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クビライ

くびらい

モンゴル帝国第五代皇帝(大カァン)であり、大元朝中華帝国初代皇帝。Qubilai。
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曖昧さ回避

  1. 皇帝の方のクビライ。本項で解説。
  2. 四駿四狗のひとり。

人物編集

  • 生没年:1215年9月23日~1294年2月18日
  • 名前は「フビライ」とも。「クビライ」とはモンゴル語で「分ける」を意味する動詞 qubila- の現在分詞にあたる単語で、「分配するもの」くらいの意味。死後に帝位を継いだ孫の成宗テムルによって、廟号「世祖」や諡号「聖徳神功文武皇帝」といった漢語によるものに加え、モンゴル語による「セチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)」という尊号も贈られている。「セチェン」とはモンゴル語で「知恵」「賢い」を意味する。現代モンゴル語では「ホビライ(Хубилай хаан)」が一番近いが、当時の音では「クビライ」が一番近かったとのこと。祖父チンギス・カン麾下の「四狗(ドルベン・ノガス Dörben Noγas)」と呼ばれた猛将たちのひとりに、バルラス部族出身のクビライ・ノヤン Qubilai Noyan という同名の人物がいる。ちなみにクビ qubi という単語はモンゴルでは父祖伝来の相続財産の「分け前」「取り分」を意味する単語で、モンゴル帝国関係の社会・経済的分野では重要なキー・タームだったりする。
  • 廟号:世祖
  • 諡:聖徳神功文武皇帝
  • モンゴル語の尊号:セチェン・カアン Sečen Qa'an(薛禪皇帝)
  • ペルシア語表記:قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān


概要編集

チンギス・ハーンの四男トゥルイとケレイト王オン・ハンの姪ソルコクタニ・ベキとの三男として生まれたが、幼少期や青年期の記録が殆どなく、歴史に登場するのは40代になってから。

少年時代に中央アジア遠征から帰って来た祖父チンギスが催した狩りで、弟フレグとともに狩りの獲物を褒められて祖父の手ずから弓手の親指に得物の脂を塗ってもらい祝福を受けた、という逸話が伝えられている。

1251年に兄のモンケ・ハーンが皇帝に即位し、モンゴル帝国東方方面の運営と中国南宋攻略の指揮権を与えられたが、南宋攻略が時間のかかる包囲網策であったため、指揮から更迭。

1259年にモンケが急死し、首都カラコルムのアリクブケが次期皇帝になるのが有力視されたが、

クビライはモンケ指揮下の軍を吸収し、支持者を集めて大集会・クリルタイを開いて皇帝即位を宣言した。1264年にアリクブケとの戦いとなりクビライが勝利。これによってジョチ家の当主ベルケ、チャガタイ家の当主アルグ、中東にいた弟フレグら帝国西方の最有力王族3人を招き統一クリルタイ開催を意図したが、三者全員がこの年のうちにことごとく死去するという事態に見舞われ、統一クリルタイによって名実共に唯一のモンゴル皇帝に即位するという目論みは直前で頓挫してしまった。ジョチ家の新当主モンケ・テムルやフレグ家の新当主アバカらの継承を承認する事で、クビライは事実上皇帝として認められる形となったが、オゴデイ家のカイドゥなど中央アジアではクビライの召喚に応じない王族達も多数出る羽目になった。


これが以後40年近く続き、モンゴル帝国は名目的には常に「モンゴル帝国」のままだったが、クビライが直接治める東方領、キプチャク草原のジョチ・ウルス、西アジアのイルハン朝(フレグ・ウルス)、中央アジアのカイドゥとそれに組するクビライから離反気味な王族達の所領(主にチャガタイ・ウルス、オゴデイ・ウルス系統の王族所領)の4つの領域に事実上分断され、モンゴル皇帝の名の下に実施されていた各地への駐留軍や租税徴収といったモンケ時代までの「モンゴル皇帝による統一的な帝国支配」は不可能になってしまった。


