背景
1866年、プロイセンは普墺戦争でオーストリア帝国を破り、北ドイツの統一を達成した。
プロイセンの次の狙いは、バイエルン・ビュルテンベルク・バーデン・ヘッセンからなる南ドイツの諸国であり、これによってドイツ統一を果たそうとした。
一方隣国であるフランスでは、プロイセンによるドイツ統一は自国に対する脅威ともなりうるため、徐々に対立が深まってきた。
決定打となったのは、1868年から始まったスペイン王位の継承問題である。1870年一度はプロイセン王家・ホーエンツォレルン家出身のレオポルド・フォン・ジグマリンゲン侯爵が決まりかけたが、これにフランス国王・ナポレオン3世が猛反発した。結局イタリア王家からアマリオ1世が迎えられ即位することになったが、フランスはこれに飽き足らず、「今後プロイセン王家からスペイン王を出さない」という確約を当時バート・エムスという保養地で静養中だったプロイセン国王・ヴィルヘルム1世に直接要求するという挙に出た。一方ベルリンで政務にあたっていたオットー・フォン・ビスマルク宰相は憤慨したヴィルヘルム1世から事の次第を電文で受け取り、7月14日電文を一部改竄したうえで新聞や各国に発表、フランスへの敵対心をあおらせた(エムス電報事件)。
1870年7月19日、フランスがプロイセンに宣戦を布告。同時に南ドイツ諸国はプロイセン側への参加を決断した。
プロイセンとフランスの戦争準備
ビスマルクは対仏戦争のため周到な準備を行っていた。
普墺戦争の終結後に、最重要の移動手段となる鉄道路線をフランス方面に6本新たに敷設し、迅速な移動を可能としていた。また対外工作も周到に進め、ロシア・オーストリア=ハンガリー・イタリア・イギリスに対して敵にならないよう根回しを行っていた。
一方フランスはプロイセン方面の鉄道路線を1本しか保有しておらず、対外工作でも傀儡政権であるメキシコ第二帝国建国の際に、オーストリアから擁立したマクシミリアン王を見捨てて滅亡させるという挙に出てオーストリアの恨みを買っており、支援も期待できない状況であった。
フランス軍の侵攻
1870年7月28日、ナポレオン3世は20万の軍勢を率いてパリを出発した。当初の計画ではライン軍がフランス北東部の防衛を担当し、その間に4個師団からなる第1軍が国境を越えてプロイセンへ侵入するという計画になっていた。しかしこれは南ドイツ諸国やオーストリア=ハンガリーがフランスに味方すると予想された、あまりにも他力本願な計画であった。結局南ドイツ諸国はプロイセンに加わり、オーストリア=ハンガリーは中立を保つことになり、計画にほころびが生じ始めた。
ナポレオン3世はプロイセンの戦争準備が整う前に攻勢に出ることを決め、7月31日国境にあるザールブリュッケンを攻撃した。フランス本国ではこの攻撃をプロイセン打倒の第一歩だと声高に叫ばれた。
しかしプロイセン軍はこのころ参謀総長ヘルムート・フォン・モルトケ大将の指揮のもと準備を整えており、国境線沿いに3個軍約30万人を展開させていた。
プロイセン軍の反撃
8月4日、ザールブリュッケンの南48kmの町、ヴィサンブールでフランス第2師団とプロイセン第3軍が戦闘を開始した。正午ごろに第2師団長・ドゥエー将軍が戦死したことにより第2師団は総崩れとなり、捕虜1000人と残りの弾薬すべてを置いて敗走した。
8月6日、プロイセン第3軍はフランス第1軍(第2師団の上級部隊)とフレッシュウィレルで戦闘を開始した。数的劣勢に立っていたフランス軍は午後になって西方へ退却、プロイセン軍に1万の損害を与えたものの、約2万の損害を出しての敗走となった。
