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チンギス・ハーン

ちんぎすはーん

実在の人物ないしはそれを題材にした作品
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  1. モンゴル帝国初代大汗。幼名はテムジン。部族の長の息子であったが、父を殺され母と兄弟だけで生活する苦難を経て部族を継承。その後はモンゴリアの部族の統一に成功しモンゴル帝国の大汗に戴冠された。ここではおもに1を解説する。
  2. コーエー(元コーエーテクモ)の作品「チンギス・ハーン蒼き狼と白き牝鹿Ⅳ」

概要

チンギス・ハーンはモンゴルの歴史上の人物(1155?,1162?年~1227年)。モンゴル帝国の初代の大汗(※1)で、ユーラシア大陸の大半を征服した帝国の基礎を築いた。
日本での表記は、「ジンギスカン」・「チンギス・ハン」とも書かれる。

※1:読みは「だいハーン」、アジアにおける君主の呼称概念の一種。
もともとはマルコポーロの『東方見聞録』で孫のクビライを指して 「Grand Can」(偉大なるカン)と呼んでいる事に由来する「学術上の仮称」に由来する「俗称」のようなもの。
生前のチンギスは「カン」(Qan)とのみ呼ばれていたが、息子のオゴデイの時から「カアン」(Qa'an, Qaγan)という称号を用いだした(「チンギス・カン」で一続きの即位名だったらしい)。ところがオゴデイを継いだ息子のグユクは「カアン」を使わず「カン」で通したのだが、グユクの次に即位した従兄弟のモンケは伯父オゴデイの用いた「カアン」を再び使い始め、モンケの死後皇位を争った弟のクビライやアリクブケも「カアン」を使い続けるようになり、以後モンゴル帝国の皇帝達は「カアン」を名乗り続けるようになる。
モンゴル帝国が健在の頃はチンギスの子孫達からは一貫して「チンギス・カン」(Qan)と呼ばれていたのだが、モンゴル帝国が崩壊した15世紀前後くらいから「チンギス・カアン」(Qa'an, Qaγan)という呼ばれ方がされるようになっていたようで、『元朝秘史』では全編ほぼ「チンギス・カアン(チンギス・カハン)」で呼称が統一されてしまっている。そのため、この時代以降のモンゴル語の歴史書や現代までもチンギスはモンゴル周辺では「チンギス・カアン」の方で呼ばれている。このチンギス・カアン」を現代モンゴル語での音韻に従ってカナ転写したのが「チンギス・ハーン」である。

こういった複雑な歴史的・言語的事情のため、モンゴル帝国皇帝の一貫した(遊牧部族政権的な)君主の称号概念として「大汗」や「大ハーン」等の呼称が使われるようになった。また、15世紀以降の近現代モンゴル語文学や歴史書研究の進展で(資料中に用いられていた)「チンギス・ハーン」が一時日本語転写では優勢だったが、近年のモンゴル帝国時代に用いられていた中期モンゴル語の音韻研究や、上記のモンゴル帝国時代に意識されて弁別されていたらしい「カン」「カアン」称号の対立についても研究が進んで来たため、また「チンギス・カン」表記が増えつつある。しかし、「モンゴル帝国の最高君主」(の称号)をどう一貫して呼ぶか、「大汗」「大ハーン」の呼称概念の研究者間の合意は定まっておらず、研究者その他書き手各々が好みで用いている状況である。

生い立ち

幼少期

モンゴル族の首長家であるキヤト氏族出身の長イェスゲイ・バートルの長男テムジンとして生まれたが、幼少期に父を敵対するタタル族に毒殺され、部族は散り散りとなり、母と兄弟のみで貧しい生活を強いられることとなった。その間に同族タイチウト氏族に囚われるなどされたが、部族の家人ソルカン・シラに匿われるなどして九死に一生を得た。

部族の統一

モンゴル族再興

成人後、コンギラト族の長デイ・セチェンの娘で幼少期の許嫁でもあったボルテ・ウジンと結婚。モンゴル族の民もテムジンの元に戻り再興を果たした。この時期に父イェスゲイの同盟者であったケレイト王トオリルが勢力を立て直しつつあったテムジンのもとに亡命し、テムジンの援助によってケレイト王位を回復して、以後テムジンの同盟者として周辺諸部族と抗争にも協力するようになる。

