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概要編集

第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英語:World War I)は、1914年7月から1918年11月にかけて、ヨーロッパ各国・アフリカアジア中東の国も参戦した戦争で、人類史上初の世界大戦である。などの協商連合側、墺洪中央同盟国側に分かれた。「第1次世界大戦」は後の第2次世界大戦が発生して付いた名称で、当時は「世界大戦争」「欧州大戦」などと呼ばれていた。


主要交戦国編集


背景編集

20世紀初頭の世界は19世紀から続く欧米列強の帝国主義によって世界各地が植民地となり、列強各国は隣接国を仮想敵国として睨み合いつつ、各国で軍事同盟関係を築いて牽制し合い、主に仏英中心協商連合側(三国協商)と独墺中心の中央同盟側(三国同盟)で分かれた。各国は軍備を増強し、総動員体制計画を練り、水面下での外交交渉で対立国に対抗していた。


とくに懸念されていたのがバルカン問題であった。バルカン半島を支配下にしていたオスマン帝国が衰退したことで、小国の独立が相次ぎ、オーストリア・ハンガリー帝国(墺洪帝国)とロシア帝国がこれを影響下に置こうと接近。多民族のバルカン諸国は両勢力の狭間で揺れ、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるほど不安定な情勢となった。


開戦編集

緊張が高まる中の1914年6月28日、ボスニア訪問中のフランツ・フェルディナンド墺洪帝国皇太子夫婦がセルビア民族主義者の学生・ガヴリロ・プリンツィプに暗殺される「サラエボ事件」が発生。この事態に墺洪帝国はセルビアに同年7月28日付で宣戦布告。

ちなみにこの時、墺洪外相ベルヒトルト伯爵は個人的にセルビア嫌いであったため、受入不可能と思わる無理難題を書き連ねた最後通牒を突き付けたが、セルビアが一部を除いて条件を受入れてしまい、予想外の結果に伯爵は逆上、最後通牒の全てを受け入れなかったことを口実に宣戦布告となった。


最初は局地戦で済むという観測もあったが、同盟関係の絡みでドイツが墺洪帝国側について8月1日付けでロシア、フランス、ベルギーへ宣戦布告したのを皮切りに、その数日後には英国がセルビア側へついてドイツへ宣戦布告。

その後、短期間のうちに次々と参戦を招いて戦争の規模が拡大、当時の列強国家が「連合国VS同盟国」*の二大勢力で直接戦う全面戦争へと発展する。


この時、ロシアは参戦時には同じスラブ人のセルビアの援助を名目上の理由としたが、実際には露土戦争における条約締結時のビスマルク独政権の介入に対する復讐を果たしたいのも1つの理由であった。

フランスも同様にかつての普仏戦争に対する復讐として、敗戦後ドイツの支配下に置かれたアルザス・ロレーヌ奪還を狙っていた。

当時のイギリスは、独と植民地政策の進路を巡って対立、激しい火花を散らしていた。

(大英帝国の3C政策とドイツ帝国の3B政策のこと)


欧州から離れた日本日英同盟による英国救援要請に応じ、英国参戦から1カ月と経たない1914年8月23日にドイツ、8月25日に墺洪帝国に宣戦布告することで連合側として参戦。

ドイツは、それまでに連合側として参戦した英国・フランス・ロシアといった国々を相手にしている関係もあって、新たな敵である日本の登場によって遠く離れたアジア・太平洋地域の植民地の防衛は不可能になった。


イタリアは当初同盟側についていたが、同じ同盟国側の墺洪帝国と領土問題で対立していた(その地域を「未回収のイタリア(イタリア・イレデンタ)」という)こともあって、開戦の数日後に局外中立を宣言、その後同盟国の弱体化を狙った英が、伊が連合国側に寝返ることを条件に墺洪帝国との領土問題の解決を手伝うことを約束する内容のロンドン秘密条約を締結して伊を連合国側に抱き込み、伊は1915年5月23日に墺洪帝国に対して宣戦布告。連合側として参戦した。


経過編集

当初は、1914年のクリスマスまでには終わる短期戦と楽観的に思われ、戦法も騎兵突撃や歩兵の集中突撃などの19世紀まで行われていた戦術で十分だと思われていた。

しかしそんな予想に反し、シュリーフェン・プランに基づいた機動戦を展開した西部戦線のドイツ軍が、英仏軍による機関銃を大量投入した塹壕戦に遭遇した事で状況は一変する。

