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第一次世界大戦

だいいちじせかいたいせん

20世紀初頭に勃発した世界大戦。
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1914年~1918年、欧州各国・アフリカアジア中東も参戦した戦争で、人類史上初の世界大戦
などの協商連合側、墺洪などの中央同盟側に分かれた。
「第一次世界大戦」は後の第二次世界大戦が起こって名付けられた名称で、当時は「世界大戦争」「欧州大戦」などと呼ばれていた。

主要交戦国

協商連合国中央同盟国


背景

20世紀初頭の世界は19世紀から続く欧米列強の帝国主義によって世界各地が植民地となり、列強各国は隣接国を仮想敵国として睨み合いつつ、各国で軍事同盟関係を築いて牽制し合い、主に仏英中心の協商連合側と独墺中心の中央同盟側で分かれた。各国は軍備を増強し、総動員体制の計画を練り、水面下での外交交渉で対立国に対抗していた。

とくに懸念されていたのがバルカン問題だった。バルカン半島を支配下にしていたオスマン帝国が衰退したことで、小国の独立が相次ぎ、オーストリア・ハンガリー帝国(墺洪帝国)とロシア帝国がこれを影響下に置こうと接近。多民族のバルカン諸国は両勢力の狭間で揺れ、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるほど不安定な情勢となった。

開戦

緊張が高まる中の1914年6月28日、ボスニア訪問中のフランツ・フェルディナンド墺洪帝国皇太子夫婦がセルビア民族主義者の学生 ガブリロ・プリンチプに暗殺される「サラエボ事件」が発生。この事態に墺洪帝国はセルビアに同年7月28日付けで宣戦布告。
ちなみにこの時、墺洪外相ベルヒトルト伯爵は個人的にセルビア嫌いだったため、受け入れ不可能と思わる無理難題を書き連ねた最後通牒を突きつけたが、セルビアが一部を除いて条件を受け入れてしまい、予想外の結果に伯爵は逆上、最後通牒のすべてを受け入れなかったことを口実に宣戦布告となった。

最初は局地戦で済むという観測もあったが、同盟関係の絡みでドイツが墺洪帝国側について8月1日付けでロシア、フランス、ベルギーへ宣戦布告したのを皮切りに、その数日後にはイギリスがセルビア側へついてドイツへ宣戦布告。
その後、短期間のうちに次々と参戦を招いて戦争の規模が拡大、当時の列強国家が「連合国VS同盟国」の二大勢力で直接戦う全面戦争へと発展する。

この時、ロシアは参戦時には同じスラブ人のセルビアの援助を名目上の理由としたが、実際には露土戦争における条約締結時のビスマルク独政権の介入に対する復讐を果たしたいのも一つの理由であった。
フランスも、同様にかつての普仏戦争に対する復讐として、敗戦後ドイツの支配下に置かれたアルザス・ロレーヌの奪還を狙っていた。
当時のイギリスは、独と植民地政策の進路を巡って対立、激しい火花を散らしていたのだ。

欧州から離れた日本日英同盟によるイギリスの救援要請に応じ、イギリスの参戦から1か月と経たない1914年8月23日にドイツ、8月25日に墺洪帝国に宣戦布告することで連合側として参戦。
ドイツは、それまでに連合側として参戦したイギリス、フランス、ロシアといった国々を相手にしている関係もあって、新たな敵である日本の登場によって遠く離れたアジア・太平洋地域の植民地の防衛は不可能になった。

イタリアは当初同盟側についていたが、同じ同盟国側の墺洪帝国と領土問題で対立していた(その地域を「未回収のイタリア(イタリア・イレデンタ)」という)こともあって、開戦の数日後に局外中立を宣言、その後同盟国の弱体化を狙った英が、伊が連合国側に寝返ることを条件に墺洪帝国との領土問題の解決を手伝うことを約束する内容のロンドン秘密条約を締結して伊を連合国側に抱き込み、伊は1915年5月23日に墺洪帝国に対して宣戦布告。連合側として参戦した。