ボルテ奪還

モンゴル族再興の後、遠征中の隙を突かれて妻であるボルテをメルキト族に奪われたが、父の同盟者であったケレイト族長トグリルの仲介によって取り戻した。『集史』その他の歴史書によれば、この時期ボルテはメルキト族に奪われた時には既に臨月状態で、保護を受けたトグリルからテムジンの陣営に戻る道中で男児を出産した。テムジンはこの男児を旅中で産まれたため、「旅人」「客人」という意味で「ジョチ(ジュチ)」と名付けたという。(※2)


※2:このボルテの略奪とジュチ誕生の逸話について、『元朝秘史』では別の逸話を伝えている。ボルテが奪われた時、トオリルやテムジンの幼馴染であるジャダラン族の長のジャムカらの協力で、メルキト族と戦闘し勝利、ボルテを奪還したのだが…ボルテはその時、子供を身ごもっていたため、テムジンはその出自を疑い、その時生まれた子供は、「客人」を意味するジュチと名付けられた、と伝えられる。

これは『元朝秘史』とそれをもとにした井上靖の小説『蒼き狼』に翻案された逸話であったために、特に有名になったものだが、この逸話は『元朝秘史』とその影響を受けた後の時代の資料にしか現れないもので、『元朝秘史』の直接の母体となった華北のクビライ家系統の一族(オルドス地方の晋王家系統か)に伝えられたものと考えられており、何らかの政治的な事情でジュチの後裔であるジュチ・ウルスの一門を貶める意図で書かれた可能性が考えられている。

覇権の確立

メルキト族への勝利後、部族間の家畜を巡る諍いからジャムカとの仲が悪化し争った。テムジンはジャムカに敗れたが、勝利後のジャムカの残虐な振る舞いからジャダラン族の中からモンゴル族へ投降する人間が出てきた。部族を追われたトグリルの再興を助けて同盟を結んだ後、ジャダラン族とタイチウト族、そして父の敵であるタタル族を破り、モンゴル族はモンゴル高原の中央部の覇権を確立した。

ケレイト族との対立

しかしその後、テムジンとトグリルの息子イラカ・サングンが仲違いしてケレイト族との関係悪化を招き、ケレイト族に亡命したジャムカの讒言でモンゴル族は奇襲を受けてテムジンは北に逃れることとなった。

部族統一へ

勢力を回復させたテムジンは再びケレイト族と争い、これを滅ぼした。その後はメルキト族とナイマン族を滅ぼし、バイカル湖以西のオイラト族、ゴビ沙漠以南のオングト族の臣従を受けてテムジンは高原の部族の統一を果たした。この間、宿敵ジャムカを捉えて処刑している。

モンゴル帝国大汗

1206年にテムジンは各部族の長を集めるクリルタイを開き、全部族の統治者である大汗に戴冠された。この時からチンギス・ハーンと名乗り、モンゴル帝国が創設されることとなった。

その後、先祖の代からの因縁が続く金朝(現在の中国北東部を治める中華王朝)や西方のカラ・キタイ(西遼とも、現在のトルキスタンに位置する国家)そしてカラ・キタイの先に位置するホラズム(現在の中東一帯の殆どを版図に治めた国家)へ遠征し、その勢力を拡大していくこととなった。

1227年に西夏の首都である興慶攻略の途上で死去。

ライバル達


ジャダラン族の指導者。もっとも有名な敵だが、かつてはテムジンの親友で義兄弟だった。当初はテムジンに連勝していたが、残忍非道な振る舞いで部下に嫌われ、最終的には裏切りで負けてしまう。チンギスは泣く泣く彼を貴人の死(袋詰めにして馬に踏ませ、血を流さない刑)で処刑した。

トグリルとも言い、猛禽を意味する名を持つとされる強国ケレイトの王。幼少時代にナイマン部族に捉えられて、宿営地で粉引き様の石臼を引かされたという逸話がある。父王がナイマンを退けて帰郷し、父の死後王位を継いだ。親族によるクーデターでケレイト王位を追われた時に、テムジンの父王イェスゲイに救われた同盟者(アンダ)となった。復位した後にクーデターに加担した兄弟、叔父たちを処刑したために、親族同士の対立がくすぶり続け、テムジンが成年した時期に再びクーデターを起されて、諸国を放浪した末にイェスゲイ時代の縁を頼ってテムジンのもとに亡命した。テムジンとは同盟者(アンダ)の契りに加え、義理の親子の契りも交わし、テムジン陣営の援助を受けて三たびケレイトの王位を復した。テムジンたちボルジギン氏と組むが自分の猜疑心と、ジャムカや息子のサングンの唆しでテムジンと敵対。西方にのがれる途中、警備兵に殺された。サングン王子もチベットで討たれ、国は滅びた。

