基本情報
全名 | ヴィルヘルム・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・プロイセン |
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生没 | 1797年3月22日 - 1888年3月9日(92歳/満90歳没) |
在位 | |
戴冠式 | 1861年10月28日 |
埋葬 | 1888年3月16日 ドイツ帝国、ベルリン、シャルロッテンブルク宮殿 |
配偶者 | アウグスタ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ |
子女 | フリードリヒ3世、ルイーゼ |
家名 | ホーエンツォレルン家 |
王室歌 | 皇帝陛下万歳(非公式) |
父親 | フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 |
母親 | ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ |
宗教 | 福音主義 |
生涯
プロイセン王国第5代国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の次男。
1840年に兄フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が即位したが、子が無かったため推定相続人となる。
1857年に兄が精神病に罹ると国王代理に(強硬保守派の圧力の為)、翌58年に摂政に就任し国政を仕切った。1859年、新陸軍大臣アルブレヒト・フォン・ローン中将に軍制改革を指示し近代化を始めた。
1861年に兄王が崩御し、第7代国王に即位。軍制改革に反対する議会に悩まされたが、オットー・フォン・ビスマルクを首相に起用し断行した。
1867年、普墺戦争に勝利したことにより北ドイツ連邦主席に就任。
1888年3月9日、崩御。長男であるフリードリヒ3世が跡を継いだが、既に喉頭癌に侵されており6月15日に崩御。跡を長男であるヴィルヘルム2世が継いだ。
人物像
首相ビスマルクに行政のほとんど全てを委ねたようにヴィルヘルム1世は主体的に政治を行う事は少なかった。ビスマルクは「国王が身を入れて何かやりだすのは、反対された場合に限る」と語っている。しかしヴィルヘルム1世は首相からの助言であってもそれが納得できぬ説明であれば、徹底的に検討しなければ受け入れようとはしなかった。それは自身の良心への忠実さ、真剣な態度の証左であり、その態度によって広く尊敬された。
また軍人気質の騎士的心情の持ち主であり、嘘をつく事が出来ず、約束を破ることができず、一度決断したなら揺らぐことがなかった。それについてビスマルクは「御老体の腰をあげさせるのは難しいことだったが、一度彼から支持を得れば彼はそれを守り通した。誠実で正直で信頼のできる人物だった。」と語っている。
信条として王権神授説を信奉していたが、他人に対する気遣いを忘れない謙虚な人物であった。彼は自室に絨毯を敷かせて自分の足音が響かないようにしていた。またエムス電報事件の記念碑をいつも避けていた。それは自分の一人の力で成し遂げたことではないことを自戒するためだったという。ビスマルクや参謀総長ヘルムート・フォン・モルトケの名声が自分のそれを上回ることを恐れたり、妬んだりするようなこともなかった。ナポレオン3世を捕虜にしたセダンの戦いの戦勝祝賀パーティーでも「ローンが剣を研いで準備し、モルトケがこの剣を振るい、ビスマルクは外交で他国の干渉を防いでプロイセンを今日の勝利に導いた」と自分の功績ではなく3人の功績であることを演説している。
前述したように軍隊は革命から王権を守れる唯一の物と考えていたため軍隊を何よりも愛した。「軍と国家」という軍を国家に優先させる表現を好んで使用したことにもそれが表れている。
軍人気質から自らを律するため質素を旨とし、前線では農家で眠り、粗食も辞さなかった。ホーエンツォレルン王家歴代の中でも新宮殿を造営しなかった数少ない王の一人である。ブルジョワたちが自らの専用列車を所有していた時代にヴィルヘルム1世はお召し列車はおろか御料車さえ持たなかった
関連イラスト
関連タグ
高性能じいちゃん 名君 理想の上司 騎士道精神 武人肌 ノブリス・オブリージュ
エリザベス2世 アウラングゼーブ バハードゥル・シャー2世 フランツ・ヨーゼフ1世:ヴィルヘルム1世と同じく長寿の君主。
乾隆帝 蕭衍/梁武帝 則天武后/武則天 趙構/高宗(宋) クビライ:ヴィルヘルムと同じく長寿の君主。ただしこちらは中華皇帝である。