経過

当初は、1914年のクリスマスまでには終わる短期戦と楽観的に思われ、戦法も騎馬戦大砲、歩兵の突撃などの19世紀のやり方で行くと思われていた。
しかし、ドイツがベルギーを侵略し、イギリスが対抗して参戦した西部戦線で機関銃の大量使用で防御側有利となり、塹壕戦がはじまり、戦線が膠着したまま大量の犠牲者を積み上げていく結果となった。

戦局打開のため軍用機戦車毒ガスなどの新兵器が続々と登場したが、戦局を打開するどころかさらに犠牲者を増やす結果となり、独仏露などには厭戦気分が充満していく。
さらに爆撃機飛行船などによって戦線から離れた銃後の都市部への攻撃も急増し、非戦闘員の市民にまで多大な被害を生んだ。

戦場は欧州だけでなく、欧州列強国の植民地が所在するアフリカや中東、アジア、太平洋などの世界各地の植民地でも戦闘が起こり、戦争が世界規模に拡大した。
イギリスはインドから、フランスはベトナムからなど欧米各国は植民地からも現地民を兵士として駆り出した。

イギリスの参戦から1か月と経たずに参戦した日本はアジア・太平洋方面のドイツ植民地を攻略。当時ドイツ領だったパラオなど南洋諸島を占領し、後に委任統治領として獲得したのもこの戦いがきっかけである。
その他にも大西洋方面にはイギリス支援の特務艦隊を派遣し、地中海に派遣された第二特務艦隊は『地中海の守護神』と呼ばれる活躍を見せた。

イギリスはオスマン帝国を弱体化させるため、ロレンスを通じてアラブ人にオスマン抵抗を煽り、アラブ人独立を約束した。しかし、一方でイギリスは英仏で中東を分割統治しようとしており、さらにユダヤ資本から資金を引き出すために、パレスチナユダヤ人国家を約束し、矛盾した三重外交をしていた。
また同時期にスペイン風邪と呼ばれたインフルエンザが世界規模で流行し、塹壕内の兵士達を苦しめ、戦死者を上回る感染者を生んだ。

ドイツは西部戦線の戦局打開のため大西洋や地中海で無制限潜水艦作戦を発動して潜水艦Uボートによる無差別攻撃を実行したが、被害を受けたアメリカの1917年4月の参戦を招いてしまう。そのアメリカは中立を保っていたが、イギリスを支援していた財界が連合側勝利のために参戦を強く支持していた。

1918年3月、ロシア革命によるソ連建国で、東部戦線を担っていたロシア帝国の後継であるソ連がドイツと単独での講和を締結して離脱。

最終的には、ドイツ革命でドイツ帝国皇帝ウィルヘルム2世が退位に追い込まれたことで独帝国が崩壊。結果的に同盟側の敗北で終戦。この戦いで多くの君主制国家が消滅してしまった。

1919年にパリ講和会議が開かれ、戦勝国によるヴェルサイユ体制が築かれ、世界の勢力図は変わり、独仏は没落しアメリカが世界の紛争に介入する超大国として台頭。第二次世界大戦やパレスチナ問題の遠因になった。

意義

第一次世界大戦は有史以来初の総力戦であり、かつ空前の規模の大戦であった。そのため本大戦はその後の歴史に重大な影響を及ぼした。

技術の進歩と戦争の大規模化

20世紀初頭は科学技術が著しく成長した時代であり、軍事分野においてもそれは例外ではなかった。代表的なものとしては、機関銃戦車航空機毒ガス・無線通信・窒素固定法(爆薬の大量生産だけでなく、化学肥料の安定した量産による食料の大量生産→人口増大)などがある。
これらの革新によってより効率的に人を殺すことができるようになった。そのため時には一日の戦闘でも万を超える死者を出すなど、これまでとは桁違いの兵員や物資が動員され失われることとなった。