ダヤンは太陽を意味するため「太陽王」とも言われるナイマンの王。実際、「日の帝」にふさわしい実力を持っていたが、臆病で猜疑心が強いためモンゴル軍の様子を見て仰天して逃げだし、逃走中に捕捉されて戦死。西遼を奪った王太子クチュルグなど人材に富んでいたと言う。

メルキトの指導者。かつて仲間が受けた仕返しをするため、テムジンの妻ボルテを拉致して村を焼いた。後にモンゴルに討たれて死ぬ。彼の部下がボルテを愛人にした時期があったため、ジュチはメルキト人の子と言われた。


いずれも、ボルジギンと同族タイチウト氏族の首長だがイェスゲイの死に乗じてその領民を奪った。タイチウト氏族はイェスゲイらキヤト氏族と勢力を二分するモンゴル部族の最有力の一派で、しばらくキヤト氏族に移っていたモンゴル部族の覇権を取り戻す狙いがあったらしい。キリルトクはイェスゲイ一門の復活を警戒してイェスゲイの嫡長子のテムジンを一時捕らえるが、タイチウトに仕える部民の老人ソルカンシラと子供達によって逃がされ、勢力を回復したテムジンに負けて殺された。特にタルクタイは執拗に攻撃していたために「憎むべき敵(キリルトク)」とあだ名されるほどテムジンらイェスゲイの一門から恨まれた。

サチャベキはキヤト氏族の嫡流であるキヤト・ジュルキン氏族の当主で(イェスゲイの従兄弟でサチャベキの父ソルカト・ジュルキに由来する氏族名。ジュルキンは「強い」という意味がある)、当初は弟のタイチュとともに「十三翼の戦い」等に加わる等テムジンの協力者だったがやがて対立し、最後は潔く処刑された。

ワンヤンフシンと読む。金朝の皇室ゆかりの英雄。暗君の衛紹王によって左遷されたり、内乱で家族を失うなど苦難を歩みつつ、チンギス率いるモンゴルと戦った。「完顔丞相(ワンヤン・チンサン)」とも呼ばれた。万里の長城を越えて攻めてきたモンゴル軍によって首都の中都(ペキン)が落ちる直前、部下を助命すべく自害した。


アラーウッディーン・ムハンマドとその三男ジャラールッディーン・マングブルニーの事。
いずれも中央アジアのアラル海南部に栄えたイスラム国家ホラズム・シャー朝の君主。ホラズム・シャー朝の始祖はもともとはイラン高原全域を支配していたセルジューク朝に仕えた軍人奴隷出身の将軍であったが、ホラズム地方を安堵された事でこの地域を本拠地とした。ムハンマドの父テキシュの時代にホラズム地方からイラン高原やアフガニスタン方面まで勢力を伸ばすようになり、テキシュによって内紛が続いていたセルジューク朝の本家は滅ぼされた。アラーウッディーン・ムハンマドはセルジューク朝から奪ったイラン高原の東部を足掛かりに、東隣のマーワラーアンナフル地方のカラハン朝を取り込み、アフガニスタンから勃興したゴール朝を妥当してアフガニスタンまで勢力下に置いた。しかし、勢力拡大に併行するように母后のテルケン.ハトゥンと主導権を巡って争う事が常態化してモンゴル帝国の攻勢に対処し切れず、戦略ミスで敗退して避難先のカスピ海南岸のアーバスクーン島で憤死した。歴史書ではチンギスとの抗争は「外交上の問題」がこじれた結果というスタンスを取っているが、ナイマンの王子クチュルクと同盟してクチュルクの西遼の乗っ取りに加担しており、モンゴル帝国とは当初から対立は避けられない情勢だったというのが今日の見方である。チンギスの中央アジア親征の時に、各都市に籠城作戦を命じたが却って各個撃破される。

