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概要編集

Ἀλέξανδρος Γ'(アレクサンドロス・ホ・トリトス、アレクサンドロス3世)


在位:紀元前336年~紀元前323年(20歳~33歳.13年)

出生:紀元前356年7月20日~紀元前323年6月10日(33歳)


名前の呼び方が国によって違い、ギリシア語ではἈλέξανδρος Γ'(アレクサンドロス3世(Γ'はギリシャ数字で3を意味する))またはἈλέξανδρος ὁ Μέγας(アレクサンドロス大王)と呼ぶが、英語ではアレキサンダー(アレクサンダー)、スペイン語ではアレハンドロとなる。

また、アレックスサーシャ等の人名はアレクサンドロスの名に由来する。

アラビア語では名前の最初の"アル"を定冠詞(英語でいうthe)と勘違いし、イスカンダルという名前で定着した(本来、人名の前に定冠詞をつけることは無いが、彼が「ただ一人の英雄」と呼ばれるにふさわしい人物であったことや、西洋では珍しくもないアレキサンダーという名前で呼びたくないということから、あえてイスカンダルという名前で広めたという説もある)。

 

大王として名高いアレクサンドロス3世は、アルゲアデス朝のマケドニア王で、ギリシア神話圏都市国家同盟(国家連合)の一つ、ヘラス同盟(ギリシア同盟・コリントス同盟)の盟主で、エジプトファラオを兼ねた人物である。


生涯編集

アレクサンドロス3世は、マケドニア王フィリッポス2世とエペイロス王女オリュンピアスの間に生まれた。紀元前338年、アレクサンドロスは一軍の将として父に従って古代ギリシア地方に出兵し、初陣となったカイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破った。


紀元前336年に暗殺された父に代わり、20歳の若さでマケドニア王を継承したアレクサンドロスは、敵対者を排除してマケドニアを掌握すると、トラキア人と戦うためにイストロス川方面に遠征して成功をおさめ、全ギリシアに再び覇を唱えた。


全ギリシアをマケドニア国の傘下に入れたアレクサンドロスは東方(古代ではメソポタミア・西洋ではオリエント・現在は中東)地方の併合を開始し、アレクサンドロスは率先して軍を率いた。

軍事面でも当時相当に革新的な「ファランクス隊列」を組み、オリエント地方の王国軍を殲滅。

メソポタミアに広大な版図を誇ったダレイオス3世率いる強国アケメネス朝ペルシアを粉砕し、その後もさらに東方に進撃し版図を広げた。


アレクサンドロスは元首に就任した20代までにメソポタミア全土とエジプト王国・最終的にインド地域を版図に治めるという驚異的な成果を挙げた。

以後の世界情勢でも『ヨーロッパ』と『アラビア』を共有した国はローマ帝国オスマン帝国モンゴル帝国の東欧進出は分断後)くらいなものである。


アレクサンドロスがギリシアとアラビア(オリエント・エジプト)を跨いだ統一国家を作った事で、文明・文化の行き来が起こり大いに発展したとされる(ヘレニズム)。

また、政府運営にギリシア人だけではなく、元アラビア王朝関係者も招いて(利用して)政治を行った。

アレクサンドロス自身もペルシアの文化に則った行動を取りペルシア人を受け入れようとした。

しかし、この融和政策は、文化的にはともかく、人心には逆効果だった。

部下のギリシア兵にとっては異国の文化を強要されたため、指揮に悪影響が出始めていた。


一代で築いた大帝国マケドニア(アレクサンドロス帝国)はあまりに広範囲過ぎた。

長きに渡る遠征で兵には疲労が蓄積しているにもかかわらず、どこまでも侵略し続けるアレクサンドロスに対して、望郷の念に駆られた兵士達が懇願し、折れたアレクサンドロスは帰国を決定した。

紀元前323年、旧ペルシアの都市バビロンに戻ったアレクサンドロスは祝宴の最中、突然高熱を出して倒れ、数日うなされた挙句、死去した。32~3歳だったと言われる。マラリアあるいはウエストナイル熱による脳炎などが死因という説が主流。どちらも蚊によって感染する病気の上、バビロンはユーフラテス川沿いの湿地帯(湿地帯は蚊が発生しやすい)にある都市なので、ありそうな話である。


死期を悟ったアレクサンドロスは「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言を残した。

遺された部下たちは当初、困惑しながらも、一応はアレクサンドロスの遺族を上に立てて、有力な部下が総督として遺領を分割支配する体制を築こうとするも、直ぐに権力闘争によって破綻していく。結果的に遺臣たちは遺言に従って覇者を決めるべく「ディアドコイ戦争(後継者戦争)」と呼ばれる内乱を起こし、それに巻き込まれた母オリュンピアスや王妃ロクサネ、王子アレクサンドロス4世などの直系を含む王族は戦火や暗殺などにより全滅、アレクサンドロス3世の血筋は後継者すら決まることなく断絶してしまう。