それでもクビライは帝国の東部全域という広大な支配領域を獲得し、「モンゴル皇帝」として南宋遠征などモンケ治世を受け継ぐ形で様々な政策を実行に移して行く。新体制を整えて、1266年からカラコルムとは別に、従来モンゴル帝国の華北支配の拠点だった旧金朝の首都・中都の北東隣に、新首都・大都の建設に着手し、1264年に元号を「中統」から「至元」を定め、1271年には国号を『易経』の一節「大いなる哉、乾元」にちなんで中華風に「大元」とし、大元大モンゴル帝国(ウルス)を中心に4つの国に分けた。


もともと、創建当初からモンゴル帝国の財務行政は漢文もモンゴル語も出来たウイグル人やイラン系のイスラム教徒など様々な人種や民族を登用して行われていたが、クビライは華北経営での経験を踏まえつつ南宋遠征によって獲得した地域にも現地からの人材登用も含めて積極的な開発を進めて行った。


モンケの南宋遠征によって獲得された雲南では、華北行政で功績のあったサイイド・アジャッルという人物が赴任し、農業用のダム建設や鉱山開発、民生の安定などに尽力している。サイイド・アジャッルは中央アジアのブハラ出身でかつイスラム教の預言者ムハンマドの後裔に連なる人物で、現在まで続く雲南方面のイスラム教徒たちの始祖と仰がれている。チベット仏教僧侶のパスパによってチベット文字をもとにパスパ文字が作られた。従来はモンゴル語を表記するにはウイグル文字が使用されていたが、モンゴル語の音韻を正確に書写するには不十分であったが、これによってモンゴル語の音韻がおおよそ正確に書写する事が可能になった。パスパはチベット出身の高僧だが、モンケの時代に華北での宗教問題の調停役としてチベット遠征前後から中都に招かれた人物だった。当時華北ではモンゴルの支配体制に取り入った事で専横を極めていた道教陣営と道教関係者に寺院を破壊・占領されることに反発を募らせていた浄土宗・禅宗などの仏教陣営との対立が先鋭化していた時期で、パスパはそれらと中立的な立場を期待したモンケとクビライの意向によって中国方面の宗教問題の統監に任じられた。クビライの時代になるとチベット仏教に由来する政策や儀式が行われ、パスパには「国師」「帝師」の称号が与えられた。チベット仏教には「鎮護国家」的な思想があり、クビライの王権安定化を見越したものだったようだ。このクビライとパスパの庇護関係は後のチベットやモンゴル王侯たちの重要なモデルとしてたびたび援用された。


大都では仏教寺院や道教の道観、チベット仏教寺院、イスラム教の礼拝堂であるモスク、テュルク・モンゴル系の諸民族に信奉されていたネストリウス派キリスト教会など様々な宗派の宗教施設が建設され、現在でもいくつか現存するが、一時期カトリックの大司教座も置かれていた。少なくともクビライの伯父オゴデイの時代から、モンゴル宮廷にはヨーロッパ系の商人や職人が働いていた事が知られているが、有名なマルコ・ポーロイタリアベネチアから来た貿易商ニコロの息子で、父ニコロがクビライの使者としてのヨーロッパに戻って来た父ニコロとともに大都に赴き、そのままクビライの宮廷に仕えていたものだったらしい。


雲南や南宋を得た事で戦乱によって停滞していた鉱山や耕地開発がさらに進展した。大都建設に併行して江南からの運河網を開削し、河川や沿岸部との海路の整備も併せて行っている。租税徴収や通貨の流通を促しあわせて金銀の流出を防ぐため、金朝や南宋の交鈔をもとに「中統宝鈔」「至元宝鈔」といった紙幣を発効した。


従来モンゴル帝国は漢人や漢字文化を蔑視していたとされてきたが、これは正しくない。モンゴル帝国における漢字文化圏は領域の極一部に過ぎず、創建当初からの官僚たちの使用している文字や言語はウイグル文字やアラビア文字を使う事が主流だったため、華北での漢文可読層以外で国政の中枢での漢文の使用頻度が極めて少なく、漢字の相対的な地位が低かったに過ぎない。