ホラズム・シャー朝は母テルケンの出身母体でホラズムやマーワラーアンナフル北方の遊牧勢力・カンクリ部族を主要な戦力にしており、何故会戦ではなく籠城戦を取ったのか長らく不明であった(母テルケンの影響力への警戒や、ムハンマド個人の臆病さに帰する評がされていた)。
最近、『集史』の記述内容の時系列を調査した結果、西遼が滅ぼされた直後に、マーワラーアンナフル北部に偵察行に出ていたジュチの支隊とこれを迎撃に出たムハンマドの親征軍が会戦してムハンマドの軍が大敗した事が明らかになった。つまり、チンギスの親率軍が到着する前に、戦力の要であるカンクリ部族の本拠地で「モンゴルの1支隊に過ぎないジュチの軍に総大将のムハンマドの軍が大敗する」という大失態を犯したために、会戦すると確実に敗北する可能性が跳ね上がってしまった為にモンゴル軍と正面から会戦する事が事実上出来なかった、という事らしい。

ムハンマドが中央アジアやイラン高原で敗退する最中、アフガニスタンを任されていた三男ジャラールッディーン・マングブルニーが攻勢を開始し、一時はアフガニスタンに展開していたモンゴル軍が相次いで敗北する程だった。ムハンマドの追撃と併行して、チンギス自身はこれを撃滅すべくチャガタイ、オゴデイらを従えてアフガニスタンに転戦し、インダス川河畔の戦いでジャラールッディーンをインド方面へ撃退した。チンギスがモンゴル本土へ帰還した後、ジャラールッディーンは父の遺業を継ぎインドから帰還してイラン高原でホラズム・シャー朝を復興させるべく奮戦した。チンギスを継いだオゴデイによってジャラールッディーン追捕の駐屯軍が派遣され、イラン高原はモンゴル軍とジャラールッディーン軍、在地領主たちの軍が入り乱れる戦乱状態に再び突入したが、ジャラールッディーン軍はたびたび同じイスラム教徒の在地領主等の領地や財産を略奪したため、イラン高原での支持を失い、最後はモンゴル軍に敗退したうえ逃亡中に現地のクルド人たちの「落ち武者狩り」にあって殺害され、ホラズム・シャー朝は名実共に滅亡した。

ムハンマドは後世無能のように言われる場合が多かったが、初期にゴール朝を打倒し、カラハン朝を滅亡させてサマルカンドを本拠地にし、西遼のクチュルクによるクーデターに加担する等、実際はホラズ・ムシャー朝の勢力拡大を可能にするだけの有能さは十分備えた人物だった。


西夏の国王。モンゴルに攻められた時にチャカ王女を差し出して降参した。しかし彼の後任者達は裏切りを繰り返し、金と組んでモンゴルに恨みを晴らそうとしたためオゴタイに攻められ、李睍(リケン)の代に王家と市民が虐殺され、滅亡した。


逸話など

  • 2004年にイギリスの集団遺伝学の専門家集団の調査で最も子孫を残した歴史上の人物であることが発表された。しかし、この発表の直後にその集団遺伝学の権威から「調査方法がとんでもなく杜撰なうえ、論拠も結論も全部薄弱過ぎて科学的な研究とは到底言えない!」と突っ込まれたが、ニュースだけは世界中に拡散されてしまった。


  • 名の由来は父が打ち負かしたとどめを刺した敵将テムジン=ウゲと言う有能な人物の名にちなんで命名してくれた。テムジンは鍛冶屋、ウゲは賢者を意味すると言う。

  • 「男の快楽ってのは倒した敵の財産を分捕ったうえその目の前でそいつの妻を寝取ること」という主旨の言葉が史書(『集史』)に残っているあたり、現在の常識から見れば結構カッとんだ性格の持ち主であったようである(「男の快楽ってなんだと思うか」と下問した時に、ボオルチュやクビライ・ノヤンといったモンゴル帝国軍を前線で統率する首脳・猛将たちがことごとく「立派な馬に乗って風光も爽やかな春や初夏の頃に盛大に鷹狩りとか楽しいです!^q^」とのたまったのに対して、「お前ら違うだろ! 男児の快楽ってのは…」云々という文脈で現れる)。ただ、戦闘後の財物の分捕りやその婦女を略奪して自分のものにする事は当時のモンゴルでは常識に近く、戦争における遊牧戦士の当然の権利とされていた。特に、女性は中世社会ではままあることだが「家に付属する財産」程度にしか看做されておらず、労働力や子女を産むための「道具」程度にしか見ないのが社会的な認識だった。そのため、占領地から収奪された女性集団やその家族を戦功に応じて分配し、領民・隷民として囲い込んで農業や畜産業に従事させたり、帰服した勢力の子女を王族や軍団長等が家長の采配で家長の姉妹や娘たちを程度の差はあれ他家へ(財産もろとも)物々交換のように嫁に出される事が普通だった。

