり当事者同士が存続したような場合双方ともに見逃される場合があることが問題となっている。
また、戦争犯罪を裁く国際機関は二つあるが二つとも問題点を抱えている。
まず、戦争を起こした国家を裁くICJ国際司法裁判所だが、こちらは当事国同士が合意しないと裁判を開けない。そして判決の執行には安保理の議決が不可避である為、実質的に常任理事国を裁くことはできない。
そして戦争犯罪を犯した個人を裁くICC国際刑事裁判所は、非加盟国に権限を持たず、独自の捜査機関を持たない為、捜査や執行は各国に一任される。ローマ規定批准国は被疑者の逮捕義務はあるが、批准していない国も多い。
以上の事から、常任理事国かつ国際刑事裁判所非加盟国には何もできないことが問題点となっている。
独ソ戦における犯罪の大部分は通例の戦争犯罪ではなく、ナチ国家は戦時国際法において前提される捕虜の権利の平等をすでに戦前に失効させており、その前段階から、イデオロギー的に不可避の結果であり、正当化されるべきものとして予定・計画・指示されていた。歴史研究はそこから、戦争犯罪も含めて「大規模犯罪(Massenverbrechen)」と呼んでいる(Dieter Pohl: Verfolgung und Massenmord in der NS-Zeit 1933 bis 1945. Darmstadt 2003, S. 36 f.)。
市民に対する大量殺人
クリスティアン・ゲアラッハの主張によれば(Christian Gerlach: Kalkulierte Morde. Die deutsche Wirtschafts- und Vernichtungspolitik in Weißrussland 1941 bis 1944. Hamburg 1999.)、ドイツ国防軍とSS単独で、ベラルーシの一般市民に対する大量殺戮で34万5000人を殺害し、男性は赤色陸軍やパルチザンに参加していたため、その犠牲者の大部分が女性と子供だったという。多くの場合、人間は納屋のような大きな建物の中に駆り集められ、自動小銃や機関銃で射殺された。その後、もし大人数が生き残っていた場合も、建物には火が放たれた。そのようにして、例えばオクチャーブリスキイ(現ベラルーシ、ホメリ州)では、そういった大量虐殺で190人が落命した。続いて、村のすべての家屋が燃やされた。ベラルーシではこのやり方で628の村が完全に破壊され、ウクライナでその数は250に及んだ。
パルチザン戦争
ポーランド、バルカン、ソ連において、ドイツ占領軍は当初から犯罪的な目標を持っていた。「東方総合計画(„Generalplan Ost“)」はスラヴ人口の3000万前後の削減と住民の弾圧を予定していた。ドイツ人たちの措置は野蛮なものとなった。ソ連の占領下の領土における第四学年以上の学校は閉鎖され、ユダヤ人は射殺され、強制労働従事者がドイツ帝国へと移送され、戦時捕虜は非人間的な扱いを受けた。
これらはドイツ占領軍に対する住民の憎悪を増幅した。ソ連、ギリシア、(チトー元帥麾下の)ユーゴスラヴィアでは、部分的には共産主義者、部分的にはナショナリストからなるパルチザン軍が戦闘を行っていた。ポーランド国内軍だけがわずかな国外からの援助を望むことができた。絶え間ないドイツ軍へのゲリラ戦で、パルチザンたちはしばしば勝利した。
パルチザンたちはハーグ陸戦規定における戦闘員として認められず、彼らは戦時捕虜としても扱われなかった。パルチザンの捕虜もしくはパルチザンの嫌疑をかけられたものは処刑された。パルチザンの攻撃の後には、しばしば非戦闘員に対する野蛮な報復、いわゆる「制裁措置(„Sühnemaßnahmen“)」が続いた。終戦の間際には、パルチザンたちはドイツ占領軍からより多くの領土を解放していた。「パルチザン掃討」という口実の下、国防軍の所属者も含めて、好ましからざる個々人がより幅広く抹殺された。
ホロコースト
1941年の春にA、B、C、Dの4つが指定された「アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen、「行動部隊」)」は、緒戦から直接に、ユダヤ人と共産主義者、もしくはそのようにみなされた個々人に対する大量殺人を前線の背後で開始した。彼らはヒトラーへ、彼の命令の下、定期的に報告を行い、ある記述によれば、戦争の最初の年でほとんど100万人を殺害した。国防軍はまた別の行動をとった。いくつかの指揮官は命令を回さず、また別の勢力はSSを積極的に支持した。殺人行動に参加することを拒んだ兵士たちは、通常の場合、処罰を免れても、不利益を甘受せねばならなかった。
