基本情報
王朝 | 南宋 |
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生没年 | 大観元年5月20日 - 淳熙14年10月8日(1107年6月12日 - 1187年11月9日)〈81歳〉 |
在位期間 | 建炎元年5月1日 - 紹興32年6月11日(1127年6月12日 - 1162年7月24日)〈35年〉 |
都城 | 南京→建康→臨安 |
姓・諱 | 趙構 |
字 | 徳基 |
諡号 | 受命中興全功至徳聖神武文昭仁憲孝皇帝 |
廟号 | 高宗 |
父 | 徽宗 |
母 | 韋賢妃 |
后妃 | 憲節皇后邢氏、憲聖慈烈皇后呉氏 |
陵墓 | 永思陵 |
年号 | 建炎:1127年 - 1130年 紹興:1131年 - 1162年 |
概要
南宋の初代皇帝にして北宋の第8代皇帝であった徽宗の九男。太宗の血統では最後の皇帝となった。
生涯
北宋時代には康王に冊封され、靖康元年(1126年)には大元帥に任じられている。
靖康2年(1127年)、金軍の侵攻により、父の徽宗と長兄の欽宗、そして生母の韋賢妃・正妻の邢氏(後の憲節皇后、金に抑留されたまま皇后に立てた)らが金軍により北方に連れ去られる靖康の変が発生した際に、南京(応天府、現在の河南省商丘市)へ逃れた。その地で、哲宗の皇后であった元祐皇后(廃立されており、当時たまたま実家にいたため、金に捕らえられず無事であった)を利用し、その指名を得て皇帝に即位した(即位した日は趙構の21歳の誕生日である)。これが南宋の起源である。
しかしこの即位の手続きについては、宮廷の一部からその正当性に疑問があるとされ、即位した帝位は宮廷で確立したものではなかった。このため兄の欽宗を金側が送還させようと申し出て来た時も、高宗は帝位が動揺すると考え、帰国を許可しなかったとされる。その一方、正妻の邢氏に関しては積極的であったが、願いは成就しなかった。金人は高宗に屈辱を与えるため、母の韋賢妃・妻の邢氏および娘の趙仏佑・趙神佑の4人を洗衣院と呼ばれる金の皇族・官吏用の妓楼に送っており(他にも多くの趙氏の女性が同様の辱めを受けた)、邢氏は滿洲の五国城で病没した(韋氏と邢氏は一旦は後宮に送られた後、洗衣院に下げられた)。その後、呉氏(憲聖慈烈皇后)を皇后に立てた。
即位の正統性に問題があった高宗の地位は安定せず、国内では即位反対派による反乱、国外では金の南下など、内憂外患の時代であった。そのため国内各地の移動が続き、紹興2年(1132年)にようやく首都を臨安に定め、南宋の統治体制を確立するに至った。
高宗は金軍の南下を恐れ、和平派に傾いていた。紹興8年(1138年)、和平派を代表する秦檜を宰相に任用し、同年には金と和約を締結することになった。このため、主戦派である岳飛と秦檜の対立を生み、紹興11年(1141年)には岳飛が秦檜によって処刑されている。統治後半には金と再度和睦条約を締結し、外敵の侵入を防ぐ一方で、江南の開発が進められた。
皇太子である趙旉が3歳で夭折した(その時の父・高宗の悲しみは尋常でなく、数日間は涙が溢れ出して慟哭を繰り返していたという)。高宗には他に男子がなく、兄弟など近縁の男子はことごとく金に連行されていたため、紹興32年(1162年)に太祖の系統の族子である趙眘(孝宗)を立太子、同年に譲位して自らは太上皇(上皇)となった。高宗はその後25年もの余命を保ち、淳熙14年(1187年)に81歳で崩御した。南宋歴代皇帝における最長命かつ最高齢の君主である。
書家として
高宗は能書家で、多くの書を遺している。そのうち『徽宗文集序』は日本の文化庁が保有し、国宝に指定されている。
別名・表記ゆれ
関連タグ
乾隆帝 蕭衍/梁武帝 則天武后/武則天 クビライ:高宗と同じく80代まで生きた長寿の中華皇帝。
祥興帝:南宋最後の皇帝。こちらは南宋歴代皇帝における最短命(享年8歳)である。