機関銃の大量使用で防御側が圧倒的有利となり、双方が塹壕を築いたことで戦線が膠着した。長大な塹壕はフランスとドイツの国境に長々と横たわり、北は英仏海峡、南は中立国スイスの国境にまで跨る長大な塹壕線が出来上がった。

両軍ともに進むことも引くことも、ましてや留まることも出来ず、敵塹壕を奪い合う陣取り合戦の様相を呈し、ほとんど戦線に変化が起きることなくただひたすら大量の犠牲者だけが積み重なる結果となった。


戦局打開のため軍用機戦車毒ガスなどの新兵器が続々と登場したが、戦局を打開するどころかさらに犠牲者を増やす結果となり、独仏露などには厭戦気分が充満して行く。

さらに爆撃機飛行船などによって戦線から離れた銃後の都市部への攻撃も急増し、非戦闘員の市民にまで多大な被害を生んだ。


戦場は欧州だけでなく、欧州列強国の植民地が所在するアフリカや中東・アジア・太平洋などの世界各地の植民地でも戦闘が起こり、戦争が世界規模に拡大した。

イギリスはインドから、フランスはベトナムからなど欧米各国は植民地からも現地民を兵士として駆り出した。


日本は領土的野心からイギリスの参戦から1か月と経たずに参戦し、アジア・太平洋方面のドイツ植民地を攻略。当時ドイツ領だったパラオなど南洋諸島を火事場泥棒的に占領し、戦後に委任統治領として獲得した。


イギリスはオスマン帝国を弱体化させるため、ロレンスを通じてアラブ人にオスマン抵抗を煽り、アラブ人独立を約束した。しかし、一方でイギリスは英仏で中東を分割統治しようとしており、さらにユダヤ資本から資金を引き出すために、パレスチナユダヤ人国家を約束し、矛盾した三重外交をしていた。

また同時期にスペイン風邪と呼ばれたインフルエンザが世界規模で流行し、塹壕内の兵士達を苦しめ、戦死者を上回る感染者を生んだ。


ドイツは西部戦線の戦局打開のため大西洋や地中海で無制限潜水艦作戦を発動して潜水艦Uボートによる無差別攻撃を実行したが、被害を受けたアメリカの1917年4月の参戦を招いてしまう。そのアメリカは中立を保っていたが、イギリスを支援していた財界が連合側勝利のために参戦を強く支持していた。


1918年3月、ロシア革命によるソ連建国で、東部戦線を担っていたロシア帝国の後継であるソ連がドイツと単独での講和を締結して離脱。


最終的には、ドイツ革命でドイツ帝国皇帝ウィルヘルム2世が退位に追い込まれたことで独帝国が崩壊。結果的に同盟側の敗北で終戦。この戦いで多くの君主制国家が消滅してしまった。


1919年にパリ講和会議が開かれ、戦勝国によるヴェルサイユ体制が築かれ、世界の勢力図は変わり、独仏は没落しアメリカが世界の紛争に介入する超大国として台頭。第二次世界大戦やパレスチナ問題の遠因になった。


意義編集

第一次世界大戦は有史以来初の総力戦であり、かつ空前の規模の大戦であった。そのため本大戦はその後の歴史に重大な影響を及ぼした。


技術進歩と戦争大規模化編集

20世紀初頭は科学技術が著しく成長した時代であり、軍事分野においてもそれは例外ではなかった。代表的なものとしては、機関銃戦車航空機毒ガス・無線通信・窒素固定法(爆薬大量生産だけでなく、化学肥料が安定した量産による食料の大量生産→人口増大)などがある。

これらの革新によってより効率的に人を殺すことが出来る様になった。そのため、時には1日の戦闘でも万を超える死者を出すなど、これまでとは桁違いの兵員や物資が動員され失われることとなった。


総動員と挙国一致編集

大規模化した戦争を継続するために、各国政府は従来の軍事・非軍事分野に関係なく自国の持てる資源を全て動員せざるを得なくなった。この「総動員」は銃後の人々に多大な負担を強いるものであったが、「総動員体制が維持できない」=敗北に繋がるため、政府は動員の制度を整備すると同時に自国民の士気を高めたり、敵国民の厭戦感情を煽るなどの宣伝工作を盛んに行った。

しかし有史以来初の総力戦である今大戦では、暗中模索する各国の総動員の不完全さが露呈した。例えば、大規模作戦に伴う大量動員や鉄道輸送など軍事面において驚異的な動員能力を示したドイツでも、銃後の産業維持や食糧確保など非軍事分野の動員の杜撰さから「ルタバガの冬」と呼ばれる深刻な飢餓状態を招いた。