国際的に有名なイギリスの歴史家でヒトラーの伝記作者イアン・カーショーは、この戦争の関係を以下のように要約している。
東方の戦争がジェノサイドに行きついたのは偶然ではなかった。「ユダヤ・ボリシェヴィズム」の根絶というイデオロギー上の目標は、意図的に「絶滅戦争」として計画された戦争の中心をなしており、周辺的な要素ではなかったからだ。それは軍事作戦と分かちがたく結びついていた。国防軍の支援を受けて侵攻初期に開始された行動部隊の殺戮によって、対ソ戦がもつジェノサイド的な性格は既に確立していた。それは史上類を見ない全面的なジェノサイドへと急速に発展していくことになる。
1941年の夏と秋の間、ヒトラーは残虐きわまる言葉で、ソ連の撃滅という自身のイデオロギー上の目標を側近たちに語っていた。また同じ時期、総統大本営で長広舌を振るうなかで、いつも乱暴に一般化した話として、ユダヤ人に言及した。この数か月間に(矛盾から生じ、反ユダヤ主義政策には明確さを欠いていたものの)、ナチ占領下の欧州に住むすべてのユダヤ人を殺戮する構想が、具体的な形を取り始めていた。
(イアン・カーショー『ヒトラー 下 1936-1945 天罰』白水社、2016年、福永美和子訳、石田勇治監修、491ページ)
アメリカのホロコースト研究者、クリストファー・ブラウニングによれば「『バルバロッサ作戦』の準備は重大な事件の連鎖となり、殺人的な『絶滅戦争』は、まずソ連で、間もなくすぐに別の、ヨーロッパ・ユダヤ人に対する体系的な大量殺人へつながるものだった」。2010年の国際歴史学者委員会の研究の成果が示しているのは、「1941年6月のソ連奇襲の後、外務省がヨーロッパ・レベルの『ユダヤ人問題』の解決に向けたイニシアティヴ」を執ったことだった。ドイツ軍事史研究局の歴史家ロルフ=ディーター・ミュラーは、「別のホロコースト」から二重の観点で書いている。一つは「バルバロッサ作戦」が最初から征服・絶滅戦争として計画されており、「スラヴ劣等人種(Slawische Untermenschen)」としてのソ連の市民に対して、ユダヤ人に対して与えられたものと類似の運命として降りかかったこと。もう一つはロシア遠征の始まりから、計画的なユダヤ人の殺害自体が犯罪のフォーカスに据えられていたこと。ドイツに占領されている間、ドイツ占領下の当時のソ連領では、約300万人のユダヤ人が惨殺された。
強姦
国防軍
国防兵士による強姦は、2000年の最初まで十分に研究されないままに留まっていた。オメル・バルトフは国防軍の、例えば「大ドイツ」師団、第18装甲師団、もしくは第12歩兵師団の進軍が、それらの兵士たちがロシア人の女性と「兄弟のように交わる(Fraternisierung)」ことを妨げたことを思い出している。ロシア人の女性との交わりは、彼女たちが「人種的に劣悪(rassisch minderwertig)」であり、そこからドイツの兵士たちにとっては「品位を落とす(unwürdig)」交わりとされていたため、禁じられていた。
要はこういう可愛い子を見つけても「絶対に手を出すなよ(被害者の人権云々ではなくイデオロギー的な意味で)」という事である。(とは言え実際は後述の有様であるが…)
部隊は最大の自制心を持つよう指示されていた。それによる性病の蔓延の阻止が目的とされた。エージェントもしくはパルチザン活動の疑いが女性たちにかけられた。強姦を行ったと証明されたドイツ兵たちは、4年から8年の拘留の刑を受けた。
ビルギット・ベックは「乏しい」文献資料の問題を見て取っており、それは明らかに国防軍の「懲戒権をもつ上官(Disziplinarvorgesetzter)」の権限を持つ人間が、時として、「人種イデオロギー的に動機づけられた征服・絶滅戦争の範囲内で、戦争遂行の確固たる構成要素として、住民に屈辱を与えることの一環として位置づけられた性暴力を容赦なく追及し罰すること」に関心を示さなかったことにある。2004年に出版された国防軍兵士の性暴力に関する学術論文で、ベックが指摘しているのは、何よりも1941年5月13日の、ソヴィエト市民に対するドイツ兵の犯罪行為を軍事法廷の「訴追の義務」から遠ざけるという「軍事法廷布告(„Kriegsgerichtsbarkeitserlass“)」に関するもので、それによって性的な不法行為に対する刑事訴追の基盤が破壊され、その把握が広範囲にわたって妨げられたとされる。