チンギスの一門でも、チンギスの実母ホエルンが略奪婚で父イェスゲイと出会った事、自分の妻も攫われて寝取られた(と主張する『元朝秘史』の)逸話など、決してチンギスの女性の扱いのぞんざいさが異常だと言うわけではない。チンギスのこの逸話の鍵は、当時は女性が「分捕り品」と同程度の「物」扱いされており、そういう文脈で女性の「分捕り」が語られ、戦時で分捕られた家財産と同じように「自分の物にする」事が「男の快楽」だと述べている事である。逸話が説きたいニュアンスとしては、「女性を手篭め」にする事に比重がある訳でなく、重臣たちの悉くが「上等な馬や好日を選んで」「鷹狩りを楽しむ」という「遊び事」を「男の快楽」としている事に対して、それは違う、「戦で敵を撃滅」して「敵の財産をあらいざら分捕る(家財産や、財物と同義の女性を含む)」事、言ってみれば「戦で奮闘し、その功績・分捕りで財物を増す事」が「男の快楽」である、と述べていると解すべきだろう。

  • 一方で、昔の親友だったライバルジャムカ処刑の時や、自分の血をひかぬ不義の子と言われ続けた長男ジュチの死に涙を流し、苦労を共にした母やおじ、弟らを気遣っているなど「鬼の目にも涙」的な逸話もある。

  • ホラズムや西夏など敵国に戦争を仕掛ける前に行った恒例行事として、条件(モンゴル有利の和議や、責任者のみ処刑など)を満たせば攻めないと交渉を持ちかけるなど、単なる殺戮者というわけではない。もっとも、半端に逆らった(最初は抵抗した後に降伏しようとする)勢力などには厳しい処置を取った。

  • 他国・他民族の文化や宗教には驚くほど寛容。従ってさえいれば危害を加えることも無かった為、キリスト教ネストリウス派やゾロアスター教などモンゴル帝国下で生き残った宗教や文化は多い。また、租税もさして厳しくなく交易を奨励したので東西の交流が盛んになり、様々な文化が混じり合って各地の文化が大きく発展した。イスラム教徒は中央アジアやイラン出身者がチンギスの時代から帝国の行財政に深く関わり続けていたが、中央アジアではモンゴル諸王家の庇護に依ってテュルク・モンゴル系の諸部族にイスラム教が浸透し、ロシアのアジア側や中央アジア諸国の殆どの地域はイスラム教徒である。また、中国国内の古くからいるイスラム教徒の多くはモンゴル帝国時代に入植した中央アジアやイラン高原出身、あるいはその宣教に依って改宗したイスラム教徒達の子孫である。

  • 現在に至るまでチンギスの墓所の場所は未だ分かっていない。名前は記録されているが、東西で埋葬地の名称が違うため長らく不明のままである。ただ、『元史』ではモンゴル高原の「起輦谷」に埋葬されたと述べられており、オゴデイやグユク、モンケ、クビライと歴代の皇帝・皇后がその脇に順次埋葬された事が述べられている。チンギス自身が隠蔽せよと遺言したという説もあるが、モンゴル帝国の王族たちの墓所は「大禁地」と呼ばれ、祭祀を担当する関係者以外の立ち入りは厳重に禁じられていたという。チンギスの墓所は歴代モンゴル皇帝や皇后たちの墓所でもあったので、特に厳重に厳重を重ねた最も聖なる「大禁地」であったため、モンゴル帝国が崩壊して以後、その祭祀が途絶すると所在地も完全に忘れ去られてしまったようである。現在、祭祀場後が発見されたアウラガ遺跡という場所がこのチンギスの「大禁地」の付属祭祀施設だった可能性が高まっており、発掘調査が進められているが、現代のモンゴル国内におけるチンギス・ハーン信仰の興隆を配慮して、墓所そのものの発掘は避けられ、周辺部の調査・発掘が行われている。死因についても謎に包まれており、落馬による後遺症・病死・暗殺・災害など諸説が伝わっている。