総動員と挙国一致

大規模化した戦争を継続する為に、各国政府は従来の軍事・非軍事分野に関係なく自国の持てる資源を全て動員せざるをえなくなった。この「総動員」は銃後の人々に多大な負担を強いるものであったが、「総動員体制が維持できない」=敗北につながるため、政府は動員の制度を整備すると同時に自国民の士気を高めたり、敵国民の厭戦感情を煽るなどの宣伝工作を盛んに行った。
しかし有史以来初の総力戦である今大戦では、暗中模索する各国の総動員の不完全さが露呈した。例えば、大規模作戦に伴う大量動員や鉄道輸送など軍事面において驚異的な動員能力を示したドイツでも、銃後の産業維持や食糧確保など非軍事分野の動員の杜撰さから「ルタバガの冬」と呼ばれる深刻な飢餓状態を招いた。
また総動員が進んでも、そのために国家の分裂に至る例もあった。日露戦争後も近代化を進めていたロシア帝国では、一般的なイメージと異なって動員自体は比較的順調であった(ドイツのシュリーフェン・プラン崩壊の主因でもある)。しかしかつてない規模の動員によってロシア中から急速に食糧や物資、そして社会の担い手である若者たちが消えていった。その結果特に都市部で政府への不満が高まり、イギリスのように挙国一致体制を維持するだけの政治力を持たなかったロシア帝政は崩壊した(詳しくはロシア革命を参照)。

戦争の長期化

機関銃への対抗策として塹壕戦術が生み出されたこと、総動員によって国家の継戦能力が飛躍的に伸びたこと、世界規模の同盟により自国が倒れても味方陣営の協力が期待できることなどから、第一次世界大戦は当初の予想を裏切る持久戦となった。
総力戦は、名前の響きから両勢力が全ての戦力を投入した決戦とイメージされることもあるが、実際は正反対である。総力戦では相手の戦力(国力)を削りきるまでネチネチと戦闘が繰り返される消耗戦である(ただし、だからといって一回の会戦の規模が小さいということではない)。従来の戦争ではどちらかの軍が大損害を被った時点で勝敗がついたが、総力戦は双方に継戦能力が残る限り終わらないチキンレースなのである(国家規模のポトラッチのようなものか?)。そのため第一次世界大戦や後の第二次世界大戦では相手国の継戦能力を削る為に工業地帯や都市など銃後も攻撃の対象となり、非戦闘員である一般市民の犠牲が急激に増えることになった。

安全保障体制の変化

ナポレオン戦争後のウィーン体制に代表されるように、多数の軍事大国が存在するヨーロッパでは、ある勢力が突出して優位に立つことがないよう相互に牽制しあう勢力均衡による安全保障が基本となっていた。しかし勢力均衡の体制は第一次世界大戦を止めることができなかった。
そのため大戦後新たに考えられた安全保障のモデルが、世界的な国家集団を形成しその中で不当に平和を乱す国家を他の構成国が集団で制裁し抑制する集団安全保障である。国際連盟は集団安全保障の考えに基づいて設立されたが、列強の一員であるアメリカの不参加や強制力の不足など安全保障の組織としては不完全であった。

影響

第一次世界大戦はヨーロッパの人々を中心に深刻なトラウマを残した。
主戦場となった欧州諸国は国民の生命や資産から、国土に至るまであらゆるものが甚大な損害を受け、その被害は戦勝国ですらその勝利によって賄えるものではなかった。その上、敵国への憎悪も長期にわたる戦時下で国民に浸透し増大していた。
そのため戦勝国はドイツら敗戦国に対して報復じみた巨額の賠償金を請求した。中でも大戦で最大の被害を受けたフランスはドイツに対して強硬な態度をとり、経済が混乱するドイツの賠償金支払が遅滞すると、自身も英米の債務で苦しむフランスはベルギーと共にドイツ工業中心地であるルールを占領した。
一方で1930年代に入っても英仏には戦争の恐怖が残っており、ヒトラーの領土拡大に対してはポーランド侵攻に至るまで終始消極的な態度をとり続けた。

敗戦国では敗戦に伴う社会の混乱で従来の秩序が崩壊した。
ロシアでは大戦後期に革命が起こり、1917年の二月革命皇帝が廃位され、続く十月革命でレーニン率いるボリシェヴィキが武力で権力を奪取し、ソビエト連邦が誕生した。
革命の波はドイツにも及び、帝政が崩壊した。しかし戦後も新政府の樹立に加えて戦争被害、賠償金支払によるハイパーインフレーションなど社会は混沌としていた。この混乱と戦勝国の強硬な態度がドイツ国民に遺恨を残した。
またオーストリアでも革命が起こり、15世紀以来ドイツ諸国の長としてヨーロッパの歴史の中心にいたハプスブルク家の帝国も終焉を迎えた。
トルコもまた例外ではなく、トルコよりもオスマン朝の保全を優先する皇帝への反発からトルコ革命が起こり、ムスタファ・ケマルらによってトルコ共和国が成立した。