ドイツ兵によるソヴィエトの女性への強姦は「指示された徴発や略奪に関連した、市民の家屋への宿泊の中で」最も頻繁に行われているとされる。レギーナ・ミュールホイザーは、独ソ戦を取り扱った2010年の学術論文の中で、関連する調査結果を立証し、性暴力で懲罰を受けたか、法的に罰せられた国防軍兵士が最少人数であったことを指摘している。彼女はこの状況を、「軍人らしい強さのあらわれ」とされた支配的な男性の性行動で、またそれゆえに「部隊長および国防軍と親衛隊の指導部は、性暴力行為を黙認していたと思われる」と説明している(レギーナ・ミュールホイザー『戦場の性 独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』岩波書店、2015年、姫岡とし子監訳、101ページ)。
ソ連は戦時中、また戦後に記録された強姦犯罪の事例を発表している。これらは国防軍であろうとSSであろうと警察部隊であろうとこの類の犯罪を犯していたことを明白にしている。
赤色陸軍
キャサリン・メリデールとノーマン・M・ネイマークは、ソ連兵士に強姦されたドイツ人女性の数を数十万人と考え、ハインツ・ナヴラティルとバーバラ・ヨールは200万人ほどと数えている(キャサリン・メリデール『イワンの戦争 赤軍兵士の記録1939-45』白水社、松島芳彦訳、出典47ページ)。ヨーゼフ・ゲッベルスの下、ナチのプロパガンダは、「アジア人の群れとしての赤軍のイメージを強化する」ため、ソヴィエト兵士をドイツの婦女子を数えきれないほど辱めた強姦者としてキャラクター化した。
ソヴィエト戦争捕虜の取り扱い
1929年7月27日の戦時捕虜の取り扱いに関するジュネーヴ条約は、署名者には、加盟していない諸国家も含めた拘束力を持っていたにも拘らず、ソヴィエト兵士に対しては適用されなかった。
ジュネーヴ条約
【第八十二条】
(条約の尊重)本条約の規定は一切の場合締約国に依り尊重せらるべし
戦時に於て交戦者の一が本条約の当事者たらざる場合と雖も本条約の規定は之に参加せる交戦者の間に拘束力を有すべし
国際慣習法とみなされる1907年のハーグ陸戦規定(HLKO)によっても、ソヴィエト軍の戦時捕虜に属するものはHLKOに則って取り扱われねばならず、特に1941年7月17日にソ連が声明を出したのは、「相互主義の観点から、これまで署名していなかったHLKOを順守することを望んでいる」ということで、しかし1941年8月21日の「ヒトラー自身に公式化された回答文書」の中で、ドイツ側は「この戦争の舞台において、戦時国際法の規則を守るのはヒトラーの利益ではない」という理由で拒絶している。すでに1941年6月16日に「戦時捕虜についての決定(„Bestimmungen über das Kriegsgefangenenwesen“)」が指針を定めていた。「ボリシェヴィズムは国民社会主義ドイツの不倶戴天の敵である。そこから、不服従の最も小さな前兆、特にボリシェヴィキの扇動者に対しては容赦なく精力的な断固たる手を取ること。能動的・受動的なあらゆる抵抗の余すことない排除」。OKWからは、1941年9月8日、より先鋭化させた「ソヴィエト戦時捕虜に対する取り扱いについての命令(„Anordnung für die Behandlung sowjetischer Kriegsgefangener“)」が命じられていた。「ボリシェヴィキの兵士は、ジュネーヴ条約に基づく、あらゆる名誉ある兵士としての取り扱いを喪失する……ソヴィエト戦時捕虜に対する武器の使用は、通例的に、適法であるとみなされる」。SS行動コマンドが、捕虜収容所において政治コミッサールやその他の「政治的に容認できない(politisch untragbar)」個々人を捜索する、いわゆる「コミッサール命令(Kommissarbefehl)」はそのために発布された。これらの捕虜は「特別処置(Sonderbehandlung)」が取られ、それが意味するのは、彼らが強制収容所に収監され、大抵の場合、そこで射殺されるということだった。
