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ローマ帝国

ろーまていこく

Imperium Romanum(インペリウム・ローマーヌム)の訳語。日本では帝政期ローマとほぼ同義で用いられている。
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概要

日本においては「古代ローマ」を指す一般語としてさえ使われることがあるが、ここでは一般によく使われる「帝政期ローマ」の意味で用いる。

もともとのImperium Romanum(インペリウム・ローマーヌム)は「ローマの命令権(の及ぶ範囲)」の意味であり、だいたいポエニ戦争に勝利し地中海各地に属州を保有するようになった共和政の中期ごろより使用された言葉である。従って「ローマ帝国」とはその政体に関わらずこの時期以降のローマを指す言葉なのだが、日本では「帝国」の語に「皇帝の国」のニュアンスが強く結びついており、帝政期に入ったローマのことを指す用法が一般に広まっている。

ローマ帝国の成立

伝承によればロムルスによって7つの丘に作られた都市として出発したローマ(王政ローマ)は、7代目の王タルクィニウス・スペルブスを追放して共和制となり、その後イタリア半島随一の強国へと成長した(共和政ローマ)。
共和政ローマは北アフリカから地中海各地に勢力を持ったカルタゴとの3次にわたる戦争(ポエニ戦争)に勝利し、シチリア島、イベリア半島ほか多くのイタリア外の領土を持つこととなった(「ローマ帝国」の成立)。
その後も多くの戦争を通して海外領土を獲得したローマは、紀元前1世紀ごろには地中海沿岸のほとんどをその勢力下におさめていた。しかしもともと都市国家とのそれとして設計されたローマの政治システムは、様々な改修を経ていたとはいえ世界帝国の統治機構としては運用に歪みを生じさせ始めていた。こうした歪みはやがて有力政治家同士の私兵を用いた内乱へと発展し、ガイウス・ユリウス・カエサルとグナエウス・ポンペイウスとの衝突にその1つの頂点を迎えた。
この戦いに勝利したカエサルは終身独裁官として政治権限を完全に掌握し、一人支配の確立まであと一歩と迫った。しかしカエサルは暗殺に倒れ、再度の内乱の結果カエサルの養子オクタウィアヌスが一連の内乱の最終的な勝利者としてローマに君臨することとなった。
圧倒的な実力者となったオクタウィアヌスは自身の非常時の権限の返還を申し出、この紀元前27年は後世にローマの帝政が開始した年とされている。

アウグストゥスの尊称を送られたオクタウィアヌスの統治、すなわちローマの帝政は独裁官として統治した養父カエサルではなく、単独のコンスルとしてローマ市民の第一人者として統治を担当したポンペイウスを参考にしたとされている。君主としてではなくあくまで市民の第一人者「プリンケプス」としての統治という意味から帝政初期の統治はプリンキパトゥス(元首政)とも呼ばれている。

ローマ帝国の変遷

アウグストゥスより続くユリウス・クラウディウス朝ネロの自死によって終焉し、内乱ののちフラウィウス家ウェスパシアヌスが即位する。このような暴君→内乱→新王朝の流れは以降の歴史で頻発する。
ウェスパシアヌスはユリウス・クラウディウス朝の皇帝たちの権限を一括して自身に付与し、また息子ティトゥスにも受け継がせた。ここにローマ皇帝の位は確立したといえるだろう。

フラウィウス朝断絶ののち即位したネルウァ以降の5人の皇帝は五賢帝と呼ばれここにローマ帝国は最盛期を迎える。一方でこの時期にはもはや皇帝を「ドミヌス(ご主人様)」と呼ぶことは通常のこととなっており、君主ではなく市民の第一人者とのフィクションは既に薄らいでいたことがうかがえる。
ローマ帝国の最大版図を実現したトラヤヌスや『テルマエ・ロマエ』のハドリアヌスもこの時代の皇帝である。
しかし哲人皇帝マルクス・アウレリウスの実子コンモドゥスは暴君で再び内乱が訪れる。

こののち即位したセプティミウス・セウェルスセウェルス朝は軍事を重視した王朝であった。またカラカッラは自身の名を冠した浴場と共に帝国全土の自由人にローマ市民権を付与したこと(アントニヌス勅令)でも知られている。
セウェルス朝は一時の断絶を経て継続したが、アレクサンデル・セウェルスが殺害されたことで完全に断絶し、ローマは軍人皇帝の時代へと突入する。

各地の有力な軍団の将軍が隙あればローマ皇帝を僭称する事態となり第一人者の支配の虚構は完全に潰えた。また有力な軍団の長は自らの潜在的なライバルとなる情勢から各皇帝たちは国境警護の軍団の増強に二の足を踏むようになっていった。
こうした状況で即位したディオクレティアヌスは帝国を大きく変えることで危機に対処した。
外敵に備えるには強力な軍団が必要だがその軍団を率いるのが皇帝でない場合反乱を起こす。この問題に対しディオクレティアヌスは、帝国を四分し4人の皇帝に各地域の軍団を率いて対応させる(帝国分割:テトラルキア)という答えを出した。また元首政の穏やかな支配を専制的な強力な支配体制へと改め市民生活への統制を強めた。以降の帝政をドミナートゥス(専制君主制)と呼ぶ。ディオクレティアヌスの改革はおおむね成功し、自身の同僚の正帝とともに引退してその座を副帝に譲り、新たな副帝を据えたことで帝国の盤石な行く末を確信していた。

しかし圧倒的なカリスマを持ったディオクレティアヌスが引退すると4人の皇帝の協力はあっけなく潰える。皇帝同士が戦いあった末、コンスタンティヌス1世が唯一の皇帝に即位した。
コンスタンティヌスは帝都をローマからビザンティオンへと移した。また当時帝国で広まっていたキリスト教を公認し、以降の帝国はキリスト教を国教とする。ただしコンスタンティヌス朝のユリアヌスは旧来のローマの宗教の復活を試みている。

その後帝位はウァレンティニアヌス朝、そしてテオドシウス朝へと移った。皇帝テオドシウスの元でローマは東西に分けられ以降はそれぞれ西ローマ帝国東ローマ帝国と呼ばれていく。

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