また総動員が進んでも、そのために国家分裂に至る例もあった。日露戦争後も近代化を進めていたロシア帝国では、一般的なイメージと異なって動員自体は比較的順調であった(ドイツのシュリーフェン・プラン崩壊の主因でもある)。しかしかつてない規模の動員によってロシア中から急速に食糧や物資、そして社会の担い手である若者達が消えて行った。その結果特に都市部で政府への不満が高まり、イギリスの様に挙国一致体制を維持するだけの政治力を持たなかったロシア帝政は崩壊した(詳細はロシア革命を参照)。


戦争長期化編集

機関銃への対抗策として塹壕戦術が生み出されたこと、総動員によって国家の継戦能力が飛躍的に伸びたこと、世界規模の同盟により自国が倒れても味方陣営の協力が期待出来ることなどから、第1次世界大戦は当初の予想を裏切る持久戦となった。

総力戦は、名前の響きから両勢力が全ての戦力を投入した決戦とイメージされることもあるが、実際は正反対である。総力戦では相手の戦力(国力)を削り切るまでネチネチと戦闘が繰り返される消耗戦である(ただし、だからといって1回の会戦の規模が小さいということではない)。従来の戦争ではどちらかの軍が大損害を被った時点で勝敗が付いたが、総力戦は双方に継戦能力が残る限り終わらないチキンレースなのである(国家規模のポトラッチのようなものか?)。そのため第1次世界大戦や後の第2次世界大戦では相手国の継戦能力を削る為に工業地帯や都市など銃後も攻撃の対象となり、非戦闘員である一般市民の犠牲が急激に増えることになった。


安全保障体制変化編集

ナポレオン戦争後のウィーン体制に代表される様に、多数の軍事大国が存在するヨーロッパでは、ある勢力が突出して優位に立つことがないよう相互に牽制し合う勢力均衡による安全保障が基本となっていた。しかし、勢力均衡体制は第1次世界大戦を止めることができなかった。

そのため大戦後新たに考えられた安全保障モデルが、世界的な国家集団を形成しその中で不当に平和を乱す国家を他の構成国が集団で制裁し抑制する集団安全保障である。国際連盟は集団安全保障の考えに基づいて設立されたが、列強の一員である米国不参加や強制力不足など安全保障の組織としては不完全であった。


影響編集

第1次世界大戦はヨーロッパの人々を中心に深刻なトラウマを残した。

主戦場となった欧州諸国は国民の生命や資産から、国土に至るまであらゆるものが甚大な損害を受け、その被害は戦勝国ですらその勝利によって賄えるものではなかった。その上、敵国への憎悪も長期にわたる戦時下で国民に浸透し増大していた。

そのため戦勝国はドイツら敗戦国に対して報復じみた巨額の賠償金を請求した。中でも大戦で最大の被害を受けたフランスはドイツに対して強硬な態度をとり、経済が混乱するドイツの賠償金支払が遅滞すると、自身も英米の債務で苦しむフランスはベルギーと共にドイツ工業中心地であるルールを占領した。

一方で1930年代に入っても英仏には戦争の恐怖が残っており、ヒトラーの領土拡大に対してはポーランド侵攻に至るまで終始消極的な態度をとり続けた。


こうした被害は単純に物質的なものに留まらない。西洋近代が絶対的に肯定してきた「科学技術力の発展」「高度な官僚機構」「教育を受けた文化レベルが高い国民」「安定した経済基盤」「充実した医療技術」などの要素が、全て戦争を激化させ、長期化させる要因になったという事実が、ヨーロッパ人に重大なアイデンティティ・クライシスを突き付けたのである。まぎれもなく「西洋の没落」(シュペングラー)の始まりであった。


敗戦国では敗戦に伴う社会の混乱で従来の秩序が崩壊した。

ロシアでは大戦後期に革命が起こり、1917年の二月革命皇帝が廃位され、続く十月革命でレーニン率いるボリシェヴィキが武力で権力を奪取し、ソビエト連邦が誕生した。

革命の波はドイツにも及び、帝政が崩壊した。しかし、戦後も新政府樹立に加えて戦争被害、賠償金支払によるハイパーインフレーションなど社会は混沌としていた。この混乱と戦勝国の強硬な態度がドイツ国民に遺恨を残した。ドイツ本国はほとんど戦争被害を受けなかったこともあり、英仏のような悲惨な戦争への忌避感が希薄であり、それが後代のナチス台頭につながっていく。