クビライの時代は華北に加え江南や雲南、さらには高麗と漢字使用地域が拡大した事もあり、国政における漢文使用率が上がった。従来山西地方が道教関係者を中心に漢籍の刊行を多く行っていたが、南宋遠征が達成されると、南宋や華北で流行していた典籍類が南北を往還するようになった。

クビライは治世初期から『孝経』などの儒学関連の漢籍のモンゴル語訳を命じており、パスパ文字やウイグル文字による釈文の付けられた典籍類が一部現存している。


モンゴル帝国の中国史での特徴に「科挙」の廃止があり、明代や南宋系の遺臣たちに恨まれ彼らに野蛮視する原因のひとつにもなっている。金朝や南宋では科挙が官僚登用への第一歩であったが、実務能力を重視していたモンゴル帝国では財政運営での実務能力のある人物を必要に応じて任意で登用していたため、科挙の必要性がそもそもなかった。オゴデイやモンケの時代に1、2度行われたが、クビライの時代にも行うという議論が出たが、実施には至らなかった。その理由は、クビライのもとに仕える漢人官僚自身の多くからも、実務能力と関係のない科目を試験して登用する「科挙」の有用性に疑問視する声が大きかった事も原因らしい。科挙が元朝で実施されるのは、クビライの死後、漢籍の出版文化が浸透していた華南方面から、やはり文書行政には漢籍の素養が必須で文書作成能力を審査する必要があり、名目なりとも「科挙」の伝統を復活させるべきだ、という議論が起きてからになる。


朝鮮半島も制圧し、1268年から南宋攻略を再開し、8年後に南宋を制圧して完全に中華地域を統一。ユーラシア大陸の大部分を勢力化に治めた。

さらに日本に対して国交を求めたが交渉は決裂し、高麗国王の進言もあって元寇を開始。2度派遣したが失敗。

ベトナムやサハリンにも派遣したが、ナヤンの乱が起こり自ら鎮圧したため、極東攻略は実らなかった。1293年に大都は完成したが、翌年に死去した。

遺言として「帝国を治めるためには人々を力づくで従わせようとしてはいけない。何よりも大切なこと、それは人々の心をつかむことである」と残した。

その死とともにモンゴル帝国も緩やかに勢力を縮小し、本来のモンゴル平原へ後退。その後の大都は大明帝国以降の中国の首都・北京となった。


家族構成編集

世界帝国をなした人物というだけあって、一族にも著名な人物が多い。


創作では編集

NHK大河ドラマ北条時宗』におけるクビライ編集

(演:バーサンジャブ

主人公・時宗とは一度も対面することはなかった(代わりにからの帰化人である博多商人・謝国明水軍松浦党佐志房とその養女・桐子、鎌倉武士としての身分を捨てた時宗の異母兄・時輔が大陸に渡り、クビライ達との関係を持つ)が、時宗の生涯にわたる宿敵たるもう一人の主人公として描かれる。

彼もまた、兄・モンケや子・チンキムとの関係に苦悩している。


コーエー作品におけるクビライ編集

従来通り「フビライ」と記され、クビライはチンギス・ハーン(テムジン)配下の武人として登場。3作目の「蒼き狼と白き牝鹿元朝秘史」から主人公格で登場し、1270年代の同時期君主からすれば年配だが、驚異的な寿命と高い能力・国力で世界征服の最有力候補。「信長の野望」ではエディット用の顔グラ、三國志12対戦版にもカードでゲスト参戦している。


黒鉄のヴァルハリアン編集

松原利光の漫画。なんとショタの姿で登場。しかし中身は全盛期のクビライであり、主人公と敵対したモンゴル兵を数多く従えている。


天幕のジャードゥーガル編集

トマトスープの漫画。クビライの父・トゥルイが重要人物として登場する。


関連タグ編集

モンゴル モンゴル帝国 チンギス・ハーン 元朝秘史 元寇 蒙古襲来 蒼き狼と白き牝鹿


表記揺れ編集

フビライ・ハン フビライ・ハーン

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