トゥルイ
5
とぅるい
モンゴル帝国初代大汗(皇帝)のチンギス・ハーンと正妃ボルテの四男。モンケ、フビライらの父。父の死後、次代オゴタイ即位まで監国として国をまとめた一方、猛将としても知られた。兄オゴタイに先立ち死去。
(生没年1192年~1232年)
名は「トルイ」とも。母はボルテ(ジュチ、チャガタイ、オゴタイは同母兄)。モンゴル帝国成立後、帝国の初代大汗(だいハーン)である父チンギス・ハーンに従って転戦した。
父の大汗いわく、「志が高い者、敵を征すると欲するならばトゥルイの元へ参るが良い」とほめちぎるほどの逸材であり、最も愛された才子であったと言う。
父の死後、三兄オゴタイの即位まで監国として国をまとめ、父の遺産の大半を得た(※1)。
オゴタイが二代目の大汗へ即位した際、兄に従う形で自勢力の指揮権を返上。その後は金朝の軍の主力を破るなど戦功を挙げたが、オゴタイの軍と合流して故国モンゴルに帰還する途中で若くして急死した。
その際、神がかりになった僧侶から「金国に宿る神が皇帝・オゴタイ様に祟っています。身内の方が生贄になれば陛下は助かります」と託宣され、まじないを施した水を飲むと泣く泣く家族を託して死去したとされる。そのため、トゥルイを危険視(※2)したオゴタイないしはその派閥の人間によって毒殺・暗殺されたと言う学説もある。
死後、次男クビライが五代大汗となった際に、叡宗の廟号を贈られ、景襄皇帝と諡された。
※1:当時の遊牧民族は末子(モンゴル語でオッチギン)が父の遺産を存続する風習があった。
※2:大汗が遺した遺産ばかりか、軍隊の大半も引き継いでいたと言う説もある。トゥルイが野心を持てばオゴタイ政権は危険に見舞われる。
正妃であるソルコクタニ・ベキとの間には四人の息子が居た。
関連記事
親記事
兄弟記事
コメント
コメントが未記入です