またオーストリアでも革命が起こり、15世紀以来ドイツ諸国の長としてヨーロッパの歴史の中心にいたハプスブルク家の帝国も終焉を迎えた。

トルコもまた例外ではなく、トルコよりもオスマン朝の保全を優先する皇帝への反発からトルコ革命が起こり、ムスタファ・ケマルらによってトルコ共和国が成立した。


また、ベルサイユ条約で採用された民族自決の概念は列強の植民地支配にも影響を与えた。後発で植民地獲得に出遅れていた米国は、これ以上英仏が植民地を増やさないよう敗戦国の領土・植民地について民族自決を提唱した。

その結果戦後崩壊した独墺露の3帝国支配下にあった中東欧諸国は民族自決の原則に則り独立した。アジア・アフリカ地域の独立は実現されなかったものの、もはや公然と新たな植民地を得ることは許されなくなっていた。そのため戦勝国は敗戦国の領土や植民地を「将来的に独立させる為に面倒を見る」という名目で委任統治領として配分した。


日本への影響編集

第一次世界大戦は日本にも多大な影響を与えた。

大戦中日本は戦場である欧州への物資供給地として輸出が飛躍的に伸びた。これによって日本の工業は大戦景気を迎え、戦争特需で財をなした成金が続出した。またパリ講和会議の結果、日本はドイツの植民地であった南洋諸島と山東半島の租借権を獲得した。


一方でこの時期の日本の外交はお粗末な立ち回りを露呈し、英米中との対立が顕在化、その後の日中戦争太平洋戦争へ向かう種がまかれることになる。日露戦争後、日本とロシアは朝鮮・満州・モンゴル方面に多大な権益を抱えてたが、そこへ植民地獲得競争の後発であるアメリカが参画を狙っていた。そのため両国は日露協約を結んで同地の権益を独占しようとした。しかし、ロシア革命によってロシア帝国が崩壊したため協約はご破算、その結果日本はアメリカの反発を招いた挙句に外交の相手を失ってしまった。


また、欧州の混乱に乗じて1914年に発せられた対華21カ条要求は、門戸開放を要求する米国のみならず、既に中国大陸に利権を抱える英仏の利益をも脅かしかねないものだった。後に日本は中華民国に譲歩したものの、この出来事は特にイギリスに日本が中国の利権獲得の競合者であることを再認識させ、両国の関係にわだかまりを残すこととなった。


また、総力戦誕生は日本の国防方針をも揺るがした。駐在武官などを通じて大戦中から既に欧州大戦の研究を進めていた旧陸軍は、総力戦によって戦争の性質が変化したことを認識すると同時に、その対応に苦慮することとなった。

宇垣軍縮など軍の近代化が図られたものの旧海軍との予算の兼ね合いで遅々として進まず、その上先述の通り総動員には軍部のみならず行政、産業界・国民全体の改革も必要であった。

総力戦への備えが模索される中、軍部主導による国家改革、中国大陸獲得による資源確保を目指す永田鉄山ら一夕会が台頭し、後の満州事変に繋がった。


日本関連の余談編集

  • 日露戦争において機関銃の戦闘と塹壕戦・通信

国家総力戦。当事両国の背後など、第1次大戦と似た戦争形態が見えており、既に日本が経験していたとする見解が存在する。しかし、旧陸軍総力戦研究第1人者である永田鉄山は、日露戦争下の挙国一致について、その動員の度合いも被害も欧州大戦には到底及ばないと考えた。また精神面においても、戦後もなお忘れ去ることの出来ない空前の国家的「試練」を経験した欧米の国民が戦後の国家発展の基礎となる「精神上の實物」を獲得したのに対し、列強諸国の内唯一それを経験しなかった日本国民は「或る意味に於ては非常な不幸である」と評している。

ちなみに欧州の日露戦争に対する反応は、戦争が極東地域の局地戦で終わったことから日本の存在感は注目しても、戦争形態についてはそこまで注目はしなかった。

  • 終結から3年後の1921年。皇太子裕仁親王は欧州を歴訪し、戦場跡も視察。荒れ果てた土地を目の当たりにし、戦争の惨たらしさと恐ろしさを痛感。平和の重要性を憶えたが、皮肉にも彼自身が後に世界大戦の中心に巻き込まれてしまう。

関連タグ編集

戦争 大正 ヒトラー 紅の豚 戦争映画 インフルエンザ トレンチコート

タンネンベルクの戦い コロネル沖海戦 フォークランド沖海戦

爆撃機 戦闘機 戦車 潜水艦 塹壕 機関銃 列車砲 装甲列車 対戦車ライフル


バトルフィールド1:第1次世界大戦を題材としたFPSゲーム。

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