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ワールシュタットの戦い

わーるしゅたっとのたたかい

1241年4月9日に起きたモンゴル帝国軍とポーランド諸侯・ドイツ騎士団連合軍との戦い。
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概要編集

西暦1236年に始まったバトゥ率いるモンゴル帝国軍によるヨーロッパ遠征は1240年までにキプチャク草原の諸部族を征服し、ルーシ(ロシア)の各都市を攻略・破壊するという成果を挙げていた。


次の目標となったのはルーシの西側であるハンガリーポーランドで翌1241年にバトゥ率いる本隊はハンガリーへと侵攻し、バイダル率いる分遣隊はポーランドへと侵攻した。


バイダル率いる帝国軍により3月18日にポーランドの主要都市であるクラクフが陥落、クラクフ公ボレスワフ5世は敗走した。これに対し当時のポーランドの有力諸侯であったポーランド大公ヘンリク2世はポーランド諸侯とドイツ騎士団等の修道騎士団による連合軍を率いてポーランド南西部のレグニツァで両軍は激突した。


戦いの趨勢はポーランド軍の騎士による突撃に対し、軽装の騎兵主体であるモンゴル帝国軍はわざと撤退してポーランド軍を誘い込み騎兵の機動力を活かして包囲した上に大量のを射掛ける得意の戦法でポーランド軍を撃破し、さらに煙幕を用いて後方のポーランド軍との連携を封じる事に成功した。


この戦いはモンゴル帝国の圧勝に終わり、ポーランド大公ヘンリク2世を始め多くのポーランド軍の騎士や兵が戦死した。帝国軍は大ハーンのオゴタイの死去により撤退したが、ルーシと同様にポーランド各地はモンゴル軍の徹底的な破壊に遭いその後もモンゴル軍(ジュチ・ウルス)の侵攻を度々受ける事になる。


補足編集

  • ワールシュタットはドイツでの呼称で「死体の山」を意味する。資料によっては戦いの地であるレグニツァ(リーグニッツ)の戦いと呼称する事もある。

  • 数日後の4月11日にはハンガリーのモヒにてバトゥ率いる帝国本隊がハンガリー王国軍を撃破し、またモンゴル帝国軍の強さと恐怖をヨーロッパに見せつける結果となった。

関連人物編集

モンゴル帝国軍編集

バイダル(?~?)

帝国軍の指揮官。

チンギス・ハーンの次男であるチャガタイの六男。


ハダン(?~?)

オゴタイの庶子。


オルダ(?~?)

チンギス・ハーンの長男であるジュチの長男。バトゥの兄。


ポーランド軍編集

ヘンリク2世(1196年頃~1241年)

ポーランド大公・シロンスク公。


ミェシュコ2世(1220年頃~1246年)

オポーレ公。


関連タグ編集

モンゴル帝国 東欧

中世ヨーロッパ 世界史

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