また、ベルサイユ条約で採用された民族自決の概念は列強の植民地支配にも影響を与えた。後発で植民地獲得に出遅れていたアメリカは、これ以上英仏が植民地を増やさないよう敗戦国の領土・植民地について民族自決を提唱した。
その結果戦後崩壊した独墺露の三帝国の支配下にあった中東欧諸国は民族自決の原則に則り独立した。アジア・アフリカ地域の独立は実現されなかったものの、もはや公然と新たな植民地を得ることは許されなくなっていた。そのため戦勝国は敗戦国の領土や植民地を「将来的に独立させる為に面倒を見る」という名目で委任統治領として配分した。

日本への影響

第一次世界大戦は日本にも多大な影響を与えた。
大戦中日本は戦場である欧州への物資供給地として輸出が飛躍的に伸びた。これによって日本の工業は成長し、大戦景気を迎えた。
またパリ講和会議の結果、日本はドイツの植民地であった南洋諸島と山東半島の租借権を獲得した。

一方で日本の外交政策は大打撃を受けた。日露戦争後、日本とロシアは朝鮮・満州・モンゴル方面に多大な権益を抱えてたが、そこへ植民地獲得競争の後発であるアメリカが参画を狙っていた。そのため両国は日露協約を結んで同地の権益を独占しようとした。しかし、ロシア革命によってロシア帝国が崩壊したため協約はご破算、その結果日本はアメリカの反発を招いた挙句に外交の相手を失ってしまった。
また欧州の混乱に乗じて1914年に発せられた対華21カ条要求は、門戸開放を要求するアメリカのみならず、既に中国大陸に利権を抱える英仏の利益をも脅かしかねないものだった。後に日本は中華民国に譲歩したものの、この出来事は特にイギリスに日本が中国の利権獲得の競合者であることを再認識させ、両国の関係にわだかまりを残すこととなった。

また、総力戦の誕生は日本の国防方針をも揺るがした。駐在武官などを通じて大戦中から既に欧州大戦の研究を進めていた陸軍は、総力戦によって戦争の性質が変化したことを認識すると同時に、その対応に苦慮することとなった。
宇垣軍縮など軍の近代化が図られたものの海軍との予算の兼ね合いで遅々として進まず、その上先述の通り総動員には軍部のみならず行政、産業界、国民全体の改革も必要だった。
総力戦への備えが模索される中、軍部主導による国家改革、中国大陸獲得による資源確保を目指す永田鉄山ら一夕会が台頭し、後の満州事変へ繋がっていった。

日本関連の余談

  • 日露戦争において機関銃の戦闘と塹壕戦、通信の駆使、国家総力戦、当事両国の背後など、第一次大戦と似た戦争の形態が見えており、すでに日本が経験していたとする見解が存在する。しかし、日本陸軍の総力戦研究の第一人者である永田鉄山は、日露戦争下の挙国一致について、その動員の度合いも被害も欧州大戦には到底及ばないと考えた。また精神面においても、戦後もなお忘れ去ることの出来ない空前の国家的「試練」を経験した欧米の国民が戦後の国家発展の基礎となる「精神上の實物」を獲得したのに対し、列強諸国の内唯一それを経験しなかった日本国民は「或る意味に於ては非常な不幸である」と評している。

ちなみに欧州の日露戦争に対する反応は、戦争が極東地域の局地戦で終わったことから日本の存在感は注目しても、戦争形態についてはそこまで注目はしなかった。

  • 終結から3年後の1921年。皇太子裕仁親王は欧州を歴訪し、戦場跡も視察。荒れ果てた土地を目の当たりにし、戦争の惨たらしさと恐ろしさを痛感。平和の重要性を憶えたが、皮肉にも彼自身が後に世界大戦の中心に巻き込まれてしまう。

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