最初の一か月の大規模な包囲戦の後のソヴィエト戦争捕虜は10万人ほどで、その多くは露天の、いわゆる「家畜収容所(Stammlager, Stalags)」や通過収容所(Dulag、そこで彼らはしばしば「一時的な通過点でなく、長期的に収納されることになった」)に置かれた。1941年12月の中頃までに、350万人の赤軍兵士がドイツの捕虜となっていた。イデオロギー的な基準と戦時経済的な計算に基づき、ユダヤ人や、「人種イデオロギー的に形作られた食糧ピラミッドにおける最下端の、絶滅されるべき人口グループの、人種的に好ましからぬ人間」に等しいものとしてソヴィエト戦争捕虜は位置づけられた。陸軍の計理総監エドゥアルト・ヴァグナーが、ハンス・フォン・グライフェンベルク少将からソヴィエト戦争捕虜に対するある程度の十分な栄養補給の必要性について言及された際、彼は1941年11月13日、それが一般的な食糧状況から不可能であり、簡潔にこう述べた、「捕虜収容所内の働いていない戦争捕虜は餓死するだろう」。関連するクリスティアン・シュトライトの学術論文によれば、1942年2月までに200万人のソヴィエト戦争捕虜が命を落とし、その多くは餓死によるものだった。東方占領領土相アルフレート・ローゼンベルクは、OKW長官カイテル将軍への手紙の中で、ドイツの戦争経済には捕虜になった赤軍兵士が不足していると苦情を言っている。
「ソヴィエト戦争捕虜の運命は……最大サイズの悲劇だ。360万人の戦争捕虜のうち、今日では残り数十万人ほどが労働能力を有している。その大部分は飢餓状態だ……ドイツの経済、兵器産業は捕虜の取り扱いの間違いのため、報いを受けている」
(Gerd R. Ueberschär, Wolfram Wette (Hrsg.): Der deutsche Überfall auf die Sowjetunion – „Unternehmen Barbarossa“ 1941. S. 345 f. (Dok. 43); またRüdiger Overmans: Die Kriegsgefangenenpolitik des Deutschen Reiches 1939 bis 1945. S. 816.)
第一に、増加したドイツの戦争経済への労働配置を通じて、捕虜の死亡率は下降した。深刻な経済的な調査によると、終戦までに250万から330万人の国防軍に捕らえられたソヴィエト戦争捕虜が死亡した。イェールの歴史家ティモシー・スナイダーによれば、これらの人々の大部分は「惨殺されることがあらかじめ計画されていた、もしくは、彼らが餓死へと追いやられるという意図的な目的があった。仮にホロコーストがなかったとしても、これが近代におけるもっとも重大な戦争犯罪として記憶されるだろう」。現代史研究所の歴史家クリスティアン・ハルトマンは、事実の内容を、国防軍の保護下で「300万人ほどのソヴィエト捕虜が餓死し、凍死し、伝染病で死ぬか、もしくは射殺された」とし、「国防軍の最大の戦争犯罪」と定義している。
ドイツ戦争捕虜の取り扱い
ソヴィエト戦争捕虜の状態にあるドイツ人の環境もまたカタストロフ的だった。独ソ戦の最初の一か月で捕虜になったドイツ兵はしばしば政治コミッサールの指示、もしくは狂信的な士官の命令で即座に射殺された。この実行は戦争の広い過程の中で少なくなっていき、これは恐らくドイツの「コミッサール命令」への反動や、激化するソヴィエトのプロパガンダを緩和させるためだった。
厳しい気候条件、国土の破壊や、住民も同様に苦しんでいた劣悪な生存条件が、極めて高いドイツの戦争捕虜の間の死亡率の原因となった。数千人が後方地域の収容所への輸送中に栄養失調や体力の消耗によって死亡した。宿舎、劣悪な医学処置と糧食供給、そのため労働環境は極端に厳しいものになった。306万人のドイツの戦争捕虜のうち、ほぼ110万人が命を落とした。1941年と42年に捕虜になった兵士たちは90から95パーセントが死亡した。1943年の捕虜は、60から70パーセントが死亡し、1944年には30から40パーセントが死亡し、1945年の捕虜は20から25パーセントほどだった。1949年以降、ソ連における一般的な状況は向上し、捕虜収容所における生存環境への肯定的な効果を及ぼし、死亡率は通常の規模へ軽減されていった。
赤軍のドイツ帝国東方への進軍により、しばしばヒトラー・ユーゲントもしくはドイツ女子青年同盟の所属員、もしくは関与していない市民までもが白昼堂々捕縛され、東方へ強制労働のため送り出された。ソ連における戦争捕虜は安価な労働力であり、荒廃させられた国の再興に力を貸した。1950年までに戦争捕虜の大部分は解放され、「戦争の行動に関連する、事実上、もしくは想定上の罪」の判決を受けた「犯罪的分子」だけが取り残された。彼らの最終的な人数は1万人ほどで、1955年と56年の年の変わり目の連邦首相アデナウアーの対話によって釈放された。