1、ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ。メイン画像の人物。
2、ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ。
1の概要
通称大モルトケ。基本的に「モルトケ」と言えばこの人物のことを言う。
プロフィール
性別 | 男性 |
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誕生日 | 1800年10月26日 |
没日 | 1891年4月24日 |
特技 | 語学(ドイツ語、デンマーク語、英語、トルコ語、ロシア語、イタリア語、スペイン語を話せた) |
趣味 | 音楽鑑賞(好みはモーツァルト)、読書 |
経歴
デンマーク人、ヘルムート・フォン・モルトケ
1806年、父フリードリッヒがホルシュタイン公国の農場を購入したが、当時デンマークの同君連合下(複数の国の君主が同一人物であること、この場合はデンマーク王がホルシュタイン王を兼ねていた)にあったため、デンマーク人になる必要があり、ヘルムートもこの時デンマーク国籍を取得している。
そのため1811年デンマークの陸軍幼年学校に入り、1819年デンマーク軍少尉として軍歴をスタートさせた。
しかしこの時代のデンマークはナポレオンに与したため軍の縮小を余儀なくされており、1822年モルトケはデンマーク軍を辞め、プロイセン軍の士官採用試験を受け、見事合格した。父も元はプロイセン軍人だったため、デンマーク軍人であったことはヘルムートにとってはマイナスとはならず、むしろデンマーク通の軍人として評価されることになった。
プロイセン軍人として
入隊後のモルトケは、主に地理の仕事を担当した。具体的には測量や製図といったぱっと見地味な仕事である。しかし18世紀後半から地図の技術が発達しており、特にプロイセンでは地図を作成することに力を注いでいたため、必要不可欠ともいえる仕事であった。一方で1838年からオスマン・トルコへ軍事顧問団の一員として派遣されたが、エジプトとの戦いでは敗北を喫するなど(但しこれはトルコ軍司令官がモルトケの的確な助言を受け入れなかったことが大きい)良い結果は残せなかった。
1841年モルトケはベルリン~ハンブルク間の鉄道理事に就任した。鉄道に関しては門外漢だったが、瞬く間に鉄道に関する知識を吸収し、将来の軍事移動に鉄道が必要不可欠になることを察知した。
その後も出世をつづけたモルトケは1857年参謀総長代理(当時少将だったため)、翌1858年に改めて参謀総長に就任する。モルトケはこの職を以後30年に渡って務めることになる。
モルトケは皇帝ヴィルヘルム1世、宰相オットー・フォン・ビスマルクと共にプロイセンの近代化に努め、軍事面に関しては鉄道と電信の利用による動員の迅速化を図った。
1864年北ドイツの3王国併合を目論んでの対デンマーク戦争が始まった。未だ兄達がデンマークの官吏だったモルトケはベルリンに留められたが、侵攻軍司令官ヴランゲル元帥の指揮は拙劣であり、司令官交代の際にモルトケも参謀長として赴くことになった。デンマークの地理を知り尽くしていたモルトケはデンマーク軍主力を壊滅させ、講和条約で北ドイツ3国を得ることに成功した。
その後1866年の対オーストリア戦争(普墺戦争)、1870年の対フランス戦争(普仏戦争)に勝利したモルトケは普仏戦争中の1870年に伯爵位を、1871年に元帥に昇進し軍人としての位人臣を極めることになった。1888年ついに参謀総長を辞し、1891年4月24日に亡くなった。
その他
1842年、モルトケは義理の姪(実の妹の夫の前妻の子)と結婚したが、歳の差26歳であった。
関連タグ
ドイツ オットー・フォン・ビスマルク 普仏戦争
2の概要
通称小モルトケ。大モルトケの弟アドルフの子。
プロフィール
性別 | 男性 |
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誕生日 | 1848年5月25日 |
没日 | 1916年6月15日 |
特技 | チェロ演奏 |
趣味 | 音楽鑑賞(好みはメンテルスゾーン、バッハ) |
最終階級 | 上級大将 |
経歴
1882年に伯父大モルトケの副官となり、その死後皇帝ヴィルヘルム2世の副官となり側近として重用された。
1906年参謀総長に就任し最初に行ったことは、対仏戦争計画シュリーフェン・プランの縮小だった。モルトケの目から見てシュリーフェン・プランの原案は兵站を度外視した無謀なものであった。そこで北部の主力部隊から2個軍を引き抜き南部に配置することで負担の軽減を図ったが、それでもなお兵站上の負担は完全には解決しなかった。そのため対仏戦の早期開戦を訴えていくようになった。
1914年6月、サラエボでのオーストリア・ハンガリー皇太子夫妻暗殺事件が起きると、オーストリア・ハンガリーに対してはセルビアへの軍事行動を唆し、さらにオスマン・トルコに対しても対ロシア戦を訴えるなど、戦争以外の打開策を自ら消去してまわった。そのため現在では第一次世界大戦開戦の責任者の一人とみなされることもある。
モルトケは改正シュリーフェン・プランに基づいて行動を開始し、ドイツ南部へ侵攻してきたフランス軍を北部から移動した2個軍を駆使して撃退したものの、北部ではベルギーの予想外の抵抗にあい進撃は停滞、作戦は失敗した。
1914年9月14日責任を取って参謀総長を辞任し、1916年6月18日脳卒中で死去した。
関連タグ
ドイツ シュリーフェン・プラン 第一次世界大戦