一方フランス軍ではヴィサンブールの敗戦を受けて守勢に移行したが、プロイセン軍が攻撃してくる可能性がある場所全てへ部隊をさせるという行動に出てしまった。8月5日、プロイセン第1・2軍がスピシャランに展開していたフランス第2軍を発見、攻撃を開始した。当初第2軍司令官・フロサール将軍は相手を侮り数的劣勢にあることを認識していなかった。それを認識していた時には時すでに遅く、予備部隊であった第3軍との連絡も不可能になっていたことから日没を待って退却した。
皇帝、捕まる
3度の敗北の結果、フランス軍13万はメスに籠城した。8月16日プロイセン第2軍の先鋒、第3軍団がメス西方のヴィオンヴィルを占領、退路を遮断することに成功した。
8月18日、モルトケ率いるプロイセン第1・2軍18万がメスの西方10㎞のグラヴロットでバゼーヌ将軍率いるフランス軍11万と戦闘を開始、防御を固めていたフランス軍は劣勢にもかかわらず敢闘するものの、夜陰に紛れてメスへと撤退した。
ナポレオン3世はメス救出のため新たに「シャロン軍」を編成、自ら軍を率いてメスへ向かった。
一方モルトケもフランス軍の動きを察知し、プロイセン第1・2軍をメスの包囲に残し、第3軍と新たに編成した「ムーズ軍」をもって迎撃に向かった。8月30日に普仏軍はメス北方のボーモンで遭遇、フランス軍が敗退しセダンに籠城した。
9月2日脱出の望みが無くなったナポレオン3世はプロイセン軍に降伏、10月27日にメスのフランス軍も降伏し、フランスは指導者と軍が不在という最悪の状況に陥ったのである。
しかし、フランス国民はなおも抵抗をつづけた。
フランス共和国樹立
9月4日、「ナポレオン3世捕虜になる」の報を受けたパリでは共和主義者による無血クーデターによって、第二帝政が倒された。9月6日新しく成立した国防政府は、「領土1インチたりとも、要塞の一石たりとも、譲り渡しはしない」と宣言して、改めてプロイセンに宣戦布告した。
プロイセンはパリを攻撃することによって、決定的な敗北を与えることを決め9月15日パリ郊外に到着、包囲戦の準備を始めた。これに対して新フランス軍はパリの守りを固める一方、ゲリラ部隊でプロイセン軍の補給を妨害、さらにフランス全土から志願兵がパリへと向かったが、翌年1月までの間に各所でプロイセン軍が勝利し、パリ救援の望みはついえた。
休戦・講和
1871年1月18日、フランス国防政府がパリの食糧欠乏を理由に休戦を申し入れ、27日ファーブル首相がベルサイユで降伏文書に調印し、戦争は終わりを迎えた。
一方プロイセンにとっても1月18日は特別な日であった。ベルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世が南北ドイツの統一国家「ドイツ帝国」皇帝に即位した日でもあったのである。
5月10日フランクフルトで講和条約が締結され、ドイツ系住民が多く居住するアルザス・ロレーヌ地方をドイツへ割譲、賠償金50億フランを3年間で支払うことが課せられることになった。
パリ・コミューン
フランスでは戦時下の困窮とフランス軍の敗退、そしてパリ攻防戦によって国民の不満が高まっていた。そして講和会議中の3月18日にパリで労働者による革命が発生、共和政府はベルサイユへ逃亡した。
3月28日、世界初の労働者による政府「パリ・コミューン」が結成され、フランスの政体は二つに分かれた。しかし事実上即席で出来上がったコミューン政府はすぐに内紛が起こり、5月28日共和政府によるコミューン賛同者への虐殺の惨劇の中でパリ・コミューンは崩壊した。
影響
この戦争によって統一ドイツはヨーロッパ最強の陸軍国へとのし上がり、ビスマルクとモルトケの主導によって国際的地位はさらに高まっていく。しかし両者の死後、対外志向が強いヴィルヘルム1世の孫、ヴィルヘルム2世の時代にイギリスやロシアと対立することで第一次世界大戦が起こり、最終的にこの戦争で得たすべてをフランスにやり返されることになる。