その後、生き残った有力な部下たちが遺領を分割して複数の王朝を建てて抗争を続けた。その結果、紀元前4世紀~前2世紀にかけてプトレマイオス朝エジプトセレウコス朝シリアアンティゴノス朝マケドニアの三大国が並立してヘレニズム文化をギリシャ~北アフリカ~中央アジア地域に広めていく。前2世紀になると西方でローマが勃興してこれら諸国を次々と征服し、東方の領土はペルシアの後継であるアルサケス朝パルティアが支配することとなった。


後世、『アレクサンドロス』あるいはイスラム圏でいうイスカンダルは人気の高い人名となり、ローマ教皇ロシア皇帝からは、この名の人物を複数輩出している。


人物編集

  • 髪色は金髪。左右の目の色が違っていたと言う。
  • 癲癇(てんかん)或いはナルコレプシー(睡眠病)といった意識を失う病気を患っていたらしく、遠征途中でもたまに泡を吹いて気絶していたとされた。また、顔を傾けて話す癖があった。ただし癲癇症だった場合、病状の進行度によっては発作中出なくても馬に乗ったり、戦う事など不可能である。
  • 同性愛者(特に少年愛者)だったとする説がある。
  • この時代の権力者は、後のローマ元首ローマ帝)のように政治家が月桂冠をかぶる習慣はなく、あくまでアポロに好かれるような体操選手の特権であった。代わりに自由の女神のような『放射冠、ギリシア冠』のようなギザギザの入ったものを被っていたとされる。
  • 酒癖が悪かったらしく、酔うと乱暴になったという。
  • 古代ギリシャの英雄アキレウスに心酔しており、東方遠征で小アジアに渡った際には、本隊を離れてわざわざトロイへと赴き、アキレウスの墓に花冠を捧げ、そこにあるアテーナー神殿に自らの武具一式を奉納し、代わりにトロイ戦争時から伝わる武具を貰い受けたという。トロイで受け取った聖なる盾をアレクサンドロスは常に持ち歩き、戦闘の際にはそれを盾持ちにもたせて自分の前方を進ませたほどだった。
  • 大昔の人物なので生前のアレクサンドロス本人を描いた美術作品は残っていないが、西暦79年に火山の噴火で埋もれた街・ポンペイの遺跡から「イッソスの戦い」のモザイク壁画が発掘され、勇ましいアレクサンドロスの姿を拝むことができる。大王の死から300年以上後の作品ではあるが、貴重な資料として教科書でも同モザイク画が採用されることが多い。

アレクサンドロス・ロマンス編集

彼の生涯を素材を基に空想を交えた物語は、総じて「アレクサンドロス・ロマンス」と呼称され、ユーラシア大陸各地で語り継がれた。伝奇的な内容のものが多く、分布地域は地中海地域と西アジアを中心に、インド・中国・エチオピアにまでおよぶ。


3世紀頃に書かれたとされる『アレクサンドロス大王物語』(伝カリステネス著)の登場が発端となっている。

話によってはアレクサンドロスの死因が変更されているものも存在する(史実では病死だが暗殺されたことになっているなど)。


東方世界ではイスカンダル双角王(イスカンダル・ズルカルナイン)の名前で登場している。双角王(Dhul-Qarnayn, ドゥル・カルナイン)という通称は彼の額に二本の角が生えていたとの伝承に基づくもので、生前のアレクサンドロスが角のある兜を愛用していたという伝承(真偽は定かでない)に加え、古代オリエントにおける牡牛神信仰の影響があると考えられている。


伝説・逸話編集

勝利を盗まない編集

ガウガメラの戦い前に部下から夜襲を提案されたが、「私は勝利を盗まない」と言って断った。ペルシア軍は夜襲を一晩中警戒していたが、マケドニア軍はしっかり休んで気力十分で戦いに挑めた。

ゴルディアスの結び目編集

ペルシア領であるリュディアの州都ゴルディオンのゼウス神殿に祀られた戦車に複雑に結ばれた縄があり、「この結び目をほどいたものがアジアの王となる」という伝承があった。アレクサンドロスはこの神殿に訪れると縄を剣で切断してしまう。すると雷鳴が鳴り響き「ゼウスが彼を祝福した」と宣言された。現代では「難問を誰も思いつかないようなやり方で大胆に解決する」というコロンブスの卵と同じような意味で使われる。

トランプのキング編集

4人のキングはそれぞれモチーフとなった人物がおり、クラブのキングはアレクサンドロスであるという。


アレクサンドロス大王が登場する作品編集

漫画作品編集


特撮作品編集


ゲーム作品編集


関連タグ編集

アレクサンダー大王アレキサンダー大王:別名

大王

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