  • 前半生が不明瞭なため、チンギスの正体を源義経とする説が江戸末期から昭和にかけての日本列島で持ち上がった事がある(例:蒙古系王朝である元は源氏清王朝清和天皇が由来、ジンギスカンと義経の音読みゲンギケイの類似性など。最後のものなど原語では全く類似性がなく、荒唐無稽な暴論としか言いようがない)。今でこそ否定されているが、物語の題材になる事も多い。この辺りの暴論は長州武士が建国した大日本帝国がアジア侵略の正当化を狙い国策として日本列島で意図的に流布させたものが多い

  • 義経との関連や、両国の親密さ、人種が近いとされる事などから日本ではチンギスの人気は極めて高い。多くの遺伝子を残す好色ぶりから人懐こく描かれたり(光栄のシミュレーションゲームでもオルドというコマンドが存在する)、雄大な大陸をかける勇者と言うプラスのイメージが多い。

  • 郷里であるモンゴルでの神格化は有名だが、彼の人生を描いた絵本やグッズが売られ、一門の人物に因んだ名前が好まれる(例:チンギスの幼名テムジン、妻のボルテ、曾孫のドルジなど)。

  • 一方、彼に支配された「タタルのくびき」を屈辱として見るロシアや紀元前から遊牧民と不仲な中国アッバース朝ホラズムなど自国の王朝を蹂躙されたイスラム文化圏では野蛮な悪人(当然ではあるが)として、アレクサンドロス大王ヒトラーさながらの殺人鬼に描かれるなど、国によって評価が正反対の人物でもある。しかし、19世紀にナショナリズムの勃興以前は、オスマン帝国やイラン、中央アジア等ではアレクサンドロス大王イスカンダル・ズルカルナイン)に匹敵する「預言者性を備えた偉大なる君主」とされ、君主の模範のひとつと仰がれていた。これは、これらの地域が多かれ少なかれモンゴル帝国の伝統を受け継ぐ政権であった事が関係しており、13, 14世紀以降にイスラム化したテュルク・モンゴル系の諸政権ではイスラム的な歴史観によって、「神アッラーがテュルク・モンゴル系の諸民族に下した預言者性を有した君主のひとり」と看做されたことによる。イランでは古代ペルシア帝国を称揚するイラン・ナショナリズムや中央アジア、モンゴルではソ連系のナショナリズムの移入に依って、チンギス・カンの権威を否定されたが、トルコでは「トルコ民族の偉大なる先達のひとり」として仰がれ続けた。

子供

正室ボルテとの間に4人の息子を授かった。

長男・ジュチ

名前は「ジョチ」とも表記される。父同様に勇猛な性格であったが、1225年に父に先立って死去した。
息子のバトゥも大変過激かつ有力な人物で、現在のキエフ付近に「キプチャク・ハン国」を建国した。

次男・チャガタイ

自分にも他人にも厳しい一本気な性格で、「ヤサの番人」の異名をとった。
中央アジアに自身の名を冠する「チャガタイ・ハン国」を建国した。

三男・オゴデイ

名前は「オゴタイ」とも表記される。兄弟全員と仲が良かったことから、一族の和を重んじる父より、2代目の大汗に選出された。
1234年に父が果たせなかった金朝を滅ぼし、モンゴル帝国に首都カラコルムを築くなど、内政面を強化した。
息子は3代目大汗のグユク。

四男・トゥルイ

モンゴルでは末子相続の慣習があったため、遺産や騎馬の管理を任された。
国内外で兄オゴデイを助けたものの、オゴデイに先んじて死去した。
一説には、大きな力を持った弟に危機感を抱いたオゴデイがシャーマンと組んで自殺を命じた、という説もある。
事実、大汗の座は4代目よりオゴタイ家からトゥルイ家に移動した。
息子は4代目大汗のモンケ・5代目大汗のクビライ(フビライ)・イル=ハン国の開祖フレグがいる。

関連タグ

蒙古 ジンギスカン チンギス・ハン モンゴル 
蒼き狼と白き牝鹿 蒼き狼と白き牝鹿Ⅳ
ラヴヘブンチンギス・カン(ラヴヘブン)表記で登場。

外部リンク

Wikipediaの記事

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